2018-01-01から1年間の記事一覧
二〇一九年一月、京都文フリにて発売の『大失敗』創刊号の内容紹介です。テーマは「《異化》としての批評」、「『昭和の終わり』と『平成の終わり』」の二本立て。そのほか、絓秀実氏による論考を収録いたします。
(前編) daisippai.hatenablog.com 郊外、この光あふれる空間 前半で見てきましたように、この小説『空中庭園』は作者である角田光代の意図を超えて空間の近代性そのものを問題化しています。それは言い換えれば、日本の住宅空間がきわめて形式的/機能的に…
▲角田光代『空中庭園』(2003年) 郊外、この遍在する空間 酒鬼薔薇事件(一九九七)をはじめとして、「郊外」と呼ばれる社会空間が問題化したのは一九九〇年代でした。またそれと前後するかたちで「郊外」を主題とする書籍や論文や評論がさまざまな領域から…
(九月・十月の記事まとめはこちらです) 平素より大変お世話になっております。批評集団「大失敗」の左藤青(@satodex)です。 いよいよ寒くなってきましたね。実は『大失敗』第一号の原稿がだいたい出揃い、今編集作業に入っています。胃が痛いです。本誌…
道は光ばかり胸の影を誰が知る(平沢進 - 空転G) ※前編 daisippai.hatenablog.com 〈夜〉=執行猶予 前編では、『氷の世界』が、常にある踏切=境界=「断絶」のイメージで貫かれていること、その彼岸と此岸のどっちつかずの緊張感において井上陽水は「待ち…
『氷の世界』(一九七三年)の井上陽水は滞留している。ここでの滞留とはある境界の上で滞り、留まることである。言い換えれば、井上陽水はどっちつかずの場所で「待ちぼうけ」ているのだ。井上陽水の詩において、世界は動き続け、主体(「僕」)は動けない…
SNSが広まり、誰もが「表現すること」の快楽を享受しうることが可能な現代において、言論の自由並びに、表現の自由はきわめて「民主的」な権利となっている。しかし金井美恵子がいうように「書くという権利は誰にでも平等にあるわけなんですけれど、書く資格…
外山恒一にとって、「ニッポンの思想」は批評家だけで構成されているわけではない。そこにはアクティヴィスト(活動家・運動家)も参入しなければならないのである。この点において、外山はある種「批評」に対する他者として、『ゲンロン』座談会に接してい…
記事のまとめです。外山恒一、浅田彰、東浩紀、平沢進など。
新しい情報の提供があるわけでもなく、新しい価値判断があるわけでもない、ましてや学問的研究の積み重ねがあるわけでもない、なにか特定の題材を設定しては、それについてただひたすらに思考を展開し、そしてこれいった結論もなく終わる、奇妙に思弁的な散…
浅田彰は神話を再構成する広告を生産し続ける。小林や吉本のような形ではなく、堂々と貴族であることを自負し、未だに神話を享受しなければならない人々を嘲笑いながら。
私、永觀堂雁琳は、この度左藤青(砂糖)氏(@satodex)によって結成された批評集団「大失敗」に招聘され、同会が出版する同人誌『大失敗』創刊号に評論を寄稿する運びとなった。批評集団「大失敗」のサイトの巻頭を飾る左藤氏による「哄笑批評宣言」には、2…
トリックスターとは、あるコミュニティにおいて、「中⼼」的な地点が弱体化した際に、それを盛り上げるものとして登場する「周縁⼈」のことである(⼭⼝昌男「⽂化と両義性」)。中⼼と周縁の関係は常に両義的で、周縁という他者がいることによって、⾃⼰と…
『水滸伝』とは時代の不満分子―――あぶれもの、はみだしものが彼らの“小宇宙”を、国家に対する二重権力を創出する物語である(竹中労「梁山泊窮民革命教程」)*1 ゲバリスタ時代の竹中労を引いたこと自体に意味はない。 とはいえ、外山恒一の大著『全共闘以後…
われわれが屋根裏部屋をもたなくなったときでも、またマンサルドをうしなったときでも、われわれが屋根裏部屋を愛したということや、マンサルドにすんだということは、いつものこることであろう。われわれは夜ごとの夢でそこにかえってゆく。この隠れ家は貝…
あまりに人間的 何か新しいことをやらかさなきゃいけません。私のビジネスはひどく難しい。なぜって、人間の情に訴えるのが私の商売ですからね。そりゃ、人間の心を揺すぶることはまだいくらかはありますよ。ほんのいくらかはね。ところが、そういう手でも何…
マーク・フィッシャーが死んだ 資本主義が唯一の存続可能な政治・経済的制度であるのみならず、今やそれに対する論理一貫した代替物を想像することすら不可能だ、という意識が蔓延した状態(マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』邦訳10頁) それが「…