批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」。一月に京都文フリで本出します。https://twitter.com/daisippai19

【絓秀実氏寄稿決定】『大失敗』創刊号内容紹介

 ※通販始めました

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私たちに必要なのは「生きた自由な言葉」なる、ブルジョワの玩具ではないし、私たちがそのようなものを持ちうるはずもない。ここにあるのは、『神曲』の如きカノンによって構成される「不自由な」言葉の敗走であり、陰に陽に永続し続ける階級社会に対する、「たたかうエクリチュール」なのである。(左藤としげのによる「巻頭言」から抜粋) 

 ご無沙汰しております、批評集団「大失敗」です。

 九月に「大失敗」立ち上げて以来、ブログを書いたり色々していたわけですけれども、あまりに創刊号の内容を公開しないので周囲から「本当に出るのか?」と心配されている有様です。この度、二〇一九年一月に刊行する創刊号の内容紹介をしたいと思います。

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  ▲創刊号表紙

 コンテンツは次の通りです。全体としては二つのテーマから成っています。

  • 絓秀実「柳田国男戦後民主主義の神話」(特別寄稿)
  • テーマ①《異化》としての批評
    • 小野まき子「煙草と図鑑 ブレヒト『セチュアンの善人』について」
    • しげのかいり「金井美恵子論 吐き気あるいは野蛮な情熱」
  • テーマ②「昭和の終わり」と「平成の終わり」
    • 赤井浩太「宮台真司の夢 私小説作家から天皇主義者へ」
    • 左藤青「昭和の終わりの『大失敗』 八八年の有頂天から」
    • ディスコゾンビ#104「俺と空手とS−MX 我々は如何にして恋愛資本主義と戦ってきたか?」(コラム)

絓秀実「柳田国男戦後民主主義の神話」(特別寄稿)

 本ブログでも以前取り扱った、批評家・絓秀実氏による論考です。先日(十二月十五日)の京大人文研のシンポジウム「1968年と宗教―全共闘以後の「革命」のゆくえ―」における絓氏のご発表を収録する形になっています。

 絓秀実氏は、一九四九年生まれの文芸評論家です。「六八年の思想」をはじめ、多種多様な哲学的・批評的言説をたくみに用いつつ思想史を解きほぐし、一方で個別具体の政治運動や芸術運動に「フェティシスト的に拘泥」(王寺賢太による表現)する、独自の批評を展開されてきました。

 本論考は、戦後民主主義、そしてその勘所としての天皇制について思想史を整理し、その問題に迫る内容となっています。『アナキスト民俗学』や『増補 革命的な、あまりに革命的な』(特に付論部分)で展開された議論のまとめ、かつ直接的な問題提起として受け止めることができます。

柳田の神学は、その危惧をこえて強力であった。そのことは、東日本大震災以降における今の天皇のパフォーマンスにおいて明らかになったことである。震災以降、全国を巡る天皇夫妻のパフォーマンス、あるいは、それと相即してなされた海外の戦地歴訪は、それがいかに「ヒューマン」なものに見えようとも、「祖先崇拝」=天皇制トーテミズムの再活性化以外のものではないだろう。繰り返すまでもなく、そのような「祖先崇拝」イデオロギーの顕在化とともに、戦後民主主義を守れという声も高まり、天皇をその「象徴」(=トーテム)と見なす言説が、当然のことのように発せられるようになったのである。(「柳田国男戦後民主主義の神話」本文より)

 ここで絓氏が直接的に参照しているのはフロイトのトーテム理論であり、いわば一種の「日本精神分析」になっているわけですが、この論考における議論が個別具体の文学や表象の問題に直結していることは間違いありません(もちろん「表象の問題」とは「表現の自由」の問題であり、「ポリティカル・コレクトネス」の問題にほかならない)。表象の(再)政治化という私たちの問題意識にとって、絓氏は大きな参照元となりました。

 シンポジウムを聞き逃した方から絓氏の批評に初めて触れる方まで、読み応えのあるものとなっているでしょう。

テーマ①《異化》としての批評

ブレヒトをはじめ、フーコーバディウに至るラディカルな思想家の数々が主張してきたように、社会の解放を目指す政治はつねに「自然秩序(あたりまえ)」という体裁を破壊すべきで、必然で不可避と見せられていたことをただの偶然として明かしていくと同様に、不可能と思われたことを達成可能であると見せなければならない。現時点で現実的と呼ばれるものも、かつては「不可能」と呼ばれていたことをここで思い出してみよう。〔…〕(マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』*1

ある出来事ないしは性格を異化するというのは、簡単にいって、まずその出来事ないしは性格から当然なもの、既知のもの、明白なものを取り去って、それに対する驚きや好奇心をつくりだすことである。〔…〕異化するというのは、だから、歴史化するということであり、つまり諸々の出来事や人物を、歴史的なものとして、移り変わるものとして表現することである(ベルトルト・ブレヒト「実験的演劇について」*2) 

 「異化効果」はブレヒトによって(そしてロシア・フォルマニズムではシクロフスキーによって)提唱されました。「異化」とは何でしょうか。

 このように問うてしまうと、たちどころに「異化」は空虚なものになるでしょう。あるものをあるものに変えると言っても、何をどのように変えて、どうするのか、《異化》という言葉には何も書き込まれていません。それは端的に歴史に左右されるからであり、《異化》は「誤配」と同じく事後的にしか確認できないからです。言い換えればそれは、「〜とは何か」という問いに答えうるような一つの「理論」ではありません。

 それはあくまで実践であり、行為であり、効果です。それは奇妙なほど「不安定」なひとつの出来事だと言えます。ともすれば、他人を不快にさえさせれば《異化》であるというような安易さにすら結びつくでしょう。

 これは批評も同じく、それは積極的に定義を持つものではありません。もちろんあるコンテクストの中で批評の役割を確定することは普通に可能ですが、とはいえ、批評の本質であり批評の存在について問う(「〜とは何か」)ことはできないのではないでしょうか。批評は一個の自立したコンテンツではなく、したがって、またひとつの効果でしかありませんでした。批評もまた「不安定」です。

 ブレヒトアリストテレスの演劇論に対抗していました。それは観客を登場人物、物語に感情移入=同化させる理論だからです。《異化》という実践は、感情移入を拒みます。なぜなら、《異化》は世界の見え方をがらっと変えてしまう、言い換えれば、観客のそれまでの世界観を「疎外」するからです(しかし実は、もしかしたら昔のえらい人はこれを「啓蒙」と呼んだのかもしれません。あるいは最近では「ダーク・エンライトメント」と)。

 このようにして既存の価値基準を「同じもの」でありながら「同一ではない」ものに変化させる効果こそ、《異化》と呼ばれたのでした。ところで、いま「批評」と呼ばれるものはそうした不快さや不安定さを持っているでしょうか。このことについてはすでに別の場所でも触れましたが(哄笑批評宣言)、この答えは宙吊りのままにしておきましょう。

 しかし、もし〈同〉化が必然であるとしたら、《異化》はそれほど簡単ではありません。そのような中で、いかにして〈同〉という〈主〉を《異化》すべきでしょうか。

 そのような観点から次の二つの論考を収録いたしました。

小野まき子「煙草と図鑑 ブレヒト『セチュアンの善人』について」

二〇一八年はブレヒトの当たり年であった。(「煙草と図鑑」本文より)

 ブレヒトの戯曲『セチュアンの善人』は、「善人であれ、しかも生きよ」というテーゼで知られています。この戯曲の中では、神々によって要請される「善人である」ことと、一方で一個の人間として「生きる」ことが、常に矛盾した形で展開されていくのでした。

沈徳〔シェン・テ〕 (不安でいっぱいになって)でも自信がないんです、神様。こんなに物価が高くて、どうして善人でいられるでしょう?

神二 悪いがそれはわしらには手のつけようがない。経済の問題にはかかわれんのでな。(ブレヒト「セチュアンの善人」*3

 娼婦であったシェン・テは、セチュアンの町を訪れた神を家に泊めてやり、神からの礼で煙草屋を営み始めるのでした。%2%同時にシェン・テは、神から「善人」であるよう命を受けます。しかし劇内では、この「善人であること」と「生きること」は、絶えず「弁証法的」な対立を含むものとして表現されていきます。つまりシェン・テは、道徳と労働の間で——上部構造と下部構造のあいだで——引き裂かれていくのです。

 この分裂は具体的に描写されます。善人であるがゆえに他者に施しを与えてしまい、貧乏になっていくシェン・テは、資本の原理に則り、自己のために他者を排斥することのできるシュイ・タを「従兄弟」として作り出し、一人二役を演じることで、なんとかそれを両立しようとするのです。

 小野の論考では、この戯曲における「煙草」というモチーフに着目することで、物語を貫通する「弁証法的」構造を解釈していきます。煙草はもちろん、単に劇中に登場する象徴・表象に止まるものではありません。煙草は公共空間にとっては、他人の権利を侵害する「悪」として排斥されるものでした。

このことは当然、近代都市の群衆の問題として理解されるべきであろう。交換価値の支配する大都市の群衆は、彼ら自身が名もなき社会の成員=労働者であり、清潔に管理されるべき商品なのだ。(「煙草と図鑑」本文より)

 このように資本主義や都市空間へのブレヒトの鮮烈な問題意識を明らかにしていく小野の論考ですが、議論の後半では、「当たり年」であったとされる(例えば:『東京芸術祭』は現代の人々に生じる分断を解消する「お祭り」 - インタビュー : CINRA.NET)二〇一八年のブレヒトの用いられ方に対し、スーザン・ソンタグベンヤミン中平卓馬の写真論などの材料を使いつつ、批判的な考察を展開します。ブレヒトは度々「アクチュアル」な作家とされています。しかし、仮にそうだとしたら、その「アクチュアル」さはどのように担保されているのでしょうか。また現代の作家たちは、劇場という空間の中でどのようにして観客を扱っているのでしょうか。小野まき子の論考です。

都市の人間について何ごとかを語れる重要な詩人は、たぶんブレヒトが最初である。(ヴァルター・ベンヤミンブレヒトの詩への注釈」、*4

しげのかいり「金井美恵子論 吐き気あるいは野蛮な情熱」

さしあたっての問題は書くことのはじまりと同時にやってくる。なぜならばわたしたちは書くことを原点とすることによってしか、作品のはじまりという文学創造の原理へ到達することが出来ないからである。(金井美恵子「書くことのはじまりにむかって」*5

吐き気がするほどロマンチックだぜ/お前は(ロマンチスト - The Stalin

 金井美恵子は一九四七年生まれの小説家・詩人・批評家です。ヌーヴォー・ロマンに影響を受けた、長くうねるような文体や、批評家や小説家を皮肉るエッセーで知られる金井ですが、しげのかいりの論考では、金井の初期小説作品における「書くこと」が分析されます。

 しげのによれば、金井の「書くこと」は初期作品から執拗に繰り返される《私》と《あなた》の構造のうちで、極めて奇矯な自己撞着的構造を持っています。ここでの分析では、「書く」行為は、「読む」ことで摂取した=食べたものを「吐くこと」であり、エクリチュールは一個の吐瀉物なのです。

金井美恵子にとって「書くこと」とは、「読むこと」によって必然的に催す「吐き気」である。作家・金井美恵子は、書くことの動機として主体的な意志を必要としない。「書くこと」は「読むこと」によって突き上がってくる「吐き気」によって作られるにすぎないからである。(「金井美恵子論」本文より) 

 論考後半では、メニングハウス『吐き気』などを手掛かりに、「吐き気」をめぐる美/醜の問題に考察が及びます。「吐き気」は、美学的には、そして政治的にはどのように扱われるべきでしょうか。ここから見出される「不純なスターリン主義」とは何でしょうか。「吐き気がするほどロマンチック」(ザ・スターリン)な、しげのかいりによる金井美恵子論です。

テーマ②「昭和の終わり」と「平成の終わり」

 「昭和」から「平成」へ、かつてあったはずのあの切断についても、これから生じることになるあの切断についても、それ自体ひとつの「配列」以外のなにものでもないことが意識されなければならない。この視座からすれば、たとえば「平成生まれ」のような共同性に根ざして特定の出来事や対象を扱うことは、もはや「制度」に対し現状追認的である、と言わなければならなくなる。(左藤「昭和の終わりの『大失敗』」より)

一九四五年以後、この国には「戦前」と「戦後」という区別が存在する。これは「敗戦」を契機とするとはいえ、やはり「神」であった天皇が「人間」になってからの時間的思考だ。だから、ぼくたちが生きているこの日本社会には、いまでも「天皇制」の時間が流れていると言えるだろう。(赤井「宮台真司の夢」より)  

 『近代日本の批評』(柄谷行人編)『現代日本の批評』(東浩紀編)を見れば分かる通り、批評はときに時代を語ってきました。たとえば『現代日本の批評』は、座談会を七五年から八九年、八九年から〇一年で区分しています。そのことは、市川真人による基調報告「一九八九年の地殻変動」を見れば明らかです。もちろんこの「地殻変動」は「冷戦終結」でもあり、また様々な業界(音楽、ゲーム、お笑い、etc.)にとってもある種の変わり目であったわけですが、これらの「変わり目」がそのまま「昭和の終わり」/「平成の始まり」に(つまり昭和天皇崩御に)重なっていることは偶然でしょうか。

 『大失敗』が刊行される二〇一九年は、平成最後の年です。この平成最後の年に直面して、日本では再度「象徴天皇制」のある不思議さが露わになるとともに、「平成」とはなんだったのかという問いや、平成の出来事を回顧する言説も多く見られるようになりました。二〇一九年になればそれはさらに増えていくでしょう。二〇一九年はひとつの「区切り」や「変わり目」として認識されており、ひょっとしたらのちに「地殻変動」と呼ばれるのかもしれません。

 さてそのような「変動」をいま迎えようとしている、この切迫にある私たちは、〈いま・ここ〉の多様なアクチュアリティを語るのではなく元号という時間をめぐる言説・表象についていま一度考えてみたいと思います。そのことは、〈アクチュアリティ〉という言葉の新しさが消去するであろう、ある「持続」を暴露するのかもしれません。

赤井浩太「宮台真司の夢 私小説作家から天皇主義者へ」

 宮台真司はこうして一時はリベラル知識人の代表格と目されるようになるのだが、彼がその手口の裏側で温存したのが「天皇制」であったことは、反リベラルを自称する現在の彼を見れば明らかである。しかし、今もう一つあらためて明らかにされねばならないことは、彼がデビュー当初から現在まで一貫して「私小説作家」であったということだ。(「宮台真司の夢」本文より)

 昭和の終わり=平成のはじまりにデビューした社会学者・宮台真司は、九十年代を通じてある種のヒーローでした。システム理論という社会学的分析を武器に世相を斬り、様々な言説を論破していくパフォーマンスによって、「批評の社会学化」(「社会学の批評化」)を成し遂げた「リベラル知識人」宮台真司ですが、近年の彼がリベラルを批判し、「天皇主義者」を自称していることはよく知られています。

 赤井の論考では、そのように社会学的分析が反リベラル・「天皇主義」へと傾いていく様を、宮台の分析手法そのものが要請するものとして、つまり宮台の秘された内在的スタイルの問題として批評します。赤井によれば、宮台真司社会学者などではなく、「私小説」作家でありました。

つまり、彼は世界の「歴史」よりも私の「夢」を生きたかったのである。ただ、その志向を「社会」に投影したという一点において、彼は社会学を隠れ蓑にした私小説作家であった。(「宮台真司の夢」本文より)

 そのような「天皇主義」の問題とはなんでしょうか。そして、その問題を超えて思考するためにどうすればいいのでしょうか。そのような問題意識から出発し、宮台真司に対する痛烈な批判=ディスを含む、「批評界のMC」赤井浩太の論考です。

——仕方ねぇからシンジくんに見せてやるよ、マジもんの批評ハーコーアジビラスタイルってやつを。そして読者の皆様、大変長らくお待たせいたしました。ここからは白黒ならぬ赤白の決着をつけるショー・ビジネスでございます。不肖のわたくし、「大失敗」の鉄砲玉でありますが、打たれても出る杭、叩かれても出るモグラ、それでもドグマを説くのは、本邦まるで省みられることのないのルンペンの皆様のためであります。サァサァ、おあにいさん、おあねえさん、いらっしゃい、いらっしゃい! 退屈はさせないよ!(「宮台真司の夢」本文より)

左藤青「昭和の終わりの『大失敗』 八八年の有頂天から」

セックス・ピストルズが象徴した七〇年第後半の反体制=「パンク・ロック」は、実際非常に「ポップ」だったわけだが、そのポップさが単なるスタイルへと形骸化し、ひねくれた都会人のファッションになったものが「ニューウェイヴ」なのだ。パンクは「ロックは死んだ」と宣言した。ニューウェイヴは「すべてはコピーである」とあざ笑う。しかし、パンク/ニューウェイヴどちらにせよ、音楽だけではなく、ある種の態度決定にまつわる、雑に言えば「実存」にまつわる「運動」だったことは確かだ。それはものの見方を規定し、社会に接する態度を規定したのだ。(「昭和の終わりの『大失敗』」本文より)

  かねて「大失敗」は「ニューウェイヴ」を標榜してきました。しかし「ニューウェイヴ」とはなんでしょうか。それは確かに一つの音楽のスタイルです。XTCDEVO、一時期のYMOなどに代表させられるような軽薄短小なスタイル、「スカスカ」な音……けれどもそうした音楽たちは、その時代においては、ある「実存」に関するものでした。

 ここで左藤が着目するのは、そうしたニューウェイヴ・スタイルのある種の臨界点としての「ナゴム・レコード」です。ナゴムは、日本でも最初期(一九八三年)に創設されたインディーズ・レーベルです。

 ケラ(現在のケラリーノ・サンドロヴィッチ)が代表となった「ナゴム」には、筋肉少女帯電気グルーヴといったバンド、そしてもちろん大槻ケンヂピエール瀧といった「サブカル人」を輩出しました。「ナゴム」は、演劇、文筆、俳優、など音楽にとどまらない才能が集う場所であったわけですが、その実、非常にくだらないものでした。

www.youtube.com

(「人生」は電気グルーヴの前身)

 この「ナゴム」のしょうもなさを批評の問題として引き受けることを考えつつ、ここで左藤はとりわけ、ケラ率いるニューウェイヴ・バンド「有頂天」の一九八八年のアルバム『G∩N』(ガン)を批評します。

 最近(おそらくは演劇の業績で)紫綬褒章を受章したケラリーノ・サンドロヴィッチは、八八年の昭和天皇吐血と「自粛」ムード(浅田彰はこれを指して「土人」と揶揄した)のなかで、次のように歌っていました。

王様はキトク/今に塔も折れる

あった国にあったボク/あったボクら

「ブチコワセ」なんてコトバ/ブチコワして

今日もアソコへ行こう(有頂天 - Sの終わり)

 この「Sの終わり」は「昭和の終わり」です。『G∩N』(=癌)では、他の楽曲でも、この「危篤」、「病」のイメージが頻出し、昭和天皇崩御を存分にネタにしていきます。この意味では、彼らの音楽は一種の「不敬」音楽でした。

 「大失敗」の名前の元ネタとなった楽曲「大失敗’85」も含むアルバム『G∩N』を通じて、表象の(無)意味と元号を考える、左藤青の論考です。

ディスコゾンビ#104「俺と空手とS−MX 我々は如何にして恋愛資本主義と戦ってきたか?」(コラム)

モテ/非モテという対立軸があった。(「俺と空手とS−MX」本文より)

 「昭和の終わり」と「平成の終わり」を生き抜く漫画家・ディスコゾンビ#104氏によるコラムです。八〇年代から今までを支配する「モテ−非モテ構造」(恋愛資本主義)を記述するこの文章では、多種多様な商品・広告・コンテンツが現れては消えていきます。そうしたコンテンツたちは、男の承認欲求を満たそうとする「商法」として整理され、その商法と非モテたちの「戦記」が描かれるのです。

究極の社会的弱者K.K.O.非モテらによる一斉武装決起によりSNS、とりわけツイッターは阿鼻叫喚の地獄と化した!(「俺と空手とS−MX」本文より)

  ある意味もっとも「アクチュアル」なこのコラムは、「昭和の終わり」から「平成の終わり」にかけての歴史を語るものとして重要な役割を果たしています。S-MXという「恋愛仕様」車を頂点とする恋愛資本主義に男たちはどのように立ち向かうのでしょうか。ディスコゾンビ#104による論考です。

 

*1:マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』、セバスチャン・ブロイ、河南瑠莉訳、堀内出版、二〇一八年、五〇頁。

*2:『今日の世界は演劇によって再現できるか ブレヒト演劇論集』所収。千田是也訳、白水社、一九六二年、一二三、一二四頁。

*3:ベルトルト・ブレヒト「セチュアンの善人」『ブレヒト戯曲全集第5巻』所収。岩淵達治訳、未來社、一九九九年。岩淵訳では「ゼチュアンの善人」。

*4:ボードレール 他五篇』三〇二頁

*5:金井美恵子「書くことの始まりにむかって」、『金井美恵子エッセイ・コレクション{1964–2013}1 夜になっても遊びつづけろ』所収(平凡社、二〇一三年)、三〇頁。

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資本主義の光 ——マイケル・マンの光

 あらゆる可能性は明示的に表象されるものではなく、潜在的なものとして現れるものだ。例えば「社会的意識が人間の意識を規定する」というマルクスの言葉にも当てはまる。この言葉はアリストテレスがいう「人間は社会的動物である」とは訳が違う。アリストテレスは人間の行動が不可避的に政治や社会に結びついてしまうことを指摘している。マルクスが見出したのは、そもそも主体的に社会を作ろうとしている人間の意識が、実は政治と社会に憑依され作らされているという事態に他ならない。

 わたしが「疎外」を解消可能な概念として批判したり肯定したりすることを不毛としか思えないのはこのためだ。「疎外」を人間が主体的に克服可能として把握するのは「社会」に対する甘えでしかない。そのような社会による人間主体の「疎外」からの克服すらも現代社会はあらかじめ予期し、プログラムしているのである。我々が為すべきは「社会の外側へ出ようとする」などという、人間が疎外される社会があらかじめ予期しているメロドラマではない。そのようなあらかじめ仮構されたメロドラマを内破させる部分を見出すことこそが必要なのだ。

 

 マーク・フィッシャーはマイケル・マンの『ヒート』を次のように分析する。

『ヒート』で犯行を行うのは、祖国へのつながり持つ家族ではない。むしろ根無し草の組員が、磨き上げられたクロムめっきと均質的なデザイナーズキッチン、そしてのっぺりとした高速道路と深夜食堂が立ち並ぶロサアンゼルスにおいて、ヤマを踏むのだ。(一九七九年十月六日——「何事にも執着するな」*1

 マーク・フィッシャーは『ヒート』を通して89年以降の自由主義社会主義に勝利し、全てが市場原理主義に基づいて再編された世界を正確に描写している。『ヒート』の主人公である犯罪組織のボス、ニール・マッコーリーは『ゴットファーザー』や『グッドフェローズ』のような前時代の映画が拠り所にしていた地域的な色彩、料理の香り、俗語など必要としていない。マッコーリー達は「根無し草」の職能集団であり、言わば「非正規雇用」的な存在なのだ。

 このマーク・フィッシャーのニール・マッコーリー論=ネオリベ論の中でも、特に注目すべき点はフィッシャーが「家族」をとりあげている点である。マッコーリーのような資本主義社会の掟に基づいて生きる「根無し草」にとって、日々の労働を癒す家族はセーフティ・ネットとして必要なものだ。しかし資本主義の論理は前時代的な地域の色彩や関係を再編し、家族を弱体化させる。従って「社会経済におけるアナーキー的状況がもたらす精神的傷を慰めるための救心剤」として必要な家族はマッコーリーの生きている世界には存在しない。

 かかる「家族」の問題はマイケル・マンのフィルモグラフィ的にもきわめて重要な問題である。例えば最初期の作品にあたる『ザ・クラッカー 真夜中のアウトロー』では、円満な家族を持つために嫌々ながらマフィアに手をかす金庫破りが主人公になっている。彼は裏社会から足を洗い家族を持つ夢を叶えるために犯罪に手を染めるのだが、逆にマフィアのボスから恋人を人質にとられて、裏社会から足を洗うことができない状態に陥れられてしまう。この点で、『ザ・クラッカー 真夜中のアウトロー』は家族のために労働に従事していたはずの存在が、いつのまにか労働することを目的化してしまい、家族と疎遠になってしまう転倒を描いた作品である。

 あるいは『コラテラル』を挙げてみても良い。『コラテラル』では、しがない非正規雇用のタクシー運転手が「プロの殺し屋」を客として載せるところから物語が始まる。この作品でも家族が主題となっており、タクシー運転手は母に対して自分の不遇な状態をひた隠しにし、嘘をつくことで家族間の安定を図っている。このタクシー運転手と母の関係が物語の中できわめて重要な位置を占めている。非正社員であるタクシー運転手は母の「自慢の息子」であることをまもるために嘘ついているように見えながら、内実「自尊心」をまもるため母に嘘をついているのだ。彼に嘘をつかせるのは家族に対する愛情であると同時に、嘘をつくことしかできない状況を生む、希望のない資本主義社会の非正規雇用の状態なのだ。

 このように、マーク・フィッシャーが『ヒート』の中で見出した「家族」の問題は、マイケル・マンのフィルモグラフィにおいて大きなテーマになっていることがよくわかるだろう。

  

 しかし「家族」の問題をあぶり出すだけでは、マイケル・マンの資本主義の問題を取り扱うには不十分である。マイケル・マンを取り扱う際にマーク・フィッシャーが見落としているのは「夜景」を彩るビルディングの明かり。つまり「光」の問題が抜けているのだ。

 マイケル・マンが見出す根無し草達が「労働」に従事する際、いつも風景には夜の光がある。この、夜の光りがグローバルに活躍する(マッコーリーのような)根無し草たちの姿を着飾るのだ。いうまでもなく夜の明かりとは、ビルディングの明かりである。この夜景を彩るビルの光は労働者の「残業」によって捻出された絵の具であり、夜景は資本主義によって作り出された「ジャンク」な美に他ならない。つまり、一つ一つの光にマッコーリーのように安定した生活を賄う事が出来ない労働と生活がある。

 かかる風景画は夜だからこそ顕在化するのであって、昼の世界においては潜在的なものである。いうまでもなく、昼にだって労働はある。しかしながら夜になっても労働をし続ける他ない人間達の蠢きはビルディングの「光」という表象をもってしか観ることができない。

 労働者が夜になって光るからこそ、我々は意識的にそれを「夜景」と名指すことができるし、さらには労働がそこにあることを了解することもできるのである。昼の世界では、労働が顕在的なものでありながら(であるがゆえに)、労働者を意識することはしないし、無意識のうちに自明なものとして通り過ぎてしまう。白昼の労働者は風景画足り得ず、日常の自明な風景と化しているのだ。マーク・フィッシャーが問題とする資本主義と家族の問題は、マイケル・マンの作品中では光として表象されている。マイケル・マンは夜を切り取り、「残業」というあまりに非人間的な状況を「夜景」の残酷な美として表象する光=労働の作家なのだ。

 かかるマイケル・マンの「光」の主題は最新作『ブラック・ハット』において、さらなる発展を迎える。 


 『ブラック・ハット』は主人公のハッカーが不可視の世界と戦う映画である。ストーリーは香港の原発アメリカの金融市場がハッキング攻撃を受けたところから始まる。この事件を受けて、政府はニコラス・ハサウェイへの協力を余儀なくされる。ハサウェイ自身もまた、カード詐欺の罪で投獄されていたハッカーである。かかる流れの中で獄中から釈放されたハサウェイが見通す地平線は、彼が世界に開かれたことを明示している。そしてハサウェイが戦うハッカーたちは不可視の存在である。彼らは現実には見えないサイバースペースの中の存在であり、現実的にはのっぺりとした機械の電気信号という形でのみ表象される「光」なのだ。

 彼らは「孤独」な存在ではない。むしろ、サイバースペースの中で「強固」に繋がりあう存在である。しかし我々はハッカーたちの繋がりを実際に見る事はできない。現実的には、そこには「光」の明滅という痕跡があるだけだからである。

 このことでもわかる通り、マーク・フィッシャーの現在の資本主義の見方はある側面で正しいが、ある側面で間違っている。たしかにマーク・フィッシャーが言うように前時代的な「繋がり」は資本主義の原理によって粉砕された。しかし我々は技術の進歩によって生成されたグローバルなネットワーク空間によって、現実的な世界では繋がっていなくとも半ば強制的に潜在的な形で強固に繋がっている。

 サイバースペース『ブラック・ハット』の中でハッカー集団は原発を爆破するという形で、世界を混沌に落とし込もうとする。サイバースペースを介入することで、一般的に入ることができない原発内部に不可視に潜り込み、世界を混沌に落とし込むテロルが可能となる(話は若干ズレるが、そもそもマーク・フィッシャーの考えの中には「原発」という問題はないのではないか。「原発」こそ資本主義リアリズムを覆い隠す、すべての仮構された「光」のエネルギー、ビルディングの明かりの源たる太陽であり、かかる現実のエネルギー源たる原発の事故とは資本主義リアリズムの裂け目に他なるまい)。

 注目すべきはラストでハサウェイは世界の混沌を調停することなく姿をくらます点である。ラストで敵のハッカーを倒したところで、ハサウェイはアメリカに帰ることなく、電気信号の網の目のなか、夢の中(「光」が表象される現実ではなく、「光」が暗示する潜在性)へと消えていくのだ。ハサウェイがとった結論とは国家によって、社会によって規定された現実世界の承認はさして自由たり得ないということである。この点はマーク・フィッシャーの指摘を参照すれば明白な話だろう。

 「夢を叶える労働」においては、夢と労働の関係はいつしか転倒し、労働が主目的化していく。であるならば、サイバースペースによって生じた裂け目(混沌)を利用し逃走する賭けにハサウェイは出たのだ。混沌の中に紛れ込んだハサウェイはある意味できわめて抽象的な存在になってしまったとも言える。ハサウェイは、もはや電気信号の中で明滅する「光」によってしか映し出されることなく、顕在的な世界の中では不可視の領域の住人となった*2。『コラテラル』や『ヒート』と『ブラック・ハット』の決定的な違いはこの点である。

 『コラテラル』や『ヒート』で映し出されたのっぺりとした郊外の世界のー夜の風景は、根無し草たる男たちを過剰な労働によって抑圧するものである。そうした風景が抑圧的であるからこそ、これを超克しようとするサクセスストーリーを導き出した。このばあい「光」とは非正規雇用から這い上がり家族をもつ夢のことである。この点でサイバースペースを意味する『ブラック・ハット』の「光」とは決定的に違う。『ブラック・ハット』のハサウェイが出した結論は「光」を超克するのではなく、あえてサイバースペースの明滅の、「光」の中へ紛れ込んで見せるということであった。

 ハサウェイは事件を解決させた後に政府へ帰還することなく女と二人で電気信号の網の目の中へと消え、顕在的な世界からの逃走を成功させたのだ。つまりそれは潜在的なものを潜在的なものとして、疎外を疎外として、受け入れた上で現実世界からドロップアウトし、自らの自由を獲得する逆説的な発想によって規定された戦術である。

 我々が為すべきは現実世界に対する皮肉としての自殺ではなく、現実世界の要請(すなわち労働のことだ)をドロップアウトすることであって、その時必要なのは「死ぬ」勇気ではなくサボタージュする勇気である。マーク・フィッシャーの出した「世界の終わりを考えるよりも資本主義を終わらせることは難しい」という結論は正しい。しかし終わらせようとするからこそ資本主義に取り込まれる余地が生まれるのだ。

 資本主義に寄生し続けることで、その自壊に賭けることこそ今日の我々に必要な戦術なのではあるまいか。というのも、資本主義は資本家とも言えども利潤の追求を止めることができない点が最大の強みであり弱点だからである。誰も恐慌を予想することはできない。この予測不可能性の了解こそが「資本主義を終わらせる」ための主体を獲得する上でまず必要な点であろう。

 誰も資本の流れを予想することはできない。無論この「誰も」にはマルクスも入っている。

 

 

 

(文責 - しげのかいり

 

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▲『ブラック・ハット』(二〇一五年)

*1:マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』河南瑠璃/セバスチャン・ブロイ訳、堀之内出版、二〇一八年、八四頁。

*2:『ブラック・ハット』と相似的な映画として、押井守の『イノセンス』が挙げられる。あの作品で草薙素子が出した結論もハサウェイと同じものだ。草薙素子もハサウェイも有限な自己をインターネットのサイバースペースに還元することで社会から遊離し、逆説的に主体を獲得している

松坂牛の天皇——天皇制と脱構築(後編)

※前編

昼となく 夜となく

憑きまくれ 物の怪 (P-MODEL - "Holland Element") 

3-1.松坂牛が日本である

 中上健次ジャック・デリダは、一九八六年一二月一三日、パリのポンピドゥセンターで実際に対談している(「穢れということ」、『中上健次発言集成3』所収)。一二日〜一三日に行われたシンポジウムには、柄谷行人蓮實重彦浅田彰などのいわゆる『批評空間』派閥が出席した。ここでのデリダと中上のやりとりは、まさに天皇をめぐって展開されており、両者の立場の違いを明確にするのに役に立つものである。つまり、〈われわれ〉は守中のいう「デリダ=中上的思考」に対し、「デリダ≠中上的思考」を考えることができるだろう——後編では、この問題を扱いたい。 

 ここで中上は、「松坂牛が日本である」という、奇妙なメタファーから議論をはじめる。まず前提事項を確認しよう。中上によれば、

僕は、イキとヤボが、安土桃山のあたりではグシャグシャになってたんじゃないかと思うんですね。イキとヤボを分けて、腑分けして、これがイキでこれがヤボでと、ジャパノロジストのように言うのではなく、イキとヤボがグシャグシャになっているということを言い続けるのが、熊野の人間の役割である、と(笑)。*1

 「松坂牛」は中上によれば「文化的で、味としては本当に最高のものなんだけれども、〔…〕あの牛は完全に病気」である。中上における日本は、つねにそのヒエラルキーの頂点と底辺が、未分の状態で「グシャグシャ」になっているものである。だから日本には「文化的に病んだところ」がある。デリダの質問に対してより正確に答えている中上の言辞を引用すれば、

 天皇、それと同時に下にあるアブジェクション〔おぞましさ〕として、ほとんど天皇と同じような資質を持ちながら下に行ってしまうという、そういうアブジェクション、アウト・カーストの人びと——天皇もアウト・カーストですよね、カースト外ですから。そういう、両方を補完し合っている。しかし何度も言いますが、このカースト外というのも、ツリー状ではありません。霜降り肉状です。*2 

 中上は、天皇と「被差別部落民」がたえず「同じような資質を持ち」、相補関係にあることをまず指摘する。そしてデリダとのやりとりの中で、中上はこの図式が「ツリー状」ではないということを何度も繰り返している。

 ここでの「霜降り状」を中上は、日本の都市の成り立ちから説明している。中上によれば、「被差別部落民」は近代(明治期)において建設された駅(たいていの場合郊外に作られる)のそばに住んでいた。その結果、「部落」は「霜降り肉の脂肪のように、〔都市の〕中に入り込んで」*3しまったのである。

 すなわち、中上のいう「松坂牛が日本である」というメタファーにおいては、その「霜降り状」の脂肪が、「被差別部落民」が都市において占める実際の位置をそのまま図像的に説明するのである。これは非常に重要だろう。天皇=部落」は、政治=経済の次元に、否応なくつねにすでに、しかも「霜降り状」に潜む文化的異物、こう言ってよければ遍在する異物なのだ。

 このような前提から、中上は「要するに、部落も天皇も文化でできている」という。しかしここからデリダと中上のすれ違いが生まれてくるだろう。デリダは、こうした状況に対しいかなる介入がありうるのかを中上に尋ねるのだが、中上は一方ではデリダ脱構築の意義を認めつつも、「幾重にも折り重なった高度に文化的な社会で、政治的な道なんてありゃしない*4と断言するのだ。

 いかに「天皇=部落」の文化が霜降り状に遍在し、社会との複雑な絡み合いを呈していようとも、中上のなかでは、端的に政治の次元と文化の次元が分かれていると言ってよい。天皇も「部落」も、中上にとっては、自明のことのように人々の感覚(身体感覚・皮膚感覚)に浸透している「文化」であり、「松坂牛」なのである。だから、それがいくら政治=社会の中に「霜降り状」に合一しているとしても、結局のところ中上にとって文化と政治の二項は別次元のものである。いや、正確に言えば、おそらく文化は政治に影響を与えるが、政治が文化を変革することはできない、のである。

 言うまでもないが、ここでは、「松坂牛が日本である」というメタファーはある別の表現を折りたたんで収納している、と言わねばならない。その襞は天皇(=部落)が日本である」と展開することができるのである。だがこのひとつの換喩はおそらく、もうこれ以上展開することができないし、換言することもできない。それは最後の審級であり、暴力の行使である*5。しかも、「天皇(=部落)が日本である」という表現は、実際に「天皇=部落」というひとつの特権的なシニフィアンひとつの部分に「日本」という全体を代表させ、表象させ、象徴させている以上、修辞ではなく、日本国憲法に記載された条項のたんなる確認でさえある。

 もう一度繰り返せば、「霜降り状」の脂肪をもつ「松坂牛」は、つまり「天皇=部落=日本」は、「文化的で、味としては本当に最高のものなんだけれども、〔…〕完全に病気」である。しかし、この「病」は中上にとって治癒しえないものだろう。こうした中上の態度を、会場にいた浅田彰は「いわば正の天皇主義者である三島に対して、負の天皇主義者として自己規定されたように思うのですけれども」*6と適切に要約している。

3-2.松坂牛の弁証法/松坂牛の脱構築

 「松坂牛が日本である」というメタファーは、見た目の間抜けさに反してきわめて鋭利な批評ではある。しかし私見では、この中上の態度には、現代における大多数にとっての天皇制への政治的無関心と多かれ少なかれ通底するものも孕んでいるだろう。

 中上に対するデリダの態度を確認しよう。デリダは、「階層秩序の頂点にある天皇または天皇制の構造と、もう一方のアブジェクシオンとの間に、連帯性や補完性があるのか。もしそういった補完性が存在するとしたら、〔…〕排除されたものの力をテコにして、構造を変換することができるのか」と端的に投げかける*7デリダは、ここでいう政治と文化の相補関係(「代補」)こそを問題とした思想家だからだ。この問いは、本項前編で扱った守中の戦略に対しても差し向けられている。

 この政治−文化構造に対する脱構築に対して中上は、「デリダさんの考え方〔脱構築〕なんかが有効かもしれません」と言いつつも、「一緒にそれ〔天皇=部落の背中合わせの構造〕と同じようなサイクルで回りながら、どんどん輪を回しながら次々と脱ぎ捨てていくみたいな、そう言う形を考えるんですけどね。しかしそれは、政治的というよりは文化的、つまり松坂牛をすき焼きで食うか、シャブシャブで食うかという違い〔…〕」*8として、やはりそれを文化のレヴェルへと引き戻している。ここでデリダと中上の明確な差異が現れてくるだろう。

 ここで、中上自身は徹底した「ノンポリ」であり、「天皇=部落」は、文化であることによってある種の「聖域」(聖俗の合一した「聖域」)である。 しかもそれはツリーではなく霜降り、「松坂牛」なのだ。

 デリダは松坂牛に対してどのように反応しているか。ここで、まずデリダは「〈ディコンストラクション〉〔脱構築〕とは、周縁の必要性を一方で認めながら、まさに周縁性が必要だからこそ、中心と周縁あるいは中央とまわりという二極への階層化とか固定化に、疑問を付すものです」*9と自分の立場を要約的に表明しつつ、中上の態度に「ある図式が隠されているのではないか」*10と疑う。

 デリダは、「部落」という、周縁性を自覚した熊野の人間たち(ここでは中上)が、その周縁性を担う伝統の純粋性を前提とし、「周縁性をいわばイデオロギーとして回収しようと」*11しているのではないか、としつつ、「中上はアブジェクシオン(おぞましさ)を変換した上で、階層秩序の頂点に据えようとする」*12と指摘し、そこに、中上健次弁証法を見て取っている。松坂牛の弁証法である。

 デリダの批判をさらに端的にいえば、こうなる。中上は政治と文化の不可分な関係を指摘しつつも、文化の次元を不可侵の「聖域」として設定してしまうことで、実は政治に対する文化(ここでは被差別部落民の伝統)のヒエラルキー的上位性を主張しているのではないか? それは、実は、霜降り状でも松坂牛でもなんでもない端的なツリー、もうひとつのツリーの創設なのではないだろうか?

 これに対し中上は、「私は聖なるもの、賎なるものを、まさに松坂牛の霜降り肉状にとらえているのですが、デリダさんの問いは、どうやらツリー状に考えておられるから出てくるのではないか」*13と批判的に返すのだが、この中上による批評は、脱構築的思考について、あるいはデリダ中上健次の差異についての輪郭をとらえる上ではかなりクリティカルな発言だろう。実際、脱構築は、あらゆる構造がツリー的になってしまうというところから出発しているように思われる。それはあるツリーに対する端的な外部・「聖域」が、少なくとも素朴な仕方では不可能である、という態度からし当然の帰結なのである。 

 

4-1.終わりなき汚染

 この対談では、ほかにも「排除されるもの」と文学の関係や、浅田によって提起されるジュネの問題など、重要な論点が揃っているが、あまり展開されておらず、デリダ側が質問を(なかば強引に)打ち切り、対談が終了しているように見える。

 

 さて、もう一度守中のテキストに戻ろう。守中の提起した図は、中上の小説をデリダ的に(というよりもラカン的に)要約し図式化することで得られた。

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 だが、少なくとも中上自身の発言に基づくのなら、この守中の図式は「ツリー状の思考」から出てきたものでしかないだろう。おそらく、ここでは「賎なるもの」=「物」を天皇に対する抵抗の契機として捉えることはそもそもできない。なぜなら中上にとってその両者は、端的に「同じもの」=「同じ『物』」であり、しかもそれらは政治から遠く離れた「文化」でしかないからだ。それは作為的な介入で変革することがほとんどできない。

 「味としては本当に最高のものなんだけれども、〔…〕完全に病気」な「天皇=部落」という文化概念は、都市や社会に対し「霜降り肉状」に合一している。この聖俗の入り混じった状況こそ、中上にとっての「日本」である(だから、中上は天皇に批判的な目線を持っていたとしても、天皇と背中合わせの「部落」に目線を向け続ける以上「負の天皇主義者」になるのだ)。ここから、守中の図に中上的な、正であれ負であれ——天皇主義的な反論が可能となる。

 一方で、デリダの言述から守中の図を批判することもできる。大まかに分けて二つの論点があるだろう。

 第一に、図における−φとφの項は、守中自身がいうように相補関係・共犯関係にある。とすれば、−φを用いてφを打倒しようとするとき、そこにはφを単に強めるだけになる可能性は常にある(これは、単に構造的な話ではなく、近年の日本における左翼の「天皇主義化」*14で実証されているとも言ってよいのかもしれない。中上の場合と同様、マイノリティ志向と天皇主義は簡単に共犯関係になる)。これはデリダの文学に対する態度にも一貫している。

二つの文学があることになります。つまり、左翼文学とかイデオロギー状の役割をとったとしても、結局は、既存のフィールドにすんなり回収されてしまうような文学がひとつ。それから、フィールドに回収されえない別種の文学、あるいは文学の中にある何者か、これがもう一つ。〔…〕後者については、文学としての部落民サイドのようなものを想定しているのですが。 *15

 おそらくここでは、単なる反天皇主義が天皇主義に実は通じている危険性(「知らず知らずのうちに既成の政治秩序を利する」危険性)を計算するべきだろう。あるいは、その反天皇主義そのものが——その「意志」で結ばれた〈われわれ〉が——もう一つの抑圧である危険について。

 ただ、たしかにデリダもまた、既存の枠組みの中にありながら、つまりまさに霜降り状に、内部に位置しながらも異物であるもの(「文学としての部落民サイド」)に着目している。ここで、「在日」や「部落」をテコに全体性の脱構築を迫るという点では、守中とデリダの態度は重なる。

 ただしここにも問題がある。そうした異物は、それ自体目に見える異物として実存するわけではなく、「『在日』と呼ばれる人々を範例と」*16することなどできない(そもそも範例とは具体的にどうするつもりなのか?)ことである。これについては後述する。

 第二に、守中の「脱構築」には終わりがある。「天皇という象徴による汚染を拭い去り、真の共和制へと歩みを進めたいと願うわれわれが真っ先になすべきなのは、このような『秘密』を白日のもとに晒し、『亡霊』の機能を停止させること」*17なのだから、天皇制が廃止され(そして悪しき自民党政権が打倒され)、「真の共和制」が体現されれば、「脱構築」の役目は終わることになるだろう。

 むろん、天皇の戦争責任を問う作業はつねに重要である。しかし脱構築は目的論ではない。だから脱構築には「終わり」(fin 目的=終わり)がない。言い換えれば、脱構築は「真の共和制」という「三」に向かうのではない。重要なのは、その「真の共和制」が仮に実現されたとしても、そこにもさらに「秘密」と「亡霊」がとり憑き、その「真の」を脱構築しにやってくることである。脱構築は、そのある一面においては、真の-純粋な-自然な-直接的な-即自的な-無媒介な-共和制の不可能を告知する、「無限な有限性」の主張である*18

 「現前の形而上学」に支えられた意識がつねに抹消する、記号(媒介)による現前への起源的「汚染」は、しかし「亡霊」(「再来霊」)として回帰する。それをなかったことにしようとする意識の形而上学的作用こそを、デリダは「良心=潔癖意識」と呼んだのではなかっただろうか(『アポリア』ほか)。

 なんども指摘してきたように、媒介を欠いた「即自的存在」は単に空疎な理念に留まるだろう。だから、「亡霊」による汚染を祓い、「秘密」を干上がらせ、真の共和制へ向けて「良心=潔癖意識」を滾らせつつ「加速」するような議論では、それがいくら合法的=正当 justeであれ、「脱構築」という語が登場する余地はまったくない。ここに、たんに言葉遊びにしか見えないかもしれない大きな隔たりがあるのだ。

4-2.非実存の残余=抵抗

 では天皇制と脱構築は関係を結びえない、どころか、その解体不可能性を告知するのだろうか。

 いったん迂回しよう。アラン・バディウはあるテクストのなかで、デリダ脱構築の戦術について次のように要約している。まずバディウは、「現出する多様体のなかには、その実存が強度ゼロの要素がつねにある〔…〕また世界内にあるためには非実存の点がつねになければなら」*19ないとした上で、そうした「非実存者」は「ある限定的な世界やある場所に特有の仕方で、非実存する」*20と定義づける。そしてバディウは、このような「非実存者」をめぐってこう結論する。「デリダエクリチュール〔…〕の要点は、非実存者の組み入れの不可能性を、組み入れの形式として組み入れることである」*21

 ここでバディウが「非実存者」ということで、同時に資本主義におけるプロレタリアートを想起していることは非常に重要である。なぜなら、バディウのこの連想は守中における在日朝鮮人被差別部落民とまったくパラレルだからだ(「非実存点」=−φ)。非実存者は、社会においてつねに見えないもの触れえないものになる。非実存者は存在しながらにして存在しないことになっている。この「特有の仕方」での非実存を、おそらく中上健次は極めて鋭敏な仕方で描写した。

 しかし一点、バディウデリダ読解が守中の「脱構築」と異なる点がある。バディウデリダ脱構築を、「組み入れ不可能性の組み入れ」と要約している点である。ある構造が必然的に抑圧し、忘却し、抹消し、修正する痕跡は、それ自体は端的に抹消されており、「範例」として組み入れることなどできないのだ。

 すなわち、痕跡--つまりここでは「賎民」あるいはプロレタリアートのことだが--を、ある一つの独立した「存在者」あるいは「実在」として(「四」として)図式の中に組み入れることは不可能である。−φは抹消されているがゆえに、項として設定できない。まさにその不可能性こそが、全体性が抑圧的であることを示すのだ。

 デリダの戦略は、まさにその組み入れが不可能であることを図式のなかに組み入れる(だからそれは非実存者=「幽霊」として非実存する)。この抹消された痕跡の不可能な抵抗こそが、たえずトラウマとしてひとつの構造にとり憑き、その構造を変革し、異化するよう働きかける。この抵抗を、デリダは様々な場所で「残余=抵抗 restance」とまとめている*22

 

5.幽霊的知性

 この奇天烈な論理をたどったすえ、ある種の結論としてこう言わなければならないのだが、脱構築は革命も、純粋な理念も、少なくとも正面から「まっすぐに droit」肯定することができない。さらには、特定の少数者を「範例として」ある体制に反対することももちろんできないだろう。結局、さまざまな思想家たちに誤解を含めてそう言われてきたように、脱構築見かけ上現状追認的である。ここに脱構築の危険と困難がある。デリダは『ポジシオン』(一九七二年)でこう言う。

この仕事〔脱構築的実践〕は、見たところ、『イデオロギー』の諸分野〔…〕と規定されるような、限定された諸分野に出発点を取っているように思われます。だから、並外れて大きな歴史的有効性、直接的に全般に及ぶような有効性をそれに期待する余地はないように思われます。とはいえ、有効性なるものは、それが確実であるためには、やはり限定されているものであって、複雑な網状組織にしたがって中継され、分節され、差延されるのです。*23

 ここでデリダは「見たところ」や「思われます」や「直接的に全般に」という語を嫌味なほど強調している。デリダ自身が言うように、脱構築は、つねにある部分的な操作でしかなく、だからこそ見かけや、思惟や意識に直接的に現前するような「ラディカル」な効果を持ちえないだろう。またもう一方で、脱構築は、語の根本的な意味において「リベラル」ではあるが、改良主義ではない。それはなにかを「より良く」することなどない。むしろ、いまここで「より良い」とされているものを白けさせ、異化し、別の土台に乗せ、その限界を指摘するだろう(脱構築が唯一改良するとしたら、改良主義を改良するのである)。

 これは非常に残念なことなのだが、もちろん「脱構築」が安倍政権を打倒することはないだろうし、天皇制を解体することもないだろう。というより、そうした仕方で現前することがないだろう。それは喫緊に、差し迫った問題を、すぐさま、有効に、プラグマティックに、目に見えて、解決しはしない。

 だが、脱構築の効力を即時的な有効性や直接的な妥当性の次元で思考する、まさにその思考そのものへと脱構築は向けられている(「有効性なるものは、それが確実であるためには、やはり限定されているものであって、複雑な網状組織にしたがって中継され、分節され、差延される」)。「実効性」と「文学的幻想」を、つまりここでは政治と文学、現実と虚構をはっきり腑分けする、成熟やリアリズムを装うその潔癖症、秘密裡に流行している境界的思考*24にこそ、脱構築が--そしておそらく「批評」が、異議を申し立て、ずらし、不快にさせにやってくるのである。

 

 さて、こうして天皇制をめぐる文化と政治の奇妙な結託を目の当たりにした〈われわれ〉にとっては、天皇制の脱構築がはたして文化的次元に属するのか、政治的次元に属するのかは、つまり表象的か現実的か、「すき焼きで食うか、シャブシャブで食うか」はもはや問題になりえない。まさにこの視座に立ってはじめて、天皇制の脱構築を考えはじめるべきなのだ。抑圧的媒介として、文化的であることによってこそ政治的な力を持つ天皇制の特権を脱構築しなければならない。

 しかし、それは無駄に反天皇反日を掲げ、「非国民」を自称するラディカリズム(あるいはその逆の愛国主義)や、不可能な近代主義を掲げるアイロニーや、友敵を〈われわれ〉という語により峻別する決断や、〈弱者〉探しゲームや、一見賢しらな専門家への委託によってはなされないだろう。天皇制と脱構築が仮に関係を結びうるとしたら、様々な領域(象徴と現実、文化と政治、文学と社会、実存と構造、暴力と平和、法と権力)の、見かけ目立たない奇妙な絡み合いとそこに働く暴力を発見し、その位相をずらそうとつねに策謀を巡らせることによってのみである。

 ところで、こうした作業は日本において、「批評」と呼ばれる伝統のなかで、自覚の有無を問わず、担われてきたように思われる(少なくともある時期までは)。しかし今となっては、系譜に対するこうした位置ずらしを敢行し続けることは、冗談か、時代遅れの懐古趣味か、「ものの言い方の些末な違いに拘泥」する子供の戯れにしか見えないかもしれない(拙稿「哄笑批評宣言」で書いたように)。それは特定の専門領域や方法論をもたない「憑在論 hauntology」であるがゆえに、目的も理念も持たないし、具体案もオルタナティブも、新奇な選択肢も直接的には示さないからだ。

 しかし〈われわれ〉の唯一の積極的なテーゼは、この戯れ、この「喜劇」をこそ維持しなければならないということであった*25。そしてそのためには、きわめて奇妙なひとつの知性が必要になるだろう。すなわち、いまだに不可視なままの「幽霊」たちと戯れる、別の「知」が必要となるだろう。この非-知にも近いもうひとつの知性を、さしあたってきわめて乱暴に、「幽霊的知性」と呼んでおきたい。この知性のためにこそ、はじめてあなたと私は加速しなければならない。

 

 

 

  

 

(文責 - 左藤青) 

 

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脱構築のイメージ

*1:中上健次ジャック・デリダ「穢れということ」(柄谷行人・絓秀実編『中上健次発言集成3 対談Ⅲ』所収、第三文明社、一九九六年)一四頁。

*2:同上、二六頁。強調引用者。

*3:同上、二六頁。

*4:同上、二七頁。強調引用者

*5:デリダは、このようにあるひとつの名前が全体を特権的に代表=表象する暴力性、換喩の暴力にきわめて鋭敏な思想家であった。「ある名で他の名をあらわし、部分で全体をあらわす。人はつねに、アパルトヘイトの歴史的暴力を一つの換喩(メトニミー)として扱うことができるだろう」(デリダマルクスの亡霊たち』増田一夫訳、藤原書店、二〇〇七年、六頁。)

*6:同上、三二頁。

*7:同上、二四頁。強調引用者

*8:同上、二七頁。強調引用者。むろん、松坂牛をすき焼きで食おうがしゃぶしゃぶで食おうが、結局はブルジョワジーの嗜好品であろう。

*9:同上、一八頁、一九頁。

*10:同上、一七頁。

*11:同上。

*12:同上、二一頁。

*13:同上、二四頁。

*14:この点については、周知の通り絓秀実が鋭く指摘している。『増補 革命的な、あまりに革命的な』(ちくま学芸文庫、二〇一八年)の付論ほか参照。ここで絓の議論は、三島由紀夫における「文化概念としての天皇」への批判を含む。

*15:同上、二五頁。ところで、これはデリダの「パロディ」に対する考え方とまったくパラレルである。「二つのパロディのあいだに区別をもうける必要はありませんか。ひとつは、〔…〕知らず知らずのうちに既成の政治秩序を利することになるもの。そして他方に、既成の政治秩序を実際に脱構築することが可能なパロディがあります」(『ニーチェは、今日?』、ディスカッション部分でのクロソウスキーとのやりとり。邦訳、林好雄の解説中に引用されている。デリダドゥルーズ・リオタール・クロソウスキーニーチェは、今日?』林好雄ほか訳、ちくま学芸文庫、二〇〇二年、一一五頁)。

*16:守中高明「ネイションと内的『差異』」、『終わりなきパッション デリダブランショドゥルーズ』所収、未来社、二〇一二年、二七二頁。

*17:守中「ファロス・亡霊・天皇制」三四二、三四三頁。

*18:たとえば、マーティン・へグルンド『ラディカル無神論 デリダと生の時間』参照。

*19:アラン・バディウジャック・デリダへのオマージュ」松葉祥一訳(『ジャック・デリダ(別冊『環』13号)』所収、藤原良雄編、藤原書店)、二〇〇七年、九五頁。強調バディウ

*20:同上、一〇一頁。

*21:同上、九六頁。強調バディウ

*22:エクリチュールはおのれの消去過程、廃棄過程をおのれ自身のなかに構造論的に含み、他方しかしそのような消去の残余を標記する〔…〕」(デリダ『ポジシオン』高橋允昭訳、青土社、二〇〇〇年、一〇一頁。強調デリダ

*23:同上、一三四頁。強調デリダ

*24:結局、全体からの「逃走」に対しても、デリダに倣って二つの方向性を認める必要があるのだろう。たとえば、いくら領域から領域へと〈Exit〉しつづけ、ノマドを気取ったところで、依然としてこうした境界や全体性は大手を振って機能することになる(というよりまさにこうした亜流ノマディズムこそが「全体主義」と親和的である)。なんでも代入可能な真理xは、存在しなかったとしても存在するかのように機能するのだから、たんに「意味のない無意味」などと言いつのったり、あるいは(同じことだが)無意味を享楽するだけでは「ポスト・トゥルース」状況はいつまでも訪れない。ある全体性にけっして安住せず、しかし全体性などないと言い切ってすませてしまう安易さにも阿らないで「他者」を志向するという点に脱構築の揺るぎなさがある。まさにこのような状況においてこそ、「読むことのアレルギー」(福尾匠)に屈することのない、脱構築の介入が必要なのではないか。そうした介入はひょっとしたらある時にはカント的な批判哲学の相貌に近似するかもしれないし、ある時には「テロリズム的な蒙昧主義」(フーコーによるデリダ批判)と呼ばれるような、戯れの作業になるかもしれないのだが。

*25:拙稿「哄笑批評宣言」、また『大失敗』創刊号巻頭言(しげのかいりとの共作)を参照されたい。巻頭言でも、『共産党宣言』をなぞる形で「幽霊」が問題になっている。ところで、『ゴースツ・オブ・マイライフ』(邦題:「わが人生の幽霊たち」)の著者マーク・フィッシャーはここに限りなく漸近したが、その喜劇を悲劇と取り違えたために、その作業を維持することができなかったのではないだろうか。この悲劇においてこそ、拙稿「昭和の終わりの『大失敗』」(『大失敗』創刊号所収)で「ニューウェイヴ」と名付けたひとつの態度が登場しなければならない。

松坂牛の天皇——天皇制と脱構築(前編)

「昭和」から「平成」へ、かつてあったはずのあの切断についても、これから生じることになるあの切断についても、それ自体ひとつの「配列」以外のなにものでもないことが意識されなければならない。(拙稿「昭和の終わりの『大失敗』」、『大失敗』創刊号、二〇一九年)

 二〇一九年は元号の変わり目となるわけで、そのことで種々の議論や、政府の手続き上の不手際に対する批判の声があるようだ。

 一月に京都文フリで発売された『大失敗』創刊号は、元号を問題にし、また絓秀実氏の文章を掲載した時点で当然ではあるが、天皇制への疑義を孕んでいるものである。「昭和の終わり/平成の終わり」という創刊号のテーマの一つは、現状起きつつある元号にまつわる破廉恥きわまる乱痴気騒ぎ、そして「平成」とは何だったのかなどという、馬鹿げたノスタルジーに対して、あらかじめ牽制しておくという心持ちで設定されたのだった。僕はそこで「音楽批評」を一本書いている。

 とはいえ「昭和の終わり/平成の終わり」というテーマの天皇制への疑義は、元号という、「たんなる表象」しか問題にしていないのだから、見かけ上はじつにひかえめなものである。

 ほかの人間は知らないが、僕自身には、『大失敗』の議論が天皇制への単なる「攻撃」として受け取られることに抵抗があったし、『大失敗』がたんに政治的にラディカルなだけの左翼的言説に回収されることにも明確な抵抗があった。しかしこの「抵抗」は「否認」ではあれ「否定」ではないわけで、この余計な「抵抗」の感覚が問題となるのだろう。まさに、拙稿で問題にした「ちょっと待って」(有頂天 - "大失敗'85")である。

 

 むろん、そのようなひかえめな態度にとどまらず、あえてそこから一歩進んで、たとえば天皇制を解体、あるいは、脱構築することは可能なのだろうか、などとと問うこともできたのかもしれない(しかしもちろん、「脱構築」がジャック・デリダの用語であることは言うまでもなく、デリダ自身がほとんど思考するはずのなかった天皇制について「脱構築」するなどとのたまうのは、おそらくまったく不適切だ。それは、キャッチーなタイトルにばかり興味を示す、動物的な読者たちを呼び寄せる結果にしかならないかもしれない)。

 だが、この問いは、あまりにも性急すぎるように思える。そこで、さしあたり次のように(デリダ的に)問うておこう。その問いの手前にある、「天皇制『と』脱構築」というこの並列が何らかの意味を結びうるとしたら、どのような仕方なのだろうか、と。この「と」について考えるために、ここでは実際に天皇制の「脱構築」を目指す思想家からヒントを得たいと思う。守中高明氏である。

.媒介を破壊する意志で結ばれた〈われわれ〉

 「ネイションと内的『差異』——天皇イデオロギーのもとでの在日朝鮮人」(『終わりなきパッション デリダブランショドゥルーズ』所収、二〇一二年)で、守中高明は、帝国主義時代の日本の朝鮮支配のスローガンたる「一視同仁」という「まなざし」をラカン的に分析するところから出発している。

 守中は仏文系の研究者であり、現在は早稲田大学の法学学術院教授である。デリダの翻訳なども多数ある。一方で詩人であり、また宗教者でもあるという、さまざまなプロフィールをもつ守中は、日本の「デリダ派」のなかでもとりわけ政治的にはっきりとした態度を取っている思想家だと言えるだろう。彼の作業は日本における「天皇制−人種主義−近代資本主義」という「三位一体」の「脱構築」とまとめてよい(彼のTwitterを見れば、彼の方向性はおおむねわかるだろう)。

 守中は、上記の「一視同仁」の批判から出発して「大日本帝国による植民地支配の思想とシステムは、こうしてある特有の人種主義をその根本原理として存立し、作動してきた」とまとめ、「大日本帝国における植民地主義は、近代資本主義と人種主義を、天皇イデオロギーという前近代的紐帯によって結びつけることを本質的特徴として展開され」てきたと指摘する。天皇制のイデオロギーは、上述の「天皇制−人種主義−近代資本主義」という「三位一体」において、他の二項を「媒介」する紐帯として解されるのである。

 天皇制は、その媒介的性質において、近代日本の抱える問題の「勘所」であり、他の二項(人種主義・資本主義)に比べて特権的な地位を持っている。その構図は「今日に至るまで、基本的に変化することなく持続している」*1のである。

 この分析は妥当である。その後守中は、昭和天皇の「人間宣言」が、その内実「みずからが『国民』と対等な『人間』だとは一言も口にしていない」ことを指摘しつつ、日本国憲法第一条に記載されている「国民の総意」というフィクション*2を批判し、「象徴」としての天皇を持つ現在の日本にまでその批判の射程を広める。守中によれば、

その〔象徴としての天皇の〕機能は、国民たちを即自的自然状態から、天皇によって象徴されるものへと変容させることにある。つまり、日本国民は、天皇という象徴による媒介を受け容れなければ国民たり得ないのである。〔…〕/近代日本は、明治以来今日に至るまで、その政治体制の変化にもかかわらず、天皇に媒介されない民衆を持ったことがなく、したがって自然的直接態における誰かであることは、この国に国籍を持つかぎり、確認の自己意識の如何にかかわらず、不可能なのだ。*3

 デリダであれば「即自的自然状態」を無条件に認めるはずなどないということは一旦措くとして——いわゆる近代的な「主権」概念を素朴に受け容れるかぎりでは、ここでの守中の分析はやはりそれなりに妥当ではある。象徴機能・記号・媒介によって常に「汚染」されている「国民」は、即自的なものではありえず、直接自らの生を生きはしない。日本国民は天皇という「超越的媒介項」なしには「国民」たり得ない。近代的な自立的/自律的主体は、日本においてはまさに天皇イデオロギーによってこそ不可能にされているというべきだろう。日本が土人国家であるという浅田彰の指摘は端的に正しい。ただそれを乗り越えらえるかは別の問題だが。

 こうしたイデオロギー脱構築として、守中は「在日朝鮮人」の問題を提起する。「一視同仁」イデオロギーによって、その「文化的差異」を抹消され・「人種的差異」を強調された「在日朝鮮人」の生の在り方にこそ、守中は「この国のナショナリティをその過去と現在を包括的に視野に収めつつ脱構築しながら、普遍的世界市民として生きるための」*4希望を見出す。

ここには一つのチャンスがある——日本人が、「在日」と呼ばれる人々を範例として、あり有べき「人間」の名を「象徴」から奪い返し、来たるべき共和制へと歩みを進めるためのチャンスが。天皇制という究極的人種主義のシステムを超えてわれわれが(そう、あらゆる人種主義を終わらせる意志で結ばれたわれわれが)自らに固有の名を与えうる日の到来を、われわれは加速しなければならない。*5

 さきほど示唆した通り、基本的に守中の天皇制批判は、「どんな神話的起源にも象徴にも汚染されない自立した存在」への志向としてまとめることができる。そうした存在へと、つまり来たるべき即自的自然体・「普遍的世界市民」への「意志」で結ばれた「われわれ」——デリダ脱構築が常に疑義を呈してきた〈われわれ〉——へ「加速」するために、守中は「在日朝鮮人」の生の在り方を称揚する。

 守中の記述には様々な問題がある。それは本稿後編で主に論じるが、一点だけ先に指摘しておこう。ここで守中は「在日朝鮮人」を「それでもなおこの国に住み続ける彼ら*6と呼んで、そのあとにその「彼ら」を「われわれ」と言い換える

 このひとつの換言=「還元」は、どこまで平和的なものでありうるのだろうか?(この問いもまたおそらく脱構築の圏域に属している)。この点については、たしかに守中自身も「在日朝鮮人の人々の生の条件の具体性を考慮しない思弁の謗りを招くかも知れない」*7と留保している。とはいえ、それが象徴=「超越的媒介項」に汚染されていようがいまいが、どちらにせよ、この〈われわれ〉が抑圧的に機能しない証左はどこにもないのであり、「人種主義を終わらせる意志で結ばれたわれわれ」というパッセージが、すでに自己矛盾を抱えているとすら言えるのではないだろうか。なぜなら〈われわれ〉という共同性を創出する一人称複数形こそが、極度に抽象的な意味では「人種主義」的に、あるいは「人間主義」的になりうるからである。

 

ジャック・デリダ中上健次天皇制の脱構築

 「ファロス・亡霊・天皇制」(『現代思想』所収、二〇一四年二月号・デリダ特集)でも、守中による天皇制の分析は「ネイションと内的『差異』」と変わるところがなく、また問題含みな部分もほとんど同じである。重要なのは、こうした問題が中上健次デリダを同時に照会する仕方で開陳されていくこと、天皇制への抵抗の仕方として、「デリダ=中上的思考」*8を取り上げることである。

天皇という象徴による汚染を拭い去り、真の共和制へと歩みを進めたいと願うわれわれが真っ先になすべきなのは、このような『秘密』〔昭和天皇の戦争責任〕を白日のもとに晒し、『亡霊』の機能を停止させること、そして、そのような精神分析的作業の徹底化を通じて《父》=ファロス=天皇の権能を脱構築することである。/そのとき、来るべきわれわれの引き受ける名が、最もポジティヴな意味での「非国民」であることは言うまでもない。いかなる空虚な中心にも回収されることのない、散種としての市民たちの終わりなく脱中心的で不連続な結び合い——それをこそデリダ=中上的思考は呼び招いているだろう。*9

 文学者・中上健次の主題はいうまでもなく「被差別部落」であった。守中は中上作品の読解から (主に『枯木灘』、『紀州』)、中上における《父》−子関係の、「アンチ・オイディプス」的側面とその奇妙な構造(「父から息子への転移」など)を抽出する。これは中上健次に対する文芸批評(守中が参照しているのは渡部直己、絓秀実らのもの)の歴史を踏まえて理解を進める必要があるものだが、この点については稿を改めるとして、問題となっている天皇制に関して重要な点にだけ言及しておく。

 

 中上は、一九一〇年に起きた「大逆事件」(幸徳事件)につねに意識を向けていた。守中はこの意識を、中上が天皇被差別部落民の相補関係をつねに見てとっていたことに引きつける。守中によれば、中上の文章において直観的・論理的に示されるその前提とは、「〔天皇被差別部落民が〕互いに互いを規定し合う拮抗する力学で結ばれた関係にあるからであり、そしてまさにそれゆえに、被差別部落民こそは『大逆』=天皇の殺害という行為の可能的主体である*10。ここで「被差別部落民」こそを天皇イデオロギーに対抗しうる存在として見出す論理展開が、「ネイションと内的『差異』」における「在日朝鮮人」の場合と同じであることは、きわめて重要である。

 「被差別部落民」は、「天皇(制)」という象徴秩序から常に漏れ落ち、「名付けられぬ者(物)」と化す。しかし、この表象制度から漏れ落ちる「〈物〉」(守中はこれをラカン的な意味で用いる)は、「私の中心」にある「異質なもの」である。「ネイションと内的『差異』」では、守中はこれを(やはり精神分析的な意味での)「不気味なもの」と定式化していたと言える。守中は中上の作品における天皇と「被差別部落」の対極関係を下のように図式化する。

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 守中は、山口昌男天皇論とラカンの理論を合体させつつ、次のように総括する。

天皇=『ファロスのシニフィアン(φ)』は、『みずからの消失』によって唯一の起源の欲望の対象となり、諸シニフィアンの連鎖の全体を可能にしつつ、象徴界を超越項として支える役割を演じ、他方、被差別部落民は異質な『物』として排除されることで、『原抑圧』を準備しファロスのシニフィアンを成立させる『想像的ファロスの欠如(−φ)』として、象徴界の構造を堅固にする負の頂点に位置を占めている。*11

 天皇制(守中はラカンに倣ってこれを「Aufhebungそのもののシニフィアン」と呼ぶ)は、それ自体で定立しているように見せかけつつも、実際には常にそこから漏れ出す「物」としての被差別者を構造的に必要としている。天皇イデオロギーはこの二項の共犯関係によってこそ存立しているのだ(ここで守中がさりげなく「そうであってみれば、両者が互いの位置を交換することは構造的にあり得る」*12と指摘している点は重要である)。
 周縁に対する抑圧がなければ中心はあり得ず、中心は周縁を、構造的に必要とする。確かにこの図式は、『声と現象』ほかデリダが様々な場所で説明する「代補」の論理ではある。

 また、守中はこれを数字のメタファーによっても説明している。弁証法(二項の止揚としての第三項=「三」、図における上向きの頂点)に対する「四」としての、しかし「三」につけ加わる「一」ではなく、その「三」が必要としながら常に忘却・抑圧し、抹消しようとする忌むべき「四」としての「被差別部落民」(図における下向きの頂点。無論、この「四」「四つ」というような言い回しは、「四つ足」=動物、「死」などを連想させる「差別語」であり、それが踏まえられた言葉遊びである)。「第三項」を形成することなく弁証法を中断させようとする企図が「脱構築」なのであるとすれば、この「つねにすでに作動している」ところの「四」は、守中によれば「『脱構築』の効果を有する」*13

 ここから守中はさらに中上作品の読解を続け、「被差別部落民こそが天皇を無化する」というテーゼが、「その歴史的制度を被差別者の側からたんに糾弾することを意味しないし、他方、実効性のない文学的幻想にとどまる企てでもない」*14ことを主張する。それは具体的には、中上『地の果て 至上の時』(『枯木灘』から続くサーガの完結編)への着目によってなされる。とりわけ、《父》(浜村龍造)の自死に子=秋幸が立ち会う場面において叫ばれる「違う」という語に、守中は注目する。

「違う」——それはしたがって、被差別部落民たる「秋幸」がその「差別の力、『四』の力」によって可能性を開いた「父殺し」ならざる《父》の脱構築天皇脱構築への地平が閉ざされることへの、「秋幸」の文字通り全存在を賭けたひと言なのである。*15 

 『地の果て 至上の時』における浜村龍造の自死は、《父》が自らの死を「子」=秋幸に見せつけ、「切断面」を秋幸に接ぎ木することで永遠に生き長らえようとする「種の保存」の論理から説明されている。要は、中上のサーガは、《父》≒天皇の「脱構築」に限りなく漸近しながら、それが結局凄惨な「大失敗」として、オイディプス・コンプレックスへの回帰として、描かれる——いわば、天皇制の解体の可能性が閉ざされることによって、『地の果て 至上の時』は幕を閉じるのである。

間奏:「穢れ」

 しかし守中はこうした「幕」に対して解釈を加えず、再度昭和天皇の戦争責任を糾弾する方向へと議論を展開する。ここで、『地の果て 至上の時』秋幸の「違う」という叫びと、「非国民」として、天皇の責任を暴き続けなければならない、と結論する守中の所作を、パラレルに捉えることができるだろう。つまり、守中における天皇制の「脱構築」は、おそらく「違う」と言い続けることなのだ(事実、守中自身、「憲法九条改正」にも「安倍政権」にも、あらゆる「体制」に「違う」と言い続ける「運動家」である)。

 「違う」という「声」を上げ続けること——これは実際、「脱構築という理論を実践しようとするなら、ある一面を突いてはいる。しかし、まさにそうした声の「失敗」こそが、守中のいうとおり「脱構築という非−現前性の場面における出来事の必然的帰結」だとしたらどうか。あるいは、「脱構築」が「出来事の痕跡を随所に刻みつけつつ」も「前未来時勢における事態の確認」*16に帰着するのだとしたら? その場合「脱構築」はむしろ、はじめから天皇イデオロギーの解体の不可能性の側に加担するのではないだろうか。

 守中が解釈を加えないこの「幕」をどのように捉えるべきなのだろうか——そしてそれでもなお、「その歴史的制度を被差別者の側からたんに糾弾することを意味しないし、他方、実効性のない文学的幻想にとどまる企てでもない」ということができるのだろうか。おそらく、真に問わなければならないのは、ここで「実効性」と「文学的幻想」の二項対立が果たして有効なものでありうるのかどうかである。この問いを念頭に置いておいていただきたい。

 

 ところで、守中は言及していないが、中上健次ジャック・デリダという組み合わせは、それほど突飛なものではない。中上とデリダは一九八六年一二月一三日、パリのポンピドゥ・センターで実際に対談している(「穢れということ」、『中上健次発言集成3』所収)。一二日〜一三日に行われたシンポジウムには、柄谷行人蓮實重彦浅田彰などのいわゆる『批評空間』派閥が出席した。ここでのデリダと中上のやりとりは、まさに天皇制をめぐって展開されており、両者の立場の違いを明確にするのに役に立つものである。ここで中上は、「松坂牛が日本である」という奇妙なメトニミーから出発して議論を展開する。

 〈われわれ〉は、守中のいう「デリダ=中上的思考」に対して、むしろ「デリダ≠中上的思考」を考えることができるだろう——後編では、この問題を扱いたい。 

(後編へ続く)

松坂牛の天皇——天皇制と脱構築(後編) - 批評集団「大失敗」

 

  

(文責 - 左藤青

twitter.com

 

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 ▲Pink Floyd『原子心母』(1970)の牛。確実に松坂牛ではない。

 

※『大失敗』創刊号、通販始めました 

daisippai.hatenablog.com

 

*1:守中高明「ネイションと内的『差異』」、『終わりなきパッション デリダブランショドゥルーズ』所収、未来社、二〇一二年、二六四頁

*2:これを守中はデリダに倣って「遂行的暴力」と呼んでいる(二六九頁)。「国民の総意」というエクリチュールは、事実確認的なものではなく、それが憲法の条項に書かれるという行為によって形成される行為遂行的なものである。

*3:同上、二六九、二七〇頁。強調守中。

*4:同上、二七二頁。

*5:同上、二七二頁。強調守中。

*6:同上、強調引用者。

*7:同上。

*8:守中「ファロス・亡霊・天皇制」(『現代思想』所収、二〇一四年二月号・デリダ特集)、三四二頁。

*9:同上、三四二、三四三頁。強調守中。

*10:同上、三三一頁。

*11:同上、三三四頁。

*12:同上、三三五頁。

*13:同上、三三七頁。

*14:同上、三三五頁。

*15:同上、三四〇頁。

*16:同上。

『大失敗』創刊号、通販開始!

 お久しぶりです、「大失敗」左藤青です。

 この一ヶ月ほど、「大失敗」運営三人が多忙のためほとんど身動きできない状態だったのですが、ついに創刊号の通販を開始することとなりました。

 『大失敗』創刊号は、京都文フリ後も赤井と左藤の手売りを中心に少しずつ売り上げを伸ばしておりましたが、やはり遠方にお住まいなど様々な理由で買えないという声も多数いただきました。

 そこで、Twitterの方ではすでに告知させていただきましたが、このたび、通販を開始いたします。お待たせいたしました。

 下記のフォームから必要事項をご入力ください。

 👇

『大失敗』創刊号 通販窓口

 

 現在の「大失敗」は充電期間に入り、二号に向けてそれぞれ必要なインプット作業や議論を行っている状態です。『大失敗』は一年に一度のペースで刊行する予定ですが、当然文章を書くには読まなければならないわけです。また、その一環として「大失敗読書会」も行っております(参加募集は締め切っています)。

 「大失敗」の動向は全体的にスローなので驚かれることもあるのですが、また徐々にブログも更新していきますので、「読者になる」を押していただくか、Twitterをフォローしていただければ幸いです。ご感想もハッシュタグ#大失敗創刊号 でお待ちしております。

 また、二号に寄稿していただける方を募集しております。何か書いてみたい方は一度ご相談ください。TwitterのDM、メール(daisippai19@gmail.com)まで。

 

 それでは、また近々なんらかのご報告ができるかと思います。よろしくお願いいたします。

 

(文責 - 左藤青

 

 

▼フォームの説明。

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「大失敗読書会」開催!

 こんばんは、「大失敗」です。一月は、文フリ京都、神戸大での赤井浩太イベントなどお世話になりました。一通りの行事が終了し、「大失敗」としては次へ向けての準備期間に入っています。

 様々なことを企画しているのですが、その第一段階として、読書会を開催することになりました。参加者を募りたいと思います。

読む本・読書会の仕方

 「大失敗読書会」は、「大失敗」運営の三人がそれぞれ選んだ本を順番に読んでいく形式で行います(二週間に一度〜月一、スカイプで実施)。対象は小説・評論・哲学などなんでもありですが、内容のテーマや問題意識などが、それとなく一貫するようになっています。

 一周目が、エドガー・アラン・ポー「群衆の人」(しげの選、新潮社『モルグ街の殺人・黄金虫』所収、巽孝之訳)→ジャック・デリダ「人間の目的=終わり」(左藤選、法政大学出版局『哲学の余白・上』所収高橋允昭・藤本一勇訳)→未定(赤井選)となっています。

 

 読書会のやり方・回数も選者が考えるので、それぞれで異なります。しげの選「群衆の人」はそれぞれが精読してきて批評しあうという形式。1〜2回での終了の予定です。一方、左藤選「人間の目的=終わり」では、参加者のみなさま(あるいは何人か)にレジュメを作ってきていただきます。

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▲どっかのカルチャークラブみたいな告知

参加する場合

・日程はその都度相談しますが、基本的に金曜晩の予定です。

・参加する際は、一周分は全て参加していただきます。できるだけ積極的に。

・毎回、その報告・感想・総括を左藤に提出していただきます。(「大失敗」三人が目を通します。ブログで掲載する可能性あり)

・人数が多すぎると読書会として成立しないので、人数は最大四人までとさせていただきます。仮に参加希望が多すぎる場合は抽選になります。

・参加希望者は、TwitterのDM、メール(daisippai19@gmail.com)、運営三人への個人的な連絡などでご連絡ください(参加希望は二月十二日まで)。

・そのほか、ご不明な点・ご要望なども上記の連絡先まで。

 

さて、批評的知性の復権のために、様々なことを学ばせていただければと思っております。みなさまからのご連絡をお待ちしております! 

 

(文責 - 左藤青) 

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京都文フリ終了/今後の予定

 1月20日みやこめっせで行われた文フリ京都でしたが、無事終了いたしました。ご来場いただいたみなさま、ありがとうございました!

 ありがたいことに『大失敗』は予想よりもたいへん盛況でした。今後さまざまな場所に販売しに参りますので、今回来られなかった方々は「大失敗」ブログやツイッターでの情報をお待ちください。

 

 現在、『大失敗』創刊号は、以下のいずれかの方法で購入できます。

(創刊号内容紹介についてはこちらをご覧ください)

 

① 左藤青あるいは赤井浩太から買う

 現在、『大失敗』の在庫は左藤(京都)か赤井(神戸)が管理していますので、近郊のかたはご連絡いただければ入手可能です。ご連絡はTwitterのDM、メール(daisippai19@gmail.com)などで受け付けています。

新潟県で手に入れる

 『大失敗』のしげのかいり、もしくは小野まき子から、新潟駅周辺で購入できます。ただしこちらは数量の関係で予約制になります(一月三十一日まで)。

③ 神戸大のイベント(三〇日)で買う

 一月、赤井浩太が「すばるクリティーク賞」を受賞しました。その関係で、神戸大でイベントが開催される運びとなりました。左藤青も参加予定です。こちらでも『大失敗』即売会があります。

  

 以上となります。現在、関西以外では入手が難しい状況ですが、通販など現在検討中ですので少々お待ちください。随時連絡させていただきます。

 

 また、読書会・イベントなど、新しい企画もいろいろと模索中です。二月には皆様に周知いたしますので、今後とも「大失敗」をよろしくお願いいたします。

 

 それでは、どこかでみなさまとお会いできることを祈っております。

 

 

(文責 - 左藤青

 

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『大失敗』創刊号 巻頭言(左藤青+しげのかいり)

《現実≠現在》へ

 もうひとつの〈前衛〉と「大失敗」のために

 

 現代日本に幽霊が出る——「批評」という幽霊である。

 「批評」はしばしば「アクチュアル」な問題に対応すると言われる。学問・研究(=アカデミズム)が「すでに死んだもの」の死体検分にすぎず、つねに「遅延」をはらんでいるのに対し、「批評」は、生き生きとした「思想」であり、「生きた自由な言葉」であり、目の前にあるその都度のコンテンツ、その都度の〈現実=現在アクチュアル〉に対応し、あるいは対抗していくのだとされる。「批評」と「研究」はあるときには共同し、あるときには敵対するが、それらはそもそも別のものとされている。

 その定義自体はそれほどおかしいものではない。私たちもまた、ある種の「研究」のためにこの本を書いたわけではなく、ある意味で、現実をよりよく理解し、よりよく批判するために書いた。けれども、そもそも私たちにとって〈現実=現在アクチュアル〉は、それほど自明のことではない。ここでこう問わなければならなくなるのだろう。すなわち、アクチュアルactual=顕在的なものとは何か? と。

 けれども、こうして語り出しているとき、私とあなたはすでに、一つのわなにとらわれている。この段階へと躊躇なく突き進んで行くとき、批評はたやすく、一個の哲学的「闘争」へと変貌してしまうだろう。すなわち「〈現実=現在アクチュアル〉とは何で〈ある〉か」という本質=存在論に、そして「真の〈現実=現在アクチュアル〉とは私たちの言うところのものである」という定義の「闘争」に。だが批評はかつて「学の王」であった哲学でも、「存在の家」であった詩でもなく、したがってひとつの「闘争」ではなかった。これまでの歴史の中で、批評はつねに「婢女」であり、存在から遠く離れた散文であり、《異化》であり、ひとつの「逃走」であった。

 では、なぜ我々は存在から「逃走」しているのか。それは「反日武装戦線〈狼〉」による「三菱重工爆破事件」から逃れるためである。

 

 たとえばジル・ドゥルーズは、『ニーチェと哲学』(一九六二)の中で、ニーチェを読解しながら「解釈とは計量である」と書いた。カント以来の批判クリティー(=「批評」)を貫徹することとは、ある現象の意味をいま占領している力のバランスを計量し、その力の「高次の度合い」を見極め、そこに介入することなのである。介入することができるのは、そのピュイサンスが最大の値を取るときである(ニーチェが自らの仕事を「系譜学」に位置付け、ギリシャ哲学を読んだのは、それこそが哲学にとって「高次の度合い」を取ったときだったからだ)。

 その点で、反日武装戦線〈狼〉が起こした事件はきわめて批評的だった。当時の新左翼の「反帝・反スタ」が無自覚なナショナリズムに基づいていることを彼らは「計量」し、それを否定したからである。

 この事件は、当時の「闘争」する主体である新左翼——日本の批評家を含めた——に対する痛烈な批判として機能した。新左翼の論理には、帝国主義戦争を戦う環として、そもそも「日本」が自明のものとして想定されていた。むろんこの認識には無自覚なナショナリズムと土着性が否応なく刻み込まれている。この土着性を批判するロジックこそが「反日武装戦線」だったのである。この「反日」というアンチテーゼには、日本という存在の根拠を問う、ラディカルな問いが含まれていた(だから、「アクチュアル」なものとは「反日武装戦線〈狼〉」である)。

 ドゥルーズによれば、「計量」はつねに、その批判者の〈生の様式〉や〈存在の仕方〉、すなわち「実存」を反映したものとなる。反日武装戦線〈狼〉がこのように「反日」を掲げることで、いわば日本にとって存在論的ともいえる問題を提起できたのは、彼ら自身、新左翼の無自覚なナショナリズムナルシシズムの力を「計量」できるほどにその問題に自覚的であり、その問題提起が彼らの実存に根ざしていたからである。

 しかしもちろん、この問題提起はひとつのディレンマに陥る。日本人が「日本」を否定し「闘争」したとしても、そこには「日本人の死体」が積まれるだけで、「日本人」でなくなるわけではない。このディレンマから、必然的に「闘争」は特攻隊的な精神主義と自滅に向かわざるをえないだろう。私たちは反日武装戦線〈狼〉の、「反日」という存在論的・根本的な問題提起の正当性を認めよう。とはいえ「反日」のラディカリズムとテロルによって「日本人」の死を夢見ることは、私たちにはもはやできないのである。

 それでは、私たちはどこへ行くのか。

 

 ところで、「前衛」とは、かつての新左翼によって切り捨てられたジャーゴンである。マルクス・レーニン主義は、「前衛」を掲げる自分たち左翼こそが「アクチュアリティ」を持ったものであり、それに対して西側諸国は愚劣な後進国にすぎないと認識していた。この「前衛」を批判したのが、かの吉本隆明である。吉本は、前衛を主張した共産党は「大衆の原像」を喪失しているとして批判した。吉本の批評は、全体主義化してしまった前衛党による統制主義、いわゆるスターリニズムの「大失敗」を批判し、返す刀で「アクチュアル」なもの、すなわち「大衆」を持ち出すのだ。

 もちろんこのような吉本的・新左翼的な「前衛」批判には、見え透いたレトリックが隠されている。実のところ、吉本や新左翼が持ってくる「大衆」や「反日」は、前衛に対立する「後衛」ではなく、前衛を差異化した別の「前衛」だったのである。吉本的な批判は、それ自体「前衛」の反復に過ぎず、「前衛」から離れることができたわけではない(むろん、「エリートを批判して生活者を擁護する」この吉本的批判は、今なお力を持っている)。私たちはテロルの悲劇からも、吉本的なレトリックからも遠く離れて、いまいちど〈前衛〉アヴァンギャルドの方へ赴いていくことにしよう。

 私たちはこの〈前衛〉という語を用いることで、「アクチュアル」というあまりに多義的な言葉に、差異を導入したいと思う。〈前衛〉は、このイコールの上に逃走線=抹消線を引き(〈現実≠現在〉)、隊列を構成するための、もっとも「ニューウェイヴ」な、かつ、もっとも古い標語である(実際、歴史的に見て、批評はつねに、このある種の懐古趣味を披露してきた。批評が「幽霊」だとすれば、それは「再来霊ルヴェナン」なのである)。

 実際、私たちは、もはや〈現実≠現在〉すなわち「ポスト・フェストゥム」(「後の祭り・祭りの後」)を生きているのであり、生き生きとした〈現実=現在アクチュアル〉を生きてはいない。木村敏はこの「ポスト・フェストゥム」を、「躁鬱病」的心性だと述べた。実際、「現代人」は存在論的に鬱病である。終わってしまった現実を生きている現代人に、「現在」など存在しない(あるのは過去だけである)。過去の失敗の訂正不可能性を生き続ける人間にとって、さまざまな「アクチュアル」な学問や芸術や技術たちは、せいぜい対処療法くらいのものである。たとえば『ゲンロン4』で東浩紀はいみじくも「批評とは病」であると述べているが、私たちはここで東のまったき正しさを認めなくてはならないだろう。この「病」とはここでいう「鬱病」だからである(それは最近の東の様子を見てもあきらかだ)。ところで、批評は「患者」の増殖を目指すゲームだった。

 ちなみに、東浩紀が正しい点はもうひとつある。東が、近視眼的=非思想的なリベラルを批判し、「思想」とは長期的に耐えうるものでなければならないと述べるところである。前段までの事情で、私たちはこの東の指摘にまったく同意しなければならないだろう(ただし、東がそうした「愚痴」を言う際にカントやヘーゲルのような哲学を引き合いに出すのに対し、私たちはそこに「マルクスの亡霊たち」という〈前衛〉を見るのではあるが)。

 私たちは悲劇的なテロル=闘争を回避する、喜劇的「逃走」(「大失敗」)として〈前衛〉を標榜する——けれどもそのとき同時に、ある「知性」の持続を、継続的に運営することが可能な「党」の復権を目指さなければならないはずだ。〈前衛〉を標榜し、かつ持続させるために、私たちは批評的知性を信じよう。東のプロジェクトは、いかに「成功」しようとも、持続しえた試しがない。これは本質的な問題である。

 

 最後に、「大失敗」という、わざとらしく笑いを狙って場を白けさせているようなこの「名」について触れておこう。この名を人がどのように解するかについて、私たちは特に語ることがない。けれども確かなことは、この名前をつけた直後から(つまり私たちがまだ一冊も本を出していない段階で)いくつものリアクションがあったということである。あるときには、その名は神経を逆撫でする「逆説」として読み込まれ、あるときには何かのギャグとして、あるときにはかえって勇気づけるものとして(なぜか)読み込まれた。そしてこの言葉は、しばしば安易に用いられる。「日本は大失敗だ」、「私が大失敗だ」、「あいつらは大失敗だ」と。

 むろん、ただの名詞を何に用いようが自由である。誰であれ、この名を道具としてたやすく用いることができる。「『大失敗』こそ大失敗ではないか」と、誰でも思いつく皮肉もあったようだ。しかし確実なのは、ごく単純に、「大失敗」があまりに「広告的」な言葉であり、使用者の手に馴染んで、どのような対象に対しても用いられうるということである(ここに、ある凡庸な「手癖」がある)。この「広告」こそ、まさに反復される〈前衛〉だった。そのとき彼らは自由に話しているつもりで(「シラケつつ」)、実はその手元の広告的言辞の使いやすさに「ノって」、束縛されていたのではなかったか。

 

 私たちに必要なのは「生きた自由な言葉」なる、ブルジョワの玩具ではないし、私たちがそのようなものを持ちうるはずもない。ここにあるのは、『神曲』の如きカノンによって構成される「不自由な」言葉の敗走であり、陰に陽に永続し続ける階級社会に対する、「たたかうエクリチュール」である。


 

 

(文責 - 左藤青しげのかいり

 

『大失敗』創刊号は二〇一九年一月、京都文フリ(@みやこめっせ)にて発売。(出店:こ-38。入って奥の左側)

 

 本誌内容紹介

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