批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」な批評集団。https://twitter.com/daisippai19

『大失敗 Ⅰ-2 特集「からだ」―― 身体・国体・文体 ―― 』内容紹介

人は全員で語ることはない。語るのはいつも一人だ。一人が任意の他者に語りかけるときに批評は始まる。少なくとも小林秀雄はそう考え、批評それ自体を定義し悪戦苦闘すること自体を芸に昇華することで己を賭けたのだ。絓秀実の存在。それは僕たちが社会や世界を批評する文体を喪失してしまったことを意味している。というよりも忘却してしまっているのだ。

(しげのかいりによる巻頭言本文より)

 「大失敗」本誌、ブログ記事の読者のみなさま、平素よりお世話になっております、批評集団「大失敗」運営の袴田渥美です。私の名前にそれほどなじみのない読者の方々もおおいかと思いますが、今回は「大失敗」本誌第二号の紹介記事をお送りいたします。

 COVID-19の流行とそれに伴う自粛要請、緊急事態宣言など、たいへんな騒動のただなかで、私たちが「大失敗」本誌第二号の出品を予定していました第三十回文学フリマ東京は中止となり、ある種の批判の対象として仮想していた東京オリンピックも延期となりましたが、時期だけは当初の予定通りに、『大失敗 Ⅰ-2 特集「からだ」―― 身体・国体・文体 ―― 』を5月より刊行することといたしました。

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 詳細は未定ですが、郵送販売、手売りなどによる販売を構想中です。購入方法に関しましては、適宜、Twitterアカウント(@daisippai19)や本ブログなどにて告知していきますので、どうかよろしくお願いいたします。

 

※2020/05/22追記:販売開始いたしました。

daisippai.hatenablog.com

 

 さて私たち「大失敗」の今号での特集は「「からだ」 ―― 身体・文体・国体 ―― 」と題されていますが、この「からだ」とはいかなるものでしょうか? 私たちの考えるところの「からだ」についてさしあたりの補助線を引くために、まずは手近な辞書から語義を引いてみましょう。

corps【kɔːr】n.m. ①(a)身体, 肉体.(……) (b)姿, 姿勢.(……)(c)体格.(d)1)胴体(……) 2)(よろいなどの)胴.(e)人間、やつ.(……)(f)屍(しかばね),死体(=~mort)(……)②(a)【化・物理】体(たい), 物体.(……)(b)~céleste 天体.(……)(c)avoir du~ 1)(布が)丈夫である 2)(酒が)こくがある 3)(たばこが)香高い(……)③〘物の主要部〙(……) ④(a)〘人の集団〙(b)【軍】本隊. (c)1)集, 大全. 2)(教義などの)全体

(『スタンダード沸和辞典 増補改訂版』、大修館書店、1975年)

  これでもまだなにか曖昧模糊としている、あまりに多義的すぎて、いくら辞書を繙いてみても、例文を探してみても、「からだ - le corps」という語は、その身近なひびきに反して、明瞭な像であるとか、一意的な指示関係をむすぶにはけっしていたらない、そのような感覚は、おそらくこの語を前にして誰もが共有するものなのではないでしょうか。

  それは私たちの意識の操作のもとにありながら、やはりかたい抵抗をともなう物体でもあるような「身体」であり、あまりにも自明のものとして名指されながらもいわく説明しがたい書かれたものの「からだ – 体」、「文体」であり、「人の集団」としての語義に形容詞を付加した「国家 - corps politique」の、その「からだ – 体」、「国体」でもありうる …… 。そしてまた、この名詞「からだ - le corps - 体」から派生する「身体・文体・国体」という語もまたおなじように、それと名指しがたいけれども確かに私たちに逃れがたくつきまとっているようななにかを指していて、やはりどこまでも消化しきれない感触だけが残ってしまう。

  私たちが『大失敗 Ⅰ-2 特集「からだ」―― 身体・国体・文体 ―― 』において批評しようと試みるのは、まさにこのこと、いわく言いがたいものでありながらしかし厳然と私たちの前に(あるいは手前に)ある「からだ」の奇妙なステータスであり、そのことから生じる現象や言説の錯綜であると言うことができるでしょう。

  まず私たちの試みの簡略なアウトラインを引いたところで、それでは本号に収録されるコンテンツの紹介へ向かいましょう。記事は以下のように集成されています。 

巻頭言 しげのかいり

カミュは逆説的な倫理を説いている。もしも不条理に抗いたければ不条理をなんらかの世界や個人を超えた理論に代入するべきではない、と。ムルソーは受け入れながらもある意味で抗おうとしているのだ。かかるムルソーの立場こそ批評の立場に他ならない。対象を見据えたとき、我々は対象を見据えているのではない。対象を測ろうとする自らを見ているのだ。小林秀雄が書いた「批評精神」を生きていたのがムルソーである。そしてこのムルソーの立場が倫理的であると同時に美学的なものだということもできるだろう。僕たちはあくまで個人で生きるしかない。だからすべての思考は個人的な美の範疇を抜け出すことができない。しかし個人の美から生まれてくるものこそ不条理に抗う倫理なのである。

(しげのかいりによる巻頭言本文より)

 まず、私たちの雑誌にあたえられた理念としての巻頭言を紹介しましょう。しげのかいりによる提言は、なぜいま私たちが語られたものの、あるいは書かれたものの「からだ」、文体について語ることを試みるのか、あるいはなぜいま私たちが、アカデミックな研究の言語でもなく、読者に理解しやすい思考の安息あるいは高揚をあたえてくれる政治の言語でもなく、ある種私的で、美学的なこだわりと彫琢をともなった批評の言葉をもちいるのかを示すものです。

 このことを要請するのは、ある倫理的決定にほかなりません。他者と語りあうとき、あるいは対象をとらえるそのときの、自己の不安定な在り方を容易に解消してしまわないこと。不条理な、あるいは倒錯的なものでさえありうるなにかと(誰かと)向かいあった際の緊張を消し去ってしまわないこと。そのために私たちは批評の言葉を選びとるのであり、この個的な不安と緊張を表現し、読者の思考を試練にかける「文体」こそが、逆説的に他者との対話へと開かれたものでありうることを期待するものです。

 しげのの巻頭言は、この批評の倫理とも言うべきものを提示するものですが、これは私的でありかつ美学的なものとしてのフィクションを擁護するものでもあります。六八年革命の政治的提言の核心は戦後民主主義の欺瞞、あるいはフィクションを否定的に乗りこえることであったとひとまず理解するなら、それは他者との対話の可能性を閉ざし、上述したような個人的で美学的な、批評的な「文体」の倫理を見逃すことであったと言わねばなりません。しげのの巻頭言はこのことから、三島由紀夫の「言論の自由」へと向かうでしょう。

従って、僕たちが回復するべきは「戦後」を解体する「政治」の言葉ではない。僕たちが回復するべきは個人的な美を語ることで他者に開かれる「憐み」と「みやび」といったフィクションの言葉である。この言葉を三島由紀夫は「言論の自由」と呼んだ。我々は今こそ「言論の自由」を思い出さなければならない。たとえそれが「戦後」を肯定する極めて保守的な立場だったとしても、である。

(しげのかいりによる巻頭言本文より)

特集「「からだ」 ―― 身体・文体・国体 ―― 」

赤井浩太「スポーティング・ボディ試論」(批評)

スポーツを言語化することにおいて、「趣味の言葉」ではなく、「専門の言葉」でもないような、世界に拓かれた「批評の言葉」というものは果たして可能だろうか。

このアナロジーを続けると、こうした身体の分裂は二種類のコードによって規定され ていると言えるだろう。今福龍太の言葉を借りて言えば、そこには記述された「脱文化的なルール」や「市場原理」に適合しようとする「de-scribe」的な身体と、ある固有の「環境」や「情動」が刻み込まれている「in-scribe」的な身体という二面性がある。すなわち「スポーツする身体」とは、商品であり、文化でもある、グローバルであり、ローカルでもある、個人主義的であり、共同体主義的でもあるのだ。

(「スポーティング・ボディ試論」本文より)

 「スポーツする身体」とは、先ほど私が描きだしたような「身体」の言表しがたいステータスのひとつの極限にあるものだと言えますが、批評家・赤井浩太の論考はこの身体の極限状態に切りこむものであると言えるでしょう。この私のひどく個人的で、それ自体としては分有不可能な記憶や過去、あるいは身体操作における技術の堆積する場でありながら同時に、観客にまなざされ、グローバルな市場のなかで取引され、消費される商品でもあるような「スポーツする身体」。

ドリブルする「牛」であるリュウジは、迫りくる「死」を躱して新たな「生」を掴んだ。まちがいなくそうだ。このゴールを契機にしてリュウジはサッカー界のスターダムを駆け上がっていくだろう。しかしそのシュートを放つ瞬間に想起される「父の承認」と「故郷の記憶」に、やはり身体の分裂を見ないわけにはいかない。

このように透徹した「技術」が、しかし「物語」を呼び込んでしまうところに格闘技の逆説がある。そこで「技術」の功績は無化される。あとはお決まりのパフォーマンス、コーナーポストからの宙返りである。だが、お話はこれで終わらない。ロープを蹴って跳ぼうとしたとき、武尊は片足を踏み外し、ジャンプに失敗して落下してしまう。会場がどよめく、実況はまた叫ぶ「もう一回!もう一回!」と。ぼくたちのアイドルよ、飛んでくれ。

(「スポーティング・ボディ試論」本文より)

 赤井自身がかつてその「スポーツする身体」をもつ誰かであり、スポーツというものについてそれなり以上の思いいれをもつがゆえに可能になったとも言えるこの論考は、少なからずエッセイ的な響きを伴いながら、野沢尚の手になる小説『龍時 01 - 02』と、K-1選手・武尊を批評していきます。この「スポーツする身体」において、なにが現れ、なにが可能になるのか。赤井の「批評の言葉」はただ身体の特殊な様態を記述することにとどまらす、あるフィクショナルな次元、スポーツ選手の身体における臨界点にまで踏みこんでいきます。

左藤青 「建築は「不気味」たりうるか? ―― 《新国立競技場》をめぐる建築的強度」(批評)

「建築思想」は、⾔説の中で不気味なほどの特権性を持ってきた。おそらくそれは誰もが建築を必要とし、そこにすでに住んでしまっているという当たり前の事実以上のものを含んでいる。建築思想の特権は、「建築」という隠喩の特権性に関わる。それは対象を⽴てる(=建てる)はたらきそれ⾃体の謂として、私たちの思考に深く関わるからである(カントは純粋理性の建築術について書いていた)。だからいかなる「建築思想」であれ、具体的な建築物についての批評めいた⾔説(レビュー)や、あるいは建築家による作品解説には留まりえない。それは我々の思考⼀般についてのメタ的・隠喩的メッセージとして機能してしまう。

(「建築は「不気味」たりうるか? ―― 《新国立競技場》をめぐる建築的強度」本文より)

  左藤青があらたに主題としはじめた「建築」もまた、ひとつの「からだ」として、私たちの前にある「表象」でありかつ、同時に私たちが住まうところの「存在」の場でもあるというような複雑なステータスのもとで構成されていると言えるでしょう。それは端的な事実であると同時に、隠喩的な意味においても言えることですが、左藤の論考はこの「建築」なるものの重層的な在り方をめぐって展開されています。来年夏に延期された東京オリンピックの主会場・新国立競技場から始まって、論考は「建築」にとり憑く「不気味なもの」を描出していくでしょう。

「不気味なもの」はむしろ、「家」の内部で、その抑圧構造によって常に変転しうる関数として、ある種の関係あるいは状態、さらには運動として理解すべきである。もはやそれを実存主義にも、精神分析にも還元せぬよう気をつけよう。 抑圧された「存在論的住宅難」は、確かに抑圧されているが、かといって直⾯すべき事実でも回復されるべき⽋如でもない。

(「建築は「不気味」たりうるか? ―― 《新国立競技場》をめぐる建築的強度」本文より)

  これを「批評が「幽霊」だとすれば、それは「再来霊(ルヴェナン)」なのである」との、『大失敗』創刊号の示したテーゼのひとつの実践であると言うこともできるでしょう。

 対象についての分析的な記述と隠喩的、あるいはメタなレベルにある記述が不可分な仕方で伴走していく左藤に特徴的な筆致(創刊号やブログ記事の読者のみなさまはよく知っているものと思います)にとって、多層的な現象・言説を織りこんだものとしての「建築」はまさに最適な対象であると言えます。

本論考ではハイデガーフロイトデリダ、それからホフマン、ポー、中上健次などが呼びだされ、「建築」のこの多層性に応じた仕方で、左藤の今後の問題設定にも開かれたものとしてひとつのテクストを形成していくわけですが、それはこのテクストを読んだ誰かを同じく多層的で「不気味な」思考へと誘うものでもあることでしょう。

袴田渥美 「象徴詩的身体に抗して ―― ジュリエット物語、あるいは思考のレッスン ――」(批評)

マイナーなものを愛する私たちは、絶望しなければならない。さもなければ、かつてたしかに、かすかな可能性を指ししめしていると思われた未知との遭遇が、中産階級のすこしだけ「変わった」趣味を満足させる嗜好品として、わざとらしい感嘆の声のなかへと溶けくずれてゆく様を、手だてもなく見とどけなければならない。

(「象徴詩的身体に抗して ―― ジュリエット物語、あるいは思考のレッスン ――」本文より)

  さて私、袴田渥美の論考についての紹介ですが、自身の書いたテキストについてなにかを書くというのは、少し気恥ずかしく、やはり不思議な感覚になります。この論考は昨年、本ブログに掲載された左藤青としげのかいりによる「加速主義と日本的身体 ――柄谷行人から出発して」(https://daisippai.hatenablog.com/entry/2019/06/14/200000)への応答からはじまり、「他なるもの」、「異なるもの」に賭けた思想家や批評家たち、ニック・ランドや澁澤龍彦らの「大失敗」を批判的に記述していきます。

種村が「吸血鬼の形象」を「多義的なアレゴリー」として描きだすそのときにもまた、私たちはあの身体の象徴詩的性質を想起するだろう。種村自身が供述する通り、それは私たち自身の「神話的形象への投影」に他ならない。「他なるもの」、「異なるもの」との出会いを渇望する私たちは、またしてもここにおいて、鏡にうつった自身の姿を ―― 何度目の失敗なのかをさえも、もはや数え忘れて ―― 見いだすことになる。

(「象徴詩的身体に抗して ―― ジュリエット物語、あるいは思考のレッスン ――」本文より)

  論考はこの自己批判(私自身、マイナー文学と呼ばれる領域を愛してきたひとりでもあります)を含んだ批判と、短絡的に「マイナーなもの」に可能性を見いだしてしまう思考への警告を経て、「からだ」の問題へと向かいます。

さて私たちは、左藤としげのの名指した「日本的身体」にとどまるかぎり、どれほど遠くへ向かおうとも自身の鏡像、人体の形象をしか見いだしえないわけですが、この自己愛的でつまらない思考のスタイルを脱却し、「自分たちの身体の関節を、そして自明となっている文体の流れを脱臼させ」るための手立てをもとめて、論考はマルキ・ド・サドのテクスト、『ジュリエット物語又は悪徳の栄え』を呼びだすでしょう。

 サド侯爵を召喚することは、論旨に反しかねないある種倒錯的な選択であったことを私は自覚していますが、彼のような想像をまったく絶する他者との対話のなかでこそ、自己愛に沈滞することのない倫理的言説の析出を試みなければなりませんし、そこに自身の投影かそれ以下のものをしか見いだしえない「スタイル」の変革を望まなければならないでしょう。この論考の後半はまさしくその点にこそ賭けられています。

てらまえあんじ「老いについて 眠れぬ夜をやり過ごすための夜伽」(エッセイ)

以下は、嚙まれも味わわれもせずサプリメントよろしく呑み下され、最も効率よく、かつ迅速に硬化した脈へと流され、それとして顧みられずにただ惰性のままに病んだ健康に奉仕させられることのないように、という意図のもとでしるされた。わたしは「答え」を与えない、そもそもわたしにはそれがわからない。パッケージ化されたていのよい社会的な文章がお好みとあらば、これを読み進めていくことは大変な労苦を読み手に強いるであろうに、何卒、飛ばしていただいて構わない。

(「老いについて 眠れぬ夜をやり過ごすための夜伽」本文より)

  「大失敗」同人において初掲載となるてらまえあんじの論考ですが、これは同時に、『大失敗』誌のあらたな試みとしてのエッセイの掲載であるということにもなります。しかしこのエッセイとひとまず名指すほかないスタイルは、上に引用したイントロダクションの語るとおり、なにか刺激的な「答え」や、実践的な方途を容易に指し示すようなものでは決してあることのないように選択されたと言えるでしょう。

 ひとびとの身体の崩壊の速度は加速しつづけている。眠りさえ脅かされ、〈老い〉の過程に身を置くなど論の外、気付かぬうちに疲れ切って死んでいる。もはや布では覆い隠せない世界中に穿たれた無数の穴は、そこら中で繋がり始めており、いずれはひとつの穴へ、そのまま世界を陥落させ、世界が裏切られる。それでもこの世界は終わらない。ならば、いかにして誰にも書かれ得ない呪いをこの昏い眼で読み、書くことができるのだろうか。徒労に終わる無益な〈仕事〉をひとは余儀なくされている。

(「老いについて 眠れぬ夜をやり過ごすための夜伽」本文より)

  てらまえの描写する「からだ」、「身体」の様相とは「〈老い〉」であり、それはこのどこまでも活発で健康な資本制にとりこまれた身体から忘却され、排斥された身体の一様相でもあります。論考は丹生谷貴志小泉義之の言説を主に参照しながら、「〈老い〉」の過程におけるどうしようもない無能力のなかで営まれる言葉を「書く」という後期フーコー的な意味での仕事の場を指ししめしてみせることに、このエッセイは捧げられています。

身の熟しを、〈老い〉の様式を、呼吸のリズムを、〈仕事〉をうつし、〈砂浜〉においてしるすこと、それに立ち会うこと。

(「老いについて 眠れぬ夜をやり過ごすための夜伽」本文より)

 あるいはだから、このエッセイ自体がそのような「仕事」のひとつの実践として成立していることも付言しておくべきでしょうか。このエッセイのスタイルそのものが、「身体」と切り結ぶ「文体」の問題を顕示していることもまた、この論考から看取されるべき特質のひとつであることでしょう。

吉永剛志高瀬幸途という"歴史"」(エッセイ)

2019年4月24日、高瀬幸途が大動脈解離で死んだ。私にとっては兄貴分だった。本当に悲しい。むこうも弟分として遇してくれていたと思う。いろいろ世話になった。親しい間柄だったと思う。私の2017年4月の結婚パーティのときは、「吉永君は風来坊。どこから来てどこに行くのか分からない。私の娘とは結婚させたくない」とスピーチされた。おいおい、アンタにだけは言われたくないよ、と思ったものだ。

(「高瀬幸途という"歴史"」本文より)

  吉永剛志による寄稿もまた、そらまぎるに続いてエッセイとして収録されています。ただしそらまぎるの論考が、ある種の思考の表現としてのエッセイであったとすれば、こちらは筆者の私的な思いいれを交えた歴史の証言としてのエッセイとして書かれたものです。

 このエッセイの主要な登場人物、昨年、逝去された高瀬幸途氏についての筆者の記述は、60年安保闘争、68年の学生運動ビートたけしや『批評空間』誌の時代をつくった太田出版柄谷行人によるNAMの結成と解散、それからそれらに付帯する様々な出来事、事件について語りながら、故人の思い出を歴史のなかへと位置づけていきます。

例えば東大紛争の基調である反・産学協同路線も解放派由来のものだ。法政大学に入っても高瀬さんと永井さんは一年生でもう中核派を理論的には圧倒し、よく二人で中核派をおっかけていってオルグしようとして逃げ出されていたそうだ。接触を避けられた中核派の中には同世代の糸井重里もいたという。(……)このようにこの永井・高瀬のコンビは煙たがられていたから10・8羽田の前日、全国からの動員できていた他大学生の中核派に朝からなぐられたというわけだ。

(「高瀬幸途という"歴史"」本文より)

 なによりこのエッセイの魅力は、種々様々なトピックのなかで描かれる高瀬幸途という人物の少なからず破天荒で、けれども敬愛の情を抱かずにはいられない姿であり、彼の「弟分」であった筆者の敬慕のにじんだ筆致であると言えるでしょう。

 また同時に、この貴重な歴史的証言が私たちの雑誌に収録されることには重要な意義があることも強調しておかなければなりません。単線的で図式的な歴史観に尽くすことのできない68年当時の若ものたちや、それぞれの時代を画した書き手たち、現在進行形で試みられている運動のなかにいる人々についての稀な証言として、批評の政治性、歴史性を語る私たち「大失敗」同人はこのエッセイを迎え入れることとなりました。 

しかしこの噂話に出てくる言葉のなかには、様々に毀誉褒貶がある言葉が多々あるので、この同人誌の編集部の要請もあって、若い、初めてその言葉を知る人にむけての如く丁寧に説明する。冗長であるがお付き合い願いたい。そして大事なのは過去でなく、もちろん今現在である。

(「高瀬幸途という"歴史"」本文より)

環原望 「わたしの部屋のなかで」(小説)

居間の本棚のいちばん下におさめられた古いアルバムを見つけたのがいつのことだったのかもう思いだすことはできないけれど、ぼくはそれをそっと棚から抜きだして二階にある自室に持ち帰ったのだった。たしか夜のことだっただろう。アルバムは両手で持たなければならないほど重厚で、表紙は日に焼けたように茶色くなりところどころ黴が生えてさえいたからどれくらい昔のものなのか想像することさえ難しく、ひらいてみるとその本にはぼくの家族の歴史が年代記のように収められている。

(「わたしの部屋のなかで」本文より)

 『大失敗』二号には、小説も収録されることとなりました。環原望の「わたしの部屋のなかで」は、本誌のために書きおろされた掌編ですが、その「からだ」、文体がまず目を引くことでしょう。

絡み合った植物をモチーフにした図柄を繊細に編み込んだレースのついた白く裾の長い衣服をひらひらとなびかせるあなたの足取りは軽く、泡の飛沫と戯れているようにも見え、というよりもむしろ濃紺の海面を覆う白波が、さあっという音を立てて寄せてはまた退いていく動きのほうが、あなたのあしうらが柔らかい砂を踏む軽やかなステップに合わせて行われるゆるやかな舞踏だったのではないでしょうか。もちろん、あなたについてなにひとつ確かなものとして語ることはできないのですが、いくつかの写真に光学的に焼きつけられ、今ではほとんど失われてしまった出来事の残滓から想像された夜のなかにいるあなたに向けて語りかける言葉がこのように語るのです。

(「わたしの部屋のなかで」本文より)

 ヌーヴォー・ロマンを想起させるような長いセンテンスとパッチワークのようにところどころに挿入されるメモ書きや挿話がこの小説の特徴ですが、そのようにして描きだされる語り手「ぼく」の身体は、明瞭な像を結ぶことなく記憶や出会ったこともない誰かとまじりあっていくでしょう。

いえ、服そのものがあなたの痕となって陥入してくるのだと言うべきでしょう。あなたが陥入しています(ここにあるのはもはやわたしではないのです)。

(「わたしの部屋のなかで」本文より)

 長く蛇行する文体に沿って描かれた「からだ」は、語り手の身体の輪郭をぼやけさせかつ変形させていきます。小説について適格なしかたで語るためにはよりおおくの語を費やす必要がありますが、さしあたりの紹介はここまでとなります。あるいは、この小説が読者のみなさまのなかから「批評的」言説を引きだすようなことが可能であれば幸いです。

藤原有記 「内外科」(マンガ)

「先生頼みます / 一刻も早くなんとかなりませんか」

(「内外科」セリフより引用)

 こちらも『大失敗』二号からのあたらしい試みですが、本誌デザインを担当している藤原有記による小品マンガ作品も収録されています。「からだ」とは、言説のなかで問題化される対象でありかつ、視覚的表象においても重要な主題であると言えるでしょう。

 さしあたりマンガにおいて「身体」を描くということについて補助線を引こうと試みるのであれば、人間の身体自体がそもそもマンガのように複数のフレームによって区切られたものであるということに着目しておくべきではないでしょうか。

 人体の輪郭、顔の輪郭、顔の各パーツの輪郭、それからその他人体に従属する各部位の輪郭などなど、「身体」の像そのものがそもそもマンガ的に構成されていると言うこともあるいは可能でしょう。

 この記事に本誌に掲載される作品をそのまま示すことはできないため、ぜひ本誌を、ということになってしまいますが、藤原有記による「からだ」の表現がいかなるものであるか、どうかご期待ください。

 

 以上、『大失敗 Ⅰ-2 特集「からだ」―― 身体・国体・文体 ―― 』の紹介記事をお送りいたしました。

 私たちの雑誌も二冊目となり、私も含めたあらたなメンバーを加えた誌面をお送りすることとなりました。この「大失敗」という同人が、さまざまな立場、あるいはさまざまな技法をもったメンバーによって構成されているがゆえに、「からだ - le corps – 体」というひとつのテーマについて思考するに際して、やはり種々様々な言説と実践を集成することが可能になったと言えるでしょう。

 しかし私たちは総じてやはり、ある「批評的知性」への信頼から結集された「批評集団」であることにもまた、ひとつのアクセントを置いておかなければなりません。創刊号から始まったある「知性」の持続が、こうしてあらたに、私を含む誰かを誌面に集めたのであるとすれば、『大失敗』二号もまたおなじように、ある「知性」を誰かに憑きまとわせ、読むこと、書くことへといたらせうるものとなることを私たちは望むものです。

 さしあたりはまずあなたがたの「からだ」、身体に、あなたがたの語り口や筆致の体であるところの「文体」に、それからあなたがたの住まう家であるところの「国体」に、遠まわりに介入しようと試みることから私たちははじめましょう。もしもあなたがたが、いまあるところの「からだ」にこれまでのような仕方で憩っていることができなくなったのであれば、私たちの目的はひとまず達せられたことになるでしょう。そのときにはどうか、私たちへの応答をいただければ幸いです。

 

文責:袴田渥美

 

 

 

 

 

 

大失敗のRadio-Activity第十四回「『大失敗』2号発売と謎の男」(ゲスト:袴田渥美)

第十四回

 

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2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太と左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。

一ヶ月ほど前、かねてから準備してきた『大失敗』第1期第2号がついに発売致しました。

 

daisippai.hatenablog.com

 

すでに多くの方から反響をいただいております、ありがとうございます。こちらについて、「大失敗」同人メンバーである袴田渥美と左藤青で話しました(今日は赤井浩太が多忙のため欠席)。「謎の男」袴田さん自身のプロフィールにも迫る内容になっております。

(以下から『大失敗』が購入できます)
https://daisippai19.booth.pm

 

パーソナリティ:左藤青

ゲスト=袴田渥美

編集・BGM:左藤青

 

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革命、抗い、生きてなお――アルチュセールの闘争のエクリチュール

「革命、抗い、生きてなお――アルチュセールの闘争のエクリチュール」(早良香月

抗え。

 「革命」という言葉を、今我々はどのように捉えるべきだろう。『共産党宣言』の冒頭の「共産主義という亡霊が西欧をうろつく」という文句を、マルクスになぞらえつつ現代的に反転させれば「資本主義という怪物が世界をうろついている」、とでも言うべきだろうか。括弧つきの「共産主義」、ユートピア的共同体、あるいはそれを目指すための「プロ独」蜂起は、グローバリゼーションという連帯に見せかけた分断、あまりにも残酷な分断によってもはやほとんど説得力を持たない。日本で言えば安田講堂事件のような「全共闘」の時代、日本のレフティにおいてもっとも陰惨な歴史の一つである連合赤軍によるあさま山荘事件、フランスで言えば五月革命、など。それらの戦後の「革命」を目指す運動は――「過去の反復」、「革命神話」と成り果てている。反復される暴力を、果たして「われわれ」――この極めて暴力的な一人称複数には、もちろん「あなた」が含まれているのだ――がことが終わった後に「あれは革命だったことになっていた」と素朴に言明することは、「われわれ」の希望する変革と照らし合わせて、許されていいのだろうか。さらに言えば、これらは本稿で軸として取り上げる哲学者である、ルイ・アルチュセールに言わせれば、それは革命ではなく単なる「出来事」であったのかもしれない。21世紀に入り、世界が人ならざるものによって「一緒にいてはいけない」という身体的現前による連帯の否認を受け入れざるを得なくなっている今(そして今の状況は抜本的にシステムを攪乱するものではなく、デザインが変更されるだけである)、再度世界の変革可能性を理論的に考え、そして構築していく必要がある。

 この一万字強の文章で筆者が主張することは端的に言ってこういうことである。「革命とは、既存システムの破壊と再構築を目指すすべての闘争の運動である」。そして最も重要なことを付け加えよう。「革命とは、あなたがこの世界はすべてクソだと思った時に、最後に残された生きて抗う手段である」。

 第一の主張。単にデモや暴動といったフィジカルな連帯が困難になっていくであろうこの世相が、革命の根本理念が再度見直される機会であると捉えたとき、「そもそもデモや暴動それ自体が目的化していなかったか」、「いかなる状況下において革命が起こるのか」という問題が浮上してくる。politiqueな革命において、一見観念的であっても忘れてはならないテーゼは、「既にあるものを壊して立て直す」ことだ。これは形而上学においても同じことが言える。ジル・ドゥルーズの著書『差異と反復』において、「永久革命」というキーワードがある。それは超越論的に世界の秩序を決定しているカオスが絶えず自己破壊と再構築を繰り返すシステムのことであるが、ドゥルーズの「永久革命」も、アルチュセールの「(マルクスレーニン主義的)革命」も、「革命」という根本理念においては同じくpolitiqueでありactuelなのだ。そして、「来たるべき革命」、すなわち階級闘争の矛盾が極限状態に達したとき爆発的に起こる国際的変動としての革命を「理論的実践」(理論による実践)によって標榜するアルチュセールの思想と言説(ディスクールエクリチュール)は、彼が目撃した五月革命から50年余りを経た2020年の今に生きる我々の眼に鋭い閃光として突き刺さる。そして、アルチュセールの革命における理論モデルの構築は、エクリチュールによる闘争なのだ。「すべての闘争の運動」の「すべて」に、言説が入っていることを忘却してはいけない。絶えざる闘争は今も続いている。革命が「出来事」でも「事件」でもなく、必然的に反復されなおかつ一回的でしかありえないような事柄可能にするのは、批評であり、理論であり、言説である。

 第二の主張。ここで言う「非身体的な連帯による革命」は、一体誰に向けて掲げられているのかあるいは誰が掲げなければならないテーゼなのだろうか。何度でも繰り返すが、革命は変革することを希望し実現することである。のちに述べることになるが、暴力革命といった「出来事」は世界を変えるためなら「死ね」という根本的な考え方に基づいていた。しかし、それでは行き過ぎた保守と行き過ぎた革新(革命)派の辿り着く先は「理想において殉じること」という点で交差してしまう。二つ目に上げたテーゼは、「この世がクソだ」と思った時、最後に残されたサヴァイブの手段として考え、発言し、思考を生の闘いに仕向けるという営みそれ自体が革命を標榜するということなのだ。またしても「わたし」や「あなた」を含意する一人称複数の「われわれ」を用いるならば、「われわれ」は確かにグローバリゼーションだの資本主義だの、そして今度はやれ疫病だのによってどんどんミクロに分断され続けている。とりわけ世界の「世界化」はある種の露悪的なモンド趣味を増長させたに過ぎず、その意味でマルクスが『ドイツ・イデオロギー』で指摘したギルドの大工場化がもたらした資本主義は「世界化」と二人三脚で「怪物」化している。手の付けようがないこの事態に対して、我々(「われわれ」ほど慎重な意味合いでないことに注意してほしい)のようなレフティが「ああ、真の意味での共同体とユートピアは望むべくもないのだ!」と悲観的かつ前時代的に嘆いてみせたところで、あるいは玉砕上等の暴力「革命」(のようなもの)をやってみせ、そして理想に殉じてみせたところで、それは果たして今世紀の革命としてありうべき姿なのか?違う。以下の文章で「革命」を主にアルチュセールの『再生産について』とその周辺のジャック・ランシエールやエティエンヌ・バリバールらのテクストに基づいて、なおかつ直接的には登場しないものの革命思想において重要なマルクスから徐々に離れていきつつ(そして最後はマルクスで終わる)現代的に理論を分析していくが、結局のところ、そういった理論やテクスト読解や言説を通して本稿は何を「呼びかけ」ているのか?

革命や革命のためにすべてのやり方で闘争することは、今この時代において私とあなたが生きて世界に抗うための絶えざる実践と運動である。だから、思考しろ、読め、書け、そして抗え。

 

1.来たるべき破壊のためのモデル構築――革命、哲学、イデオロギー

……革命は今からすでに日程にのぼっている。百年後、あるいはおそらく五十年後にも、世界の相貌は一変するだろう。つまり〈革命〉は地上のいたるところで勝利をおさめるだろう。(『再生産について』、「読者へのまえがき」)

 五月革命フランス共産党員として目の当たりにしながら、1969年1月に書かれたこのテクストにおいてアルチュセールはあまりにもレーニン主義的である。騒擾の60年代、狂騒の70年代を経てグローバリゼーションとマキシマム・キャピタリズムに世界が席捲されるに至る、コミンテルンにとっては一つの「喪失」の時代である80年代以降が始まる。未曽有の大疫病が経済システムを崩壊させようとしている今、アルチュセールのこの革命への意志は奇妙なほどにアクチュアリティを持って立ち上がってくる。期せずして、世界は国家(nation)から社会(society)へとミクロ的に分断され、その統治システムが抜本的に変わろうとしている。革命が起きるのはどのようなときか。なぜ革命は事後的に「あれは革命であった/なかった」と言われるのか。革命への意志は、破壊と再構築への意志である。21世紀において、革命はいわゆる「解放区」を目指すものであってはならない。資本主義のグローバリゼーションを破壊し、全く新たな共同体を目指さなければならない。それは今まさに、マルクスレーニン主義が変奏されているということであり、アルチュセールの革命への強固な意志というものはその変奏を鳴り響かせるべく手に取られたメガホンであるのだ。

 アルチュセール五月革命の後に執筆し、本来であれば二巻立てとして出版されるはずであったにも関わらず73年の「転回」によって未完となった『再生産について』(「生産諸関係の再生産」)は、五月革命を革命以前の「出来事」として位置づけ、革命の「予行演習」であるとし、来たるべき革命に必要な社会モデルと生産関係の諸条件について理論的に構築されたテクストである。基本的に、アルチュセールの念頭に置かれているのは――特に生産関係について述べる際――「階級意識」である。労働者と資本家の間のコンフリクトは60年代前半のアルチュセールから通底するテーマであるが、『再生産』では革命は被搾取側の強烈な一撃や一発逆転によって起こるものとしては位置づけられていない。むしろここで言われている階級意識とは、資本主義と共産主義の相克であり、生産そのものが資本主義的な搾取のやり方に則っている今の状況ではなく、人間の物質的生存に関わって自然に立ち向かうやり方によって生産関係が形作られるべきだ、というのがアルチュセールの主張である。しかし、これだけでは足りない。革命は偶発的に起こるのではない。革命は事後的に必然的に出来事として「起こるべきものであった」ものとして位置付けられなければ、プレ革命/ポスト革命というやり方で運動そのものを思想的に定位する*1地盤を用意しなければならない。アルチュセールは、革命に必要なのは哲学であると喝破する。

 哲学と時代の要請は極めて密接な仕方でリンクしている。このリンクを、アルチュセールはconjoncture(情勢=結合)という二重の意味合いを持つフランス語で説明しているが、具体的にはどういうことか。アルチュセールの言葉を引いてみよう。

〈哲学〉の偉大なる「著述家たち」の大多数にかんしては、実際に、彼らがそのもとで思索し著述するさまざまな情勢 conjonture のなかで、先行する情勢の重要な諸変容を示す、政治的および科学的な出来事の結合を指摘することができる。

 つまり、時代の要請という言葉がアルチュセール的に言って不十分であるとするならば、そこには結合という要素がないからであり、情勢=結合という語によって哲学がなぜ歴史における重大局面において必要とされるのかをアルチュセールは語っている。翻って、であるならば、やはり革命においても哲学は必要とならざるを得ない。例えば、注1において示したように、左派の政治的運動における手法は変革を迫られている。集会、デモ、あるいはよりラディカルであれば暴動といった革命のための運動は、全て身体的現前が前提としてあった。それが外部からの制度崩壊という形で訪れるのであれば(そして外部からの制度崩壊によって「終わりなき日常」がそれでも終わらない/終われないのだとすれば)、これまでとは全く違った運動の在り方が求められるだろう。その際に必要なのは、やはり哲学である。そもそも「理論による階級闘争」である哲学は、本来的に革命、運動のバックボーンとなる思想であることが宿命づけられている――極めてアルチュセール的な物言い。それは形而上学などといった直接は政治に関係していなさそうな分野においても同様である。哲学が現実に関わっている以上現実は哲学に関わっており、革命においては何をかいわんや、である。

 アルチュセール五月革命を間近で見ていたからこそ、社会構成体の構造というものは(無論思想が基盤にあるのは大前提として)極めて重要な問題意識であり、上部構造(国家、法、権力)とブルジョア社会が下部構造である経済によって突き上げられるように社会全体が構築されるという理論モデルを少なくとも60年代前半のアルチュセールは引き継いでいた(cf.「最終審級(経済)の鐘が鳴り響くことはない」というメタファー――「矛盾と重層的決定」1962)。しかし、アルチュセール的に言えば「予行演習」であった五月革命において、彼はそのモデルにおいて決定的に見逃がしていた要素を発見する。それが、「イデオロギー」である。アルチュセールは徹底的にイデオロギーという概念を「社会」単位でアクチュアリティを持つと見なしており、「個人*2イデオロギーの中にしかいることができず、イデオロギーの外部にあるのは科学的認識のみである」と言うようにイデオロギーが内包するある種の空間性と「認識という外部」(=社会的アクチュアリティが失効した審級)を強調している点に注意したい。であるならば、上部構造、ブルジョア社会、下部構造のみによって社会構成体――ここで我々は社会そのものが持つ革命の可能性を忘れてはならない――が成り立っているという結論には着地しないだろう。イデオロギーが介入している。家族、学校、労働、あるいはその中で生まれる哲学を含めた思想、ブルジョア社会の中で起こりうる(起こるどころか既成事実的に「あった」ものとして現前している)現象は、イデオロギーの中でしか/によってしか成り立つことはないのだ。こうなると、イデオロギーという概念を強く押し出したアルチュセール以前のマルクス的社会モデルというものが簡単に図式化できないのだ。アクロバットをするのであれば、ブルジョア社会が事後的に初めから性質として孕んでいたと結論せざるを得ないような要素であるイデオロギーが、ブルジョア社会を上から決定していたと思われていた上部構造の価値それ自体を転覆してしまい、最終審級であり下部構造である経済もまた恣意的に「イデオロギー的である」と言明せざるを得ないのだ。それでいて、イデオロギーは何の決定力も持っていない。ただ社会の性質として、社会を内包するとともに社会の中にあるものだからだ。

 「来たるべき」であると、「すでに日程にのぼっている」と言うのは何故か。我々の及び知らないところで、思想が、イデオロギーが、社会というミクロに分断された「生活」(極めて露悪的な言い回し)の集合体である国家、あるいは世界の水面下で、永い時間をかけて蠢いている。大災厄はきっかけでしかない。破壊と再構築の兆しの光が今明滅している。

 

2.「革命の思想」の自律性——党派的、あまりにも党派的な

 ここで、何故アルチュセールがかくも1章で述べたような「現実的」な革命への意志と社会モデルの新たな実践的構築を迫られたのかのバックボーンをややモノグラフィ的に整理してみよう。そもそも、繰り返し筆者が強調している「60年代前半のアルチュセール」と『再生産について』を書いた1969年1月のアルチュセールはどういった違いがあるのか。1965年にフランス・マルクス主義の潮目は大きく変わった。当然ながらと言うべきか、アルチュセールの代表作である『マルクスのために』と共著の『資本論を読む』が出版されたことによるものである。これらは、アルチュセール自身も、のちのち本稿でも登場するジャック・ランシエールやエティエンヌ・バリバールといった思想家たちからも「理論主義 théoricisme」と呼ばれることになるものである。肝心なのは、この「理論主義」のアルチュセール五月革命以後のアルチュセールの間で何が異なっているのかではなく、何を共有していたのかである。その共通点こそが、彼の思想を支えていたものを解き明かす鍵となる。

 アルチュセールの弟子であったランシエール階級闘争を前提とし、社会の中で起こる「矛盾」を起算点に思想を構築していった師と決別、厳しくアルチュセールを批判することになる。当時の共産党の状況を参照しつつ師を強烈に批判する『アルチュセールの教え』1970において、ランシエールアルチュセールのフランス共産主義への介入への意図を「理論的意図」と「政治的意図」に分けている。「理論的には」、マルクス主義の現代化への反発として「マルクスに帰れ」=「テクスト準拠」を提唱した。しかし、見逃せないのが「政治的意図」で、「共産主義諸党派を揺さぶっていた多様な反対派を前に、下心なしというわけではない共産党への忠誠心をおおっぴらにした」という記述である。また、五月革命について、アルチュセールイタリア共産党員であるマリア・アントニエッタ・マッチオッキに宛てた書簡がいかに「党派的」で「凡庸」なのかをランシエールは指摘する。

「大学生、高校生、若い知的労働者が『五月』の出来事に大衆的に参加したことは、非常に重要な出来事であった。しかしこの出来事は、労働者九〇〇万人の経済的な階級闘争に従属していた」。(引用者注:括弧内マッチオッキ宛書簡)アルチュセールは、従属という観念を用いて読者を引っぱりまわし、煙に巻いて説得しようとしている。(中略)まず、「五月」の運動の成否は労働者にかかっている、ということ。この点について、アルチュセールはジェスマールやコーン=バンディットと違うことを主張しているわけではない。 

 学生や知的階級の革命への参画よりも、「労働者の階級闘争」に革命が「従属」していたと捉えるアルチュセール(しかもランシエールからは五月革命の主要人物――党派的指導者――と言っていることは同じだと言われている)や、思想の立ち上げ時点での政治的意図などから、プレ革命/ポスト革命のアルチュセールの共通点が見えてこないだろうか。そう、彼の思想の立脚点は共産党という「党派性」*3によっている。「理論主義」のアルチュセールも、真の革命を目指すアルチュセールも、基本的には「党派的であること」が理念であると言える。

 そうなると、こんな質問が出てきそうだ。「じゃあ、アルチュセールの革命思想には自律性がないのか?」「思想が思想としての強度を保つには不十分なのか?」――否。というより、アルチュセールが『再生産について』で述べるような強靭な革命への意志と思考はどのように紡がれているのかについて少し考えを巡らせてみれば、「党派的だから思想として自律していない」のではなく「党派的だからこそ思想の自律性が担保されている」ことが分かるはずだ。むしろ、共産党員であり、厳格なマルクスレーニン主義に裏打ちされたテクスト・理論主義のアルチュセールだからこそ、実際に起こった五月革命を「労働者による階級闘争」として位置づけ、69年の『再生産について』で理論主義から実践的な社会モデルの分析と構築に至ったのだ。さらに言えば、五月革命は、アルチュセールにとって「革命」ではなく「出来事」、「予行演習」である。何故そう「言わなければならなかった」のか?厳密なモデルを引いてまで、いわば「前未来的」に、「あの出来事は革命だったとはなっていなかっただろう」式の物言いをしたのか。答えは単純で、彼が極めて厳密なマルクスレーニン主義者だったからであり、矛盾の爆発による国際的変動(「矛盾と重層的決定」)こそが真の革命であるとするならば、やはりアルチュセールの思想は党派的であるからこそ普遍的な強度を持つのである。

 アルチュセールが灯した破壊と再構築の光の明滅を、68年からおよそ50年が経過した今、我々は見ている。しかし、その光は「明滅」だ。灯されては消え、灯されては消え、を繰り返している。その繰り返しは、果たしていつか強烈に我々に光をもたらすだろうか。「繰り返し」が「繰り返し」でしかないのだとしたら。我々は変奏を奏でているのにすぎないのだとしたら。アルチュセールのモデル構築が有効であるとして、別のモデルを導入することによってより現実的に革命の光を見ることができるのだとしたら……。

3.革命は「時間的切断」か「革命神話」か――その一回性に賭けること

 ここで、本稿で、あるいはアルチュセールの言う「革命」というものが、いかなる可能性に賭けられているのかを改めて問うてみよう。第一章で確認したように、革命とは「来たるべき破壊と再構築」に向けての運動である。グローバリズム、資本主義、そしてそれらがもたらすマンネリ化した「終わりなき日常」から、闘争を経て新たな経済システムと世界の共同体の在り方を刷新するべくして、革命は「来たるべきもの」として語られる。かつてマルクスが語ったような共産主義ユートピア(utopia)ではなく、よりアクチュアルなものとして、それはまさに来るべくして来る「会心の一撃」でなければならないはずだ。より実践的に、より現代的に、よりラディカルに、「来たるべき革命」は「来なければ」ならない。「予行演習」の「出来事」であってはならないのだ。

 ――しかし。アルチュセールが『再生産について』で放った革命の光は、「明滅」している。光っては消えることを繰り返している。これではまるで、革命という出来事がただ単に反復しているようではないか。そもそも、革命は反復可能性を性質としてあらかじめ持っている(持っていい)ものなのだろうか。1969年の時点では「来たるべき革命」を標榜し、それが一回きりの出来事であるべきだし、そうなるはずだということがアクチュアルに響いただろうが、2020年に全く別のやり方でWWⅡ以来の世界的災厄によって終わることがないはずの「日常」が完全に機能不全に陥っているのを我々は目の当たりにしている今、「革命」という語が持つリアリティを再度考えなければならない。

 ちょうど4年前の2016年、アルチュセールに最も近かった弟子であるエティエンヌ・バリバールは、革命を「時間」という横のモデルで捉え、「切断」の出来事として革命の一回性を「一過的であってはならない」として強調している。さらに、革命が必然的である(来たる「べき」ものだった)とされるのは、革命が終わった後に「前未来形」、バリバールの言葉を借りれば「必然的だったことになっているだろう aura été nécessaire」という形で「以前」に存在していた矛盾を乗り越えるために事後的に必然的に到来する出来事として捉えた場合であるとしている。

したがって、時間のなかで生じる切断、つまり革命の「前」と「後」の切断と――ここでは「革命」と言うより、持続の如何にかかわらず「革命的出来事」と言うべきかもしれません――、革命前から社会のなかに存在し、革命を招来する分割ないし矛盾のあいだには、対応関係があります。われわれはここですでに、革命的出来事時間的諸様態の問題に踏み込んでいます。(エティエンヌ・バリバール「大革命の後、いくつもの革命の前」2016)

 この引用で、既にアルチュセールとバリバールの革命(とそれが起こるべくして起こるために想定している社会モデル)の差異を見て取ることができる。まず一点目は、「出来事」は所詮「出来事」であって、その出来事が革命となるためには理論的社会モデルの構築が前提として必要であるとしたアルチュセールと、時間的で一回的な「切断」においては「革命的出来事」が重要であると言うバリバールの差異――「来たるべき革命」を目指すのか「革命」であることに重点を置くのか。二点目は一点目と繋がっているが、革命を目指すために構築する理論モデルが決定的に異なっている。バリバールは社会の分割を時間の切断、分割として捉え、革命はその横軸の切断として事後的に「必然的だったことになっているだろう」と語られる、「ヨコ」のモデルで捉えている。対して、第一章でも確認したように、アルチュセールは厳密にはマルクスの上部構造、社会、下部構造に立脚しつつ、そこにイデオロギーの概念を導入し全体の構造に侵食するようにイデオロギーが影響を及ぼした結果、イデオロギーによる主体化とその抵抗(革命)という歪んだ「タテ」のモデルを革命のための社会構造として考える。

 アルチュセールとバリバールのモデルのどちらがより優れているか、という話ではない。ただ、バリバールは、穿った見方ではあるものの「会心の一撃」である革命像ではなく、「革命的出来事」という言い方をしてアルチュセールが批判した「出来事」レベルにまで事象の次元を下げ、それでもなお有効なのではないかという点に時代的背景が見て取れる。そしてバリバールは、「」な出来事ではなく、あくまで革命そのものにこだわった師であるアルチュセールに対し、極めて痛烈な指摘を投げかける。

一つは、アルチュセールが最終的に提起することになった立場であり、(中略)あらゆる「革命」は過去の反復という「イデオロギー*4的形態」のもとで生きられ、戦われる。革命は「革命神話」という「イデオロギー的形態」を身にまとうのであり、それは大衆が現れる舞台の上だけでなく、革命のアクターや「主体」たちそのものの意識においても同様なのです。(強調引用者による)

 あらゆる「革命」は過去の反復であり、「革命神話」に過ぎない――。光は永遠に明滅しつづけ、恒久的な光を放つことはない。神話を上演する役者である我々は、その都度異なった衣装――「イデオロギー的形態」――に着替え、その都度「革命」「」な出来事を起こして、終わったらオラ・エテ……と「前未来形」で語って「必然的」だったことになっているだろうと語り、その繰り返し、反復。果たして残るのは意志のみ、なのか?

 いや、そうではない。バリバールは、ここで自らの時間的革命論の強度を担保するために、1978年のアルチュセールを慎重にこちら側に引き付けている節があり、そもそもバリバールの「出来事」への引き下げ自体が革命そのものに対して時代の要請と共に消極的になっているように見える。五月革命直後に書かれた『再生産について』における革命への意志と理論が、決して反復や神話を前提としたものではないことは、ここまで読んだ読者の方ならお気づきであろう。バリバールの指摘において重要なのは、まずアルチュセールが理論的かつ実践的に構築した、マルクスの理論の組み換えと新しい概念の導入による「タテ」モデルに対する時間的かつ出来事的な「前」と「後」の切断として革命を捉える「ヨコ」モデルの構築、そしてアルチュセールも晩年においてマルクス主義と決別する*5に当たって「は」革命のモデルを変更したということである。 

 今、革命を標榜する我々に問われていることがある。理論と党派性を手に入れ、レーニン風に言えば、「今、何をなすべきか?」と。 

結びに代えて――闘争のエクリチュールと思考の暴力性、そして生き抜くこと

 改めて――あるいは言説の一回性に賭けて――「何故今1969年のアルチュセールを、革命のために読まなければならないのか」という問いに答えよう。すべてのエクリチュールはその都度一回的であり、なおかつ不滅である。アルチュセールに限らず、他の哲学者や思想家の綴ったエクリチュールも、時代という一回性のもとに生み出され、そして何度でもよみがえる。『再生産について』という、アルチュセールの中でもその難解さと未完という性格から、ややアカデミアにおいては地味な扱いを受けてしまっているこのテクストは、しかし、アルチュセール闘争のエクリチュールだ。党派性を背負い、「来たるべき」革命に向けて、一ページ一ページが燃え上がっている。2020年の5月、全く予期しない形で、世界は大戦以来の危機に晒されている。だが、この程度の疫病に世界が変革されてしまうことは望ましい変革だろうか? 我々が我々の手で世界を変革するために闘争し続けなければそれは革命ではないのではないのだろうか? 大学に火炎瓶を投げ込んでも、山の中に立てこもっても、運動する(過激な)レフティは時代の流れと共に「革命」ではなく「事件」として飲み込まれてしまったことは認めよう。そしてこの疫病以後、身体的現前が前提とされない共同戦線を張らなければならないとしたら、全く違う形での闘争を我々は要求されることになる。

 暴力。ラディカルであること。「革命」について回るこういったイメージは、もうほぼほぼ限界に達している。もはや失効していると言っていい。時代が進むごとに暴力(革命)が本来持っていた変革の可能性はなくなってきている。革命自体が一回性に賭けた結果として暴力的になることは当たり前だが、暴力によって革命を起こすのは暴力という「イデオロギー的形態」をまとった「革命神話」の反復を演ずるにすぎない。革命において思想なき暴力はなく、暴力なき思想もまたない――このアンビヴァレンスをいかにするべきか。もはや身体的現前を前提とした暴力がさまざまな意味で無力化しているのだとしたら、――それが前時代的であろうとも、何度も繰り返されていようとも、きっかけでしかなかったとしても、「一回性」に賭ける価値があるかどうか分からなくても――革命を標榜する一人一人が、世界に向けてぶちかます一撃として革命的言説の狼煙を至る所で上げ続けなければならない。闘争なき闘争の時代に身体的でない連帯を持って闘争することは、言説によって変革を希望し続けることに他ならない。

 アルチュセールの『再生産について』を、この奇妙で疑似的な世界の終わりである現在と終わらなかった未来において読むことは、闘争のエクリチュールによって自らの思考を闘争へと仕向けることである。言説、言葉が持つ革命の可能性とリアリティを、「プロパガンダ」などという安い言葉ではなく、革命のための理論的強度と普遍性によって信じ、そして50年前に書かれたテクストを今まさに「呼びかけられている」ものとして受け取り、自分から見て世界が「全てがどうしようもなくなった」と感じられてしまうようなときにサヴァイブする、「この世の全てに抗って(Seul contre tous)」生き抜くために言葉の暴力性と革命可能性に賭けなければならない。それはごく小さい革命。その小さい革命こそが、何もかもを変える革命となる。革命は今や既に日程にのぼっている。そして、このやや分析的で闘争的な記事を読んだ読者のあなたに向けて、アルチュセールからの(この記事を書いた筆者からの)ひとつの注意喚起、あるいはお願いと、マルクスの有名な言葉を引用して締めくくることにしよう。うずたかく積もった糞のような世界を変える希望を捨てずに生きて、抗って思考によって闘争し続けるのは、他でもない、私であり、あなたである。

最後の「用心」は言うなればこういうことである。すなわち、本書中でこれから述べられるもののなにものも、いかなる理由によっても「不動の真理」とみなされてはならない。マルクスは読者たちに「自分自身で考える」ことを要求していた。この基本原則は、提出されるテクストの質がいかなるものであろうと、あらゆる読者にあてはまることである。(アルチュセール『再生産について』)

哲学者たちはただ世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。肝腎なのは、世界を変革することである。(マルクスドイツ・イデオロギー』)

 

(文責 - 早良香月

 

※『大失敗』第1期第2号発売しております 

daisippai.hatenablog.com

 

 

 

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*1:運動そのものの在り方が20205月の今問われている。ジュディス・バトラーアセンブリという概念を用いて運動するレフティにおいて身体的現前が重要であると主張したが、Covid-19によって「身体が現前しないこと=フィジカルに共同しないこと」が意味を持ち始めている。革命や運動の身体性が失われようとしている今だからこそ、どのように連帯するのかの基盤に思想がなければならないのである。この点で、アラン・バディウの「パンデミックは抜本的に政治状況を変革することはない」という言い切りはやや性急かつ雑駁であるように思われる。

*2:個人と主体は全く異なる概念なので迂闊な使用は避けたいところではあるが、ここで言う個人は人口に膾炙した意味での個人である。

*3:論文「レーニンと哲学」では哲学に重要なのは党派性だとまで述べている記述がある。

*4:「自らの限界のうちにあるマルクス」における「イデオロギー的形態」をそのままバリバールは使っているが、アルチュセール1978論文やここで言う「イデオロギー」はマルクスが使う意味でのイデオロギーであり、アルチュセール1969年に提唱したそれとは意味が若干異なっていることを付記しておきたい。

*5:アルチュセールの思想的スタンスの転回を付言しておく。1977年の「自伝のためのノート」において既にマキャヴェリへの傾倒が見られ、1978年に「自らの限界のうちにあるマルクス」でマルクスヘーゲル主義を批判すると共にプロ独的革命モデルは一回的ではないとする。妻を絞殺した1980年以降、没するまでマキャヴェリスピノザ・原子論に傾倒し、政治の問題は変わらず重要であったものの観念的かつ思弁的な思想を展開した。

『大失敗』Ⅰ-2 販売窓口についてのお報せ

 先日は『大失敗Ⅰ-2 特集「からだ」 ―― 身体・文体・国体』についての紹介記事をお送りいたしました、批評集団「大失敗」運営の袴田渥美です。今回は『大失敗』二号の販売準備が整いましたので、各種販売窓口についてお報せいたします。

 

1. 100部限定先行販売(郵送販売フォームより、5月22日~)※完売しました

 まずはじめに、先行販売として、創刊号の郵送販売と同じく、「大失敗」運営より直通の郵送販売窓口を設置いたします。100部限定、おひとりさま一冊までの販売となりますが、ご了承ください。注文が100件に達した段階で、こちらの窓口は締め切らせていただきます。

 以下のURLから、氏名、住所、電話番号などをご登録いただいたうえで、応じて私たちから返信いたしますメールの案内に従って振込の手続きをとっていただく手順となります。

 

販売窓口のURLはこちらです。

https://docs.google.com/forms/d/1QGVtubJd01Tom2fCCWmosW5ZdWGe8yJMJmuIVIlPRp0/viewform

 

 以下、料金と注意事項などに目を通していただいたうえで、ご注文をいただければと思います。

 

・一冊あたりの価格は2.000円+送料180円となります

・100部限定、おひとりさま一冊までのご注文となります

・お振込みをいただきましたら、受付メールへのご返信をお願いいたします

・連絡先情報の登録フォームにご登録をいただいたお名前と、お振込みの際の口座名義が異なる場合には、その旨メールにてお報せください

・お使いのメールサービスの残り容量にご注意ください。連絡先情報の登録の確認後にお送りするお振込みの案内のためのメールが受信できない場合があります。

・お振込みから冊子の到着まで、10日ほどお時間をいただく場合がございますが、ご了承ください。

 

創刊号も引き続き、同手続きでの販売を続行しておりますので、ご興味のおありの方がいらっしゃいましたら、そちらもどうかよろしくお願いいたします。

 

(創刊号の販売窓口はこちらです。

https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSfn0SY9uIfZyPRkeabze01Q3Z7DJtM7quPPajDEcYwlBEwu9g/viewform

 

2.「大失敗」オンラインショップでの販売(BOOTH内ショップより) 

 こちらは来月中旬以降、順次の公開となりますが、BOOTH内「大失敗」オンラインショップでの販売を準備しています。販売の準備が整い次第、本ブログと「大失敗」Twitterアカウントにて告知いたしますので、いましばらくお待ちください。

 こちらの窓口でのご購入にはPixivアカウントの取得が必要になりますので、ご了承ください。

※以下から販売中です

daisippai19.booth.pm

 

3. 店頭での販売(東京都新宿区模索舎さま店舗にて、順次販売開始)

 創刊号は文フリでの販売と郵送販売のみでの販売となっていましたが、ありがたいことにお声だけいただきましたので、二号より店頭での販売が始まります。こちらは限定30部の入荷となりますが、模索舎さまオンラインストアでの通信販売でもおもとめいただけます。

 こちらも模索舎さま店頭での販売が始まり次第、本ブログ、「大失敗」Twitterアカウントにて告知いたしますので、どうかよろしくお願いいたします。

 

 以上、『大失敗Ⅰ-2 特集「からだ」 ―― 身体・文体・国体』の販売窓口についてのご案内をお送りいたしました。販売窓口に携わる人員が限られており、窓口の負担を軽減しなければならないため、部数限定先行販売、オンラインショップでの販売、店頭での販売に時期をずらして窓口がわかれるかたちとなりましたが、どうかよろしくお願いいたします。

 

(文責:袴田渥美)

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『大失敗 Ⅰ-2 特集「からだ」―― 身体・国体・文体 ―― 』内容紹介

人は全員で語ることはない。語るのはいつも一人だ。一人が任意の他者に語りかけるときに批評は始まる。少なくとも小林秀雄はそう考え、批評それ自体を定義し悪戦苦闘すること自体を芸に昇華することで己を賭けたのだ。絓秀実の存在。それは僕たちが社会や世界を批評する文体を喪失してしまったことを意味している。というよりも忘却してしまっているのだ。

(しげのかいりによる巻頭言本文より)

 「大失敗」本誌、ブログ記事の読者のみなさま、平素よりお世話になっております、批評集団「大失敗」運営の袴田渥美です。私の名前にそれほどなじみのない読者の方々もおおいかと思いますが、今回は「大失敗」本誌第二号の紹介記事をお送りいたします。

 COVID-19の流行とそれに伴う自粛要請、緊急事態宣言など、たいへんな騒動のただなかで、私たちが「大失敗」本誌第二号の出品を予定していました第三十回文学フリマ東京は中止となり、ある種の批判の対象として仮想していた東京オリンピックも延期となりましたが、時期だけは当初の予定通りに、『大失敗 Ⅰ-2 特集「からだ」―― 身体・国体・文体 ―― 』を5月より刊行することといたしました。

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 詳細は未定ですが、郵送販売、手売りなどによる販売を構想中です。購入方法に関しましては、適宜、Twitterアカウント(@daisippai19)や本ブログなどにて告知していきますので、どうかよろしくお願いいたします。

 

※2020/05/22追記:販売開始いたしました。

daisippai.hatenablog.com

 

 さて私たち「大失敗」の今号での特集は「「からだ」 ―― 身体・文体・国体 ―― 」と題されていますが、この「からだ」とはいかなるものでしょうか? 私たちの考えるところの「からだ」についてさしあたりの補助線を引くために、まずは手近な辞書から語義を引いてみましょう。

corps【kɔːr】n.m. ①(a)身体, 肉体.(……) (b)姿, 姿勢.(……)(c)体格.(d)1)胴体(……) 2)(よろいなどの)胴.(e)人間、やつ.(……)(f)屍(しかばね),死体(=~mort)(……)②(a)【化・物理】体(たい), 物体.(……)(b)~céleste 天体.(……)(c)avoir du~ 1)(布が)丈夫である 2)(酒が)こくがある 3)(たばこが)香高い(……)③〘物の主要部〙(……) ④(a)〘人の集団〙(b)【軍】本隊. (c)1)集, 大全. 2)(教義などの)全体

(『スタンダード沸和辞典 増補改訂版』、大修館書店、1975年)

  これでもまだなにか曖昧模糊としている、あまりに多義的すぎて、いくら辞書を繙いてみても、例文を探してみても、「からだ - le corps」という語は、その身近なひびきに反して、明瞭な像であるとか、一意的な指示関係をむすぶにはけっしていたらない、そのような感覚は、おそらくこの語を前にして誰もが共有するものなのではないでしょうか。

  それは私たちの意識の操作のもとにありながら、やはりかたい抵抗をともなう物体でもあるような「身体」であり、あまりにも自明のものとして名指されながらもいわく説明しがたい書かれたものの「からだ – 体」、「文体」であり、「人の集団」としての語義に形容詞を付加した「国家 - corps politique」の、その「からだ – 体」、「国体」でもありうる …… 。そしてまた、この名詞「からだ - le corps - 体」から派生する「身体・文体・国体」という語もまたおなじように、それと名指しがたいけれども確かに私たちに逃れがたくつきまとっているようななにかを指していて、やはりどこまでも消化しきれない感触だけが残ってしまう。

  私たちが『大失敗 Ⅰ-2 特集「からだ」―― 身体・国体・文体 ―― 』において批評しようと試みるのは、まさにこのこと、いわく言いがたいものでありながらしかし厳然と私たちの前に(あるいは手前に)ある「からだ」の奇妙なステータスであり、そのことから生じる現象や言説の錯綜であると言うことができるでしょう。

  まず私たちの試みの簡略なアウトラインを引いたところで、それでは本号に収録されるコンテンツの紹介へ向かいましょう。記事は以下のように集成されています。 

巻頭言 しげのかいり

カミュは逆説的な倫理を説いている。もしも不条理に抗いたければ不条理をなんらかの世界や個人を超えた理論に代入するべきではない、と。ムルソーは受け入れながらもある意味で抗おうとしているのだ。かかるムルソーの立場こそ批評の立場に他ならない。対象を見据えたとき、我々は対象を見据えているのではない。対象を測ろうとする自らを見ているのだ。小林秀雄が書いた「批評精神」を生きていたのがムルソーである。そしてこのムルソーの立場が倫理的であると同時に美学的なものだということもできるだろう。僕たちはあくまで個人で生きるしかない。だからすべての思考は個人的な美の範疇を抜け出すことができない。しかし個人の美から生まれてくるものこそ不条理に抗う倫理なのである。

(しげのかいりによる巻頭言本文より)

 まず、私たちの雑誌にあたえられた理念としての巻頭言を紹介しましょう。しげのかいりによる提言は、なぜいま私たちが語られたものの、あるいは書かれたものの「からだ」、文体について語ることを試みるのか、あるいはなぜいま私たちが、アカデミックな研究の言語でもなく、読者に理解しやすい思考の安息あるいは高揚をあたえてくれる政治の言語でもなく、ある種私的で、美学的なこだわりと彫琢をともなった批評の言葉をもちいるのかを示すものです。

 このことを要請するのは、ある倫理的決定にほかなりません。他者と語りあうとき、あるいは対象をとらえるそのときの、自己の不安定な在り方を容易に解消してしまわないこと。不条理な、あるいは倒錯的なものでさえありうるなにかと(誰かと)向かいあった際の緊張を消し去ってしまわないこと。そのために私たちは批評の言葉を選びとるのであり、この個的な不安と緊張を表現し、読者の思考を試練にかける「文体」こそが、逆説的に他者との対話へと開かれたものでありうることを期待するものです。

 しげのの巻頭言は、この批評の倫理とも言うべきものを提示するものですが、これは私的でありかつ美学的なものとしてのフィクションを擁護するものでもあります。六八年革命の政治的提言の核心は戦後民主主義の欺瞞、あるいはフィクションを否定的に乗りこえることであったとひとまず理解するなら、それは他者との対話の可能性を閉ざし、上述したような個人的で美学的な、批評的な「文体」の倫理を見逃すことであったと言わねばなりません。しげのの巻頭言はこのことから、三島由紀夫の「言論の自由」へと向かうでしょう。

従って、僕たちが回復するべきは「戦後」を解体する「政治」の言葉ではない。僕たちが回復するべきは個人的な美を語ることで他者に開かれる「憐み」と「みやび」といったフィクションの言葉である。この言葉を三島由紀夫は「言論の自由」と呼んだ。我々は今こそ「言論の自由」を思い出さなければならない。たとえそれが「戦後」を肯定する極めて保守的な立場だったとしても、である。

(しげのかいりによる巻頭言本文より)

特集「「からだ」 ―― 身体・文体・国体 ―― 」

赤井浩太「スポーティング・ボディ試論」(批評)

スポーツを言語化することにおいて、「趣味の言葉」ではなく、「専門の言葉」でもないような、世界に拓かれた「批評の言葉」というものは果たして可能だろうか。

このアナロジーを続けると、こうした身体の分裂は二種類のコードによって規定され ていると言えるだろう。今福龍太の言葉を借りて言えば、そこには記述された「脱文化的なルール」や「市場原理」に適合しようとする「de-scribe」的な身体と、ある固有の「環境」や「情動」が刻み込まれている「in-scribe」的な身体という二面性がある。すなわち「スポーツする身体」とは、商品であり、文化でもある、グローバルであり、ローカルでもある、個人主義的であり、共同体主義的でもあるのだ。

(「スポーティング・ボディ試論」本文より)

 「スポーツする身体」とは、先ほど私が描きだしたような「身体」の言表しがたいステータスのひとつの極限にあるものだと言えますが、批評家・赤井浩太の論考はこの身体の極限状態に切りこむものであると言えるでしょう。この私のひどく個人的で、それ自体としては分有不可能な記憶や過去、あるいは身体操作における技術の堆積する場でありながら同時に、観客にまなざされ、グローバルな市場のなかで取引され、消費される商品でもあるような「スポーツする身体」。

ドリブルする「牛」であるリュウジは、迫りくる「死」を躱して新たな「生」を掴んだ。まちがいなくそうだ。このゴールを契機にしてリュウジはサッカー界のスターダムを駆け上がっていくだろう。しかしそのシュートを放つ瞬間に想起される「父の承認」と「故郷の記憶」に、やはり身体の分裂を見ないわけにはいかない。

このように透徹した「技術」が、しかし「物語」を呼び込んでしまうところに格闘技の逆説がある。そこで「技術」の功績は無化される。あとはお決まりのパフォーマンス、コーナーポストからの宙返りである。だが、お話はこれで終わらない。ロープを蹴って跳ぼうとしたとき、武尊は片足を踏み外し、ジャンプに失敗して落下してしまう。会場がどよめく、実況はまた叫ぶ「もう一回!もう一回!」と。ぼくたちのアイドルよ、飛んでくれ。

(「スポーティング・ボディ試論」本文より)

 赤井自身がかつてその「スポーツする身体」をもつ誰かであり、スポーツというものについてそれなり以上の思いいれをもつがゆえに可能になったとも言えるこの論考は、少なからずエッセイ的な響きを伴いながら、野沢尚の手になる小説『龍時 01 - 02』と、K-1選手・武尊を批評していきます。この「スポーツする身体」において、なにが現れ、なにが可能になるのか。赤井の「批評の言葉」はただ身体の特殊な様態を記述することにとどまらす、あるフィクショナルな次元、スポーツ選手の身体における臨界点にまで踏みこんでいきます。

左藤青 「建築は「不気味」たりうるか? ―― 《新国立競技場》をめぐる建築的強度」(批評)

「建築思想」は、⾔説の中で不気味なほどの特権性を持ってきた。おそらくそれは誰もが建築を必要とし、そこにすでに住んでしまっているという当たり前の事実以上のものを含んでいる。建築思想の特権は、「建築」という隠喩の特権性に関わる。それは対象を⽴てる(=建てる)はたらきそれ⾃体の謂として、私たちの思考に深く関わるからである(カントは純粋理性の建築術について書いていた)。だからいかなる「建築思想」であれ、具体的な建築物についての批評めいた⾔説(レビュー)や、あるいは建築家による作品解説には留まりえない。それは我々の思考⼀般についてのメタ的・隠喩的メッセージとして機能してしまう。

(「建築は「不気味」たりうるか? ―― 《新国立競技場》をめぐる建築的強度」本文より)

  左藤青があらたに主題としはじめた「建築」もまた、ひとつの「からだ」として、私たちの前にある「表象」でありかつ、同時に私たちが住まうところの「存在」の場でもあるというような複雑なステータスのもとで構成されていると言えるでしょう。それは端的な事実であると同時に、隠喩的な意味においても言えることですが、左藤の論考はこの「建築」なるものの重層的な在り方をめぐって展開されています。来年夏に延期された東京オリンピックの主会場・新国立競技場から始まって、論考は「建築」にとり憑く「不気味なもの」を描出していくでしょう。

「不気味なもの」はむしろ、「家」の内部で、その抑圧構造によって常に変転しうる関数として、ある種の関係あるいは状態、さらには運動として理解すべきである。もはやそれを実存主義にも、精神分析にも還元せぬよう気をつけよう。 抑圧された「存在論的住宅難」は、確かに抑圧されているが、かといって直⾯すべき事実でも回復されるべき⽋如でもない。

(「建築は「不気味」たりうるか? ―― 《新国立競技場》をめぐる建築的強度」本文より)

  これを「批評が「幽霊」だとすれば、それは「再来霊(ルヴェナン)」なのである」との、『大失敗』創刊号の示したテーゼのひとつの実践であると言うこともできるでしょう。

 対象についての分析的な記述と隠喩的、あるいはメタなレベルにある記述が不可分な仕方で伴走していく左藤に特徴的な筆致(創刊号やブログ記事の読者のみなさまはよく知っているものと思います)にとって、多層的な現象・言説を織りこんだものとしての「建築」はまさに最適な対象であると言えます。

本論考ではハイデガーフロイトデリダ、それからホフマン、ポー、中上健次などが呼びだされ、「建築」のこの多層性に応じた仕方で、左藤の今後の問題設定にも開かれたものとしてひとつのテクストを形成していくわけですが、それはこのテクストを読んだ誰かを同じく多層的で「不気味な」思考へと誘うものでもあることでしょう。

袴田渥美 「象徴詩的身体に抗して ―― ジュリエット物語、あるいは思考のレッスン ――」(批評)

マイナーなものを愛する私たちは、絶望しなければならない。さもなければ、かつてたしかに、かすかな可能性を指ししめしていると思われた未知との遭遇が、中産階級のすこしだけ「変わった」趣味を満足させる嗜好品として、わざとらしい感嘆の声のなかへと溶けくずれてゆく様を、手だてもなく見とどけなければならない。

(「象徴詩的身体に抗して ―― ジュリエット物語、あるいは思考のレッスン ――」本文より)

  さて私、袴田渥美の論考についての紹介ですが、自身の書いたテキストについてなにかを書くというのは、少し気恥ずかしく、やはり不思議な感覚になります。この論考は昨年、本ブログに掲載された左藤青としげのかいりによる「加速主義と日本的身体 ――柄谷行人から出発して」(https://daisippai.hatenablog.com/entry/2019/06/14/200000)への応答からはじまり、「他なるもの」、「異なるもの」に賭けた思想家や批評家たち、ニック・ランドや澁澤龍彦らの「大失敗」を批判的に記述していきます。

種村が「吸血鬼の形象」を「多義的なアレゴリー」として描きだすそのときにもまた、私たちはあの身体の象徴詩的性質を想起するだろう。種村自身が供述する通り、それは私たち自身の「神話的形象への投影」に他ならない。「他なるもの」、「異なるもの」との出会いを渇望する私たちは、またしてもここにおいて、鏡にうつった自身の姿を ―― 何度目の失敗なのかをさえも、もはや数え忘れて ―― 見いだすことになる。

(「象徴詩的身体に抗して ―― ジュリエット物語、あるいは思考のレッスン ――」本文より)

  論考はこの自己批判(私自身、マイナー文学と呼ばれる領域を愛してきたひとりでもあります)を含んだ批判と、短絡的に「マイナーなもの」に可能性を見いだしてしまう思考への警告を経て、「からだ」の問題へと向かいます。

さて私たちは、左藤としげのの名指した「日本的身体」にとどまるかぎり、どれほど遠くへ向かおうとも自身の鏡像、人体の形象をしか見いだしえないわけですが、この自己愛的でつまらない思考のスタイルを脱却し、「自分たちの身体の関節を、そして自明となっている文体の流れを脱臼させ」るための手立てをもとめて、論考はマルキ・ド・サドのテクスト、『ジュリエット物語又は悪徳の栄え』を呼びだすでしょう。

 サド侯爵を召喚することは、論旨に反しかねないある種倒錯的な選択であったことを私は自覚していますが、彼のような想像をまったく絶する他者との対話のなかでこそ、自己愛に沈滞することのない倫理的言説の析出を試みなければなりませんし、そこに自身の投影かそれ以下のものをしか見いだしえない「スタイル」の変革を望まなければならないでしょう。この論考の後半はまさしくその点にこそ賭けられています。

てらまえあんじ「老いについて 眠れぬ夜をやり過ごすための夜伽」(エッセイ)

以下は、嚙まれも味わわれもせずサプリメントよろしく呑み下され、最も効率よく、かつ迅速に硬化した脈へと流され、それとして顧みられずにただ惰性のままに病んだ健康に奉仕させられることのないように、という意図のもとでしるされた。わたしは「答え」を与えない、そもそもわたしにはそれがわからない。パッケージ化されたていのよい社会的な文章がお好みとあらば、これを読み進めていくことは大変な労苦を読み手に強いるであろうに、何卒、飛ばしていただいて構わない。

(「老いについて 眠れぬ夜をやり過ごすための夜伽」本文より)

  「大失敗」同人において初掲載となるてらまえあんじの論考ですが、これは同時に、『大失敗』誌のあらたな試みとしてのエッセイの掲載であるということにもなります。しかしこのエッセイとひとまず名指すほかないスタイルは、上に引用したイントロダクションの語るとおり、なにか刺激的な「答え」や、実践的な方途を容易に指し示すようなものでは決してあることのないように選択されたと言えるでしょう。

 ひとびとの身体の崩壊の速度は加速しつづけている。眠りさえ脅かされ、〈老い〉の過程に身を置くなど論の外、気付かぬうちに疲れ切って死んでいる。もはや布では覆い隠せない世界中に穿たれた無数の穴は、そこら中で繋がり始めており、いずれはひとつの穴へ、そのまま世界を陥落させ、世界が裏切られる。それでもこの世界は終わらない。ならば、いかにして誰にも書かれ得ない呪いをこの昏い眼で読み、書くことができるのだろうか。徒労に終わる無益な〈仕事〉をひとは余儀なくされている。

(「老いについて 眠れぬ夜をやり過ごすための夜伽」本文より)

  てらまえの描写する「からだ」、「身体」の様相とは「〈老い〉」であり、それはこのどこまでも活発で健康な資本制にとりこまれた身体から忘却され、排斥された身体の一様相でもあります。論考は丹生谷貴志小泉義之の言説を主に参照しながら、「〈老い〉」の過程におけるどうしようもない無能力のなかで営まれる言葉を「書く」という後期フーコー的な意味での仕事の場を指ししめしてみせることに、このエッセイは捧げられています。

身の熟しを、〈老い〉の様式を、呼吸のリズムを、〈仕事〉をうつし、〈砂浜〉においてしるすこと、それに立ち会うこと。

(「老いについて 眠れぬ夜をやり過ごすための夜伽」本文より)

 あるいはだから、このエッセイ自体がそのような「仕事」のひとつの実践として成立していることも付言しておくべきでしょうか。このエッセイのスタイルそのものが、「身体」と切り結ぶ「文体」の問題を顕示していることもまた、この論考から看取されるべき特質のひとつであることでしょう。

吉永剛志高瀬幸途という"歴史"」(エッセイ)

2019年4月24日、高瀬幸途が大動脈解離で死んだ。私にとっては兄貴分だった。本当に悲しい。むこうも弟分として遇してくれていたと思う。いろいろ世話になった。親しい間柄だったと思う。私の2017年4月の結婚パーティのときは、「吉永君は風来坊。どこから来てどこに行くのか分からない。私の娘とは結婚させたくない」とスピーチされた。おいおい、アンタにだけは言われたくないよ、と思ったものだ。

(「高瀬幸途という"歴史"」本文より)

  吉永剛志による寄稿もまた、そらまぎるに続いてエッセイとして収録されています。ただしそらまぎるの論考が、ある種の思考の表現としてのエッセイであったとすれば、こちらは筆者の私的な思いいれを交えた歴史の証言としてのエッセイとして書かれたものです。

 このエッセイの主要な登場人物、昨年、逝去された高瀬幸途氏についての筆者の記述は、60年安保闘争、68年の学生運動ビートたけしや『批評空間』誌の時代をつくった太田出版柄谷行人によるNAMの結成と解散、それからそれらに付帯する様々な出来事、事件について語りながら、故人の思い出を歴史のなかへと位置づけていきます。

例えば東大紛争の基調である反・産学協同路線も解放派由来のものだ。法政大学に入っても高瀬さんと永井さんは一年生でもう中核派を理論的には圧倒し、よく二人で中核派をおっかけていってオルグしようとして逃げ出されていたそうだ。接触を避けられた中核派の中には同世代の糸井重里もいたという。(……)このようにこの永井・高瀬のコンビは煙たがられていたから10・8羽田の前日、全国からの動員できていた他大学生の中核派に朝からなぐられたというわけだ。

(「高瀬幸途という"歴史"」本文より)

 なによりこのエッセイの魅力は、種々様々なトピックのなかで描かれる高瀬幸途という人物の少なからず破天荒で、けれども敬愛の情を抱かずにはいられない姿であり、彼の「弟分」であった筆者の敬慕のにじんだ筆致であると言えるでしょう。

 また同時に、この貴重な歴史的証言が私たちの雑誌に収録されることには重要な意義があることも強調しておかなければなりません。単線的で図式的な歴史観に尽くすことのできない68年当時の若ものたちや、それぞれの時代を画した書き手たち、現在進行形で試みられている運動のなかにいる人々についての稀な証言として、批評の政治性、歴史性を語る私たち「大失敗」同人はこのエッセイを迎え入れることとなりました。 

しかしこの噂話に出てくる言葉のなかには、様々に毀誉褒貶がある言葉が多々あるので、この同人誌の編集部の要請もあって、若い、初めてその言葉を知る人にむけての如く丁寧に説明する。冗長であるがお付き合い願いたい。そして大事なのは過去でなく、もちろん今現在である。

(「高瀬幸途という"歴史"」本文より)

環原望 「わたしの部屋のなかで」(小説)

居間の本棚のいちばん下におさめられた古いアルバムを見つけたのがいつのことだったのかもう思いだすことはできないけれど、ぼくはそれをそっと棚から抜きだして二階にある自室に持ち帰ったのだった。たしか夜のことだっただろう。アルバムは両手で持たなければならないほど重厚で、表紙は日に焼けたように茶色くなりところどころ黴が生えてさえいたからどれくらい昔のものなのか想像することさえ難しく、ひらいてみるとその本にはぼくの家族の歴史が年代記のように収められている。

(「わたしの部屋のなかで」本文より)

 『大失敗』二号には、小説も収録されることとなりました。環原望の「わたしの部屋のなかで」は、本誌のために書きおろされた掌編ですが、その「からだ」、文体がまず目を引くことでしょう。

絡み合った植物をモチーフにした図柄を繊細に編み込んだレースのついた白く裾の長い衣服をひらひらとなびかせるあなたの足取りは軽く、泡の飛沫と戯れているようにも見え、というよりもむしろ濃紺の海面を覆う白波が、さあっという音を立てて寄せてはまた退いていく動きのほうが、あなたのあしうらが柔らかい砂を踏む軽やかなステップに合わせて行われるゆるやかな舞踏だったのではないでしょうか。もちろん、あなたについてなにひとつ確かなものとして語ることはできないのですが、いくつかの写真に光学的に焼きつけられ、今ではほとんど失われてしまった出来事の残滓から想像された夜のなかにいるあなたに向けて語りかける言葉がこのように語るのです。

(「わたしの部屋のなかで」本文より)

 ヌーヴォー・ロマンを想起させるような長いセンテンスとパッチワークのようにところどころに挿入されるメモ書きや挿話がこの小説の特徴ですが、そのようにして描きだされる語り手「ぼく」の身体は、明瞭な像を結ぶことなく記憶や出会ったこともない誰かとまじりあっていくでしょう。

いえ、服そのものがあなたの痕となって陥入してくるのだと言うべきでしょう。あなたが陥入しています(ここにあるのはもはやわたしではないのです)。

(「わたしの部屋のなかで」本文より)

 長く蛇行する文体に沿って描かれた「からだ」は、語り手の身体の輪郭をぼやけさせかつ変形させていきます。小説について適格なしかたで語るためにはよりおおくの語を費やす必要がありますが、さしあたりの紹介はここまでとなります。あるいは、この小説が読者のみなさまのなかから「批評的」言説を引きだすようなことが可能であれば幸いです。

藤原有記 「内外科」(マンガ)

「先生頼みます / 一刻も早くなんとかなりませんか」

(「内外科」セリフより引用)

 こちらも『大失敗』二号からのあたらしい試みですが、本誌デザインを担当している藤原有記による小品マンガ作品も収録されています。「からだ」とは、言説のなかで問題化される対象でありかつ、視覚的表象においても重要な主題であると言えるでしょう。

 さしあたりマンガにおいて「身体」を描くということについて補助線を引こうと試みるのであれば、人間の身体自体がそもそもマンガのように複数のフレームによって区切られたものであるということに着目しておくべきではないでしょうか。

 人体の輪郭、顔の輪郭、顔の各パーツの輪郭、それからその他人体に従属する各部位の輪郭などなど、「身体」の像そのものがそもそもマンガ的に構成されていると言うこともあるいは可能でしょう。

 この記事に本誌に掲載される作品をそのまま示すことはできないため、ぜひ本誌を、ということになってしまいますが、藤原有記による「からだ」の表現がいかなるものであるか、どうかご期待ください。

 

 以上、『大失敗 Ⅰ-2 特集「からだ」―― 身体・国体・文体 ―― 』の紹介記事をお送りいたしました。

 私たちの雑誌も二冊目となり、私も含めたあらたなメンバーを加えた誌面をお送りすることとなりました。この「大失敗」という同人が、さまざまな立場、あるいはさまざまな技法をもったメンバーによって構成されているがゆえに、「からだ - le corps – 体」というひとつのテーマについて思考するに際して、やはり種々様々な言説と実践を集成することが可能になったと言えるでしょう。

 しかし私たちは総じてやはり、ある「批評的知性」への信頼から結集された「批評集団」であることにもまた、ひとつのアクセントを置いておかなければなりません。創刊号から始まったある「知性」の持続が、こうしてあらたに、私を含む誰かを誌面に集めたのであるとすれば、『大失敗』二号もまたおなじように、ある「知性」を誰かに憑きまとわせ、読むこと、書くことへといたらせうるものとなることを私たちは望むものです。

 さしあたりはまずあなたがたの「からだ」、身体に、あなたがたの語り口や筆致の体であるところの「文体」に、それからあなたがたの住まう家であるところの「国体」に、遠まわりに介入しようと試みることから私たちははじめましょう。もしもあなたがたが、いまあるところの「からだ」にこれまでのような仕方で憩っていることができなくなったのであれば、私たちの目的はひとまず達せられたことになるでしょう。そのときにはどうか、私たちへの応答をいただければ幸いです。

 

文責:袴田渥美

 

 

 

 

 

 

大失敗のRadio-Activity 第十三回「緊急特番・東/外山対談について」

第十三回

 

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2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太と左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。

先日2020年5月10日(日)にゲンロンカフェのニコ生にて、批評家の東浩紀さんと革命家の外山恒一さんが対談されました。かねてより「大失敗」が注目してきたこの二人の思想家の対談はツイッターでも話題を呼び、近年稀に見る批評的な出来事であったと思います。これについて、赤井と左藤で意見交換をしました(リモートで)。

※取ってすぐに出しているので編集する時間がなく、ほぼノーカットでお送りしています

 

左藤による東・外山論 

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パーソナリティ:赤井浩太左藤青

編集・BGM:左藤青

 

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大失敗のRadio-Activity 第十二回「みんな!日記を書こう!」

第十二回

 

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2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太と左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。

今回も「リモート録音」です。最近急に日記を書き始めた左藤の真意、日記を書くことの意義、コロナでの生活の変化、政治性の変化、星野源ノンポリか? など、割とざっくばらんな雑談をしています。

 

パーソナリティ:赤井浩太左藤青

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大失敗のRadio-Activity第十一回「コロナ時代を生き延びる批評」

第十一回

 

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2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太と左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。

今回はCOVID-19流行に対応して「リモート録音」をしました(多少音質が悪いですがご容赦ください)。「自粛要請」の同調圧力の中、様々な言説が跋扈して疲れるこの頃ですが、コロナ時代をどう捉えるべきか、あるいは捉えないべきか、について赤井と左藤が語りました。様々な事情から左藤がメインで喋っています。

 

パーソナリティ:赤井浩太左藤青

編集・BGM:左藤青

 

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アヴァター・アローン 機はまだ遠い ただ生き延びよ

平沢進 - アヴァター・アローン)