批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」。一月に京都文フリで本出します。https://twitter.com/daisippai19

【絓秀実氏寄稿決定】『大失敗』創刊号内容紹介

私たちに必要なのは「生きた自由な言葉」なる、ブルジョワの玩具ではないし、私たちがそのようなものを持ちうるはずもない。ここにあるのは、『神曲』の如きカノンによって構成される「不自由な」言葉の敗走であり、陰に陽に永続し続ける階級社会に対する、「たたかうエクリチュール」なのである。(左藤としげのによる「巻頭言」から抜粋) 

 ご無沙汰しております、批評集団「大失敗」です。

 九月に「大失敗」立ち上げて以来、ブログを書いたり色々していたわけですけれども、あまりに創刊号の内容を公開しないので周囲から「本当に出るのか?」と心配されている有様です。この度、二〇一九年一月に刊行する創刊号の内容紹介をしたいと思います。

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  ▲創刊号表紙

 コンテンツは次の通りです。全体としては二つのテーマから成っています。

  • 絓秀実「柳田国男戦後民主主義の神話」(特別寄稿)
  • テーマ①《異化》としての批評
    • 小野まき子「煙草と図鑑 ブレヒト『セチュアンの善人』について」
    • しげのかいり「金井美恵子論 吐き気あるいは野蛮な情熱」
  • テーマ②「昭和の終わり」と「平成の終わり」
    • 赤井浩太「宮台真司の夢 私小説作家から天皇主義者へ」
    • 左藤青「昭和の終わりの『大失敗』 八八年の有頂天から」
    • ディスコゾンビ#104「俺と空手とS−MX 我々は如何にして恋愛資本主義と戦ってきたか?」(コラム)

絓秀実「柳田国男戦後民主主義の神話」(特別寄稿)

 本ブログでも以前取り扱った、批評家・絓秀実氏による論考です。先日(十二月十五日)の京大人文研のシンポジウム「1968年と宗教―全共闘以後の「革命」のゆくえ―」における絓氏のご発表を収録する形になっています。

 絓秀実氏は、一九四九年生まれの文芸評論家です。「六八年の思想」をはじめ、多種多様な哲学的・批評的言説をたくみに用いつつ思想史を解きほぐし、一方で個別具体の政治運動や芸術運動に「フェティシスト的に拘泥」(王寺賢太による表現)する、独自の批評を展開されてきました。

 本論考は、戦後民主主義、そしてその勘所としての天皇制について思想史を整理し、その問題に迫る内容となっています。『アナキスト民俗学』や『増補 革命的な、あまりに革命的な』(特に付論部分)で展開された議論のまとめ、かつ直接的な問題提起として受け止めることができます。

柳田の神学は、その危惧をこえて強力であった。そのことは、東日本大震災以降における今の天皇のパフォーマンスにおいて明らかになったことである。震災以降、全国を巡る天皇夫妻のパフォーマンス、あるいは、それと相即してなされた海外の戦地歴訪は、それがいかに「ヒューマン」なものに見えようとも、「祖先崇拝」=天皇制トーテミズムの再活性化以外のものではないだろう。繰り返すまでもなく、そのような「祖先崇拝」イデオロギーの顕在化とともに、戦後民主主義を守れという声も高まり、天皇をその「象徴」(=トーテム)と見なす言説が、当然のことのように発せられるようになったのである。(「柳田国男戦後民主主義の神話」本文より)

 ここで絓氏が直接的に参照しているのはフロイトのトーテム理論であり、いわば一種の「日本精神分析」になっているわけですが、この論考における議論が個別具体の文学や表象の問題に直結していることは間違いありません(もちろん「表象の問題」とは「表現の自由」の問題であり、「ポリティカル・コレクトネス」の問題にほかならない)。表象の(再)政治化という私たちの問題意識にとって、絓氏は大きな参照元となりました。

 シンポジウムを聞き逃した方から絓氏の批評に初めて触れる方まで、読み応えのあるものとなっているでしょう。

テーマ①《異化》としての批評

ブレヒトをはじめ、フーコーバディウに至るラディカルな思想家の数々が主張してきたように、社会の解放を目指す政治はつねに「自然秩序(あたりまえ)」という体裁を破壊すべきで、必然で不可避と見せられていたことをただの偶然として明かしていくと同様に、不可能と思われたことを達成可能であると見せなければならない。現時点で現実的と呼ばれるものも、かつては「不可能」と呼ばれていたことをここで思い出してみよう。〔…〕(マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』*1

ある出来事ないしは性格を異化するというのは、簡単にいって、まずその出来事ないしは性格から当然なもの、既知のもの、明白なものを取り去って、それに対する驚きや好奇心をつくりだすことである。〔…〕異化するというのは、だから、歴史化するということであり、つまり諸々の出来事や人物を、歴史的なものとして、移り変わるものとして表現することである(ベルトルト・ブレヒト「実験的演劇について」*2) 

 「異化効果」はブレヒトによって(そしてロシア・フォルマニズムではシクロフスキーによって)提唱されました。「異化」とは何でしょうか。

 このように問うてしまうと、たちどころに「異化」は空虚なものになるでしょう。あるものをあるものに変えると言っても、何をどのように変えて、どうするのか、《異化》という言葉には何も書き込まれていません。それは端的に歴史に左右されるからであり、《異化》は「誤配」と同じく事後的にしか確認できないからです。言い換えればそれは、「〜とは何か」という問いに答えうるような一つの「理論」ではありません。

 それはあくまで実践であり、行為であり、効果です。それは奇妙なほど「不安定」なひとつの出来事だと言えます。ともすれば、他人を不快にさえさせれば《異化》であるというような安易さにすら結びつくでしょう。

 これは批評も同じく、それは積極的に定義を持つものではありません。もちろんあるコンテクストの中で批評の役割を確定することは普通に可能ですが、とはいえ、批評の本質であり批評の存在について問う(「〜とは何か」)ことはできないのではないでしょうか。批評は一個の自立したコンテンツではなく、したがって、またひとつの効果でしかありませんでした。批評もまた「不安定」です。

 ブレヒトアリストテレスの演劇論に対抗していました。それは観客を登場人物、物語に感情移入=同化させる理論だからです。《異化》という実践は、感情移入を拒みます。なぜなら、《異化》は世界の見え方をがらっと変えてしまう、言い換えれば、観客のそれまでの世界観を「疎外」するからです(しかし実は、もしかしたら昔のえらい人はこれを「啓蒙」と呼んだのかもしれません。あるいは最近では「ダーク・エンライトメント」と)。

 このようにして既存の価値基準を「同じもの」でありながら「同一ではない」ものに変化させる効果こそ、《異化》と呼ばれたのでした。ところで、いま「批評」と呼ばれるものはそうした不快さや不安定さを持っているでしょうか。このことについてはすでに別の場所でも触れましたが(哄笑批評宣言)、この答えは宙吊りのままにしておきましょう。

 しかし、もし〈同〉化が必然であるとしたら、《異化》はそれほど簡単ではありません。そのような中で、いかにして〈同〉という〈主〉を《異化》すべきでしょうか。

 そのような観点から次の二つの論考を収録いたしました。

小野まき子「煙草と図鑑 ブレヒト『セチュアンの善人』について」

二〇一八年はブレヒトの当たり年であった。(「煙草と図鑑」本文より)

 ブレヒトの戯曲『セチュアンの善人』は、「善人であれ、しかも生きよ」というテーゼで知られています。この戯曲の中では、神々によって要請される「善人である」ことと、一方で一個の人間として「生きる」ことが、常に矛盾した形で展開されていくのでした。

沈徳〔シェン・テ〕 (不安でいっぱいになって)でも自信がないんです、神様。こんなに物価が高くて、どうして善人でいられるでしょう?

神二 悪いがそれはわしらには手のつけようがない。経済の問題にはかかわれんのでな。(ブレヒト「セチュアンの善人」*3

 娼婦であったシェン・テは、セチュアンの町を訪れた神を家に泊めてやり、神からの礼で煙草屋を営み始めるのでした。%2%同時にシェン・テは、神から「善人」であるよう命を受けます。しかし劇内では、この「善人であること」と「生きること」は、絶えず「弁証法的」な対立を含むものとして表現されていきます。つまりシェン・テは、道徳と労働の間で——上部構造と下部構造のあいだで——引き裂かれていくのです。

 この分裂は具体的に描写されます。善人であるがゆえに他者に施しを与えてしまい、貧乏になっていくシェン・テは、資本の原理に則り、自己のために他者を排斥することのできるシュイ・タを「従兄弟」として作り出し、一人二役を演じることで、なんとかそれを両立しようとするのです。

 小野の論考では、この戯曲における「煙草」というモチーフに着目することで、物語を貫通する「弁証法的」構造を解釈していきます。煙草はもちろん、単に劇中に登場する象徴・表象に止まるものではありません。煙草は公共空間にとっては、他人の権利を侵害する「悪」として排斥されるものでした。

このことは当然、近代都市の群衆の問題として理解されるべきであろう。交換価値の支配する大都市の群衆は、彼ら自身が名もなき社会の成員=労働者であり、清潔に管理されるべき商品なのだ。(「煙草と図鑑」本文より)

 このように資本主義や都市空間へのブレヒトの鮮烈な問題意識を明らかにしていく小野の論考ですが、議論の後半では、「当たり年」であったとされる(例えば:『東京芸術祭』は現代の人々に生じる分断を解消する「お祭り」 - インタビュー : CINRA.NET)二〇一八年のブレヒトの用いられ方に対し、スーザン・ソンタグベンヤミン中平卓馬の写真論などの材料を使いつつ、批判的な考察を展開します。ブレヒトは度々「アクチュアル」な作家とされています。しかし、仮にそうだとしたら、その「アクチュアル」さはどのように担保されているのでしょうか。また現代の作家たちは、劇場という空間の中でどのようにして観客を扱っているのでしょうか。小野まき子の論考です。

都市の人間について何ごとかを語れる重要な詩人は、たぶんブレヒトが最初である。(ヴァルター・ベンヤミンブレヒトの詩への注釈」、*4

しげのかいり「金井美恵子論 吐き気あるいは野蛮な情熱」

さしあたっての問題は書くことのはじまりと同時にやってくる。なぜならばわたしたちは書くことを原点とすることによってしか、作品のはじまりという文学創造の原理へ到達することが出来ないからである。(金井美恵子「書くことのはじまりにむかって」*5

吐き気がするほどロマンチックだぜ/お前は(ロマンチスト - The Stalin

 金井美恵子は一九四七年生まれの小説家・詩人・批評家です。ヌーヴォー・ロマンに影響を受けた、長くうねるような文体や、批評家や小説家を皮肉るエッセーで知られる金井ですが、しげのかいりの論考では、金井の初期小説作品における「書くこと」が分析されます。

 しげのによれば、金井の「書くこと」は初期作品から執拗に繰り返される《私》と《あなた》の構造のうちで、極めて奇矯な自己撞着的構造を持っています。ここでの分析では、「書く」行為は、「読む」ことで摂取した=食べたものを「吐くこと」であり、エクリチュールは一個の吐瀉物なのです。

金井美恵子にとって「書くこと」とは、「読むこと」によって必然的に催す「吐き気」である。作家・金井美恵子は、書くことの動機として主体的な意志を必要としない。「書くこと」は「読むこと」によって突き上がってくる「吐き気」によって作られるにすぎないからである。(「金井美恵子論」本文より) 

 論考後半では、メニングハウス『吐き気』などを手掛かりに、「吐き気」をめぐる美/醜の問題に考察が及びます。「吐き気」は、美学的には、そして政治的にはどのように扱われるべきでしょうか。ここから見出される「不純なスターリン主義」とは何でしょうか。「吐き気がするほどロマンチック」(ザ・スターリン)な、しげのかいりによる金井美恵子論です。

テーマ②「昭和の終わり」と「平成の終わり」

 「昭和」から「平成」へ、かつてあったはずのあの切断についても、これから生じることになるあの切断についても、それ自体ひとつの「配列」以外のなにものでもないことが意識されなければならない。この視座からすれば、たとえば「平成生まれ」のような共同性に根ざして特定の出来事や対象を扱うことは、もはや「制度」に対し現状追認的である、と言わなければならなくなる。(左藤「昭和の終わりの『大失敗』」より)

一九四五年以後、この国には「戦前」と「戦後」という区別が存在する。これは「敗戦」を契機とするとはいえ、やはり「神」であった天皇が「人間」になってからの時間的思考だ。だから、ぼくたちが生きているこの日本社会には、いまでも「天皇制」の時間が流れていると言えるだろう。(赤井「宮台真司の夢」より)  

 『近代日本の批評』(柄谷行人編)『現代日本の批評』(東浩紀編)を見れば分かる通り、批評はときに時代を語ってきました。たとえば『現代日本の批評』は、座談会を七五年から八九年、八九年から〇一年で区分しています。そのことは、市川真人による基調報告「一九八九年の地殻変動」を見れば明らかです。もちろんこの「地殻変動」は「冷戦終結」でもあり、また様々な業界(音楽、ゲーム、お笑い、etc.)にとってもある種の変わり目であったわけですが、これらの「変わり目」がそのまま「昭和の終わり」/「平成の始まり」に(つまり昭和天皇崩御に)重なっていることは偶然でしょうか。

 『大失敗』が刊行される二〇一九年は、平成最後の年です。この平成最後の年に直面して、日本では再度「象徴天皇制」のある不思議さが露わになるとともに、「平成」とはなんだったのかという問いや、平成の出来事を回顧する言説も多く見られるようになりました。二〇一九年になればそれはさらに増えていくでしょう。二〇一九年はひとつの「区切り」や「変わり目」として認識されており、ひょっとしたらのちに「地殻変動」と呼ばれるのかもしれません。

 さてそのような「変動」をいま迎えようとしている、この切迫にある私たちは、〈いま・ここ〉の多様なアクチュアリティを語るのではなく元号という時間をめぐる言説・表象についていま一度考えてみたいと思います。そのことは、〈アクチュアリティ〉という言葉の新しさが消去するであろう、ある「持続」を暴露するのかもしれません。

赤井浩太「宮台真司の夢 私小説作家から天皇主義者へ」

 宮台真司はこうして一時はリベラル知識人の代表格と目されるようになるのだが、彼がその手口の裏側で温存したのが「天皇制」であったことは、反リベラルを自称する現在の彼を見れば明らかである。しかし、今もう一つあらためて明らかにされねばならないことは、彼がデビュー当初から現在まで一貫して「私小説作家」であったということだ。(「宮台真司の夢」本文より)

 昭和の終わり=平成のはじまりにデビューした社会学者・宮台真司は、九十年代を通じてある種のヒーローでした。システム理論という社会学的分析を武器に世相を斬り、様々な言説を論破していくパフォーマンスによって、「批評の社会学化」(「社会学の批評化」)を成し遂げた「リベラル知識人」宮台真司ですが、近年の彼がリベラルを批判し、「天皇主義者」を自称していることはよく知られています。

 赤井の論考では、そのように社会学的分析が反リベラル・「天皇主義」へと傾いていく様を、宮台の分析手法そのものが要請するものとして、つまり宮台の秘された内在的スタイルの問題として批評します。赤井によれば、宮台真司社会学者などではなく、「私小説」作家でありました。

つまり、彼は世界の「歴史」よりも私の「夢」を生きたかったのである。ただ、その志向を「社会」に投影したという一点において、彼は社会学を隠れ蓑にした私小説作家であった。(「宮台真司の夢」本文より)

 そのような「天皇主義」の問題とはなんでしょうか。そして、その問題を超えて思考するためにどうすればいいのでしょうか。そのような問題意識から出発し、宮台真司に対する痛烈な批判=ディスを含む、「批評界のMC」赤井浩太の論考です。

——仕方ねぇからシンジくんに見せてやるよ、マジもんの批評ハーコーアジビラスタイルってやつを。そして読者の皆様、大変長らくお待たせいたしました。ここからは白黒ならぬ赤白の決着をつけるショー・ビジネスでございます。不肖のわたくし、「大失敗」の鉄砲玉でありますが、打たれても出る杭、叩かれても出るモグラ、それでもドグマを説くのは、本邦まるで省みられることのないのルンペンの皆様のためであります。サァサァ、おあにいさん、おあねえさん、いらっしゃい、いらっしゃい! 退屈はさせないよ!(「宮台真司の夢」本文より)

左藤青「昭和の終わりの『大失敗』 八八年の有頂天から」

セックス・ピストルズが象徴した七〇年第後半の反体制=「パンク・ロック」は、実際非常に「ポップ」だったわけだが、そのポップさが単なるスタイルへと形骸化し、ひねくれた都会人のファッションになったものが「ニューウェイヴ」なのだ。パンクは「ロックは死んだ」と宣言した。ニューウェイヴは「すべてはコピーである」とあざ笑う。しかし、パンク/ニューウェイヴどちらにせよ、音楽だけではなく、ある種の態度決定にまつわる、雑に言えば「実存」にまつわる「運動」だったことは確かだ。それはものの見方を規定し、社会に接する態度を規定したのだ。(「昭和の終わりの『大失敗』」本文より)

  かねて「大失敗」は「ニューウェイヴ」を標榜してきました。しかし「ニューウェイヴ」とはなんでしょうか。それは確かに一つの音楽のスタイルです。XTCDEVO、一時期のYMOなどに代表させられるような軽薄短小なスタイル、「スカスカ」な音……けれどもそうした音楽たちは、その時代においては、ある「実存」に関するものでした。

 ここで左藤が着目するのは、そうしたニューウェイヴ・スタイルのある種の臨界点としての「ナゴム・レコード」です。ナゴムは、日本でも最初期(一九八三年)に創設されたインディーズ・レーベルです。

 ケラ(現在のケラリーノ・サンドロヴィッチ)が代表となった「ナゴム」には、筋肉少女帯電気グルーヴといったバンド、そしてもちろん大槻ケンヂピエール瀧といった「サブカル人」を輩出しました。「ナゴム」は、演劇、文筆、俳優、など音楽にとどまらない才能が集う場所であったわけですが、その実、非常にくだらないものでした。

www.youtube.com

(「人生」は電気グルーヴの前身)

 この「ナゴム」のしょうもなさを批評の問題として引き受けることを考えつつ、ここで左藤はとりわけ、ケラ率いるニューウェイヴ・バンド「有頂天」の一九八八年のアルバム『G∩N』(ガン)を批評します。

 最近(おそらくは演劇の業績で)紫綬褒章を受章したケラリーノ・サンドロヴィッチは、八八年の昭和天皇吐血と「自粛」ムード(浅田彰はこれを指して「土人」と揶揄した)のなかで、次のように歌っていました。

王様はキトク/今に塔も折れる

あった国にあったボク/あったボクら

「ブチコワセ」なんてコトバ/ブチコワして

今日もアソコへ行こう(有頂天 - Sの終わり)

 この「Sの終わり」は「昭和の終わり」です。『G∩N』(=癌)では、他の楽曲でも、この「危篤」、「病」のイメージが頻出し、昭和天皇崩御を存分にネタにしていきます。この意味では、彼らの音楽は一種の「不敬」音楽でした。

 「大失敗」の名前の元ネタとなった楽曲「大失敗’85」も含むアルバム『G∩N』を通じて、表象の(無)意味と元号を考える、左藤青の論考です。

ディスコゾンビ#104「俺と空手とS−MX 我々は如何にして恋愛資本主義と戦ってきたか?」(コラム)

モテ/非モテという対立軸があった。(「俺と空手とS−MX」本文より)

 「昭和の終わり」と「平成の終わり」を生き抜く漫画家・ディスコゾンビ#104氏によるコラムです。八〇年代から今までを支配する「モテ−非モテ構造」(恋愛資本主義)を記述するこの文章では、多種多様な商品・広告・コンテンツが現れては消えていきます。そうしたコンテンツたちは、男の承認欲求を満たそうとする「商法」として整理され、その商法と非モテたちの「戦記」が描かれるのです。

究極の社会的弱者K.K.O.非モテらによる一斉武装決起によりSNS、とりわけツイッターは阿鼻叫喚の地獄と化した!(「俺と空手とS−MX」本文より)

  ある意味もっとも「アクチュアル」なこのコラムは、「昭和の終わり」から「平成の終わり」にかけての歴史を語るものとして重要な役割を果たしています。S-MXという「恋愛仕様」車を頂点とする恋愛資本主義に男たちはどのように立ち向かうのでしょうか。ディスコゾンビ#104による論考です。

 

*1:マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』、セバスチャン・ブロイ、河南瑠莉訳、堀内出版、二〇一八年、五〇頁。

*2:『今日の世界は演劇によって再現できるか ブレヒト演劇論集』所収。千田是也訳、白水社、一九六二年、一二三、一二四頁。

*3:ベルトルト・ブレヒト「セチュアンの善人」『ブレヒト戯曲全集第5巻』所収。岩淵達治訳、未來社、一九九九年。岩淵訳では「ゼチュアンの善人」。

*4:ボードレール 他五篇』三〇二頁

*5:金井美恵子「書くことの始まりにむかって」、『金井美恵子エッセイ・コレクション{1964–2013}1 夜になっても遊びつづけろ』所収(平凡社、二〇一三年)、三〇頁。

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「大失敗読書会」開催!

 こんばんは、「大失敗」です。一月は、文フリ京都、神戸大での赤井浩太イベントなどお世話になりました。一通りの行事が終了し、「大失敗」としては次へ向けての準備期間に入っています。

 様々なことを企画しているのですが、その第一段階として、読書会を開催することになりました。参加者を募りたいと思います。

読む本・読書会の仕方

 「大失敗読書会」は、「大失敗」運営の三人がそれぞれ選んだ本を順番に読んでいく形式で行います(二週間に一度〜月一、スカイプで実施)。対象は小説・評論・哲学などなんでもありですが、内容のテーマや問題意識などが、それとなく一貫するようになっています。

 一周目が、エドガー・アラン・ポー「群衆の人」(しげの選、新潮社『モルグ街の殺人・黄金虫』所収、巽孝之訳)→ジャック・デリダ「人間の目的=終わり」(左藤選、法政大学出版局『哲学の余白・上』所収高橋允昭・藤本一勇訳)→未定(赤井選)となっています。

 

 読書会のやり方・回数も選者が考えるので、それぞれで異なります。しげの選「群衆の人」はそれぞれが精読してきて批評しあうという形式。1〜2回での終了の予定です。一方、左藤選「人間の目的=終わり」では、参加者のみなさま(あるいは何人か)にレジュメを作ってきていただきます。

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▲どっかのカルチャークラブみたいな告知

参加する場合

・日程はその都度相談しますが、基本的に金曜晩の予定です。

・参加する際は、一周分は全て参加していただきます。できるだけ積極的に。

・毎回、その報告・感想・総括を左藤に提出していただきます。(「大失敗」三人が目を通します。ブログで掲載する可能性あり)

・人数が多すぎると読書会として成立しないので、人数は最大四人までとさせていただきます。仮に参加希望が多すぎる場合は抽選になります。

・参加希望者は、TwitterのDM、メール(daisippai19@gmail.com)、運営三人への個人的な連絡などでご連絡ください(参加希望は二月十二日まで)。

・そのほか、ご不明な点・ご要望なども上記の連絡先まで。

 

さて、批評的知性の復権のために、様々なことを学ばせていただければと思っております。みなさまからのご連絡をお待ちしております! 

 

(文責 - 左藤青) 

daisippai.hatenablog.com

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京都文フリ終了/今後の予定

 1月20日みやこめっせで行われた文フリ京都でしたが、無事終了いたしました。ご来場いただいたみなさま、ありがとうございました!

 ありがたいことに『大失敗』は予想よりもたいへん盛況でした。今後さまざまな場所に販売しに参りますので、今回来られなかった方々は「大失敗」ブログやツイッターでの情報をお待ちください。

 

 現在、『大失敗』創刊号は、以下のいずれかの方法で購入できます。

(創刊号内容紹介についてはこちらをご覧ください)

 

① 左藤青あるいは赤井浩太から買う

 現在、『大失敗』の在庫は左藤(京都)か赤井(神戸)が管理していますので、近郊のかたはご連絡いただければ入手可能です。ご連絡はTwitterのDM、メール(daisippai19@gmail.com)などで受け付けています。

新潟県で手に入れる

 『大失敗』のしげのかいり、もしくは小野まき子から、新潟駅周辺で購入できます。ただしこちらは数量の関係で予約制になります(一月三十一日まで)。

③ 神戸大のイベント(三〇日)で買う

 一月、赤井浩太が「すばるクリティーク賞」を受賞しました。その関係で、神戸大でイベントが開催される運びとなりました。左藤青も参加予定です。こちらでも『大失敗』即売会があります。

  

 以上となります。現在、関西以外では入手が難しい状況ですが、通販など現在検討中ですので少々お待ちください。随時連絡させていただきます。

 

 また、読書会・イベントなど、新しい企画もいろいろと模索中です。二月には皆様に周知いたしますので、今後とも「大失敗」をよろしくお願いいたします。

 

 それでは、どこかでみなさまとお会いできることを祈っております。

 

 

(文責 - 左藤青

 

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『大失敗』創刊号 巻頭言(左藤青+しげのかいり)

《現実≠現在》へ

 もうひとつの〈前衛〉と「大失敗」のために

 

 現代日本に幽霊が出る——「批評」という幽霊である。

 「批評」はしばしば「アクチュアル」な問題に対応すると言われる。学問・研究(=アカデミズム)が「すでに死んだもの」の死体検分にすぎず、つねに「遅延」をはらんでいるのに対し、「批評」は、生き生きとした「思想」であり、「生きた自由な言葉」であり、目の前にあるその都度のコンテンツ、その都度の〈現実=現在アクチュアル〉に対応し、あるいは対抗していくのだとされる。「批評」と「研究」はあるときには共同し、あるときには敵対するが、それらはそもそも別のものとされている。

 その定義自体はそれほどおかしいものではない。私たちもまた、ある種の「研究」のためにこの本を書いたわけではなく、ある意味で、現実をよりよく理解し、よりよく批判するために書いた。けれども、そもそも私たちにとって〈現実=現在アクチュアル〉は、それほど自明のことではない。ここでこう問わなければならなくなるのだろう。すなわち、アクチュアルactual=顕在的なものとは何か? と。

 けれども、こうして語り出しているとき、私とあなたはすでに、一つのわなにとらわれている。この段階へと躊躇なく突き進んで行くとき、批評はたやすく、一個の哲学的「闘争」へと変貌してしまうだろう。すなわち「〈現実=現在アクチュアル〉とは何で〈ある〉か」という本質=存在論に、そして「真の〈現実=現在アクチュアル〉とは私たちの言うところのものである」という定義の「闘争」に。だが批評はかつて「学の王」であった哲学でも、「存在の家」であった詩でもなく、したがってひとつの「闘争」ではなかった。これまでの歴史の中で、批評はつねに「婢女」であり、存在から遠く離れた散文であり、《異化》であり、ひとつの「逃走」であった。

 では、なぜ我々は存在から「逃走」しているのか。それは「反日武装戦線〈狼〉」による「三菱重工爆破事件」から逃れるためである。

 

 たとえばジル・ドゥルーズは、『ニーチェと哲学』(一九六二)の中で、ニーチェを読解しながら「解釈とは計量である」と書いた。カント以来の批判クリティー(=「批評」)を貫徹することとは、ある現象の意味をいま占領している力のバランスを計量し、その力の「高次の度合い」を見極め、そこに介入することなのである。介入することができるのは、そのピュイサンスが最大の値を取るときである(ニーチェが自らの仕事を「系譜学」に位置付け、ギリシャ哲学を読んだのは、それこそが哲学にとって「高次の度合い」を取ったときだったからだ)。

 その点で、反日武装戦線〈狼〉が起こした事件はきわめて批評的だった。当時の新左翼の「反帝・反スタ」が無自覚なナショナリズムに基づいていることを彼らは「計量」し、それを否定したからである。

 この事件は、当時の「闘争」する主体である新左翼——日本の批評家を含めた——に対する痛烈な批判として機能した。新左翼の論理には、帝国主義戦争を戦う環として、そもそも「日本」が自明のものとして想定されていた。むろんこの認識には無自覚なナショナリズムと土着性が否応なく刻み込まれている。この土着性を批判するロジックこそが「反日武装戦線」だったのである。この「反日」というアンチテーゼには、日本という存在の根拠を問う、ラディカルな問いが含まれていた(だから、「アクチュアル」なものとは「反日武装戦線〈狼〉」である)。

 ドゥルーズによれば、「計量」はつねに、その批判者の〈生の様式〉や〈存在の仕方〉、すなわち「実存」を反映したものとなる。反日武装戦線〈狼〉がこのように「反日」を掲げることで、いわば日本にとって存在論的ともいえる問題を提起できたのは、彼ら自身、新左翼の無自覚なナショナリズムナルシシズムの力を「計量」できるほどにその問題に自覚的であり、その問題提起が彼らの実存に根ざしていたからである。

 しかしもちろん、この問題提起はひとつのディレンマに陥る。日本人が「日本」を否定し「闘争」したとしても、そこには「日本人の死体」が積まれるだけで、「日本人」でなくなるわけではない。このディレンマから、必然的に「闘争」は特攻隊的な精神主義と自滅に向かわざるをえないだろう。私たちは反日武装戦線〈狼〉の、「反日」という存在論的・根本的な問題提起の正当性を認めよう。とはいえ「反日」のラディカリズムとテロルによって「日本人」の死を夢見ることは、私たちにはもはやできないのである。

 それでは、私たちはどこへ行くのか。

 

 ところで、「前衛」とは、かつての新左翼によって切り捨てられたジャーゴンである。マルクス・レーニン主義は、「前衛」を掲げる自分たち左翼こそが「アクチュアリティ」を持ったものであり、それに対して西側諸国は愚劣な後進国にすぎないと認識していた。この「前衛」を批判したのが、かの吉本隆明である。吉本は、前衛を主張した共産党は「大衆の原像」を喪失しているとして批判した。吉本の批評は、全体主義化してしまった前衛党による統制主義、いわゆるスターリニズムの「大失敗」を批判し、返す刀で「アクチュアル」なもの、すなわち「大衆」を持ち出すのだ。

 もちろんこのような吉本的・新左翼的な「前衛」批判には、見え透いたレトリックが隠されている。実のところ、吉本や新左翼が持ってくる「大衆」や「反日」は、前衛に対立する「後衛」ではなく、前衛を差異化した別の「前衛」だったのである。吉本的な批判は、それ自体「前衛」の反復に過ぎず、「前衛」から離れることができたわけではない(むろん、「エリートを批判して生活者を擁護する」この吉本的批判は、今なお力を持っている)。私たちはテロルの悲劇からも、吉本的なレトリックからも遠く離れて、いまいちど〈前衛〉アヴァンギャルドの方へ赴いていくことにしよう。

 私たちはこの〈前衛〉という語を用いることで、「アクチュアル」というあまりに多義的な言葉に、差異を導入したいと思う。〈前衛〉は、このイコールの上に逃走線=抹消線を引き(〈現実≠現在〉)、隊列を構成するための、もっとも「ニューウェイヴ」な、かつ、もっとも古い標語である(実際、歴史的に見て、批評はつねに、このある種の懐古趣味を披露してきた。批評が「幽霊」だとすれば、それは「再来霊ルヴェナン」なのである)。

 実際、私たちは、もはや〈現実≠現在〉すなわち「ポスト・フェストゥム」(「後の祭り・祭りの後」)を生きているのであり、生き生きとした〈現実=現在アクチュアル〉を生きてはいない。木村敏はこの「ポスト・フェストゥム」を、「躁鬱病」的心性だと述べた。実際、「現代人」は存在論的に鬱病である。終わってしまった現実を生きている現代人に、「現在」など存在しない(あるのは過去だけである)。過去の失敗の訂正不可能性を生き続ける人間にとって、さまざまな「アクチュアル」な学問や芸術や技術たちは、せいぜい対処療法くらいのものである。たとえば『ゲンロン4』で東浩紀はいみじくも「批評とは病」であると述べているが、私たちはここで東のまったき正しさを認めなくてはならないだろう。この「病」とはここでいう「鬱病」だからである(それは最近の東の様子を見てもあきらかだ)。ところで、批評は「患者」の増殖を目指すゲームだった。

 ちなみに、東浩紀が正しい点はもうひとつある。東が、近視眼的=非思想的なリベラルを批判し、「思想」とは長期的に耐えうるものでなければならないと述べるところである。前段までの事情で、私たちはこの東の指摘にまったく同意しなければならないだろう(ただし、東がそうした「愚痴」を言う際にカントやヘーゲルのような哲学を引き合いに出すのに対し、私たちはそこに「マルクスの亡霊たち」という〈前衛〉を見るのではあるが)。

 私たちは悲劇的なテロル=闘争を回避する、喜劇的「逃走」(「大失敗」)として〈前衛〉を標榜する——けれどもそのとき同時に、ある「知性」の持続を、継続的に運営することが可能な「党」の復権を目指さなければならないはずだ。〈前衛〉を標榜し、かつ持続させるために、私たちは批評的知性を信じよう。東のプロジェクトは、いかに「成功」しようとも、持続しえた試しがない。これは本質的な問題である。

 

 最後に、「大失敗」という、わざとらしく笑いを狙って場を白けさせているようなこの「名」について触れておこう。この名を人がどのように解するかについて、私たちは特に語ることがない。けれども確かなことは、この名前をつけた直後から(つまり私たちがまだ一冊も本を出していない段階で)いくつものリアクションがあったということである。あるときには、その名は神経を逆撫でする「逆説」として読み込まれ、あるときには何かのギャグとして、あるときにはかえって勇気づけるものとして(なぜか)読み込まれた。そしてこの言葉は、しばしば安易に用いられる。「日本は大失敗だ」、「私が大失敗だ」、「あいつらは大失敗だ」と。

 むろん、ただの名詞を何に用いようが自由である。誰であれ、この名を道具としてたやすく用いることができる。「『大失敗』こそ大失敗ではないか」と、誰でも思いつく皮肉もあったようだ。しかし確実なのは、ごく単純に、「大失敗」があまりに「広告的」な言葉であり、使用者の手に馴染んで、どのような対象に対しても用いられうるということである(ここに、ある凡庸な「手癖」がある)。この「広告」こそ、まさに反復される〈前衛〉だった。そのとき彼らは自由に話しているつもりで(「シラケつつ」)、実はその手元の広告的言辞の使いやすさに「ノって」、束縛されていたのではなかったか。

 

 私たちに必要なのは「生きた自由な言葉」なる、ブルジョワの玩具ではないし、私たちがそのようなものを持ちうるはずもない。ここにあるのは、『神曲』の如きカノンによって構成される「不自由な」言葉の敗走であり、陰に陽に永続し続ける階級社会に対する、「たたかうエクリチュール」である。


 

 

(文責 - 左藤青しげのかいり

 

『大失敗』創刊号は二〇一九年一月、京都文フリ(@みやこめっせ)にて発売。(出店:こ-38。入って奥の左側)

 

 本誌内容紹介

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鈍刀(ひらがな)を振るうー赤井浩太について

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 昨日、わたしの友人である赤井浩太さんが『すばるクリティーク賞』なる賞を受賞しました。これはたいへんめでたい事です。賞のなまえが県名の後に「情報」とか「クリエイティブ」とかつけさえすれば大学の名になるとおもっているバカ大学のようであっても、これはたいへんめでたいことでしょう。なぜならば賞をとれば賞のなまえがもらえるからです。レースならば一番をとるべきであり、二番三番など意味はありません。つまり赤井浩太さんの批評は一番をとったわけですから、これほどめでたいことは無いのです。

 なぜ一番しか意味がないのか。それはいささかバカ大学的な論理にさんどうするかたちになりますが、なまえにつけることができるからです。なのるなら「一番の男」でしょう。わたしは「二番の男」とか「三番の男」などとじまんしている人間を見たことがありません。ですから「一番の男」しかなのれないのではないかと、わたしはおもうのです。したがって赤井浩太さんは、賞を獲ったその日から一番の男になったわけです。りっぱですね。すごいですね。一番の男・赤井浩太はこれから権謀術数が渦巻いている乱世の世を二つの大太刀、平岡正明谷川雁をもってして、わたりあるくわけです。

 その点で中島岳志のかれに対する「尾崎豊のようになってしまう」という疑問符はいささかミスリーディングのようにみえます。かれのような一番の男が、二枚目であり、内面をもった青年期の屈託を象徴する「尾崎豊」になるはずがないでしょう。リアルを腹にすえたかれのような「一番の男」が、現実から打ちのめされ、自らをこわしていく尾崎豊のごとき恐怖や憂鬱を、文学として据えられるはずがありません。そもそもかれは二五歳であり、それぐらいの大人だったら「尾崎豊」のような「社会に出てきて、仕事に追われ夢を追っていた自分が時間とともに薄れることを感傷する」なんてことは無いに決まっているではありませんか。

 とにかく、かれは一番の男になれたのであり、かれの評する「リアル」は一番だと認められたわけです。しかしながらそのように総評を見ていくとよくわからない箇所があります。大澤信亮さんがいう「コスプレ感」という評です。

大澤 〔…〕さっき杉田さんが言っていたコスプレ感というのが、僕はどうしても消えなかった。〔…〕真面目な人が無理やりコスプレ的にワルな感じを出しながらノリで書いているんじゃないか(笑)。必死にノリで自分を鼓舞しているようにも読めた。(『すばるクリティーク』二〇一九年二月号、選考座談会より。二五三頁)

 選評を見ていくと、選考委員たちは赤井浩太さんが共同体をベースにして書いていることをよみながらも、それがコスプレ感があることで否定的に扱っていますそれならあんたのおとなりにいるのは福田恆存のコスプレじゃないのか、なんてことはいいおとななので云いません。そんなことはどうでもよろしい。それよりも問題は、選考委員たちが赤井浩太さんの文章を一個の共同体論としてよみながらも、それがコスプレ的であることが疑問符として持ち出されていることでしょう。

 わたしならこう考えます。一番の男赤井浩太が共同体をベースにして物事を考えて「レペゼン地元」を生成しているのであれば、それはコスプレ的になるのは当たり前の話ではないか。なぜならば吉本隆明の『共同幻想論』を持ち出すまでもなく、共同体というのは「約束事」がなければ成立しえない。この「約束事」は、いくらか馬鹿に見えてもまもらないと共同体は維持できないだろう。バラバラな個が個としているだけならば、それは共同体とはいえないからだ。こう思うのです。ですから、共同体はフィクションを要請するし、それこそが方言としての「ヒップホップ」ではないかとなります。

 その点でわたしには赤井浩太さんの文章が共同体の構成するフィクションについてかたっているライト・ノベル(小説)のようにみえなくもありません。しかしながらわたしは「リアル」というフィクションによって構成される共同体に対して、いささかも興味が惹かれません。わたしにとって興味があるのは、個のなかにある共同体であり、もっというと分裂し続けながらもどこかで空間と時間の一致を「しんじている」内面であり、もっといえば、内面が身体に出てしまうことであり、さらに言って仕舞えば内面の統一性をどこか信用させてしまう他者の身振り・手振りであり、つまり、分裂し続けながらも、それ自体が機能として承認されてしまう視覚の作用です。

 その点では赤井浩太さんが言うリアルとは一番の男として言うべきことを言ったとは、わたしも思いますが、かかる一番の男の「リアル」を「リアル」として受け入れることはできません。そのような「リアル」は地元のなかにしかないと言いたいのではなく、「真実のリアリティ」なるものを映し出しているのは不敵な笑みを浮かべた視覚だというのがわたしの考えです。

 わたしは戦後民主主義自体はきらいです。しかしながら「リアル」をこうせいするラッパー族(あぶれ族)の魅力よりも、地元という「リアル」を粉砕して、地に足のつかない都市を増幅しつづける高度経済成長の搾取に下支えされた戦後民主主義の方が、いささか破壊的なアジテーションではないかと思うのです。まあそんなことはどうでいい。いずれにせよ赤井浩太さんが一番の男になれたのはとてもいいことではありませんか。ちなみにわたしだって一番の男になりたいときもあります。しかしそれは多重人格の一番の男であり、足や手を失った人間たちの「唯一」の一番を据えられる批評を書いてみたらなという願望以外のものではないでしょう。

 

 それは具体的になんぞやときかれれば、この文章であると不徹底ながら、わたしはいいかえします。そして、ここからさきはわたしと読者の諸君がともにかんがえることです。なぜならばわたしは「一番の男」でもなければ、賞を受賞した唯一の批評でもないからです。これは「一番の男」である赤井浩太さんにけいはつされてかいた、わたしなりの「アジビラ」でありますが、都市と対峙する谷川雁平岡正明の「方言」とおなじく、意味を規定する「漢字」にたいしてわたしがもちだした「ひらがな」もまた、それなりに戦後民主主義やラッパーのバイブスとたたかうことができる魅力的なことばのようにおもえます。まあそんなことはいまおもいついたデタラメにすぎませんが、意識的なデタラメほど権力的な「リアル」を撹乱するものはないのではないかとわたしは思います。

 

 いずれにせよ赤井浩太さんの受賞はめでたいことです。一番の男赤井浩太さんのこれからの歩みをわたしは期待してみてしまいますね。

 

(文責 - しげのかいり

 

twitter.com

 

 

 

 

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「大失敗」運営の赤井浩太が「すばるクリティーク賞」受賞!(赤井によるコメント付)

 こんばんは、「大失敗」運営の左藤青です。ツイッターなどでは情報がフライングで広まったりしていた関係で早くからお伝えしていたのですが、本日ブログでもお伝えします。「大失敗」運営の一人赤井浩太がこの度、「日本語ラップfeat.平岡正明」ですばるクリティーク賞を受賞しました。おめでたい。  

 『すばる』サイトはこちら。→すばる - 集英社

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▲「すばる」サイトの画面。ちなみにこの帽子は前に会った時忘れていったので左藤の家にあります。

 すばるクリティーク賞は、名前の通り文芸誌『すばる』の賞でして、選考委員は大澤信亮氏、杉田俊介氏、浜崎洋介氏です。今回はゲストとして中島岳志氏が参加されています。浜崎氏は、ブログでも赤井の論考についてご紹介されています。

 一緒に雑誌を作ってきた仲間がこうしていろんなところで言及されているのは、身内としてはなんだか変な感覚ですが、今後の「大失敗」にとっても赤井の批評ライフにとっても大きな一歩になることでしょう。ツイッター上での反応もまとめてみました。是非ご覧ください!

togetter.com

 さて、今回の受賞にあたって、赤井から「大失敗」向けにコメントをもらいましたので、掲載しておきます。

過去の栄光は食えねぇから捨てろ。――MY HEAT/THA BLUE HERB

 

第二回すばるクリティーク賞を頂いた。


選評も読んだ。言いたいことは色々あるが、何はともあれありがたい。しかし賞を獲って浮かれているような暇はない。

『すばる』で貰えたチャンスにかじりついていこうと思う。俺が臨む道のりは長いのだ。

だから読者の皆さま、どうかここはひとつ、若輩者の青くさい志を買っていただきたい。

 

さて、すでに我が「大失敗」は動きだしている。

俺の役割は、批評シーンに向けられた鉄砲玉、あるいは橋頭堡だと言っておこう。

この受賞を皮切りに、左藤青、しげのかいり、俺というポレミカルな、あまりにポレミカルな同人三名で批評の前衛ラインを形成する。

歴史を振り返ってみれば、日本の文芸は、生まれては消えてゆく魑魅魍魎のような同人誌の中で育った。商業誌はそこから活きの良いやつを吸い上げて日本の文学や思想を成長させてきた。そして今、アンダーグラウンドにおいて増殖しつつある批評誌のさまざまなグループは、新たなる可能性の種子であり、同時に出版不況の反映でもある。

そういう状況のなかで、これは俺の予想ではあるが、近視眼的な流行り一辺倒ではなく、辛めの政治性とコクのある歴史性をグツグツに煮込めたヤツから頭ひとつ抜けてくるだろう。

時代は今が潮目だぜ、まだ見ぬ同志たちよ。今のうちにてめぇの頭を左に巻いておけ。

そしてまだ一巻も出ていないうちから「大失敗」に目を付けた読者の皆さま、その御眼鏡にかなうブツを用意いたしました。1月20日京都文フリ、よろしくお願いします。

 

最後に、引用をひとつ。

いま時代がおれらに合わせ通過。――NEW MONEY Remix/TOC

 

 以上です。なんかがんばっていますね。  

 

 そういうわけで、『すばる』とともに、「すばるクリティーク賞」受賞者による宮台真司論が掲載されている『大失敗』一号もどうぞよろしくお願いいたします(批評家・絓秀実氏による論考も掲載)。ちなみに赤井の方でも「大失敗」について総括的なツイートをしているので、彼のアカウントからごらんください。 

 

 ちなみにフライングで情報を広めたのは、 

  中森明夫氏でした。

 

▼ 赤井の寄稿する「大失敗」創刊号

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 (文責 - 左藤青


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「大失敗」これまでの歩み、ブログ記事まとめ(2018.9〜2019.1)

 こんにちは、「大失敗」運営の左藤青です。

 繰り返しお伝えしていました通り、ついに『大失敗』本誌の発売が一月二〇日にせまっていますが、ブログ立ち上げ以来(宣伝のために!)書いてきた記事の主要なものをまとめておきます。発売までに各自予習しておくように。

創刊号内容紹介

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 まずは何と言ってもこれ。革命的批評家・絓秀実氏を迎え、第二回すばるクリティークで文壇に認められた(?)男・赤井浩太が運営に参加(創刊号では宮台真司論を掲載)。そのほか、ブレヒト金井美恵子、有頂天(ケラリーノ・サンドロヴィッチ率いるニューウェイヴ・バンド)などについての論考が読める。

 批評対象こそバラバラだが、全員がある一定のテーマに基づき書いているため、全体として統一感のある読み物を作れたと思う。「理論は道具」(byドゥルーズ)であり、使えるものはなんでも使えばいいのだ。

批評宣言

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 左藤青作。二〇一七年に若くして自殺した批評家・マーク・フィッシャーから、再度日本における「批評」を考える。後半には、『大失敗』創刊号の構成メンバー(赤井浩太、小野まき子、左藤青、しげのかいり、ディスコゾンビ#104)の紹介あり。この段階ではまだ「大失敗」が全体的に固まっていなかったこともあり、若干抽象度が高いが、今だにこの問題意識のもとで動いていることは間違いない。

(左藤のツイッター

twitter.com

知識人論

浅田彰と資本主義

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 しげのかいり作。「衒学」の象徴のように雑に語られることの多い浅田だが、彼が背負っていた政治性=左翼思想史の文脈について明らかにされることは少ない(特定の人々にとっては自明なので)。いったい浅田彰は何をしていたのか? 彼の目指した「革命」とはなんだったのか? また、現代における「批評家」像の根拠としての浅田彰という側面にも触れる。

(しげののツイッター

twitter.com

資本主義的、革命的(東浩紀外山恒一

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 左藤作。ゼロ年代以降、支配的になった東浩紀の批評だが、それはなぜ支配的だったのか? 若手の批評家たちが明示的にも暗示的にも自明のものとして受け取っている東の思想の出所を探るために、運動家・外山恒一と比較する。一見すると外野から水を浴びせているだけの外山の東批判は、あらゆる思想(政治)を批評に呑み込んでいく東のスタイルの核心を突いているのではないか。批評と思想は同じものなのか? そこに見いだされるのは思想の「棲み分け」であり、知識人の二つの在り方だ。

 前述の浅田論に応答する形で書かれた知識人論。個人的な観測範囲では、この東と外山という取り合わせを間に受けている批評家はほとんどいなかった。ゲンロンがぐだぐだになった今から見ると少し感慨深いものでもある。

(ちなみに外山氏にお会いした際、ご感想をお聞きしたところ、「僕は言及されればなんでも嬉しい」とのことであった)

絓秀実入門

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 しげの作。前述の左藤の記事「資本主義的、革命的」で最後に登場した絓(すが)秀実についての「入門記事」。『革命的な、あまりに革命的な』が増補として文庫化するなど、再度注目されている絓だが、若手の左翼論客が天皇主義・戦後民主主義のベタな肯定に傾いていく中で、もはや「最後の左翼」というポジションである。

 しげのはここで絓による筒井康隆の「断筆」批判を通じて、言葉・表現の「不自由さ」について考える。絓秀実はしげのの最も敬愛する批評家であり、力が入った批評になっている。この文学観は、『大失敗』創刊号にしげのが寄せている文章「金井美恵子論」とも重要な関わりがある。

 繰り返す通り、創刊号では絓氏の論考をいただけることになった(この話がまとまったのは十二月中頃であり、この記事が公開された時点ではそんなことは夢にも思っていなかった)。その助走として、読んでおくべきもの。

 

   

批評

左藤青の音楽批評(平沢進井上陽水) 

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 左藤作。「馬の骨」と呼ばれる一部のオタクにカルト的人気を誇る平沢進について、しかし彼がファンに優しくなる前の、最もトガっていた時期の作品(P-MODEL『Perspective』)を批評。詩の意味性という「遠近法」(「光」)に抵抗し、外部への裂け目を入れようとする「音」について、そしてその後の平沢進の大失敗についての論考。

 井上陽水『氷の世界』論は、しばしば「シラケ世代」と呼ばれる陽水の内向的で非政治的な詩が、つねに巧妙に欲望しつつ逃れつづける「他者」/外部への両義的な関係を整理。後半では竹田青嗣大澤真幸による陽水論を批判。

赤井浩太の小説批評(角田光代

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 赤井浩太作。すばるクリティークで「批評家」に成り上がった男赤井。角田光代論と言いながら、横に秋山駿とアンリ・ルフェーヴルを置き、ある種のディストピアとしての「郊外」を論じている。実は彼は、自身の体験からしても「郊外」にこだわり続ける批評家であり、それは『大失敗』本誌の宮台論でも顔を見せている。

 一方で、注目すべきは文体である。最新の『すばる』二月号に載っている赤井の批評「日本語ラップfeat.平岡正明」では、ラップ調のオラついた文体を披露した赤井だが、ここでは非常に憎たらしい皮肉のこもったイヤミ文体で文章を書いている(ちなみに僕、左藤はこっちのイヤミ文体が非常に好みであり、つい読まされてしまう)。

 赤井の真骨頂はこうした文体のマジックなのである。『すばる』の審査員(大澤、杉田、浜崎、中島)たちは、さすがプロだけあってそこに結構気づいているものの、まだまだ赤井の器用さ・大胆さを知らないといったところだろう。

 ちなみに『大失敗』本誌の宮台論では、この両面が見られるようになっている。

(赤井のツイッター

twitter.com

  

時評・書評

左藤青の時評(『新潮45小川榮太郎、『文學界』落合・古市/『新潮』東浩紀

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 左藤作。初めは色々とアクチュアルなことについて毎月書いてみようと思ったのだが、毎回Twitterで巻き起こる議論がバカバカしすぎて、なかなか書けなかった。

 内容については読んでもらいたい。結局、僕がつねに問題にしているのは「制度」を批判することである。これは柄谷・蓮實・浅田というような(吉本隆明によって「知の三馬鹿」と言われた)批評家たちが常々言っていることだったけれど、僕はそういう意味では非常にベタに「ニューアカ」だし「ポストモダン」な人間なのだろう。

 特に後者(「抽象化の悪と『想像力』のゆくえ」)はけっこう読まれているようだ。やはり、落合・古市は受け入れられないが、かと言ってそれを批判している人たちもおかしい、というようなモヤモヤを抱えている人は一定数いるのであり、そういう層に必要なのは批評的な「想像力」なのだろう。

 あと、なぜか少なからず誤解があったようなのでこの場で言っておくが、僕は落合陽一も古市憲寿も全く評価しておらず、単なる現状肯定を新しいことだと言いふらしているだけの反動主義者だと思っている。ただ、そうしたネオリベ的世界観に対抗できるのは、おそらく素朴な「ヒューマニズム」や「リアリズム」ではない。

赤井浩太の書評(外山恒一全共闘以後』)

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 赤井作。『全共闘以後』が発売されてすぐに書かれたもの。前述の通り赤井は文体の魔術師なのだが、こちらはお得意のラップ文体で書かれている。で、ラップ文体で書かれているわりにかなり手際よく丁寧にまとめてあるギャップが笑えるというのが身内の感想だけれど、ともかく要約として素晴らしいと思う。

 『すばる』の座談会で、文芸批評家の浜崎洋介が「赤井の批評はアジテーション」と評しており(「勢いのある文章で読ませるけど、これはアジテーションではないのかという疑念がどうしても拭えない。僕は、批評とアジテーション、あるいは批評と物語は違うと思っていますが、〔…〕」*1)、もちろん赤井は「アジ」のつもりで文章を書いている。多分「大失敗」の面々は「批評はアジビラ」と考えていて、その場合僕は「ビラ」担当だけど(笑)、赤井は「アジ」担当なのだろう。

*1:「2019 すばるクリティーク賞 選考座談会」、浜崎の発言。『すばる』二〇一九年二月号所収、集英社、二五四頁。

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【時評】抽象化の悪と「想像力」のゆくえ ——磯﨑憲一郎による落合陽一・古市憲寿批判

Imagine there's no Heaven
It's easy if you try(Imagine / John Lennon

想像力の欠如?

 僕は小説家・磯﨑憲一郎を尊敬しているし、氏の作品が好きである。「批評」を標榜している割には、とりわけ小説の類をそんなに読めていない僕にとっては、端正で執拗なまでの具体的描写と、時には突飛な場面転換が持ち味の磯﨑の作品は数少ない愛読書である。

 ところで、Twitterでは、最近磯﨑憲一郎のある「文芸時評」がにわかに話題になっていた。 

 リンクの先を読んでもらえればおおよその事情はわかるであろう。磯﨑の時評は『文學界』一月号における落合陽一と古市憲寿の対談「『平成』が終わり、『魔法元年』が始まる」(これもweb上で読める)に対する批判になっているのだ。

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 この対談の内容は、全てを「テック」で解決し合理化していく、という落合の「芸風」からほとんど想像可能なものではある。この対談の中でとりわけ問題になったのは、終身医療をめぐる落合と古市の議論だ。古市は「お金はかかっているのは終末期医療、特に最後の一ヶ月」と前置きした上で、次のように言う。

古市 〔…〕だから、高齢者に「十年早く死んでくれ」と言うわけじゃなくて、「最後の一ヶ月の延命治療はやめませんか?」と提案すればいい。胃ろうを作ったり、ベッドでただ眠ったり、その一ヶ月は必要ないんじゃないですか、と。(落合・古市「『平成』が終わり、『魔法元年』が始まる」)

 人間の生命をコストカットという「合理化」のうちに収めるという点で、ショッキングなようにも見える一節だし、実際ここに怒る読者も少なくないだろう。それに対する磯﨑の批判は次のようなものだ。

この想像力の欠如! 余命一カ月と宣告された命を前にしたとき、更に生き延びてくれるかもしれない一%の可能性に賭けずにはいられないのが人間なのだという想像力と、加えて身体性の欠如に絶望する。そしてその当然の帰結として、対談後半で語られる二人の小説観も、「文体よりもプロットに惹かれる」と述べてしまっている通り、身体性を欠いた、単なる伝達手段以上のものではない。(磯﨑「文芸時評 作家の生き様」)

 ここで磯﨑憲一郎の指摘が興味深いのは、この落合・古市の態度を「身体性の欠如」として、そのまま文学に直結させている点である。文学における具体性=身体、つまり「文体」を見落とし、「想像力」を欠如した古市と落合の態度は、文学的ではなく、人間を抽象化に巻き込んでいく「悪」の所業に他ならないというわけだ。

 ちなみに対応箇所は次の通り。

古市 最近読んだ朝吹真理子さんの『TIMELESS』がそういう小説だった。言葉の一つ一つが端麗でみずみずしくて、ストーリーよりも言葉の美しさを追える素敵な小説。でも、僕は基本的には文体よりもプロットに惹かれる。(落合・古市「『平成』が終わり、『魔法元年』が始まる」)

 しかしこうしてみると、若干磯﨑による批判は強引なものなのがわかる。古市は「プロットに惹かれる」と述べる前に、それこそ具体的に朝吹真理子の小説を挙げ、しかもその文体を評価していた。だから、具体性を称揚する作家が、実はこのように古市の議論を「抽象化」することで批判しえている点は注目しておく必要がある。しかもそのように古市が「プロット」を好む理由は、藤子・F・不二雄の作品を通して次のように語られる。

古市 〔…〕そうやって世界の違うありようを見せてくれる作品が好きなんだよね。/現実世界においても、フィクションの想像力はすごく使われているなと思う。〔…〕/小説に比べると、いわゆる論文なんてここ数百年のもので、そこまで普遍性のあるフォーマットではない。でも、おそらく物語はホモ・サピエンスの歴史と同じぐらい昔からある。文字が残される前から、神話という形で物語が存在してきた。物語は評論より全然古くて、物語でしか伝わらないものがあっても不思議じゃない。(落合・古市「『平成』が終わり、『魔法元年』が始まる」)

  正直に言って僕自身、この対談を実際に読むまでは、こいつらの言っていることは磯﨑のいう通り具体性を欠いたものなのだろう、ぐらいに思っていた。しかし、読んでみると彼らの議論は(確かに素朴だが)別の意味合いを持って現れてきたのである。問題はほんとうに「想像力の欠如」だろうか?

 そもそも磯﨑は「想像力の欠如」を問題としている割に、この古市の「フィクションの想像力」という発言は読まなかったことにしている。古市にもなにかしらの「想像力」がある。重要なのは、この両者の「想像力」の差異を明確にすることだ。

 磯﨑にとっての「想像力」は、「更に生き延びてくれるかもしれない一%の可能性に賭けずにはいられないのが人間なのだという」、人間のリアリティに対する想像力である。磯﨑の「想像力」はリアルへと向いている。現実存在する「人間」であり、ここでは特に「老人」に向いている。

 しかし古市の「想像力」はあくまで虚構に向いており、非実在への想像力、物語の想像力である。フィクションの想像力は、むしろ現実を別の仕方で見せるものだ。それは磯﨑のいう「想像力」とは異なるものの、とはいえそれを一概に「想像力の欠如」と言うことはできない。古市によればそれは、つねに現実に影響を及ぼしてきたものでもある。

 「世界の違うありようを見せてくれる」想像力の必要性は、僕自身、哄笑批評宣言でも書いたし、一月二〇日に出る『大失敗』創刊号では、それを「《異化》としての批評」という形でテーマにしてある。しかし厄介なことは、ここで古市の虚構への想像力が、次の様に説明されていることである。

古市 〔…〕落合君の言う「魔法」は物語に近いところがある。昔の人にとっては、言葉を語ること、物語を語ることは、ファンタジーを見せることに近かったんじゃないかな。〔…〕今ここにないものを見せてくれるという意味では、文学と魔法はすごく近い位置にあるんだと思います。(落合・古市「『平成』が終わり、『魔法元年』が始まる」)

 ここでは、文学の「現実とは異なる姿を見せてくれる」という点が、古市の卓越した要約能力により、落合陽一の「魔法」すなわち、「テクノロジーの進化により我々の物の見方そのものが変わるので問題はなくなる論」(僕による大雑把な要約だ)に接合されているのである。

 しかし、ここで一つのことに気づかなくてはならない。つまり、磯﨑が「想像力の欠如」と罵った落合や古市の議論がそれ自体、むしろ、「いまだ−ない」ものへの過剰な想像力によって下支えされていることだ(落合なら、それを想像力ではなく可能な「未来予測」だというかもしれないが)。したがって問題は想像力の欠如どころか、むしろ想像力の過剰にあるのではないかというのが、僕の見立てである。

 「哄笑批評宣言」で、自殺したマーク・フィッシャーに倣って、僕は「いま・ここ」とは別の世界像を見せるものが批評(の一側面)だと書いた。ところが、その想像力は、実はある意味で、簡単に現状肯定に繋がってしまいうるものだ(実際、対談の中で落合は現政権をかなりベタに肯定している)。つまり「魔法」という別の現実がなんとかしてくれるんだから、理系の人らに色々任せて我々庶民はたんに待っていればいいという話になる。こうした加速主義の「魔法」が単なる気休めであることは、遠回しにではあるが、僕は井上陽水論でもすでに書いている。

目覚めよ、ニューアカしぐさから

 ところで、磯﨑の批判はほぼ古市に向けられていたが、同時多発的に? ツイッターでは落合陽一批判の流れがあった。その中で使われていた言葉に「ニューアカしぐさ」というものがある。

 なぜかこの落合批判とともに、その時代を生きた老人達のニューアカ批判がはじまった不思議の国ツイッターランドだが、相変わらずこの世界には、ソーカルを持ち出せばドゥルーズラカンを終わったことにできると思ったり、ニューアカとさえ言えば浅田彰中沢新一を批判できたと思ったりする「土人」(©︎浅田)が後をたたないので、そういう人たちにこそ「想像力」を身につけてほしいものだ。

 「ニューアカ」が「衒学」や「ファッション」なのはある意味間違っていないにしても、こういう認識に対して、「大失敗」はしげのの論考ですでに応答しているので、特に語ることはないだろう。また、この手の誤解に関しては

 こういったツイートを見るだけで済む話だ。

 ところで、僕が思うに問題の根本はこうした謎の「ニューアカ」批判が多くの場合、「成熟」ベースでものを捉えていることである。

 つまり森次の、あまり文章を読めたことのなさそうな(「天才画家」だから言葉などいらないのであろうが)ツイートを参照するさい見なければならないのは、「ああいう文を読んで『インテリってすごーい!』となる時期」や「無知な少年少女達を守りたい」という文言だ。ここに現れているのは、「衒学的な文章に惑わされていた時期」から「そこから目覚めて正しい現実を知った時期」の見事な分断であり、成熟の幻想である。

 特定の人々のあいだでは、この二つの時期は綺麗さっぱりと「境界画定」されている。自分はある段階を超えて——「ニューアカ」を乗り越え——「成長」してきたのであり、「無知な少年少女たち」を教え導く立場にあるのだ。ここには、ある「成熟」への自明視がある*1。つまり「俺たち昔は夢見てたけど現実知ってやめたよ(お前も現実を早く知りなさい)」なのである(ちなみにこの「現実」には「経済」や「科学」などの語が代入可能)。

 僕が想像してみるに、彼ら彼女らには、おそらくなんらかの苦い青春というか挫折、諦め、「黒歴史」があったのだろう。彼ら彼女らはそれを反省し、明日へ向かって日々の労働を始めたというわけだ。しかしそれは実は単に反動的なのであり、「この道しかない」というひとつの「現実」、ひとつの「成熟」を無批判に決定してしまっただけである(もちろん、浅田彰ならばそうした雑な「成熟」観を批判するはずだ)。こうした粗雑な「現実」主義/「現場」主義(=リアリズム・「資本主義リアリズム」)こそが、むしろ、おそらく「想像力が欠如した」状態に対応しているというべきだろう。

 落合や古市を「エセ学問」として冷笑したくなる気持ちはわからなくはない。しかし、多くの場合その手合いに限って、ベタなリアリズムに陥り、またしても「制度」に対し無批判的になってしまう。事実、多くの人々が、彼らが実際大学では大した業績を残していないことをあげつらい、その「不真面目さ」を指摘していたが、もちろんそうした優等生的な自意識が問題の本質を批評できるはずもない。

 そうしたリアリズム論者に比べれば、先ほどの古市の方がよほど豊かな想像力を持っている。というか「魔法」は多くの場合、このリアリズムに対してこそ強力な力を発揮するのであり、共犯関係ですらある。

 問題は、やはりそのように別の世界を見せる想像力が、「気休め」として機能してしまうことなのだ。リアリズム(想像力の欠如)にせよ「魔法」(想像力の過剰)にせよ、「現実」を批判=批評しえないのである。

 

抽象の悪から

 「現実」を《異化》しつつ、さりとていっときの気休めとしての「夢」を見せないためにどうすれば良いのだろう(ちなみに『大失敗』創刊号の赤井さんの論考がこの辺に深くつっこんで考えてます)。磯﨑ならばそこにおそらく文学の仕事を見るだろう。

今の時代に、具体性・身体性の積み上げである芸術=小説を書き、読むこともまた、「抽象化と数値化」に抗する一つの実践となるのではないだろうか?(磯﨑「作家の生き様」)

 ところで、ここで磯﨑が依拠しているのは、『新潮』一月号の東浩紀のエッセイ「悪と記念碑の問題」である。

ぼくはむかしから人間の悪に関心があった。それも、個人がなす悪ではなく、集団がなす悪、つまり、政治や組織の力によって媒介され増幅される悪に興味があった。(東「悪と記念碑の問題」)

 東が「悪」というものこそ、上の引用で磯﨑がいう「抽象化と数値化」である。我々一人一人、僕やあなたは「具体的」で、固有名を持つ、交換不可能な、かけがえのない個人である。ところが、例えば国家はそうした具体性を剥奪し、我々を数的に管理する。つまり質から量への転換を測るのだ。東はこれを、自身が小学五年生でたまたま読んだ森村誠一悪魔の飽食』から語る。

ぼくがそこで出会ったのは、いま振り返って名づけるとすれば、人間から固有名を剥奪し、単なる「素材」として「処理」する、抽象化と数値化の暴力である。(東「悪と記念碑の問題」)

 磯﨑がここで「具体性・身体性の積み上げである芸術=小説」を書くことを称揚するのは、この暴力への抵抗としてなのである。ところで東の話はこれで終わっていない。磯﨑が引用しつつ無視している通り、東はこの暴力を「知の源泉」として不可避のものと捉えているからである。

 東によれば、「人間から固有名を剥奪し、『素材』として『処理』することができなければ、ぼくたちは国家も作れないし資本主義も運営できない」。そして「人間は国家と資本主義のもとでしか人間たりえない」。それが本当なのかは前項の理由から留保をつけたいが、東がいう「逆説」とはこれなのだ。(「国家」や「資本主義」に限らず)抽象化と数値化の暴力は批判すべきものだが、同時に必須であり、我々はその暴力がなければ生きていくことができない。ちなみにこの逆説が、「暴力と形而上学」以来のデリダの「暴力」論から受け継がれているのは、デリダの読者には自明であろう。

 東はさらに、ロシアへの「観光」の記憶から、この逆説を展開する。東は、「ペルミ36」(ソ連時代の収容所跡)で見た「銃殺対象者」のリストと、ブトヴォの虐殺の記念碑を対比させ、それらが意味合いは全く違うものの、どちらも固有名の羅列であることから、「両者のリストはかぎりなく似ている」と直感する。つまり、一方ではそれは「犠牲者から人生を奪うために、すなわち固有名を剥奪するためにこそ」作成されたリストであり、もう一方で「犠牲者の家族たち」が「逆に彼らの人生を取り戻すためにこそ」利用するリストなのである。だから東はこう結論する。「抽象化と数値化の暴力は、一方で固有名を剥奪し、一方で固有名を回復させる」。

同じ精神が、銃殺と記念碑をともに可能にしている。抽象化と数値化の精神が。(東「悪と記念碑の問題」)

 しかも記念碑は(プラトンが「文字=エクリチュール」に対して指摘しているのと同じく)それ自体記憶のために建てられるにもかかわらず、しばしばそれが「建てられたこと」によって出来事を忘却させるものである。必要なのはこの想像力、つまり、具体性でも虚構でもなく、このジレンマを思考する想像力ではないのだろうか。この複雑さを磯﨑はどう読んだのだろう?

 「具体性・身体性の積み上げである芸術=小説」という、使い古された抽象的な定義が、実際のところ抽象化にどう抵抗しうるというのだろうか。おそらくそれも、たとえば書店で、図書館で、アマゾンで、抽象化され数値化され、単なる交換可能な番号としてアーカイヴ化されるのである。

 そしてアーカイヴ化されたことによってはじめて、つまり磯﨑言うところの「身体性を欠いた、単なる伝達手段」という媒介を通じることではじめて、人々は磯﨑の小説の「身体性」にアクセスできる。東の言説はそのレベルのきわめて「具体的な」問題にまで拡張できる。

 磯﨑は、文学と具体性の神話、その権力に対する外部性を素朴に信じている。もちろん、そのような試みはいままでもなされ続けてきたし、そして多くの場合「大失敗」し続けてきた。芸術への素朴な信頼は、度々「政治の美学化」へと帰着するだろう。芸術の具体性、すなわち素朴な「現前」をいくら信奉していたとしても、それは「表象=再現前」を介して、ここで言えば「悪」を介してしか、効力を発揮することはない。

 僕もそれなりには文学を信じたいのであるが、もしそれが力を持つとしたら、つねにそうした抽象性に抹消されてしまうものの、それでも「痕跡」としては残る「もの」としての文学、あるいは「ジャンク」としての芸術(©︎絓秀実)だけだろう。これが東のいう逆説から出発して具体性=身体性を思考することであり、「現実」を異化するにたる批評だといまは思っている。

 最後に、もう一度古市・落合の話題に戻しておこう。古市はその延命治療の問題に当たって、こう言っている。

古市 今の六〇代や七〇代は自分の親世代の介護ですごく苦労してるんだよね。そういう六十五歳の人は、定義上は高齢者ではあるけれど、もしかしたら安楽死には肯定的かもしれない。六十五歳以上を一緒くたに高齢者と捉えると、見誤ってしまうことが多い。〔…〕死にたいと思っている高齢者も多いかもしれない。この超高齢社会で安楽死や延命治療の議論は避けては通れないはず。(落合・古市「『平成』が終わり、『魔法元年』が始まる」)

  「更に生き延びてくれるかもしれない一%の可能性に賭けずにはいられないのが人間」だとするなら、「家族に迷惑をかけたくないからさっさと死にたい」と思うのも人間だし、「だらだら生き延びるくらいなら安楽死したい」と思うのも人間だろう。そして、介護に疲れて親を殺してしまう子も、一個の人間なのだ。長生きして欲しい気持ちと介護に疲れてやめたくなる(=早く死んで欲しいと思う)ことはおそらく普通に両立する。

 どのケースが人間の「具体的」現実かなど決定できるわけがないし、それが複数的で決定不可能であることが具体性なのではないだろうか。実際介護が大きな負担になっている家族はあるし、将来的に介護を不安に思っている若者も多いだろう。だから「この超高齢社会で安楽死や延命治療の議論は避けては通れない」と言う古市の指摘そのものは、普通に正しい。果たして、それでも生きたいのが人間であり、それが身体性なのだと言う磯﨑の実存主義的「想像力」はどれほどに「リアリティ」を言い当てたものなのだろうか?

 むろん、この後に続く落合の「終末期医療の延命治療を保険適用外にするだけで話が終わるような気もする」というネオリベきわまる発言に対しては、僕も磯﨑同様「この想像力の欠如!」と言わざるを得ないし、全く同意しない。結局この二人を批判するなら、「お前らは人間の現実を知らない」などという単なるマウンティング以上のクオリティで、彼らの前提そのものを批判しなければならないはずである。

 

 磯﨑憲一郎は、作家としては非常に具体的かつ細密な描写が得意な小説家であり、冒頭に書いたように僕は本当に氏を敬愛している。彼が「具体性・身体性の積み上げである芸術」としての小説を、矜持を持って書いていることも読めばわかる。

 しかし、僕は磯﨑の他の評論を読んだことがないから何も言えないが、彼はこのような「文芸時評」では、度々細かい具体的な論述を読み飛ばし=削ぎ落とし、抽象化をはかってしまう「悪癖」があるのかもしれない。落合と古市の対談が載っている『文學界』での新連載「日本蒙昧前史」も始まったことだから、しばらくは小説に専念していただくのがよいということなのだろう。

 

※ ちなみに東のエッセイが載った『新潮』一月号は、創作大特集と銘打って数多くの新連載をスタートさせている。表紙に書いてある文言は「読むことは、想像力」。またもや「想像力」である。この語はクリシェとして「文学」にまとわりついているようだ。想像力をたくましくさせるのはいいが、問題はその想像力をどう使うかであって、そろそろその使い道を考える時期である。

 

 

追記

二〇日に京都文フリ(@みやこめっせ)発売の『大失敗』創刊号についての紹介を載せておきます。創刊号では、批評家・絓秀実氏の論考「柳田国男戦後民主主義の神話」を収録。

さらには、『新潮』でも『文學界』でもなく『すばる』で、「すばるクリティーク賞」を獲った赤井浩太の文章も載っています(赤井は「大失敗」の運営の一人)。ツイッターも運営中。

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これまでのブログ記事まとめ。

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(文責 - 左藤 青

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*1:むろんこの「少年少女達」と「大人」の境界は「決定不可能」であろう(そう、これが「ニューアカしぐさ」です)。