批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」。一月に京都文フリで本出します。https://twitter.com/daisippai19

【絓秀実氏寄稿決定】『大失敗』創刊号内容紹介

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私たちに必要なのは「生きた自由な言葉」なる、ブルジョワの玩具ではないし、私たちがそのようなものを持ちうるはずもない。ここにあるのは、『神曲』の如きカノンによって構成される「不自由な」言葉の敗走であり、陰に陽に永続し続ける階級社会に対する、「たたかうエクリチュール」なのである。(左藤としげのによる「巻頭言」から抜粋) 

 ご無沙汰しております、批評集団「大失敗」です。

 九月に「大失敗」立ち上げて以来、ブログを書いたり色々していたわけですけれども、あまりに創刊号の内容を公開しないので周囲から「本当に出るのか?」と心配されている有様です。この度、二〇一九年一月に刊行する創刊号の内容紹介をしたいと思います。

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  ▲創刊号表紙

 コンテンツは次の通りです。全体としては二つのテーマから成っています。

  • 絓秀実「柳田国男戦後民主主義の神話」(特別寄稿)
  • テーマ①《異化》としての批評
    • 小野まき子「煙草と図鑑 ブレヒト『セチュアンの善人』について」
    • しげのかいり「金井美恵子論 吐き気あるいは野蛮な情熱」
  • テーマ②「昭和の終わり」と「平成の終わり」
    • 赤井浩太「宮台真司の夢 私小説作家から天皇主義者へ」
    • 左藤青「昭和の終わりの『大失敗』 八八年の有頂天から」
    • ディスコゾンビ#104「俺と空手とS−MX 我々は如何にして恋愛資本主義と戦ってきたか?」(コラム)

絓秀実「柳田国男戦後民主主義の神話」(特別寄稿)

 本ブログでも以前取り扱った、批評家・絓秀実氏による論考です。先日(十二月十五日)の京大人文研のシンポジウム「1968年と宗教―全共闘以後の「革命」のゆくえ―」における絓氏のご発表を収録する形になっています。

 絓秀実氏は、一九四九年生まれの文芸評論家です。「六八年の思想」をはじめ、多種多様な哲学的・批評的言説をたくみに用いつつ思想史を解きほぐし、一方で個別具体の政治運動や芸術運動に「フェティシスト的に拘泥」(王寺賢太による表現)する、独自の批評を展開されてきました。

 本論考は、戦後民主主義、そしてその勘所としての天皇制について思想史を整理し、その問題に迫る内容となっています。『アナキスト民俗学』や『増補 革命的な、あまりに革命的な』(特に付論部分)で展開された議論のまとめ、かつ直接的な問題提起として受け止めることができます。

柳田の神学は、その危惧をこえて強力であった。そのことは、東日本大震災以降における今の天皇のパフォーマンスにおいて明らかになったことである。震災以降、全国を巡る天皇夫妻のパフォーマンス、あるいは、それと相即してなされた海外の戦地歴訪は、それがいかに「ヒューマン」なものに見えようとも、「祖先崇拝」=天皇制トーテミズムの再活性化以外のものではないだろう。繰り返すまでもなく、そのような「祖先崇拝」イデオロギーの顕在化とともに、戦後民主主義を守れという声も高まり、天皇をその「象徴」(=トーテム)と見なす言説が、当然のことのように発せられるようになったのである。(「柳田国男戦後民主主義の神話」本文より)

 ここで絓氏が直接的に参照しているのはフロイトのトーテム理論であり、いわば一種の「日本精神分析」になっているわけですが、この論考における議論が個別具体の文学や表象の問題に直結していることは間違いありません(もちろん「表象の問題」とは「表現の自由」の問題であり、「ポリティカル・コレクトネス」の問題にほかならない)。表象の(再)政治化という私たちの問題意識にとって、絓氏は大きな参照元となりました。

 シンポジウムを聞き逃した方から絓氏の批評に初めて触れる方まで、読み応えのあるものとなっているでしょう。

テーマ①《異化》としての批評

ブレヒトをはじめ、フーコーバディウに至るラディカルな思想家の数々が主張してきたように、社会の解放を目指す政治はつねに「自然秩序(あたりまえ)」という体裁を破壊すべきで、必然で不可避と見せられていたことをただの偶然として明かしていくと同様に、不可能と思われたことを達成可能であると見せなければならない。現時点で現実的と呼ばれるものも、かつては「不可能」と呼ばれていたことをここで思い出してみよう。〔…〕(マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』*1

ある出来事ないしは性格を異化するというのは、簡単にいって、まずその出来事ないしは性格から当然なもの、既知のもの、明白なものを取り去って、それに対する驚きや好奇心をつくりだすことである。〔…〕異化するというのは、だから、歴史化するということであり、つまり諸々の出来事や人物を、歴史的なものとして、移り変わるものとして表現することである(ベルトルト・ブレヒト「実験的演劇について」*2) 

 「異化効果」はブレヒトによって(そしてロシア・フォルマニズムではシクロフスキーによって)提唱されました。「異化」とは何でしょうか。

 このように問うてしまうと、たちどころに「異化」は空虚なものになるでしょう。あるものをあるものに変えると言っても、何をどのように変えて、どうするのか、《異化》という言葉には何も書き込まれていません。それは端的に歴史に左右されるからであり、《異化》は「誤配」と同じく事後的にしか確認できないからです。言い換えればそれは、「〜とは何か」という問いに答えうるような一つの「理論」ではありません。

 それはあくまで実践であり、行為であり、効果です。それは奇妙なほど「不安定」なひとつの出来事だと言えます。ともすれば、他人を不快にさえさせれば《異化》であるというような安易さにすら結びつくでしょう。

 これは批評も同じく、それは積極的に定義を持つものではありません。もちろんあるコンテクストの中で批評の役割を確定することは普通に可能ですが、とはいえ、批評の本質であり批評の存在について問う(「〜とは何か」)ことはできないのではないでしょうか。批評は一個の自立したコンテンツではなく、したがって、またひとつの効果でしかありませんでした。批評もまた「不安定」です。

 ブレヒトアリストテレスの演劇論に対抗していました。それは観客を登場人物、物語に感情移入=同化させる理論だからです。《異化》という実践は、感情移入を拒みます。なぜなら、《異化》は世界の見え方をがらっと変えてしまう、言い換えれば、観客のそれまでの世界観を「疎外」するからです(しかし実は、もしかしたら昔のえらい人はこれを「啓蒙」と呼んだのかもしれません。あるいは最近では「ダーク・エンライトメント」と)。

 このようにして既存の価値基準を「同じもの」でありながら「同一ではない」ものに変化させる効果こそ、《異化》と呼ばれたのでした。ところで、いま「批評」と呼ばれるものはそうした不快さや不安定さを持っているでしょうか。このことについてはすでに別の場所でも触れましたが(哄笑批評宣言)、この答えは宙吊りのままにしておきましょう。

 しかし、もし〈同〉化が必然であるとしたら、《異化》はそれほど簡単ではありません。そのような中で、いかにして〈同〉という〈主〉を《異化》すべきでしょうか。

 そのような観点から次の二つの論考を収録いたしました。

小野まき子「煙草と図鑑 ブレヒト『セチュアンの善人』について」

二〇一八年はブレヒトの当たり年であった。(「煙草と図鑑」本文より)

 ブレヒトの戯曲『セチュアンの善人』は、「善人であれ、しかも生きよ」というテーゼで知られています。この戯曲の中では、神々によって要請される「善人である」ことと、一方で一個の人間として「生きる」ことが、常に矛盾した形で展開されていくのでした。

沈徳〔シェン・テ〕 (不安でいっぱいになって)でも自信がないんです、神様。こんなに物価が高くて、どうして善人でいられるでしょう?

神二 悪いがそれはわしらには手のつけようがない。経済の問題にはかかわれんのでな。(ブレヒト「セチュアンの善人」*3

 娼婦であったシェン・テは、セチュアンの町を訪れた神を家に泊めてやり、神からの礼で煙草屋を営み始めるのでした。%2%同時にシェン・テは、神から「善人」であるよう命を受けます。しかし劇内では、この「善人であること」と「生きること」は、絶えず「弁証法的」な対立を含むものとして表現されていきます。つまりシェン・テは、道徳と労働の間で——上部構造と下部構造のあいだで——引き裂かれていくのです。

 この分裂は具体的に描写されます。善人であるがゆえに他者に施しを与えてしまい、貧乏になっていくシェン・テは、資本の原理に則り、自己のために他者を排斥することのできるシュイ・タを「従兄弟」として作り出し、一人二役を演じることで、なんとかそれを両立しようとするのです。

 小野の論考では、この戯曲における「煙草」というモチーフに着目することで、物語を貫通する「弁証法的」構造を解釈していきます。煙草はもちろん、単に劇中に登場する象徴・表象に止まるものではありません。煙草は公共空間にとっては、他人の権利を侵害する「悪」として排斥されるものでした。

このことは当然、近代都市の群衆の問題として理解されるべきであろう。交換価値の支配する大都市の群衆は、彼ら自身が名もなき社会の成員=労働者であり、清潔に管理されるべき商品なのだ。(「煙草と図鑑」本文より)

 このように資本主義や都市空間へのブレヒトの鮮烈な問題意識を明らかにしていく小野の論考ですが、議論の後半では、「当たり年」であったとされる(例えば:『東京芸術祭』は現代の人々に生じる分断を解消する「お祭り」 - インタビュー : CINRA.NET)二〇一八年のブレヒトの用いられ方に対し、スーザン・ソンタグベンヤミン中平卓馬の写真論などの材料を使いつつ、批判的な考察を展開します。ブレヒトは度々「アクチュアル」な作家とされています。しかし、仮にそうだとしたら、その「アクチュアル」さはどのように担保されているのでしょうか。また現代の作家たちは、劇場という空間の中でどのようにして観客を扱っているのでしょうか。小野まき子の論考です。

都市の人間について何ごとかを語れる重要な詩人は、たぶんブレヒトが最初である。(ヴァルター・ベンヤミンブレヒトの詩への注釈」、*4

しげのかいり「金井美恵子論 吐き気あるいは野蛮な情熱」

さしあたっての問題は書くことのはじまりと同時にやってくる。なぜならばわたしたちは書くことを原点とすることによってしか、作品のはじまりという文学創造の原理へ到達することが出来ないからである。(金井美恵子「書くことのはじまりにむかって」*5

吐き気がするほどロマンチックだぜ/お前は(ロマンチスト - The Stalin

 金井美恵子は一九四七年生まれの小説家・詩人・批評家です。ヌーヴォー・ロマンに影響を受けた、長くうねるような文体や、批評家や小説家を皮肉るエッセーで知られる金井ですが、しげのかいりの論考では、金井の初期小説作品における「書くこと」が分析されます。

 しげのによれば、金井の「書くこと」は初期作品から執拗に繰り返される《私》と《あなた》の構造のうちで、極めて奇矯な自己撞着的構造を持っています。ここでの分析では、「書く」行為は、「読む」ことで摂取した=食べたものを「吐くこと」であり、エクリチュールは一個の吐瀉物なのです。

金井美恵子にとって「書くこと」とは、「読むこと」によって必然的に催す「吐き気」である。作家・金井美恵子は、書くことの動機として主体的な意志を必要としない。「書くこと」は「読むこと」によって突き上がってくる「吐き気」によって作られるにすぎないからである。(「金井美恵子論」本文より) 

 論考後半では、メニングハウス『吐き気』などを手掛かりに、「吐き気」をめぐる美/醜の問題に考察が及びます。「吐き気」は、美学的には、そして政治的にはどのように扱われるべきでしょうか。ここから見出される「不純なスターリン主義」とは何でしょうか。「吐き気がするほどロマンチック」(ザ・スターリン)な、しげのかいりによる金井美恵子論です。

テーマ②「昭和の終わり」と「平成の終わり」

 「昭和」から「平成」へ、かつてあったはずのあの切断についても、これから生じることになるあの切断についても、それ自体ひとつの「配列」以外のなにものでもないことが意識されなければならない。この視座からすれば、たとえば「平成生まれ」のような共同性に根ざして特定の出来事や対象を扱うことは、もはや「制度」に対し現状追認的である、と言わなければならなくなる。(左藤「昭和の終わりの『大失敗』」より)

一九四五年以後、この国には「戦前」と「戦後」という区別が存在する。これは「敗戦」を契機とするとはいえ、やはり「神」であった天皇が「人間」になってからの時間的思考だ。だから、ぼくたちが生きているこの日本社会には、いまでも「天皇制」の時間が流れていると言えるだろう。(赤井「宮台真司の夢」より)  

 『近代日本の批評』(柄谷行人編)『現代日本の批評』(東浩紀編)を見れば分かる通り、批評はときに時代を語ってきました。たとえば『現代日本の批評』は、座談会を七五年から八九年、八九年から〇一年で区分しています。そのことは、市川真人による基調報告「一九八九年の地殻変動」を見れば明らかです。もちろんこの「地殻変動」は「冷戦終結」でもあり、また様々な業界(音楽、ゲーム、お笑い、etc.)にとってもある種の変わり目であったわけですが、これらの「変わり目」がそのまま「昭和の終わり」/「平成の始まり」に(つまり昭和天皇崩御に)重なっていることは偶然でしょうか。

 『大失敗』が刊行される二〇一九年は、平成最後の年です。この平成最後の年に直面して、日本では再度「象徴天皇制」のある不思議さが露わになるとともに、「平成」とはなんだったのかという問いや、平成の出来事を回顧する言説も多く見られるようになりました。二〇一九年になればそれはさらに増えていくでしょう。二〇一九年はひとつの「区切り」や「変わり目」として認識されており、ひょっとしたらのちに「地殻変動」と呼ばれるのかもしれません。

 さてそのような「変動」をいま迎えようとしている、この切迫にある私たちは、〈いま・ここ〉の多様なアクチュアリティを語るのではなく元号という時間をめぐる言説・表象についていま一度考えてみたいと思います。そのことは、〈アクチュアリティ〉という言葉の新しさが消去するであろう、ある「持続」を暴露するのかもしれません。

赤井浩太「宮台真司の夢 私小説作家から天皇主義者へ」

 宮台真司はこうして一時はリベラル知識人の代表格と目されるようになるのだが、彼がその手口の裏側で温存したのが「天皇制」であったことは、反リベラルを自称する現在の彼を見れば明らかである。しかし、今もう一つあらためて明らかにされねばならないことは、彼がデビュー当初から現在まで一貫して「私小説作家」であったということだ。(「宮台真司の夢」本文より)

 昭和の終わり=平成のはじまりにデビューした社会学者・宮台真司は、九十年代を通じてある種のヒーローでした。システム理論という社会学的分析を武器に世相を斬り、様々な言説を論破していくパフォーマンスによって、「批評の社会学化」(「社会学の批評化」)を成し遂げた「リベラル知識人」宮台真司ですが、近年の彼がリベラルを批判し、「天皇主義者」を自称していることはよく知られています。

 赤井の論考では、そのように社会学的分析が反リベラル・「天皇主義」へと傾いていく様を、宮台の分析手法そのものが要請するものとして、つまり宮台の秘された内在的スタイルの問題として批評します。赤井によれば、宮台真司社会学者などではなく、「私小説」作家でありました。

つまり、彼は世界の「歴史」よりも私の「夢」を生きたかったのである。ただ、その志向を「社会」に投影したという一点において、彼は社会学を隠れ蓑にした私小説作家であった。(「宮台真司の夢」本文より)

 そのような「天皇主義」の問題とはなんでしょうか。そして、その問題を超えて思考するためにどうすればいいのでしょうか。そのような問題意識から出発し、宮台真司に対する痛烈な批判=ディスを含む、「批評界のMC」赤井浩太の論考です。

——仕方ねぇからシンジくんに見せてやるよ、マジもんの批評ハーコーアジビラスタイルってやつを。そして読者の皆様、大変長らくお待たせいたしました。ここからは白黒ならぬ赤白の決着をつけるショー・ビジネスでございます。不肖のわたくし、「大失敗」の鉄砲玉でありますが、打たれても出る杭、叩かれても出るモグラ、それでもドグマを説くのは、本邦まるで省みられることのないのルンペンの皆様のためであります。サァサァ、おあにいさん、おあねえさん、いらっしゃい、いらっしゃい! 退屈はさせないよ!(「宮台真司の夢」本文より)

左藤青「昭和の終わりの『大失敗』 八八年の有頂天から」

セックス・ピストルズが象徴した七〇年第後半の反体制=「パンク・ロック」は、実際非常に「ポップ」だったわけだが、そのポップさが単なるスタイルへと形骸化し、ひねくれた都会人のファッションになったものが「ニューウェイヴ」なのだ。パンクは「ロックは死んだ」と宣言した。ニューウェイヴは「すべてはコピーである」とあざ笑う。しかし、パンク/ニューウェイヴどちらにせよ、音楽だけではなく、ある種の態度決定にまつわる、雑に言えば「実存」にまつわる「運動」だったことは確かだ。それはものの見方を規定し、社会に接する態度を規定したのだ。(「昭和の終わりの『大失敗』」本文より)

  かねて「大失敗」は「ニューウェイヴ」を標榜してきました。しかし「ニューウェイヴ」とはなんでしょうか。それは確かに一つの音楽のスタイルです。XTCDEVO、一時期のYMOなどに代表させられるような軽薄短小なスタイル、「スカスカ」な音……けれどもそうした音楽たちは、その時代においては、ある「実存」に関するものでした。

 ここで左藤が着目するのは、そうしたニューウェイヴ・スタイルのある種の臨界点としての「ナゴム・レコード」です。ナゴムは、日本でも最初期(一九八三年)に創設されたインディーズ・レーベルです。

 ケラ(現在のケラリーノ・サンドロヴィッチ)が代表となった「ナゴム」には、筋肉少女帯電気グルーヴといったバンド、そしてもちろん大槻ケンヂピエール瀧といった「サブカル人」を輩出しました。「ナゴム」は、演劇、文筆、俳優、など音楽にとどまらない才能が集う場所であったわけですが、その実、非常にくだらないものでした。

www.youtube.com

(「人生」は電気グルーヴの前身)

 この「ナゴム」のしょうもなさを批評の問題として引き受けることを考えつつ、ここで左藤はとりわけ、ケラ率いるニューウェイヴ・バンド「有頂天」の一九八八年のアルバム『G∩N』(ガン)を批評します。

 最近(おそらくは演劇の業績で)紫綬褒章を受章したケラリーノ・サンドロヴィッチは、八八年の昭和天皇吐血と「自粛」ムード(浅田彰はこれを指して「土人」と揶揄した)のなかで、次のように歌っていました。

王様はキトク/今に塔も折れる

あった国にあったボク/あったボクら

「ブチコワセ」なんてコトバ/ブチコワして

今日もアソコへ行こう(有頂天 - Sの終わり)

 この「Sの終わり」は「昭和の終わり」です。『G∩N』(=癌)では、他の楽曲でも、この「危篤」、「病」のイメージが頻出し、昭和天皇崩御を存分にネタにしていきます。この意味では、彼らの音楽は一種の「不敬」音楽でした。

 「大失敗」の名前の元ネタとなった楽曲「大失敗’85」も含むアルバム『G∩N』を通じて、表象の(無)意味と元号を考える、左藤青の論考です。

ディスコゾンビ#104「俺と空手とS−MX 我々は如何にして恋愛資本主義と戦ってきたか?」(コラム)

モテ/非モテという対立軸があった。(「俺と空手とS−MX」本文より)

 「昭和の終わり」と「平成の終わり」を生き抜く漫画家・ディスコゾンビ#104氏によるコラムです。八〇年代から今までを支配する「モテ−非モテ構造」(恋愛資本主義)を記述するこの文章では、多種多様な商品・広告・コンテンツが現れては消えていきます。そうしたコンテンツたちは、男の承認欲求を満たそうとする「商法」として整理され、その商法と非モテたちの「戦記」が描かれるのです。

究極の社会的弱者K.K.O.非モテらによる一斉武装決起によりSNS、とりわけツイッターは阿鼻叫喚の地獄と化した!(「俺と空手とS−MX」本文より)

  ある意味もっとも「アクチュアル」なこのコラムは、「昭和の終わり」から「平成の終わり」にかけての歴史を語るものとして重要な役割を果たしています。S-MXという「恋愛仕様」車を頂点とする恋愛資本主義に男たちはどのように立ち向かうのでしょうか。ディスコゾンビ#104による論考です。

 

*1:マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』、セバスチャン・ブロイ、河南瑠莉訳、堀内出版、二〇一八年、五〇頁。

*2:『今日の世界は演劇によって再現できるか ブレヒト演劇論集』所収。千田是也訳、白水社、一九六二年、一二三、一二四頁。

*3:ベルトルト・ブレヒト「セチュアンの善人」『ブレヒト戯曲全集第5巻』所収。岩淵達治訳、未來社、一九九九年。岩淵訳では「ゼチュアンの善人」。

*4:ボードレール 他五篇』三〇二頁

*5:金井美恵子「書くことの始まりにむかって」、『金井美恵子エッセイ・コレクション{1964–2013}1 夜になっても遊びつづけろ』所収(平凡社、二〇一三年)、三〇頁。

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大失敗のRadio-Activity 第六回「赤井浩太の必勝すばるクリティーク講座」(応用編)

第六回

 

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2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。

前回に引き続き、日本の第二回すばるクリティーク賞受賞者である赤井浩太「先生」が、「通信教育」でレクチャーしていきます(ゲストは中上健次研究者の松田樹さん)。

なぜか若干影が薄い「先生」をよそ目に今回は、「応用編」ということで日本における批評の新人賞の歴史をできる範囲で振り返り、「批評家の就職難」問題に切り込んでいきます。後半では現在の「ポスト東的」知的状況についても批評を加えています。


なお、『大失敗』創刊号はこちらからご購入いただけます👉https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSfn0SY9uIfZyPRkeabze01Q3Z7DJtM7quPPajDEcYwlBEwu9g/viewform

 

パーソナリティ:赤井浩太左藤青、ゲスト=松田樹(神戸大学

編集・写真・BGM:左藤青

 

 

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大失敗のRadio-Activity 第五回「赤井浩太の必勝すばるクリティーク講座」

第五回

 

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2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。

日本の文芸誌の評論部門の賞で特に大きなものといえば、「群像新人賞」と「すばるクリティーク賞」ですが、2020年はどちらの賞も受賞者なしということで、「不作」の年でした。

そこで今回は、批評家志望の皆さんに向けて、第二回すばるクリティーク賞受賞者である赤井浩太「先生」が、どうすれば賞を取れるような評論が書けるのか、そしてそのためにはどのようにして本を読んでいくべきか、「通信教育」でレクチャーしていきます(ゲストは中上健次研究者の松田樹さん)。

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そのためには、とりわけ、『群像』と『すばるクリティーク』の審査委員たち(『群像』が東浩紀大澤真幸山城むつみ、『すばる』が大澤信亮杉田俊介浜崎洋介中島岳志)が応募作を批評する際の基本的な傾向を把握しておくことが大事です(傾向と対策)。

 

それぞれバラバラの思想的な背景を持つ彼らですが、その読解にはある一定の「手癖」(クリシェ)があります。これは、現在の「批評」界隈の性質を知り批判的に見つめつつ、そこに介入することに他なりません。

「批評はみんなでやるもの」すなわち「受験は団体戦」ですので、今後も頑張っていきましょう。

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パーソナリティ:赤井浩太左藤青、ゲスト=松田樹(神戸大学

編集・写真・BGM:左藤青

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ベンヤミンのチェスはだれが勝つ――いざ大失敗の方へ!

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よく知られている話しだが、チェスの名手であるロボットが制作されたことがあるという。そのロボットは、相手がどんな手を打ってきても、確実に勝てる手をもって応ずるのだった。[……]この装置に対応するものを、哲学において、ひとは想像してみることができる。「歴史的唯物論」と呼ばれている人形は、いつでも勝つことになっているのだ。それは、誰とでもたちどころに張り合うことができる――もし、こんにちでは周知のとおり小さくてみにくい、そのうえ人目をはばからねばならない神学を、それが使いこなしているときには。――ヴァルター・ベンヤミン*1

その試合は、わたしたちのスタジアムでおこなわれるあらゆる試合のうちで、あらゆるテレビ放送のうちで、日常のあらゆるありきたりのもののうちでくり返されている。わたしたちがその試合を理解し、それを止めさせることができないかぎり、希望は絶対にないであろう。――ジョルジョ・アガンベン*2

チェ・ゲバラの肖像からワウリンカの左腕へ

テニス選手のスタン・ワウリンカの左腕には、サミュエル・ベケットの小説からとられた有名な一節が刻まれている。《Ever tried. Ever failed. No matter. Try again. Fail again. Fail better》。これまでやったことは全部失敗だったし、また挑戦しても失敗するにちがいないが、つぎは上手に失敗できるようになるだろう。ワウリンカはジョコビッチにたいして14連敗、ナダルにたいしては12連敗中だった。けれど、ワウリンカは入墨をいれた翌年の全米オープンで、ジョコビッチナダルを下して、見事優勝をはたしている。記者の一人は、彼の「成功」を讃えて「失敗者になることに失敗」と表現した。*3ワウリンカの言葉を信じるなら、彼はこれまでグランドスラムの優勝を目標にかかげたことは一度もなかったそうである。入墨をいれた年のインタビューで、ベケットの一節の意味を聞かれたとき、彼はこう答えている。《テニスの世界では、ご存じの通り、ロジャー、ラファ、ジョコビッチ、アンディ以外の選手は滅多に優勝なんてできないんです。必ず負けるようになっているんです。でもね、僕たち選手は、負けを前向きに捉えなきゃならない。そして、また仕事に戻らなきゃならないんです》。*4

ベケットの一節は、英語圏では人口に膾炙したもので、だれでも知っているものだが、最近ではシリコンバレーの起業家たちにとりわけ好まれているらしい。たとえばティモシー・フェリスの『「週4時間」だけ働く。』のなかで引用されており、その箇所は、Amazon電子書籍でもっともハイライトされたパッセージのひとつに数えられている。ベストセラーとなった同書の副題は、「世界中の好きな場所に住み、ニューリッチになろう」というもの。ベケットの亡霊はさらに、Tシャツ、ポスター、マグカップ、マウスパッドに印刷されて流通している。*5日本語版を「ライフハッカー」覗くと、「上手な失敗は成長のもと。失敗を怖がらないで、未来への道筋を切り開こう」と題して、ベケットの一節が紹介されている。*6これが、『いざ最悪の方へ(Worstward Ho)』と題された散文作品の一節がたどった運命なのだ!

ベケットの一節が実現しないことは、いかにもベケットらしい展開といえる。ここで焦点をあわせるべきは、「失敗が失敗する」ことの行為遂行的パフォーマティヴな次元である。失敗の精神は、ただひたすら成功を支えるものとして(のみ)理解されるようになっている。ベケットの一節の解釈には、その内容にかんして事前的なものと事後的なもの、そして行為遂行的パフォーマティヴなものを別けて考えことができる。ワウリンカがインタビューのなかで表明しているのは、まさに事前的な態度――失敗と折りあいをつけなければならない――である。たいして事後的な態度は、「成功」のあとに、「上手な失敗こそ成功の第一歩」と位置づけるものだ。では、ベケットの一節の行為遂行的パフォーマティヴな(側面を強調した)解釈とはどのようなものか?*7 重要な事実は、ワウリンカが「大成功」しない(グランドスラムを制覇しない)ままキャリアを終えることも十分ありえた、というか、かなりありそうだったということである。その場合にも、左腕に刻まれた入墨は、わたしたちにむけてそれなりの教訓をあたえてくれたかもしれない。しかしそれは、「あまりにもリベラルな」教訓となっていたことであろう。

おもしろい符合がひとつあって、作家のJ. M. クッツェーが、ポール・オースターに宛てた手紙のなかで、スポーツが教えてくれるのは「敗北の精神」なのだと述べている。シリコンバレーの「成功の哲学」が、事後的に眺められたワウリンカの入墨の意味と一致する(「上手な失敗は成長のもと。失敗を怖がらないで」)としたら、クッツェーの考察は、事前的に眺められたワウリンカの入墨の意味を(あたかも)解説しているかのようだ。

プロのテニスについて考えよう。トーナメントには三十二人の選手が参加する。彼らの半数が第一ラウンドで負け、甘美な勝利を一度も味わうことなく家に替える。残った十六人のうち八人はたった一度の勝利と追放を味わって家に帰る。人間的な見地から言うなら、トーナメントでひときわ目立つ経験は敗北という経験だろう。
[……]
 スポーツには勝者がいて敗者がいる。あえて言うこともないのは(あまりに明らかだから?)勝者の数をはるかに上まわる敗者がいるということだ。[……]
 スポーツが教えてくれるのは勝つことについてよりも負けることについてで、理由は簡単、われわれのじつに多くが勝たないからだ。なによりそれが教えてくれるのは、負けたっていいんだ、ということだ。負けることはこの世で最悪のことではない、なぜならスポーツは、戦争と違って、敗者が勝者によって喉を掻き切られることはないのだから。*8

この手紙が書かれたのは2010年のことだから、文字通り事前的なのだが、クッツェーがのちにワウリンカの入墨を知ったら(ベケット研究者としても)歓んだことは想像にかたくない。ただわたしの見解では、クッツェーは「スポーツ」から「十分にベケット的な」結論を引き出していない。クッツェーは大衆スポーツの起源が、19世紀(比較的最近)にあるということを示唆している。そこから一歩進めて、近代スポーツと資本主義の平行性にまで話をもっていかないことが、彼の議論に弱みと残酷さを授けている。《負けることはこの世で最悪のことではない》という比較的穏当な意見は、この類推の根底にあるものを見逃してしまうことによって、度を越して残酷な側面をもっていることを曝け出してしまう。クッツェーはいっているのだが、《もしパレスチナ人が敗北を甘受することを学ぶならそれは悪いことではないかもしれない》。*9なんということだ!

それがスポーツから学ぶ大いなる経験知だ。人はほとんど常に負けるが、勝負の場にとどまり続けるかぎり明日があり、名誉挽回するチャンスはあるんだ。
[……]
 僕はイスラエル人とパレスチナ人が月に一度、どちらも肩入れしないレフェリーをつけて、サッカーをやるところを見たいと思う。そうすればパレスチナ人はなにもかも失うことなく負けることも可能だ(いつだって翌月の試合があるのだから)と学ぶことができ、一方のイスラエル人はパレスチナ人に対して負けることだってある、だからなんだ? と学ぶことができる。*10

政治を「ゲーム」の隠喩で捉えることの限界が、これほどあらわになっている場所はほかにない。期待されているのは「ゲーム」の効果であるというより、もっと「儀式」めいた過程であるようにおもわれる。レヴィ=ストロースによると、人類学者がニューギニアのガフク・ガマ族にサッカーを教えたところ、彼らは両チームの勝敗が完全にひとしくなるまで、何日でも試合を続けようとしたそうである。*11あきらかに想像しがたいのは、イスラエル人が(現実の不平等な条件を遺憾におもって)進んで負けようとするところだ。真の「敗北」は、もちろんゲームの内容ではなく行為遂行的パフォーマティヴな次元に属している。この場合、ゲームに参加する姿勢が、すでにパレスチナ人の敗北を証言しているとみなされてもおかしくはない。

レヴィ=ストロースによると、ガフク・ガマ族はサッカーを「ゲーム」としてではなく、「儀式」として捉えていた。平等をめざす傾向は「儀式」に特徴的なことだが、たいして「ゲーム」は、不平等な結果を産出することをめざしている。ゲームにおいて平等なのは規則であって、出発点においても結果においても、「平等であること」は求められていない。むしろ出発点における差異を際立たせることが、ゲームの目的なのである。ゲームが産出する不平等な結果は、平等な規則をくぐり抜けることによって、不平等な条件を耐えやすくするという効果をもっている。ゲームとは(デヴィッド・グレーバーの言葉を借りるなら)「規則のユートピア」なのだ。*12政治をゲームの隠喩で捉えることの限界は、資本主義をとうてい公平なゲームとみなすことができない理由と一致する。すぐにみるように、資本主義は絶えずその明示されざる規則を変更していくので、おそらくその猥雑さが、わたしたちに、「規則のユートピア」(典型的には近代スポーツ)を愛すべく促すのだろう。ゲームの公平さはその点、政治のモデルとしてはまやかしをふくんでいる。結局のところわたしたちは、平等な規則から平等な条件が導き出されるような機構を、ただのひとつも知らないからである。

規則は一般に不平等な条件を固定する。そこで問題は、規則を受け容れたときには絶対に勝つことができない視点(たとえばパレスチナ人)が存在するということではないか? けれどこの視点は、そもそも自分自身の「失敗」すら証言することのできない袋小路である。かつて「チェ・ゲバラの肖像」は、反資本のメッセージが、消費資本主義の論理に(不可避的に)回収されることの「寓話」として語られたことがあった。だがそれは、はたして資本主義の「成功の寓話」だったのか、それとも反資本闘争の「失敗の寓話」だったのか? ここでは意外なことに、勝負の行方は勝者をして語らしめるべきである。仮に「勝者」が資本主義であったとしても、それは、自分自身の「失敗」を認識できないだろう。よりよい仕方で失敗することにいつも失敗する勝者、ワウリンカの逸話の特権的なポイントは、この行為遂行的パフォーマティヴな転換を示していることだ。ワウリンカをして21世紀のチェ・ゲバラたらしめよ。それは、資本主義がまともな仕方で失敗できないことの寓話、あるいはたんに失敗が失敗することの寓話である。

いまでは、ワウリンカの入墨は彼の成功を支えた不屈の精神を表現したものとみなされている。よき失敗をこころざすことから最高の成功への転身には、ほんの一歩の距離しかない。けれどその一歩が飛び越えた深淵は、そもそものはじめから、メッセージの内容に刻み込まれていたのだとしたら? 資本主義をして語らしめる必要があるのは、「上手な失敗」をめざす方向が、いつしか「最悪の方へ」とむかってしまう、この行為遂行的パフォーマティヴな転換を掴みとるためである。その位置はわたしたちにむかって、現在の規則からは絶対に負けることしかできない視点が存在することを教えてくれている。

経済学エコノミクスの失敗と失敗の経済エコノミー

有名な話だが、2008年の金融危機の直後、英国のエリザベス女王ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの経済学者たちにむかって、「なぜだれも危機を予測できなかったのですか」と素朴な疑問をぶつけた。経済学者たちは満足な回答をもちあわせていなかった。何ヶ月もあとになって、恥じ入った経済学者たちは討論会を開き、長々とした議論のすえ、ようやく折衝的な回答を女王のもとに送り届けることができた。公開書簡のなかで、彼らは危機を警告するひとたちがたくさんいたことを認めている(ただ、その「時期」を正確に予測できたひとはだれもいなかった、と彼らは弁明している)。「失敗」はおもに「賢いひとたちの集団的な想像力」が、「全体としてシステム・リスクを理解できなかったこと」にあると彼らは述べている。そこには「否認の心理」がはたらいていて、パーティの途中で「パンチボウル」を下げることはだれにもできなかったのだそうだ。*13

2006年にはすでに、アメリカのクリープランドやデトロイトのような都市の低所得者地域では、住宅の差し押さえが急増していた。けれど、影響を受けたのはおもにアフリカ系アメリカ人、ヒスパニック系移民、シングルマザーだったので、メディアはろくな関心を払わなかった。ようやく2007年のなかばごろになって、差し押さえの波が活況を呈していた地域(フロリダ、カリフォルニア、アリゾナネバダ)の白人中間層にまでおよび、主流メディアや役所が関心をもちはじめた。年末の時点では、200万人近くが住宅を失い、400万人以上が差し押さえの危険に曝されていた。アメリカ全土で住宅価格が下落し、借り入れができずローンが返済できなくなる世帯がどんどん増えていった。

クリープランドはまるで「金融カトリーナ」に街を襲われたようだった。持主に放棄され窓に板張りがされた家々が、貧しい居住区、主として黒人の住む地域の景観を襲った。カリフォルニアでは、たとえばストックトンでのように、町のどこの大通りでも、その通りに沿って空き家と放棄された家々がずらっと軒を並べていた。フロリダとラスベガスでは、いくつものマンションが住む者のいないまま林立していた。差し押さえにあった人々はどこかに雨露をしのぐ場所を見つけなくてはならなかった。カリフォリニアとフロリダではテント村ができはじめた。他の都市では、複数の家族が友人や親戚と相部屋したり、マーテルの窮屈な部屋を仮住まいにしたりした。*14

こうした事実にもかかわらず、FRB議長のベン・バーナンキは、2007年6月5日の時点ではまだつぎのように認識していた。《現時点では、サブプライム市場での問題がより大きな経済や金融システムに波及しそうな見通しはありません》。*158月9日には、フランス最大手の銀行BNPパリバが、傘下ファンドから引き出しを停止すると発表した。パーティの終わりを告げる鐘の音が、それを聞きたくないひと(もしくは聞かないことによって利益をえているひと)の耳に届きはじめ、金融トレーダーたちのあいだを、にわかにパニックが広がっていった。だがその時点でもなお、為政者たちは、政府の大規模な介入なしに危機が底打ちすることもありうると考えていたのである。

この住宅ローン破局の金融メカニズムを背後で支えていた人々は、最初のうちは不思議と影響を受けていたにように見えた。二〇〇八年一月には、ウォールストリートのボーナスは合計で三二〇億ドルに達し、二〇〇七年の総額よりほんのわずか少ないだけだった。これは世界の金融システムを崩壊させたことに対する驚くべき報酬であった。社会のピラミッドの底辺にいる人々がこうむった損失は、その頂点にいる金融家たちの法外な利得とおおむね釣り合っていた。*16

リーマン・ブラザーズが負債総額6130億ドルで、連邦破産法11条の適用を申請したのは、2008年9月15日のことであった。この時点では、もはや破局に歯どめが効かなくなっていることは、だれの目にもあきらかな事態となっていた。

危機が顕在化したとき、アメリカの財務長官を務めていたヘンリー・ポールソン(前ゴールドマン・サックスCEO)は、前FRB議長のアラン・グリーンスパンに電話をかけて、対応策を協議しようとしている。グリーンスパンは、《今回の危機は一〇〇年に一度のものであり、政府はことによると市場安定化のために尋常ならざる方法をとらなければならない》といった。*17これは、ロング・ターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)が、二人のノーベル経済学賞受賞者を運用チームにかかえながら、破綻を余儀なくされなくされたとき、経済学(およびLTCM)を救うために囁かれたこととよく似ていた。「長い目」でみれば、市場は均衡価格を見出すだろう。けれどプレイヤーの資産は有限だから、最大規模にして最高の知性を誇るヘッジファンドといえども、市場が均衡価格をみいだすまえに元手が底をついてしまうことも十分ありうる、と。そのときの教訓は、だからレバレッジ自己資本比率)が重要という愚かしいものだった。もちろん、プレイヤーは資産が有限であればこそ極端なリスクをとる誘因に曝されるのだし、また「長い目」でみれば、経済学の前提はいつだって正しいにちがいない。

ヒューム以来、経済者たちは経済変動の短期的な効果と長期的な効果を(政策介入による効果もふくめて)区別してきた。この区別は[……]均衡理論を保護するためにつかえてきた。経済学において、短期とは典型的には、振り子が一時的に停止位置から外れるように、「ショック」の影響下で、長期の均衡位置から一時的に逸脱した市場の期間のことである。この考え方は、政府に市場をなるべくそっとしておくことを推奨する。市場は自分で自然な均衡位置をみいだすことができるし、政府の介入による「修正」は、そもそもの錯覚に余分な層を重ねることになるだけであろう、と。*18

この反証不可能な前提は、危機下では当然のことのように停止されるだろう。というのも危機は「短期」であり、要は「例外状態」のようなものだからである。市場をそっとしておく代わりに、アダム・スミスの見えないはずの右手がせわしなく動き出す。かつては私的利益の追求が、引いては全体の利益に通じるとされていた。いまでは経済システムを保護するために、まず銀行強盗に金を渡さなくてはならない! 公平な市場主義者として、グリーンスパンも状況を苦々しくおもっていたらしい。彼はいわば「よい銀行強盗」の仕方をポールソンに提案している。前FRB議長はこういった。市場には流動性が不足しており、《住宅の供給が多すぎるのだから、問題を真に解決する唯一の方法は、政府が空き家を買い上げて焼いてしまうことだ》!*19

政府が金融機関を救済しようとしたとき、もっともかたくなに反対したのは、右派の(グリーンスパンとおなじく)市場原理主義的な考え方をする議員の方であった。共和党員のジム・バニング上院議員は、政府の救済案を非難して、ポールソンを「社会主義者」呼ばわりした。この論法は、政権が代わったあともオバマにたいして何度も繰り返され、奇妙なことに、金融危機のあとには、共和党の市場主義イデオロギーはいっそう強化されたようにみえた。すなわち、超保守的なポピュリストたち(ティーパーティー運動)が党内で力を増していったのである。たいしてリベラルは、「富裕層にたいする社会主義」という嫌な役割を割りあてられることになった。

パーティーが続行する仕方にはひとを身震いさせるものがある。経済学者たちはたしかに表面的には「失敗」をみとめた。危機を警告していたひとたちが、相対的に周縁的な立場から、中心的な位置を占めるようになり、マクロ経済学においてケインズがふたたびヘゲモニーを獲得していった。新しい実験の時代がはじまった。日本のナショナリストに、リベラルな見解で知られるアメリカの経済学者たち(ポール・クルーグマン、ジョセフ・スティグリッツ)が声援を送っている光景は、すでに破産していた日本のリベラル・イデオロギーにたいして、とどめの一撃となった。もっとも、「リフレ派」はまともな仕方で失敗できないことを、例によってすぐに露呈させることになったけれども。「処方箋」とその「実行」のあいだには、つねにギャップが存在するのであり、そのギャップには「政治」という名前があてられている。主流派経済学は、政治の領域からみずからを除外することによって自己を形成してきたのだから、ギャップを認識できないのはある意味で当然のことといえる。マネタリーベースを増やしても、実質インフレ率は上昇しない。失業率が下がっても、賃金は上昇しない。なぜか? 不用意に消費税を上げたせいだと(もっともらしく)説明される。理論上の限界(反証可能性)は、実現されるまえに、つねに不可解な「政治的なもの」の侵入によってさまたげられることになっているのだ。

上手に失敗できない理論には、どこかおかしなところがあるにちがいない。けれど、経済学が自分自身の失敗を認識できないことには、それなりの理由がある。それは単純に、《科学としての経済学の台頭が、資本主義の台頭と一致しており、そして経済学の論理は知られているように容易には資本主義をサポートする議論から区別できない》からである。*20「否認の心理」は、ここで「政治」そのものが理論にたいするギャップとして出現することを見逃せば、何度でも延命するだろうし、「処方箋」に政治の否認がそもそも織り込まれている場合には、まともな仕方で失敗することなど望むべくもないだろう。

歴史、規則を欠いたゲー厶

プリーモ・レーヴィが報告しているのだが、ある日アウシュヴィッツで、SSの兵士たちとゾンダーコマンド(焼却炉、ガス室、死体の処理を任されたユダヤ人作業班)が一緒にサッカーをしたことがあったそうである。その試合には、SSの他の兵士たちやゾンダーコマンドの残りのものが立ち会っていた。《彼らはどちらかに味方し、賭けをし、拍手喝采し、選手たちを応援した。まるで試合が地獄の入り口ではなく、村の野原で行われているかのようだった》。*21レーヴィはこの光景の根底にひそむおぞましさを推し量っている。それは、アウシュヴィッツユダヤ人(なかでもとりわけゾンダーコマンド)が、すでに「何もかも失っている」――にもかかわらず何かが残っている――ことを、度を越した残酷さで突きつけるまたとない機会であった。彼らはともに人間であった。勝ったところで、なんだというのだ?

この停戦の背後に、ある悪魔的笑いを読み取ることができる。事は成った、我々は成功した、おまえたちはもはや別の人種ではない[……]。我々はおまえたちを抱擁し、腐敗させ、我々とともに底まで引きずっていった。おまえたちは我々と同じだ、誇り高きおまえたちよ。我々と同じように、おまえたち自身の血で汚れている。おまえたちもまた、我々と同じように、カインと同じように、兄弟を殺した。さあ、来るがいい、一緒に試合をしよう。*22

ここから引き出すべき結論は道徳的なものではなく、歴史的な――ひょっとすると神学的な――ものではないだろうか? ジョルジョ・アガンベンはこの箇所について、《試合はけっして終わってはいない。どうやら、途切れることなく、いまだに続行されているようなのだ》といっている。*23

(結論に代えて)神学は誘惑でないと注記しておこう。むしろ誘惑は、敵のあまねく勝利をみとめることである。勝者に同一化しつつ、それ以外のすべての人間が敗者だという見せかけの同情に居座ること、これこそがリベラルな態度というものである。一見深淵そうにみえる「敗者の哲学」は、いともたやすく「成功の哲学」に転んでしまう構造をそなえていた。それはまともな仕方で失敗することができないだろう。この構造から一歩退いて、「必負」の視点にそのまま同一化することも、なおさら退けなくてはならない誘惑である。必敗の視点に立つことは、いつでも「一発逆転の一手」を模索すること――たとえば地政学的緊張をアルキメデスの点とする誘惑――に繋がっている。それは神学的すぎるのではなく、まだ十分に神学的でない。

ファシストは、自分自身の勝利と真理を最終的には信じることができないだろう。では、それを信じることができるのは、だれか? 人目をはばかる神学は、経験的には失敗そのものが失敗するという無情な事実をひたすら指示するだけである。この事実によって危うくなるのは、実は(敗者ではなく)勝者の方だといわなければならない。なぜなら、失敗そのものをみとめることができないのは彼らの方だからである。ゲームの隠喩はここで少しだけ頭をもたげ、きたるべき「勝利」といっさいかかわりのない位置に、自分自身のひいきのプレイヤーを放棄して去っていく。史的唯物論、それは真理についていっさいの留保を控えた、ただひとつの無神論的神学である。

 

(文責 - 市川真木

*1:ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」『ボードレール  他五篇』野村修訳、岩波文庫、327頁。

*2:ジョルジョ・アガンベンアウシュヴィッツの残りのもの』上村忠男/廣石正和訳、月曜社、29頁。

*3:https://www.smh.com.au/sport/tennis/how-stanislas-wawrinka-failed-at-becoming-a-failure-20140122-3195v.html

*4:http://mstraweb.blogspot.com/2014/02/failing-better.html

*5:https://thenewinquiry.com/fail-worse/

*6:https://www.lifehacker.jp/2010/11/post_1632.html

*7:三つの可能な解釈が、三つの政治的立場と対応しているとしたら? すなわち、リベラル(事前的)と新自由主義(事後的)、そして前衛左派(行為遂行的パフォーマティヴ)。ポイントは、リベラルと新自由主義が(よくいわれるように)いかにイデオロギー的に結託しているかということを、ワウリンカのエピソードから理解することだ。そして、今日の左派の「まともな仕方で失敗すること」のできない窮状を、その袋小路に正当な仕方で位置づけることである。

*8:ポール・オースター/J. M. クッツェー『ヒア・アンド・ナウ 往復書簡 2008-2011』くぼたのぞみ/山崎暁子訳、岩波書店、191頁。

*9:同前、190頁。

*10:同前、192頁。

*11:レヴィ=ストロース『野生の思考』大橋保夫訳、みすず書房、38頁。

*12:デヴィッド・グレーバー『官僚制のユートピア酒井隆史訳、以文社、273頁。

*13:https://himaginary.hatenablog.com/entry/20090813/letter_to_queen

*14:デヴィッド・ハーヴェイ『資本の〈謎〉』森田成也ほか訳、作品社、17頁。

*15:リーマン・ショック・コンフィデンシャル(上)』122頁。

*16:同上。

*17:リーマン・ショック・コンフィデンシャル(上)』250頁。

*18:Robert Skidelsky, ''Money and Government,'' Yale University Press, pp. 37-38.

*19:リーマン・ショック・コンフィデンシャル(上)』250頁。

*20:''Money and Government,'' p. 10.

*21:プリーモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』竹山博英訳、朝日選書、53頁。

*22:同前、53-54頁。

*23:アウシュヴィッツの残りのもの』29頁。

大失敗のRadio-Activity 第四回「二〇二〇年の〈進歩と調和〉?:万博記念公園」

第四回

 

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2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。

 

あけましておめでとうございます!2020年最初の更新となる今回は、「大失敗散歩」です。


大阪府吹田市万博記念公園に行ってきました。もちろん2020年といえば万博から50周年ですが、万博記念公園には最近エキスポ・シティなるショッピングモールもでき、家族やカップルが休日を過ごすにはいい場所になっています。
今回我々は太陽の塔の中にも入りました。ラジオ内では、そうした場所の印象に合わせ、今ではすっかり「国民のいい思い出」になっている1970年の大阪万博(正確には「日本万国博覧会」)について語っています。

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「人類の進歩と調和」を掲げる万博は、確かに1970年において、戦後日本の復興を海外にアピールするものとしてある種の「象徴」となっていきました。またそこには「未来」(進歩と調和)への期待がかけられここには名だたる進歩的文化人たち、当時の「前衛」的アーティストたちが「動員」されていきます(例えば思いつくままに列挙しても、桑原武夫小松左京丹下健三岡本太郎磯崎新黒川紀章武満徹手塚治虫…)。

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しかしその「未来」を十分日本国民は受け取り、その結果を総括し得たのでしょうか。そして「お祭り」としての万博とはどのようなものなのでしょうか。あるいは万博とは果たして、本当に歓迎すべきイベントなのでしょうか。そもそも万博とは? 岡本太郎の「太陽の塔」がもつ「縄文的」イデオロギーとは? ラジオではこのような話題にまで広がっています。

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2025年に予定されている大阪・関西万博(テーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」)を考えるためにも、万博の過去と未来を振り返るのもいいのではないでしょうか。

 

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↓ラジオ中に触れている本はこちら

 

 

 

※なお、「太陽の塔」の背後に広がる「お祭り広場」に我々が足を踏み入れた時、そこにあったのは「ラーメンEXPO」であった。

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なお、『大失敗』創刊号はこちらからご購入いただけます👉https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSfn0SY9uIfZyPRkeabze01Q3Z7DJtM7quPPajDEcYwlBEwu9g/viewform

 

 

パーソナリティ:赤井浩太左藤青

編集・写真・BGM:左藤青

 

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大失敗のRadio-Activity 第三回(後半)「批評の歴史と『大失敗』」(ゲスト:松田樹)

第三回(後半)

 

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2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。

第三回は長さの関係で二分割!(後半)。

前半に引き続き、ゲストに中上健次研究者の松田樹さんをお迎えしつつ、今回は松田さんが批評の歴史を主に三点に分けて解説!

「政治運動の代補」としての批評とはいかなるものなのか? 文学研究者から見た「批評の歴史」と私たち「大失敗」の批評的実践の意義とは?

 

 

年末年始でお時間のある方は色々と遡って読んでみるのもよいのではないでしょうか…
ちなみに今回も松田さんが注釈をつけてくれました。

 

「大失敗」ラジオ注釈(松田樹)

◎「上下分ち書き」形式への補足

 このラジオでは文献が手元になかったため記憶違いをしているが、浅田彰による「上下分ち書き」形式の文章は、『インパクション』(91・8、特集ゲイ・リベレーション)掲載の「ゲイ・ムーヴメントのために」ではなく、『G S 2号』(84・11、特集POLYSEXUAL――複数の性)掲載の「性を横断する声」に、その一例が見られる(ただし、後述の通り、前者でも浅田の戦略は一貫していると思われる)。

 ここで浅田は、ドゥルーズガタリ「生成する音楽――『ミル・プラトー』からの二つの断片」を上段に、ドミニク・フェルナンデス「料理万歳!『チューダーの薔薇』第一章」「『ポルポリーノ』からの断片」を下段に配置している。下段にて「フランスの同性愛作家」フェルナンデス*1のテクストに託して異性愛規範から逸脱した芸術家(カストラート)や同性愛者の苦悩を内在的に捉えつつ、それを上段のドゥルーズガタリの分析によって跡付け、かつ性の体験をポリセクシュアルな方向へと開いてゆこうとするのである。このような構成・配置こそ、対象への内在とそれに対するメタ言及という浅田の所謂「ノリ」/「シラケ」の二重戦略を示すものであり*2、それが(往時の?)あるべき批評のスタイルであることを、「上下分ち書き」という形式によって強調することを収録中の発言は意図していた。

 「ゲイ・ムーヴメントのために」においても浅田は、恐らく同様の立場を踏襲している。「ゲイ」を自認する人々が主宰した集会での講演をもとにしたこの論考で浅田は、同性愛者のカムアウトを通じた「アイデンティティ」の闘争を評価しつつ、異性愛と同性愛という「二項対立」を超えた「差異」の戦略(すなわちポリセクシュアリティ)を提起している。それに相即して、「ゲイ・ムーヴメントのために」の末尾では――あたかも同特集にも散見される同性愛者のカムアウトのフォーマットを模倣するかのように――思春期以来の性の遍歴が吐露される一方、その体験が「「彼」と呼んでおきたいある人物の性の歴史」と客観的に位置付けられている。つまり、ここでも「ノリ」/「シラケ」の二重戦略が取られていると言えよう。

 収録中にも発言した通り、上記のような浅田の戦略を継承していると思われるのが、東浩紀の「オタクから遠く離れて」(『Quick Japan』97・10)である。「オタクから遠く離れて」では、上段に《遠く離れて》、下段に《オタクから》という章がそれぞれ配置される。上段がサブカルチャーの歴史を辿る客観的な記述であるのとは対照的に、下段はそのなかで「僕」が辿ってきた私的な変遷が述べられる。そして最終章では《オタクから遠く離れて》と両系列が「僕」という話者に統合された上で、結末の部分では「フェティッシュ&ロジカル」とその分裂がポップに肯定されている(「おお、まとまったじゃないですか。こんなふうな感じなんですよ。ねえ。」とこの文章は締め括られる)。*3

 以上を踏まえて再説すれば、批評とは「僕」=「ゲイ」(浅田)=「オタク」(東)という論じられる対象に論者自身がフェティシズム的に固執しながらも、同時にロジカルな視線によってそこから「遠く離れ」たメタ視点が確保されねば成立しない(しなかった)営為であると言えよう。「上下分ち書き」という形式は、その下段において「ゲイ・リベレーション」特集や『Quick Japan』を購読する読者共同体を鼓舞しつつ、上段の理論的記述によって彼らに分析の眼差しを差し向ける批評という書き物の二重性を体現しているのだ*4。(以上)

 

  

なお、『大失敗』創刊号はこちらからご購入いただけます👉https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSfn0SY9uIfZyPRkeabze01Q3Z7DJtM7quPPajDEcYwlBEwu9g/viewform

 

パーソナリティ:赤井浩太左藤青、ゲスト=松田樹(神戸大学

編集・BGM:左藤青

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*1:別のところで浅田は、フェルナンデスを「フランスの同性愛作家」と紹介している(「同性愛はいまだにタブーか」(『VOICE』98・6、『批評空間』アーカイヴで閲覧可能。19年12月現在。http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/voice9806.html

*2:「対象と深くかかわり全面的に没入すると同時に、対象を容赦なく突き放し切って捨てること。同化と異化のこの鋭い緊張こそ、真に知と呼ぶに値するすぐれてクリティカルな体験の境位(エレメント)であることは、いまさら言うまでもない。簡単に言ってしまえば、シラケつつノリ、ノリつつシラケること、これである」(浅田彰『構造と力』「序に代えて」)。

*3:ちなみに、収録時、東による「分ち書き」形式の試みは、デリダの『割礼告白』や『弔鐘』からヒントを得ている可能性を左藤青から示唆された。ただし、ここではその形式によってもたらされる対象への固執と批判的吟味を同時に含む「遠く離れて」という身振りが、批評の文脈で有している(きた)意義について簡単に述べた。

*4:ただし、『現代思想 特集レズビアン/ゲイ・スタディーズ』や『実践するセクシュアリティ』に収録された座談会等でも浅田が一貫してその二重性を「運動」と「理論」と区分しているのに対して、東においてはそれが批評の読者との関係性として脱政治化――東はそれを旧来とは異なる意味での「政治」と捉えるのかもしれないが――されている。
 ここで『ゲンロン0 観光客の哲学』にて東が、「必要と欲望」に追従する「下半身」と「理性をもって熟議する」「上半身」という、「分ち書き」形式にも通じる「二層構造」のモデルによって現代社会を把握していたことを想起したい(「第3章 二層構造」)。「資本主義的、革命的(前編)—東浩紀の広告戦略について」で指摘される通り、東の批評は、提起される内容(欲望の下半身/理性の上半身という「二層構造」のモデルや、「誤配」という哲学的テーゼ)と彼のスタイル自体(下段に置かれたオタク的記述/上段に置かれた理論的記述という「上下分ち書き」の形式や、「広告」を志向するそのキャッチーな文体)が密接に対応しているのである。
 『ゲンロン』の巻頭言などを通じて「批評とはなにか」(「批評とは病である」「批評とは幽霊を見ることである」「批評とは距離の回復である」etc…)が近年の東によって反復的に問い続けられるのも、それが批評を定義付ける内容上の問いであるとともに、(むしろそれを超えて)批評の新しいスタイルを模索する試みであるために他ならない

大失敗のRadio-Activity 第三回(前半)「研究者が読む『大失敗』創刊号」(ゲスト:松田樹)

第三回(前半)

 

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2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。

第三回は長さの関係で二分割!(前半)。
前半に引き続き、ゲストに中上健次研究者の松田樹さんをお迎えしつつ、今回は松田さんに『大失敗』創刊号の感想をお聞きし、一つずつ非常に丁寧な批評をしてもらいました。
なお後半では、松田さんの知見をフル活用で、批評の歴史を語ってくれています。

 

なお、『大失敗』創刊号はこちらからご購入いただけます👉https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSfn0SY9uIfZyPRkeabze01Q3Z7DJtM7quPPajDEcYwlBEwu9g/viewform

 

パーソナリティ:赤井浩太左藤青、ゲスト=松田樹(神戸大学

編集・BGM:左藤青

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大失敗のRadio-Activity 第二回(後半)「二〇一九年を批評する」(ゲスト:松田樹)

左藤青です。第二回(後半)を更新しました。

 

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2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。


第二回は長さの関係で二分割!(後半)。


前半に引き続き、ゲストに中上健次研究者の松田樹さんをお迎えしつつ、年末ということもあって二〇一九年に起きた様々な出来事について批評的に取り組みました。赤井浩太にとっても「激動の一年」だったらしい二〇一九年ですが、それはおいといて、今回は特に今回は改元、N国党・れいわ新撰組、あいちトリエンナーレなどについて触れています。単にそれを解説するだけではなく、批評的な営為としてそこで潜んでいる問題系としてのポピュリズム外山恒一とN国の差異、天皇制、「癒し」としての天皇、リベラルの「堕落」などについて語ってみますが、はたしてうまくいっているでしょうか…

 

パーソナリティ:赤井浩太左藤青、ゲスト=松田樹(神戸大学

編集・BGM:左藤青

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