批評集団「大失敗」

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革命、抗い、生きてなお――アルチュセールの闘争のエクリチュール

「革命、抗い、生きてなお――アルチュセールの闘争のエクリチュール」(早良香月

抗え。

 「革命」という言葉を、今我々はどのように捉えるべきだろう。『共産党宣言』の冒頭の「共産主義という亡霊が西欧をうろつく」という文句を、マルクスになぞらえつつ現代的に反転させれば「資本主義という怪物が世界をうろついている」、とでも言うべきだろうか。括弧つきの「共産主義」、ユートピア的共同体、あるいはそれを目指すための「プロ独」蜂起は、グローバリゼーションという連帯に見せかけた分断、あまりにも残酷な分断によってもはやほとんど説得力を持たない。日本で言えば安田講堂事件のような「全共闘」の時代、日本のレフティにおいてもっとも陰惨な歴史の一つである連合赤軍によるあさま山荘事件、フランスで言えば五月革命、など。それらの戦後の「革命」を目指す運動は――「過去の反復」、「革命神話」と成り果てている。反復される暴力を、果たして「われわれ」――この極めて暴力的な一人称複数には、もちろん「あなた」が含まれているのだ――がことが終わった後に「あれは革命だったことになっていた」と素朴に言明することは、「われわれ」の希望する変革と照らし合わせて、許されていいのだろうか。さらに言えば、これらは本稿で軸として取り上げる哲学者である、ルイ・アルチュセールに言わせれば、それは革命ではなく単なる「出来事」であったのかもしれない。21世紀に入り、世界が人ならざるものによって「一緒にいてはいけない」という身体的現前による連帯の否認を受け入れざるを得なくなっている今(そして今の状況は抜本的にシステムを攪乱するものではなく、デザインが変更されるだけである)、再度世界の変革可能性を理論的に考え、そして構築していく必要がある。

 この一万字強の文章で筆者が主張することは端的に言ってこういうことである。「革命とは、既存システムの破壊と再構築を目指すすべての闘争の運動である」。そして最も重要なことを付け加えよう。「革命とは、あなたがこの世界はすべてクソだと思った時に、最後に残された生きて抗う手段である」。

 第一の主張。単にデモや暴動といったフィジカルな連帯が困難になっていくであろうこの世相が、革命の根本理念が再度見直される機会であると捉えたとき、「そもそもデモや暴動それ自体が目的化していなかったか」、「いかなる状況下において革命が起こるのか」という問題が浮上してくる。politiqueな革命において、一見観念的であっても忘れてはならないテーゼは、「既にあるものを壊して立て直す」ことだ。これは形而上学においても同じことが言える。ジル・ドゥルーズの著書『差異と反復』において、「永久革命」というキーワードがある。それは超越論的に世界の秩序を決定しているカオスが絶えず自己破壊と再構築を繰り返すシステムのことであるが、ドゥルーズの「永久革命」も、アルチュセールの「(マルクスレーニン主義的)革命」も、「革命」という根本理念においては同じくpolitiqueでありactuelなのだ。そして、「来たるべき革命」、すなわち階級闘争の矛盾が極限状態に達したとき爆発的に起こる国際的変動としての革命を「理論的実践」(理論による実践)によって標榜するアルチュセールの思想と言説(ディスクールエクリチュール)は、彼が目撃した五月革命から50年余りを経た2020年の今に生きる我々の眼に鋭い閃光として突き刺さる。そして、アルチュセールの革命における理論モデルの構築は、エクリチュールによる闘争なのだ。「すべての闘争の運動」の「すべて」に、言説が入っていることを忘却してはいけない。絶えざる闘争は今も続いている。革命が「出来事」でも「事件」でもなく、必然的に反復されなおかつ一回的でしかありえないような事柄可能にするのは、批評であり、理論であり、言説である。

 第二の主張。ここで言う「非身体的な連帯による革命」は、一体誰に向けて掲げられているのかあるいは誰が掲げなければならないテーゼなのだろうか。何度でも繰り返すが、革命は変革することを希望し実現することである。のちに述べることになるが、暴力革命といった「出来事」は世界を変えるためなら「死ね」という根本的な考え方に基づいていた。しかし、それでは行き過ぎた保守と行き過ぎた革新(革命)派の辿り着く先は「理想において殉じること」という点で交差してしまう。二つ目に上げたテーゼは、「この世がクソだ」と思った時、最後に残されたサヴァイブの手段として考え、発言し、思考を生の闘いに仕向けるという営みそれ自体が革命を標榜するということなのだ。またしても「わたし」や「あなた」を含意する一人称複数の「われわれ」を用いるならば、「われわれ」は確かにグローバリゼーションだの資本主義だの、そして今度はやれ疫病だのによってどんどんミクロに分断され続けている。とりわけ世界の「世界化」はある種の露悪的なモンド趣味を増長させたに過ぎず、その意味でマルクスが『ドイツ・イデオロギー』で指摘したギルドの大工場化がもたらした資本主義は「世界化」と二人三脚で「怪物」化している。手の付けようがないこの事態に対して、我々(「われわれ」ほど慎重な意味合いでないことに注意してほしい)のようなレフティが「ああ、真の意味での共同体とユートピアは望むべくもないのだ!」と悲観的かつ前時代的に嘆いてみせたところで、あるいは玉砕上等の暴力「革命」(のようなもの)をやってみせ、そして理想に殉じてみせたところで、それは果たして今世紀の革命としてありうべき姿なのか?違う。以下の文章で「革命」を主にアルチュセールの『再生産について』とその周辺のジャック・ランシエールやエティエンヌ・バリバールらのテクストに基づいて、なおかつ直接的には登場しないものの革命思想において重要なマルクスから徐々に離れていきつつ(そして最後はマルクスで終わる)現代的に理論を分析していくが、結局のところ、そういった理論やテクスト読解や言説を通して本稿は何を「呼びかけ」ているのか?

革命や革命のためにすべてのやり方で闘争することは、今この時代において私とあなたが生きて世界に抗うための絶えざる実践と運動である。だから、思考しろ、読め、書け、そして抗え。

 

1.来たるべき破壊のためのモデル構築――革命、哲学、イデオロギー

……革命は今からすでに日程にのぼっている。百年後、あるいはおそらく五十年後にも、世界の相貌は一変するだろう。つまり〈革命〉は地上のいたるところで勝利をおさめるだろう。(『再生産について』、「読者へのまえがき」)

 五月革命フランス共産党員として目の当たりにしながら、1969年1月に書かれたこのテクストにおいてアルチュセールはあまりにもレーニン主義的である。騒擾の60年代、狂騒の70年代を経てグローバリゼーションとマキシマム・キャピタリズムに世界が席捲されるに至る、コミンテルンにとっては一つの「喪失」の時代である80年代以降が始まる。未曽有の大疫病が経済システムを崩壊させようとしている今、アルチュセールのこの革命への意志は奇妙なほどにアクチュアリティを持って立ち上がってくる。期せずして、世界は国家(nation)から社会(society)へとミクロ的に分断され、その統治システムが抜本的に変わろうとしている。革命が起きるのはどのようなときか。なぜ革命は事後的に「あれは革命であった/なかった」と言われるのか。革命への意志は、破壊と再構築への意志である。21世紀において、革命はいわゆる「解放区」を目指すものであってはならない。資本主義のグローバリゼーションを破壊し、全く新たな共同体を目指さなければならない。それは今まさに、マルクスレーニン主義が変奏されているということであり、アルチュセールの革命への強固な意志というものはその変奏を鳴り響かせるべく手に取られたメガホンであるのだ。

 アルチュセール五月革命の後に執筆し、本来であれば二巻立てとして出版されるはずであったにも関わらず73年の「転回」によって未完となった『再生産について』(「生産諸関係の再生産」)は、五月革命を革命以前の「出来事」として位置づけ、革命の「予行演習」であるとし、来たるべき革命に必要な社会モデルと生産関係の諸条件について理論的に構築されたテクストである。基本的に、アルチュセールの念頭に置かれているのは――特に生産関係について述べる際――「階級意識」である。労働者と資本家の間のコンフリクトは60年代前半のアルチュセールから通底するテーマであるが、『再生産』では革命は被搾取側の強烈な一撃や一発逆転によって起こるものとしては位置づけられていない。むしろここで言われている階級意識とは、資本主義と共産主義の相克であり、生産そのものが資本主義的な搾取のやり方に則っている今の状況ではなく、人間の物質的生存に関わって自然に立ち向かうやり方によって生産関係が形作られるべきだ、というのがアルチュセールの主張である。しかし、これだけでは足りない。革命は偶発的に起こるのではない。革命は事後的に必然的に出来事として「起こるべきものであった」ものとして位置付けられなければ、プレ革命/ポスト革命というやり方で運動そのものを思想的に定位する*1地盤を用意しなければならない。アルチュセールは、革命に必要なのは哲学であると喝破する。

 哲学と時代の要請は極めて密接な仕方でリンクしている。このリンクを、アルチュセールはconjoncture(情勢=結合)という二重の意味合いを持つフランス語で説明しているが、具体的にはどういうことか。アルチュセールの言葉を引いてみよう。

〈哲学〉の偉大なる「著述家たち」の大多数にかんしては、実際に、彼らがそのもとで思索し著述するさまざまな情勢 conjonture のなかで、先行する情勢の重要な諸変容を示す、政治的および科学的な出来事の結合を指摘することができる。

 つまり、時代の要請という言葉がアルチュセール的に言って不十分であるとするならば、そこには結合という要素がないからであり、情勢=結合という語によって哲学がなぜ歴史における重大局面において必要とされるのかをアルチュセールは語っている。翻って、であるならば、やはり革命においても哲学は必要とならざるを得ない。例えば、注1において示したように、左派の政治的運動における手法は変革を迫られている。集会、デモ、あるいはよりラディカルであれば暴動といった革命のための運動は、全て身体的現前が前提としてあった。それが外部からの制度崩壊という形で訪れるのであれば(そして外部からの制度崩壊によって「終わりなき日常」がそれでも終わらない/終われないのだとすれば)、これまでとは全く違った運動の在り方が求められるだろう。その際に必要なのは、やはり哲学である。そもそも「理論による階級闘争」である哲学は、本来的に革命、運動のバックボーンとなる思想であることが宿命づけられている――極めてアルチュセール的な物言い。それは形而上学などといった直接は政治に関係していなさそうな分野においても同様である。哲学が現実に関わっている以上現実は哲学に関わっており、革命においては何をかいわんや、である。

 アルチュセール五月革命を間近で見ていたからこそ、社会構成体の構造というものは(無論思想が基盤にあるのは大前提として)極めて重要な問題意識であり、上部構造(国家、法、権力)とブルジョア社会が下部構造である経済によって突き上げられるように社会全体が構築されるという理論モデルを少なくとも60年代前半のアルチュセールは引き継いでいた(cf.「最終審級(経済)の鐘が鳴り響くことはない」というメタファー――「矛盾と重層的決定」1962)。しかし、アルチュセール的に言えば「予行演習」であった五月革命において、彼はそのモデルにおいて決定的に見逃がしていた要素を発見する。それが、「イデオロギー」である。アルチュセールは徹底的にイデオロギーという概念を「社会」単位でアクチュアリティを持つと見なしており、「個人*2イデオロギーの中にしかいることができず、イデオロギーの外部にあるのは科学的認識のみである」と言うようにイデオロギーが内包するある種の空間性と「認識という外部」(=社会的アクチュアリティが失効した審級)を強調している点に注意したい。であるならば、上部構造、ブルジョア社会、下部構造のみによって社会構成体――ここで我々は社会そのものが持つ革命の可能性を忘れてはならない――が成り立っているという結論には着地しないだろう。イデオロギーが介入している。家族、学校、労働、あるいはその中で生まれる哲学を含めた思想、ブルジョア社会の中で起こりうる(起こるどころか既成事実的に「あった」ものとして現前している)現象は、イデオロギーの中でしか/によってしか成り立つことはないのだ。こうなると、イデオロギーという概念を強く押し出したアルチュセール以前のマルクス的社会モデルというものが簡単に図式化できないのだ。アクロバットをするのであれば、ブルジョア社会が事後的に初めから性質として孕んでいたと結論せざるを得ないような要素であるイデオロギーが、ブルジョア社会を上から決定していたと思われていた上部構造の価値それ自体を転覆してしまい、最終審級であり下部構造である経済もまた恣意的に「イデオロギー的である」と言明せざるを得ないのだ。それでいて、イデオロギーは何の決定力も持っていない。ただ社会の性質として、社会を内包するとともに社会の中にあるものだからだ。

 「来たるべき」であると、「すでに日程にのぼっている」と言うのは何故か。我々の及び知らないところで、思想が、イデオロギーが、社会というミクロに分断された「生活」(極めて露悪的な言い回し)の集合体である国家、あるいは世界の水面下で、永い時間をかけて蠢いている。大災厄はきっかけでしかない。破壊と再構築の兆しの光が今明滅している。

 

2.「革命の思想」の自律性——党派的、あまりにも党派的な

 ここで、何故アルチュセールがかくも1章で述べたような「現実的」な革命への意志と社会モデルの新たな実践的構築を迫られたのかのバックボーンをややモノグラフィ的に整理してみよう。そもそも、繰り返し筆者が強調している「60年代前半のアルチュセール」と『再生産について』を書いた1969年1月のアルチュセールはどういった違いがあるのか。1965年にフランス・マルクス主義の潮目は大きく変わった。当然ながらと言うべきか、アルチュセールの代表作である『マルクスのために』と共著の『資本論を読む』が出版されたことによるものである。これらは、アルチュセール自身も、のちのち本稿でも登場するジャック・ランシエールやエティエンヌ・バリバールといった思想家たちからも「理論主義 théoricisme」と呼ばれることになるものである。肝心なのは、この「理論主義」のアルチュセール五月革命以後のアルチュセールの間で何が異なっているのかではなく、何を共有していたのかである。その共通点こそが、彼の思想を支えていたものを解き明かす鍵となる。

 アルチュセールの弟子であったランシエール階級闘争を前提とし、社会の中で起こる「矛盾」を起算点に思想を構築していった師と決別、厳しくアルチュセールを批判することになる。当時の共産党の状況を参照しつつ師を強烈に批判する『アルチュセールの教え』1970において、ランシエールアルチュセールのフランス共産主義への介入への意図を「理論的意図」と「政治的意図」に分けている。「理論的には」、マルクス主義の現代化への反発として「マルクスに帰れ」=「テクスト準拠」を提唱した。しかし、見逃せないのが「政治的意図」で、「共産主義諸党派を揺さぶっていた多様な反対派を前に、下心なしというわけではない共産党への忠誠心をおおっぴらにした」という記述である。また、五月革命について、アルチュセールイタリア共産党員であるマリア・アントニエッタ・マッチオッキに宛てた書簡がいかに「党派的」で「凡庸」なのかをランシエールは指摘する。

「大学生、高校生、若い知的労働者が『五月』の出来事に大衆的に参加したことは、非常に重要な出来事であった。しかしこの出来事は、労働者九〇〇万人の経済的な階級闘争に従属していた」。(引用者注:括弧内マッチオッキ宛書簡)アルチュセールは、従属という観念を用いて読者を引っぱりまわし、煙に巻いて説得しようとしている。(中略)まず、「五月」の運動の成否は労働者にかかっている、ということ。この点について、アルチュセールはジェスマールやコーン=バンディットと違うことを主張しているわけではない。 

 学生や知的階級の革命への参画よりも、「労働者の階級闘争」に革命が「従属」していたと捉えるアルチュセール(しかもランシエールからは五月革命の主要人物――党派的指導者――と言っていることは同じだと言われている)や、思想の立ち上げ時点での政治的意図などから、プレ革命/ポスト革命のアルチュセールの共通点が見えてこないだろうか。そう、彼の思想の立脚点は共産党という「党派性」*3によっている。「理論主義」のアルチュセールも、真の革命を目指すアルチュセールも、基本的には「党派的であること」が理念であると言える。

 そうなると、こんな質問が出てきそうだ。「じゃあ、アルチュセールの革命思想には自律性がないのか?」「思想が思想としての強度を保つには不十分なのか?」――否。というより、アルチュセールが『再生産について』で述べるような強靭な革命への意志と思考はどのように紡がれているのかについて少し考えを巡らせてみれば、「党派的だから思想として自律していない」のではなく「党派的だからこそ思想の自律性が担保されている」ことが分かるはずだ。むしろ、共産党員であり、厳格なマルクスレーニン主義に裏打ちされたテクスト・理論主義のアルチュセールだからこそ、実際に起こった五月革命を「労働者による階級闘争」として位置づけ、69年の『再生産について』で理論主義から実践的な社会モデルの分析と構築に至ったのだ。さらに言えば、五月革命は、アルチュセールにとって「革命」ではなく「出来事」、「予行演習」である。何故そう「言わなければならなかった」のか?厳密なモデルを引いてまで、いわば「前未来的」に、「あの出来事は革命だったとはなっていなかっただろう」式の物言いをしたのか。答えは単純で、彼が極めて厳密なマルクスレーニン主義者だったからであり、矛盾の爆発による国際的変動(「矛盾と重層的決定」)こそが真の革命であるとするならば、やはりアルチュセールの思想は党派的であるからこそ普遍的な強度を持つのである。

 アルチュセールが灯した破壊と再構築の光の明滅を、68年からおよそ50年が経過した今、我々は見ている。しかし、その光は「明滅」だ。灯されては消え、灯されては消え、を繰り返している。その繰り返しは、果たしていつか強烈に我々に光をもたらすだろうか。「繰り返し」が「繰り返し」でしかないのだとしたら。我々は変奏を奏でているのにすぎないのだとしたら。アルチュセールのモデル構築が有効であるとして、別のモデルを導入することによってより現実的に革命の光を見ることができるのだとしたら……。

3.革命は「時間的切断」か「革命神話」か――その一回性に賭けること

 ここで、本稿で、あるいはアルチュセールの言う「革命」というものが、いかなる可能性に賭けられているのかを改めて問うてみよう。第一章で確認したように、革命とは「来たるべき破壊と再構築」に向けての運動である。グローバリズム、資本主義、そしてそれらがもたらすマンネリ化した「終わりなき日常」から、闘争を経て新たな経済システムと世界の共同体の在り方を刷新するべくして、革命は「来たるべきもの」として語られる。かつてマルクスが語ったような共産主義ユートピア(utopia)ではなく、よりアクチュアルなものとして、それはまさに来るべくして来る「会心の一撃」でなければならないはずだ。より実践的に、より現代的に、よりラディカルに、「来たるべき革命」は「来なければ」ならない。「予行演習」の「出来事」であってはならないのだ。

 ――しかし。アルチュセールが『再生産について』で放った革命の光は、「明滅」している。光っては消えることを繰り返している。これではまるで、革命という出来事がただ単に反復しているようではないか。そもそも、革命は反復可能性を性質としてあらかじめ持っている(持っていい)ものなのだろうか。1969年の時点では「来たるべき革命」を標榜し、それが一回きりの出来事であるべきだし、そうなるはずだということがアクチュアルに響いただろうが、2020年に全く別のやり方でWWⅡ以来の世界的災厄によって終わることがないはずの「日常」が完全に機能不全に陥っているのを我々は目の当たりにしている今、「革命」という語が持つリアリティを再度考えなければならない。

 ちょうど4年前の2016年、アルチュセールに最も近かった弟子であるエティエンヌ・バリバールは、革命を「時間」という横のモデルで捉え、「切断」の出来事として革命の一回性を「一過的であってはならない」として強調している。さらに、革命が必然的である(来たる「べき」ものだった)とされるのは、革命が終わった後に「前未来形」、バリバールの言葉を借りれば「必然的だったことになっているだろう aura été nécessaire」という形で「以前」に存在していた矛盾を乗り越えるために事後的に必然的に到来する出来事として捉えた場合であるとしている。

したがって、時間のなかで生じる切断、つまり革命の「前」と「後」の切断と――ここでは「革命」と言うより、持続の如何にかかわらず「革命的出来事」と言うべきかもしれません――、革命前から社会のなかに存在し、革命を招来する分割ないし矛盾のあいだには、対応関係があります。われわれはここですでに、革命的出来事時間的諸様態の問題に踏み込んでいます。(エティエンヌ・バリバール「大革命の後、いくつもの革命の前」2016)

 この引用で、既にアルチュセールとバリバールの革命(とそれが起こるべくして起こるために想定している社会モデル)の差異を見て取ることができる。まず一点目は、「出来事」は所詮「出来事」であって、その出来事が革命となるためには理論的社会モデルの構築が前提として必要であるとしたアルチュセールと、時間的で一回的な「切断」においては「革命的出来事」が重要であると言うバリバールの差異――「来たるべき革命」を目指すのか「革命」であることに重点を置くのか。二点目は一点目と繋がっているが、革命を目指すために構築する理論モデルが決定的に異なっている。バリバールは社会の分割を時間の切断、分割として捉え、革命はその横軸の切断として事後的に「必然的だったことになっているだろう」と語られる、「ヨコ」のモデルで捉えている。対して、第一章でも確認したように、アルチュセールは厳密にはマルクスの上部構造、社会、下部構造に立脚しつつ、そこにイデオロギーの概念を導入し全体の構造に侵食するようにイデオロギーが影響を及ぼした結果、イデオロギーによる主体化とその抵抗(革命)という歪んだ「タテ」のモデルを革命のための社会構造として考える。

 アルチュセールとバリバールのモデルのどちらがより優れているか、という話ではない。ただ、バリバールは、穿った見方ではあるものの「会心の一撃」である革命像ではなく、「革命的出来事」という言い方をしてアルチュセールが批判した「出来事」レベルにまで事象の次元を下げ、それでもなお有効なのではないかという点に時代的背景が見て取れる。そしてバリバールは、「」な出来事ではなく、あくまで革命そのものにこだわった師であるアルチュセールに対し、極めて痛烈な指摘を投げかける。

一つは、アルチュセールが最終的に提起することになった立場であり、(中略)あらゆる「革命」は過去の反復という「イデオロギー*4的形態」のもとで生きられ、戦われる。革命は「革命神話」という「イデオロギー的形態」を身にまとうのであり、それは大衆が現れる舞台の上だけでなく、革命のアクターや「主体」たちそのものの意識においても同様なのです。(強調引用者による)

 あらゆる「革命」は過去の反復であり、「革命神話」に過ぎない――。光は永遠に明滅しつづけ、恒久的な光を放つことはない。神話を上演する役者である我々は、その都度異なった衣装――「イデオロギー的形態」――に着替え、その都度「革命」「」な出来事を起こして、終わったらオラ・エテ……と「前未来形」で語って「必然的」だったことになっているだろうと語り、その繰り返し、反復。果たして残るのは意志のみ、なのか?

 いや、そうではない。バリバールは、ここで自らの時間的革命論の強度を担保するために、1978年のアルチュセールを慎重にこちら側に引き付けている節があり、そもそもバリバールの「出来事」への引き下げ自体が革命そのものに対して時代の要請と共に消極的になっているように見える。五月革命直後に書かれた『再生産について』における革命への意志と理論が、決して反復や神話を前提としたものではないことは、ここまで読んだ読者の方ならお気づきであろう。バリバールの指摘において重要なのは、まずアルチュセールが理論的かつ実践的に構築した、マルクスの理論の組み換えと新しい概念の導入による「タテ」モデルに対する時間的かつ出来事的な「前」と「後」の切断として革命を捉える「ヨコ」モデルの構築、そしてアルチュセールも晩年においてマルクス主義と決別する*5に当たって「は」革命のモデルを変更したということである。 

 今、革命を標榜する我々に問われていることがある。理論と党派性を手に入れ、レーニン風に言えば、「今、何をなすべきか?」と。 

結びに代えて――闘争のエクリチュールと思考の暴力性、そして生き抜くこと

 改めて――あるいは言説の一回性に賭けて――「何故今1969年のアルチュセールを、革命のために読まなければならないのか」という問いに答えよう。すべてのエクリチュールはその都度一回的であり、なおかつ不滅である。アルチュセールに限らず、他の哲学者や思想家の綴ったエクリチュールも、時代という一回性のもとに生み出され、そして何度でもよみがえる。『再生産について』という、アルチュセールの中でもその難解さと未完という性格から、ややアカデミアにおいては地味な扱いを受けてしまっているこのテクストは、しかし、アルチュセール闘争のエクリチュールだ。党派性を背負い、「来たるべき」革命に向けて、一ページ一ページが燃え上がっている。2020年の5月、全く予期しない形で、世界は大戦以来の危機に晒されている。だが、この程度の疫病に世界が変革されてしまうことは望ましい変革だろうか? 我々が我々の手で世界を変革するために闘争し続けなければそれは革命ではないのではないのだろうか? 大学に火炎瓶を投げ込んでも、山の中に立てこもっても、運動する(過激な)レフティは時代の流れと共に「革命」ではなく「事件」として飲み込まれてしまったことは認めよう。そしてこの疫病以後、身体的現前が前提とされない共同戦線を張らなければならないとしたら、全く違う形での闘争を我々は要求されることになる。

 暴力。ラディカルであること。「革命」について回るこういったイメージは、もうほぼほぼ限界に達している。もはや失効していると言っていい。時代が進むごとに暴力(革命)が本来持っていた変革の可能性はなくなってきている。革命自体が一回性に賭けた結果として暴力的になることは当たり前だが、暴力によって革命を起こすのは暴力という「イデオロギー的形態」をまとった「革命神話」の反復を演ずるにすぎない。革命において思想なき暴力はなく、暴力なき思想もまたない――このアンビヴァレンスをいかにするべきか。もはや身体的現前を前提とした暴力がさまざまな意味で無力化しているのだとしたら、――それが前時代的であろうとも、何度も繰り返されていようとも、きっかけでしかなかったとしても、「一回性」に賭ける価値があるかどうか分からなくても――革命を標榜する一人一人が、世界に向けてぶちかます一撃として革命的言説の狼煙を至る所で上げ続けなければならない。闘争なき闘争の時代に身体的でない連帯を持って闘争することは、言説によって変革を希望し続けることに他ならない。

 アルチュセールの『再生産について』を、この奇妙で疑似的な世界の終わりである現在と終わらなかった未来において読むことは、闘争のエクリチュールによって自らの思考を闘争へと仕向けることである。言説、言葉が持つ革命の可能性とリアリティを、「プロパガンダ」などという安い言葉ではなく、革命のための理論的強度と普遍性によって信じ、そして50年前に書かれたテクストを今まさに「呼びかけられている」ものとして受け取り、自分から見て世界が「全てがどうしようもなくなった」と感じられてしまうようなときにサヴァイブする、「この世の全てに抗って(Seul contre tous)」生き抜くために言葉の暴力性と革命可能性に賭けなければならない。それはごく小さい革命。その小さい革命こそが、何もかもを変える革命となる。革命は今や既に日程にのぼっている。そして、このやや分析的で闘争的な記事を読んだ読者のあなたに向けて、アルチュセールからの(この記事を書いた筆者からの)ひとつの注意喚起、あるいはお願いと、マルクスの有名な言葉を引用して締めくくることにしよう。うずたかく積もった糞のような世界を変える希望を捨てずに生きて、抗って思考によって闘争し続けるのは、他でもない、私であり、あなたである。

最後の「用心」は言うなればこういうことである。すなわち、本書中でこれから述べられるもののなにものも、いかなる理由によっても「不動の真理」とみなされてはならない。マルクスは読者たちに「自分自身で考える」ことを要求していた。この基本原則は、提出されるテクストの質がいかなるものであろうと、あらゆる読者にあてはまることである。(アルチュセール『再生産について』)

哲学者たちはただ世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。肝腎なのは、世界を変革することである。(マルクスドイツ・イデオロギー』)

 

(文責 - 早良香月

 

※『大失敗』第1期第2号発売しております 

daisippai.hatenablog.com

 

 

 

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*1:運動そのものの在り方が20205月の今問われている。ジュディス・バトラーアセンブリという概念を用いて運動するレフティにおいて身体的現前が重要であると主張したが、Covid-19によって「身体が現前しないこと=フィジカルに共同しないこと」が意味を持ち始めている。革命や運動の身体性が失われようとしている今だからこそ、どのように連帯するのかの基盤に思想がなければならないのである。この点で、アラン・バディウの「パンデミックは抜本的に政治状況を変革することはない」という言い切りはやや性急かつ雑駁であるように思われる。

*2:個人と主体は全く異なる概念なので迂闊な使用は避けたいところではあるが、ここで言う個人は人口に膾炙した意味での個人である。

*3:論文「レーニンと哲学」では哲学に重要なのは党派性だとまで述べている記述がある。

*4:「自らの限界のうちにあるマルクス」における「イデオロギー的形態」をそのままバリバールは使っているが、アルチュセール1978論文やここで言う「イデオロギー」はマルクスが使う意味でのイデオロギーであり、アルチュセール1969年に提唱したそれとは意味が若干異なっていることを付記しておきたい。

*5:アルチュセールの思想的スタンスの転回を付言しておく。1977年の「自伝のためのノート」において既にマキャヴェリへの傾倒が見られ、1978年に「自らの限界のうちにあるマルクス」でマルクスヘーゲル主義を批判すると共にプロ独的革命モデルは一回的ではないとする。妻を絞殺した1980年以降、没するまでマキャヴェリスピノザ・原子論に傾倒し、政治の問題は変わらず重要であったものの観念的かつ思弁的な思想を展開した。