批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」な批評集団。https://twitter.com/daisippai19

『大失敗 Ⅰ-2 特集「からだ」―― 身体・国体・文体 ―― 』内容紹介

人は全員で語ることはない。語るのはいつも一人だ。一人が任意の他者に語りかけるときに批評は始まる。少なくとも小林秀雄はそう考え、批評それ自体を定義し悪戦苦闘すること自体を芸に昇華することで己を賭けたのだ。絓秀実の存在。それは僕たちが社会や世界を批評する文体を喪失してしまったことを意味している。というよりも忘却してしまっているのだ。

(しげのかいりによる巻頭言本文より)

 「大失敗」本誌、ブログ記事の読者のみなさま、平素よりお世話になっております、批評集団「大失敗」運営の袴田渥美です。私の名前にそれほどなじみのない読者の方々もおおいかと思いますが、今回は「大失敗」本誌第二号の紹介記事をお送りいたします。

 COVID-19の流行とそれに伴う自粛要請、緊急事態宣言など、たいへんな騒動のただなかで、私たちが「大失敗」本誌第二号の出品を予定していました第三十回文学フリマ東京は中止となり、ある種の批判の対象として仮想していた東京オリンピックも延期となりましたが、時期だけは当初の予定通りに、『大失敗 Ⅰ-2 特集「からだ」―― 身体・国体・文体 ―― 』を5月より刊行することといたしました。

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 詳細は未定ですが、郵送販売、手売りなどによる販売を構想中です。購入方法に関しましては、適宜、Twitterアカウント(@daisippai19)や本ブログなどにて告知していきますので、どうかよろしくお願いいたします。

 

※2020/05/22追記:販売開始いたしました。

daisippai.hatenablog.com

 

 さて私たち「大失敗」の今号での特集は「「からだ」 ―― 身体・文体・国体 ―― 」と題されていますが、この「からだ」とはいかなるものでしょうか? 私たちの考えるところの「からだ」についてさしあたりの補助線を引くために、まずは手近な辞書から語義を引いてみましょう。

corps【kɔːr】n.m. ①(a)身体, 肉体.(……) (b)姿, 姿勢.(……)(c)体格.(d)1)胴体(……) 2)(よろいなどの)胴.(e)人間、やつ.(……)(f)屍(しかばね),死体(=~mort)(……)②(a)【化・物理】体(たい), 物体.(……)(b)~céleste 天体.(……)(c)avoir du~ 1)(布が)丈夫である 2)(酒が)こくがある 3)(たばこが)香高い(……)③〘物の主要部〙(……) ④(a)〘人の集団〙(b)【軍】本隊. (c)1)集, 大全. 2)(教義などの)全体

(『スタンダード沸和辞典 増補改訂版』、大修館書店、1975年)

  これでもまだなにか曖昧模糊としている、あまりに多義的すぎて、いくら辞書を繙いてみても、例文を探してみても、「からだ - le corps」という語は、その身近なひびきに反して、明瞭な像であるとか、一意的な指示関係をむすぶにはけっしていたらない、そのような感覚は、おそらくこの語を前にして誰もが共有するものなのではないでしょうか。

  それは私たちの意識の操作のもとにありながら、やはりかたい抵抗をともなう物体でもあるような「身体」であり、あまりにも自明のものとして名指されながらもいわく説明しがたい書かれたものの「からだ – 体」、「文体」であり、「人の集団」としての語義に形容詞を付加した「国家 - corps politique」の、その「からだ – 体」、「国体」でもありうる …… 。そしてまた、この名詞「からだ - le corps - 体」から派生する「身体・文体・国体」という語もまたおなじように、それと名指しがたいけれども確かに私たちに逃れがたくつきまとっているようななにかを指していて、やはりどこまでも消化しきれない感触だけが残ってしまう。

  私たちが『大失敗 Ⅰ-2 特集「からだ」―― 身体・国体・文体 ―― 』において批評しようと試みるのは、まさにこのこと、いわく言いがたいものでありながらしかし厳然と私たちの前に(あるいは手前に)ある「からだ」の奇妙なステータスであり、そのことから生じる現象や言説の錯綜であると言うことができるでしょう。

  まず私たちの試みの簡略なアウトラインを引いたところで、それでは本号に収録されるコンテンツの紹介へ向かいましょう。記事は以下のように集成されています。 

巻頭言 しげのかいり

カミュは逆説的な倫理を説いている。もしも不条理に抗いたければ不条理をなんらかの世界や個人を超えた理論に代入するべきではない、と。ムルソーは受け入れながらもある意味で抗おうとしているのだ。かかるムルソーの立場こそ批評の立場に他ならない。対象を見据えたとき、我々は対象を見据えているのではない。対象を測ろうとする自らを見ているのだ。小林秀雄が書いた「批評精神」を生きていたのがムルソーである。そしてこのムルソーの立場が倫理的であると同時に美学的なものだということもできるだろう。僕たちはあくまで個人で生きるしかない。だからすべての思考は個人的な美の範疇を抜け出すことができない。しかし個人の美から生まれてくるものこそ不条理に抗う倫理なのである。

(しげのかいりによる巻頭言本文より)

 まず、私たちの雑誌にあたえられた理念としての巻頭言を紹介しましょう。しげのかいりによる提言は、なぜいま私たちが語られたものの、あるいは書かれたものの「からだ」、文体について語ることを試みるのか、あるいはなぜいま私たちが、アカデミックな研究の言語でもなく、読者に理解しやすい思考の安息あるいは高揚をあたえてくれる政治の言語でもなく、ある種私的で、美学的なこだわりと彫琢をともなった批評の言葉をもちいるのかを示すものです。

 このことを要請するのは、ある倫理的決定にほかなりません。他者と語りあうとき、あるいは対象をとらえるそのときの、自己の不安定な在り方を容易に解消してしまわないこと。不条理な、あるいは倒錯的なものでさえありうるなにかと(誰かと)向かいあった際の緊張を消し去ってしまわないこと。そのために私たちは批評の言葉を選びとるのであり、この個的な不安と緊張を表現し、読者の思考を試練にかける「文体」こそが、逆説的に他者との対話へと開かれたものでありうることを期待するものです。

 しげのの巻頭言は、この批評の倫理とも言うべきものを提示するものですが、これは私的でありかつ美学的なものとしてのフィクションを擁護するものでもあります。六八年革命の政治的提言の核心は戦後民主主義の欺瞞、あるいはフィクションを否定的に乗りこえることであったとひとまず理解するなら、それは他者との対話の可能性を閉ざし、上述したような個人的で美学的な、批評的な「文体」の倫理を見逃すことであったと言わねばなりません。しげのの巻頭言はこのことから、三島由紀夫の「言論の自由」へと向かうでしょう。

従って、僕たちが回復するべきは「戦後」を解体する「政治」の言葉ではない。僕たちが回復するべきは個人的な美を語ることで他者に開かれる「憐み」と「みやび」といったフィクションの言葉である。この言葉を三島由紀夫は「言論の自由」と呼んだ。我々は今こそ「言論の自由」を思い出さなければならない。たとえそれが「戦後」を肯定する極めて保守的な立場だったとしても、である。

(しげのかいりによる巻頭言本文より)

特集「「からだ」 ―― 身体・文体・国体 ―― 」

赤井浩太「スポーティング・ボディ試論」(批評)

スポーツを言語化することにおいて、「趣味の言葉」ではなく、「専門の言葉」でもないような、世界に拓かれた「批評の言葉」というものは果たして可能だろうか。

このアナロジーを続けると、こうした身体の分裂は二種類のコードによって規定され ていると言えるだろう。今福龍太の言葉を借りて言えば、そこには記述された「脱文化的なルール」や「市場原理」に適合しようとする「de-scribe」的な身体と、ある固有の「環境」や「情動」が刻み込まれている「in-scribe」的な身体という二面性がある。すなわち「スポーツする身体」とは、商品であり、文化でもある、グローバルであり、ローカルでもある、個人主義的であり、共同体主義的でもあるのだ。

(「スポーティング・ボディ試論」本文より)

 「スポーツする身体」とは、先ほど私が描きだしたような「身体」の言表しがたいステータスのひとつの極限にあるものだと言えますが、批評家・赤井浩太の論考はこの身体の極限状態に切りこむものであると言えるでしょう。この私のひどく個人的で、それ自体としては分有不可能な記憶や過去、あるいは身体操作における技術の堆積する場でありながら同時に、観客にまなざされ、グローバルな市場のなかで取引され、消費される商品でもあるような「スポーツする身体」。

ドリブルする「牛」であるリュウジは、迫りくる「死」を躱して新たな「生」を掴んだ。まちがいなくそうだ。このゴールを契機にしてリュウジはサッカー界のスターダムを駆け上がっていくだろう。しかしそのシュートを放つ瞬間に想起される「父の承認」と「故郷の記憶」に、やはり身体の分裂を見ないわけにはいかない。

このように透徹した「技術」が、しかし「物語」を呼び込んでしまうところに格闘技の逆説がある。そこで「技術」の功績は無化される。あとはお決まりのパフォーマンス、コーナーポストからの宙返りである。だが、お話はこれで終わらない。ロープを蹴って跳ぼうとしたとき、武尊は片足を踏み外し、ジャンプに失敗して落下してしまう。会場がどよめく、実況はまた叫ぶ「もう一回!もう一回!」と。ぼくたちのアイドルよ、飛んでくれ。

(「スポーティング・ボディ試論」本文より)

 赤井自身がかつてその「スポーツする身体」をもつ誰かであり、スポーツというものについてそれなり以上の思いいれをもつがゆえに可能になったとも言えるこの論考は、少なからずエッセイ的な響きを伴いながら、野沢尚の手になる小説『龍時 01 - 02』と、K-1選手・武尊を批評していきます。この「スポーツする身体」において、なにが現れ、なにが可能になるのか。赤井の「批評の言葉」はただ身体の特殊な様態を記述することにとどまらす、あるフィクショナルな次元、スポーツ選手の身体における臨界点にまで踏みこんでいきます。

左藤青 「建築は「不気味」たりうるか? ―― 《新国立競技場》をめぐる建築的強度」(批評)

「建築思想」は、⾔説の中で不気味なほどの特権性を持ってきた。おそらくそれは誰もが建築を必要とし、そこにすでに住んでしまっているという当たり前の事実以上のものを含んでいる。建築思想の特権は、「建築」という隠喩の特権性に関わる。それは対象を⽴てる(=建てる)はたらきそれ⾃体の謂として、私たちの思考に深く関わるからである(カントは純粋理性の建築術について書いていた)。だからいかなる「建築思想」であれ、具体的な建築物についての批評めいた⾔説(レビュー)や、あるいは建築家による作品解説には留まりえない。それは我々の思考⼀般についてのメタ的・隠喩的メッセージとして機能してしまう。

(「建築は「不気味」たりうるか? ―― 《新国立競技場》をめぐる建築的強度」本文より)

  左藤青があらたに主題としはじめた「建築」もまた、ひとつの「からだ」として、私たちの前にある「表象」でありかつ、同時に私たちが住まうところの「存在」の場でもあるというような複雑なステータスのもとで構成されていると言えるでしょう。それは端的な事実であると同時に、隠喩的な意味においても言えることですが、左藤の論考はこの「建築」なるものの重層的な在り方をめぐって展開されています。来年夏に延期された東京オリンピックの主会場・新国立競技場から始まって、論考は「建築」にとり憑く「不気味なもの」を描出していくでしょう。

「不気味なもの」はむしろ、「家」の内部で、その抑圧構造によって常に変転しうる関数として、ある種の関係あるいは状態、さらには運動として理解すべきである。もはやそれを実存主義にも、精神分析にも還元せぬよう気をつけよう。 抑圧された「存在論的住宅難」は、確かに抑圧されているが、かといって直⾯すべき事実でも回復されるべき⽋如でもない。

(「建築は「不気味」たりうるか? ―― 《新国立競技場》をめぐる建築的強度」本文より)

  これを「批評が「幽霊」だとすれば、それは「再来霊(ルヴェナン)」なのである」との、『大失敗』創刊号の示したテーゼのひとつの実践であると言うこともできるでしょう。

 対象についての分析的な記述と隠喩的、あるいはメタなレベルにある記述が不可分な仕方で伴走していく左藤に特徴的な筆致(創刊号やブログ記事の読者のみなさまはよく知っているものと思います)にとって、多層的な現象・言説を織りこんだものとしての「建築」はまさに最適な対象であると言えます。

本論考ではハイデガーフロイトデリダ、それからホフマン、ポー、中上健次などが呼びだされ、「建築」のこの多層性に応じた仕方で、左藤の今後の問題設定にも開かれたものとしてひとつのテクストを形成していくわけですが、それはこのテクストを読んだ誰かを同じく多層的で「不気味な」思考へと誘うものでもあることでしょう。

袴田渥美 「象徴詩的身体に抗して ―― ジュリエット物語、あるいは思考のレッスン ――」(批評)

マイナーなものを愛する私たちは、絶望しなければならない。さもなければ、かつてたしかに、かすかな可能性を指ししめしていると思われた未知との遭遇が、中産階級のすこしだけ「変わった」趣味を満足させる嗜好品として、わざとらしい感嘆の声のなかへと溶けくずれてゆく様を、手だてもなく見とどけなければならない。

(「象徴詩的身体に抗して ―― ジュリエット物語、あるいは思考のレッスン ――」本文より)

  さて私、袴田渥美の論考についての紹介ですが、自身の書いたテキストについてなにかを書くというのは、少し気恥ずかしく、やはり不思議な感覚になります。この論考は昨年、本ブログに掲載された左藤青としげのかいりによる「加速主義と日本的身体 ――柄谷行人から出発して」(https://daisippai.hatenablog.com/entry/2019/06/14/200000)への応答からはじまり、「他なるもの」、「異なるもの」に賭けた思想家や批評家たち、ニック・ランドや澁澤龍彦らの「大失敗」を批判的に記述していきます。

種村が「吸血鬼の形象」を「多義的なアレゴリー」として描きだすそのときにもまた、私たちはあの身体の象徴詩的性質を想起するだろう。種村自身が供述する通り、それは私たち自身の「神話的形象への投影」に他ならない。「他なるもの」、「異なるもの」との出会いを渇望する私たちは、またしてもここにおいて、鏡にうつった自身の姿を ―― 何度目の失敗なのかをさえも、もはや数え忘れて ―― 見いだすことになる。

(「象徴詩的身体に抗して ―― ジュリエット物語、あるいは思考のレッスン ――」本文より)

  論考はこの自己批判(私自身、マイナー文学と呼ばれる領域を愛してきたひとりでもあります)を含んだ批判と、短絡的に「マイナーなもの」に可能性を見いだしてしまう思考への警告を経て、「からだ」の問題へと向かいます。

さて私たちは、左藤としげのの名指した「日本的身体」にとどまるかぎり、どれほど遠くへ向かおうとも自身の鏡像、人体の形象をしか見いだしえないわけですが、この自己愛的でつまらない思考のスタイルを脱却し、「自分たちの身体の関節を、そして自明となっている文体の流れを脱臼させ」るための手立てをもとめて、論考はマルキ・ド・サドのテクスト、『ジュリエット物語又は悪徳の栄え』を呼びだすでしょう。

 サド侯爵を召喚することは、論旨に反しかねないある種倒錯的な選択であったことを私は自覚していますが、彼のような想像をまったく絶する他者との対話のなかでこそ、自己愛に沈滞することのない倫理的言説の析出を試みなければなりませんし、そこに自身の投影かそれ以下のものをしか見いだしえない「スタイル」の変革を望まなければならないでしょう。この論考の後半はまさしくその点にこそ賭けられています。

てらまえあんじ「老いについて 眠れぬ夜をやり過ごすための夜伽」(エッセイ)

以下は、嚙まれも味わわれもせずサプリメントよろしく呑み下され、最も効率よく、かつ迅速に硬化した脈へと流され、それとして顧みられずにただ惰性のままに病んだ健康に奉仕させられることのないように、という意図のもとでしるされた。わたしは「答え」を与えない、そもそもわたしにはそれがわからない。パッケージ化されたていのよい社会的な文章がお好みとあらば、これを読み進めていくことは大変な労苦を読み手に強いるであろうに、何卒、飛ばしていただいて構わない。

(「老いについて 眠れぬ夜をやり過ごすための夜伽」本文より)

  「大失敗」同人において初掲載となるてらまえあんじの論考ですが、これは同時に、『大失敗』誌のあらたな試みとしてのエッセイの掲載であるということにもなります。しかしこのエッセイとひとまず名指すほかないスタイルは、上に引用したイントロダクションの語るとおり、なにか刺激的な「答え」や、実践的な方途を容易に指し示すようなものでは決してあることのないように選択されたと言えるでしょう。

 ひとびとの身体の崩壊の速度は加速しつづけている。眠りさえ脅かされ、〈老い〉の過程に身を置くなど論の外、気付かぬうちに疲れ切って死んでいる。もはや布では覆い隠せない世界中に穿たれた無数の穴は、そこら中で繋がり始めており、いずれはひとつの穴へ、そのまま世界を陥落させ、世界が裏切られる。それでもこの世界は終わらない。ならば、いかにして誰にも書かれ得ない呪いをこの昏い眼で読み、書くことができるのだろうか。徒労に終わる無益な〈仕事〉をひとは余儀なくされている。

(「老いについて 眠れぬ夜をやり過ごすための夜伽」本文より)

  てらまえの描写する「からだ」、「身体」の様相とは「〈老い〉」であり、それはこのどこまでも活発で健康な資本制にとりこまれた身体から忘却され、排斥された身体の一様相でもあります。論考は丹生谷貴志小泉義之の言説を主に参照しながら、「〈老い〉」の過程におけるどうしようもない無能力のなかで営まれる言葉を「書く」という後期フーコー的な意味での仕事の場を指ししめしてみせることに、このエッセイは捧げられています。

身の熟しを、〈老い〉の様式を、呼吸のリズムを、〈仕事〉をうつし、〈砂浜〉においてしるすこと、それに立ち会うこと。

(「老いについて 眠れぬ夜をやり過ごすための夜伽」本文より)

 あるいはだから、このエッセイ自体がそのような「仕事」のひとつの実践として成立していることも付言しておくべきでしょうか。このエッセイのスタイルそのものが、「身体」と切り結ぶ「文体」の問題を顕示していることもまた、この論考から看取されるべき特質のひとつであることでしょう。

吉永剛志高瀬幸途という"歴史"」(エッセイ)

2019年4月24日、高瀬幸途が大動脈解離で死んだ。私にとっては兄貴分だった。本当に悲しい。むこうも弟分として遇してくれていたと思う。いろいろ世話になった。親しい間柄だったと思う。私の2017年4月の結婚パーティのときは、「吉永君は風来坊。どこから来てどこに行くのか分からない。私の娘とは結婚させたくない」とスピーチされた。おいおい、アンタにだけは言われたくないよ、と思ったものだ。

(「高瀬幸途という"歴史"」本文より)

  吉永剛志による寄稿もまた、そらまぎるに続いてエッセイとして収録されています。ただしそらまぎるの論考が、ある種の思考の表現としてのエッセイであったとすれば、こちらは筆者の私的な思いいれを交えた歴史の証言としてのエッセイとして書かれたものです。

 このエッセイの主要な登場人物、昨年、逝去された高瀬幸途氏についての筆者の記述は、60年安保闘争、68年の学生運動ビートたけしや『批評空間』誌の時代をつくった太田出版柄谷行人によるNAMの結成と解散、それからそれらに付帯する様々な出来事、事件について語りながら、故人の思い出を歴史のなかへと位置づけていきます。

例えば東大紛争の基調である反・産学協同路線も解放派由来のものだ。法政大学に入っても高瀬さんと永井さんは一年生でもう中核派を理論的には圧倒し、よく二人で中核派をおっかけていってオルグしようとして逃げ出されていたそうだ。接触を避けられた中核派の中には同世代の糸井重里もいたという。(……)このようにこの永井・高瀬のコンビは煙たがられていたから10・8羽田の前日、全国からの動員できていた他大学生の中核派に朝からなぐられたというわけだ。

(「高瀬幸途という"歴史"」本文より)

 なによりこのエッセイの魅力は、種々様々なトピックのなかで描かれる高瀬幸途という人物の少なからず破天荒で、けれども敬愛の情を抱かずにはいられない姿であり、彼の「弟分」であった筆者の敬慕のにじんだ筆致であると言えるでしょう。

 また同時に、この貴重な歴史的証言が私たちの雑誌に収録されることには重要な意義があることも強調しておかなければなりません。単線的で図式的な歴史観に尽くすことのできない68年当時の若ものたちや、それぞれの時代を画した書き手たち、現在進行形で試みられている運動のなかにいる人々についての稀な証言として、批評の政治性、歴史性を語る私たち「大失敗」同人はこのエッセイを迎え入れることとなりました。 

しかしこの噂話に出てくる言葉のなかには、様々に毀誉褒貶がある言葉が多々あるので、この同人誌の編集部の要請もあって、若い、初めてその言葉を知る人にむけての如く丁寧に説明する。冗長であるがお付き合い願いたい。そして大事なのは過去でなく、もちろん今現在である。

(「高瀬幸途という"歴史"」本文より)

環原望 「わたしの部屋のなかで」(小説)

居間の本棚のいちばん下におさめられた古いアルバムを見つけたのがいつのことだったのかもう思いだすことはできないけれど、ぼくはそれをそっと棚から抜きだして二階にある自室に持ち帰ったのだった。たしか夜のことだっただろう。アルバムは両手で持たなければならないほど重厚で、表紙は日に焼けたように茶色くなりところどころ黴が生えてさえいたからどれくらい昔のものなのか想像することさえ難しく、ひらいてみるとその本にはぼくの家族の歴史が年代記のように収められている。

(「わたしの部屋のなかで」本文より)

 『大失敗』二号には、小説も収録されることとなりました。環原望の「わたしの部屋のなかで」は、本誌のために書きおろされた掌編ですが、その「からだ」、文体がまず目を引くことでしょう。

絡み合った植物をモチーフにした図柄を繊細に編み込んだレースのついた白く裾の長い衣服をひらひらとなびかせるあなたの足取りは軽く、泡の飛沫と戯れているようにも見え、というよりもむしろ濃紺の海面を覆う白波が、さあっという音を立てて寄せてはまた退いていく動きのほうが、あなたのあしうらが柔らかい砂を踏む軽やかなステップに合わせて行われるゆるやかな舞踏だったのではないでしょうか。もちろん、あなたについてなにひとつ確かなものとして語ることはできないのですが、いくつかの写真に光学的に焼きつけられ、今ではほとんど失われてしまった出来事の残滓から想像された夜のなかにいるあなたに向けて語りかける言葉がこのように語るのです。

(「わたしの部屋のなかで」本文より)

 ヌーヴォー・ロマンを想起させるような長いセンテンスとパッチワークのようにところどころに挿入されるメモ書きや挿話がこの小説の特徴ですが、そのようにして描きだされる語り手「ぼく」の身体は、明瞭な像を結ぶことなく記憶や出会ったこともない誰かとまじりあっていくでしょう。

いえ、服そのものがあなたの痕となって陥入してくるのだと言うべきでしょう。あなたが陥入しています(ここにあるのはもはやわたしではないのです)。

(「わたしの部屋のなかで」本文より)

 長く蛇行する文体に沿って描かれた「からだ」は、語り手の身体の輪郭をぼやけさせかつ変形させていきます。小説について適格なしかたで語るためにはよりおおくの語を費やす必要がありますが、さしあたりの紹介はここまでとなります。あるいは、この小説が読者のみなさまのなかから「批評的」言説を引きだすようなことが可能であれば幸いです。

藤原有記 「内外科」(マンガ)

「先生頼みます / 一刻も早くなんとかなりませんか」

(「内外科」セリフより引用)

 こちらも『大失敗』二号からのあたらしい試みですが、本誌デザインを担当している藤原有記による小品マンガ作品も収録されています。「からだ」とは、言説のなかで問題化される対象でありかつ、視覚的表象においても重要な主題であると言えるでしょう。

 さしあたりマンガにおいて「身体」を描くということについて補助線を引こうと試みるのであれば、人間の身体自体がそもそもマンガのように複数のフレームによって区切られたものであるということに着目しておくべきではないでしょうか。

 人体の輪郭、顔の輪郭、顔の各パーツの輪郭、それからその他人体に従属する各部位の輪郭などなど、「身体」の像そのものがそもそもマンガ的に構成されていると言うこともあるいは可能でしょう。

 この記事に本誌に掲載される作品をそのまま示すことはできないため、ぜひ本誌を、ということになってしまいますが、藤原有記による「からだ」の表現がいかなるものであるか、どうかご期待ください。

 

 以上、『大失敗 Ⅰ-2 特集「からだ」―― 身体・国体・文体 ―― 』の紹介記事をお送りいたしました。

 私たちの雑誌も二冊目となり、私も含めたあらたなメンバーを加えた誌面をお送りすることとなりました。この「大失敗」という同人が、さまざまな立場、あるいはさまざまな技法をもったメンバーによって構成されているがゆえに、「からだ - le corps – 体」というひとつのテーマについて思考するに際して、やはり種々様々な言説と実践を集成することが可能になったと言えるでしょう。

 しかし私たちは総じてやはり、ある「批評的知性」への信頼から結集された「批評集団」であることにもまた、ひとつのアクセントを置いておかなければなりません。創刊号から始まったある「知性」の持続が、こうしてあらたに、私を含む誰かを誌面に集めたのであるとすれば、『大失敗』二号もまたおなじように、ある「知性」を誰かに憑きまとわせ、読むこと、書くことへといたらせうるものとなることを私たちは望むものです。

 さしあたりはまずあなたがたの「からだ」、身体に、あなたがたの語り口や筆致の体であるところの「文体」に、それからあなたがたの住まう家であるところの「国体」に、遠まわりに介入しようと試みることから私たちははじめましょう。もしもあなたがたが、いまあるところの「からだ」にこれまでのような仕方で憩っていることができなくなったのであれば、私たちの目的はひとまず達せられたことになるでしょう。そのときにはどうか、私たちへの応答をいただければ幸いです。

 

文責:袴田渥美

 

 

 

 

 

 

大失敗のRadio-Activity 第十三回「緊急特番・東/外山対談について」

第十三回

 

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2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太と左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。

先日2020年5月10日(日)にゲンロンカフェのニコ生にて、批評家の東浩紀さんと革命家の外山恒一さんが対談されました。かねてより「大失敗」が注目してきたこの二人の思想家の対談はツイッターでも話題を呼び、近年稀に見る批評的な出来事であったと思います。これについて、赤井と左藤で意見交換をしました(リモートで)。

※取ってすぐに出しているので編集する時間がなく、ほぼノーカットでお送りしています

 

左藤による東・外山論 

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パーソナリティ:赤井浩太左藤青

編集・BGM:左藤青

 

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大失敗のRadio-Activity 第十二回「みんな!日記を書こう!」

第十二回

 

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今回も「リモート録音」です。最近急に日記を書き始めた左藤の真意、日記を書くことの意義、コロナでの生活の変化、政治性の変化、星野源ノンポリか? など、割とざっくばらんな雑談をしています。

 

パーソナリティ:赤井浩太左藤青

編集・BGM:左藤青

 

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大失敗のRadio-Activity第十一回「コロナ時代を生き延びる批評」

第十一回

 

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2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太と左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。

今回はCOVID-19流行に対応して「リモート録音」をしました(多少音質が悪いですがご容赦ください)。「自粛要請」の同調圧力の中、様々な言説が跋扈して疲れるこの頃ですが、コロナ時代をどう捉えるべきか、あるいは捉えないべきか、について赤井と左藤が語りました。様々な事情から左藤がメインで喋っています。

 

パーソナリティ:赤井浩太左藤青

編集・BGM:左藤青

 

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アヴァター・アローン 機はまだ遠い ただ生き延びよ

平沢進 - アヴァター・アローン)

 

 

 

大失敗のRadio-Activity 第十回「『生活の批評誌』と『大失敗』」(ゲスト=樫田那美紀)

第十回

 

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2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太と左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。

今回は、前回に引き続き、我々より少し先輩の批評同人誌『生活の批評誌』の樫田那美紀さんにお越しいただきました! 『生活の批評誌』は、「生活」と「批評」というややもすると相容れないと思われがちな二者の交差する場所を探しつつ、精力的に活動している批評同人誌です。「大失敗」とはかねて若干の交流があった他、意識的に「政治」を問題にしておられる点で、「大失敗」との共通点もあります。


今回は「大失敗」と『生活の批評誌』でお互いの印象、交差するところ、批判点など、率直に語り合いました。「生活」を批評することとはどのようなことなのか? 何を語るべきなのか? など、論点はたくさんあると思います。ぜひお聞きください!


Twitter:『生活の批評誌』

 

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大失敗のRadio-Activity第九回「生活の批評」(ゲスト:樫田那美紀)

第九回

 

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2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太と左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。

今回は、我々より少し先輩の批評同人誌『生活の批評誌』の樫田那美紀さんにお越しいただきました! 『生活の批評誌』は、「生活」と「批評」というややもすると相容れないと思われがちな二者の交差する場所を探しつつ、精力的に活動している批評同人誌です。「大失敗」とはかねて若干の交流があった他、意識的に「政治」を問題にしておられる点で、「大失敗」との共通点もあります。

現在第四号を準備中とのことですが、今回は『生活の批評誌』を始めたきっかけ、雑誌作りについて、『生活の批評誌』のコンセプト(生活と批評の交差点、フェミズムとの距離感)など濃密なお話ができました。次回も引き続き樫田さんにお話を伺うので、そちらもお楽しみに。

Twitter:『生活の批評誌』

 

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大失敗のRadio-Activity第八回「われらの人間性、ならびに恋愛相談の回」

第八回

 

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2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。


「もう何かを考えて喋るのはいやだ」という左藤の一言から始まる今回は、左藤・赤井のお互いの経歴や性格についてゆるく話し合っています。左藤が思想書を読み始めたきっかけ、赤井の高校・大学時代の話など。

後半では、最近設置したお題箱に(なぜか)来た恋愛相談(「二人の女性を好きになった時どうすればいいか」)に答えています。

 

お題箱はこちら。どしどしお題をお寄せください!

odaibako.net

 

 

なお、『大失敗』創刊号はこちらからご購入いただけます👉https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSfn0SY9uIfZyPRkeabze01Q3Z7DJtM7quPPajDEcYwlBEwu9g/viewform

 

パーソナリティ:赤井浩太左藤青

編集・BGM:左藤青

 

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