批評集団「大失敗」

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【書評】外山恒一『全共闘以後』

水滸伝』とは時代の不満分子―――あぶれもの、はみだしものが彼らの“小宇宙”を、国家に対する二重権力を創出する物語である竹中労梁山泊窮民革命教程」)*1

  ゲバリスタ時代の竹中労を引いたこと自体に意味はない。

 とはいえ、外山恒一の大著『全共闘以後』を読みながら私の頭の中に描かれたイメージは、まさに哄笑と罵声を喚き散らすドブネズミたちの水滸伝であった。

 その風貌からし石原莞爾もかくやと思われる稀代のファシスト外山恒一によって提出された本書は、老師・絓秀実の一九六八年史論とともに、いま、新たなる思想―運動的な局面に向けて差し出されている。

 のっけから外山は喧嘩上等である。一頁目で「理想の時代⇒虚構の時代⇒動物の時代」というサブカル/オタク中心史観の大澤真幸東浩紀に対する異議と「通史の不在」を唱え、まず手始めに一九五五年から七〇年七月七日にいたるまでの「前史」を語り、そして八〇年安保、八五年における政治・思想・文化の断絶と混乱、八九年革命とそれ以降のドブネズミたち、九五年のオウム事件=まったく新しい戦争、二〇〇一年アフガン反戦以降のパヨク台頭、二〇一一年の三・一一以降と、現代史の約五〇年間に渡る政治・思想・文化の厖大な出来事を運動/現場の視点から記述していく。この物語は、壮絶にして奇妙奇天烈、さながら伝奇ロマンと言えよう。

 本書はだいたい各章ごとにスポットライトの当たる「主人公たち」が存在する。運動史に詳しくない読者からすれば、その誰もが「名もなき運動家」には違いない。もちろん外山もそのうちの一人であるが、そこで外山は以前の著作『青いムーブメント―まったく新しい80年代史』を有機的に吸収しつつも、自身を「私」という一人称ではなく「外山恒一」として、あくまでもこの群像劇的な物語のなかのひとりとして登場させる。登場人物たちひとりひとりに対しては「こいつ誰だよ」と思わずにいられないが、しかしドブネズミ世代を中心として、それぞれの運動が「作風」を帯びるほどに登場人物たちは奇々怪々にして豪快無比である。そしてこの運動者たちは、吉本隆明糸井重里浅田彰柄谷行人、あるいはYMO尾崎豊ブルーハーツタイマーズなどのビッグネームと並行して登場するために、読者はよりいっそう時代の社会状況を立体的に把握することができるというわけだ。

 ここには外山独特の批評が行われている部分がある。たとえば外山は、いわゆる「ポストモダンの"左"旋回」、すなわちイラク反戦運動戦後民主主義という「普通の左翼」へ転回した柄谷行人浅田彰を中心とする面々の様相と比較して、「ポストモダンの"右"旋回」と呼ぶべき事態を指摘する。ここでの主人公は、『宝島』の書き手であり、左翼への鋭い批判者だった呉智英の弟子筋たち、つまり大月隆寛浅羽通明オバタカズユキらである。運動の経験者であった呉と異なり、その弟子筋であり運動の経験がなかった新人類世代になると、左翼への批判は単なる左翼嫌いに近くなっていく。その傾向はポスト新人類世代にはより強まる。外山によれば、こうした書き手たちの読者層は「決起した同世代にコンプレックスを抱いて」おり、浅羽の「(決起した若者たちは)地に足がついていない」という言説によってこそ「普通の人生コースに踏みとどまった自分たちこそが実は正しかった」と自己肯定にいたったのだ。外山は、こうした言説こそがネトウヨの源流であると指摘する。この視点には、「運動的批評」とでも言うべき外山の批評性が現れているであろう。

 外山恒一という「運動者」による批評、それは学校の管理教育化からオウム事件を経て、市民社会による排除と包摂、あるいは異端の抹消と若者の囲い込み、そういった二重構造へと日本が変容していった過程を実地で経験してきた者だからこそ描ける史論なのかもしれない。外山は見聞き読みしてきた全共闘以後の運動史をこれでもかと饒舌に語りまくる。約六〇〇頁書いてもまだ足りない。圧倒的なまでの熱量がテクストを紡ぎ続ける。もはや外山は「キワモノ革命家」を超えて「時代の語り部」の域に入ったのではないか。

 しかし、この語り部の物語に対して「歴史としてはお粗末」だと批判している人物(どうやら運動関係者らしい)もいるが、私のような部外者からすればそんなことはどうでもよろしい。だが、あえてマジレスすれば、例えばアレクサンドル・コジェーヴが言うように「歴史的想起なしには、すなわち語られたり書かれたりした記憶なしに実在的歴史はない」*2のであり、あるいは野家啓一が言うようにstoryとhistoryが共にギリシア語の「ヒストリア」に由来する語源をもつことからしても*3、歴史が物語から独立していることなどありえないのである。要するに、ある出来事が客観的に実在すると仮定するのではなく、出来事の解釈によって読者の史観を奪い合うこと=「闘争」が重要なのであって、この点こそが『全共闘以後』における最大の政治性/批評性であることは疑いえない。

 時代を問うことが思想的営為の第一条件だとするならば、単一な過去に規定された「現在の現実」をひっくり返しにかかっている外山恒一は、まぎれもなく思想家である。また近年の絓秀実や千坂恭二の動きも含めて考えれば、状況は水面下ですでに大きく動きだしているといっても過言ではないだろう。

 そこで知的な書物などをお読みになられている若い皆様に申し上げる。こちらの水は甘くないし無臭でもない。てめぇの鼻がリベラルの糞でフン詰まっていなけりゃ、毒々しい思想の刺激臭が「運動者」の股ぐらから強烈に匂ってくるのを嗅ぎあてられるはずだ。いまクシャミしたやつから鼻かんで書店に行け。そして外山恒一を買え。

 以上、いささか短めではあるが書評とさせて頂く。

 

※ 公開時、「ポストモダンの"右"旋回」に関して事実誤認があり、外山さんご本人からご指摘がありました(現在は修正済みです)。お詫びして訂正いたします。

 

(文責 - 赤井浩太

*1:竹中労平岡正明『窮民革命のための序説「水滸伝」』、三一書房、一九七三年、七一頁

*2:アレクサンドル・コジェーヴヘーゲル読解入門』、上妻精ほか訳、国文社、一九八七年、二四七頁

*3:野家啓一『物語の哲学』岩波現代文庫、二〇〇五年、一二四頁