批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」な批評集団。https://twitter.com/daisippai19

浅田彰と資本主義 赤い文化英雄(前編)

 トリックスターとは、あるコミュニティにおいて、「中⼼」的な地点が弱体化した際に、それを盛り上げるものとして登場する「周縁⼈」のことである(⼭⼝昌男「⽂化と両義性」)。中⼼と周縁の関係は常に両義的で、周縁という他者がいることによって、⾃⼰としての中⼼が確⽴する。⼀⽅で「異⼈」としての周縁⼈もまた、中⼼が存在しなければ「異⼈」たりうることはない。浅⽥彰は、この意味で正しく「トリックスター」であった。

 周知のことだが「トリックスター」を定義した山口昌男は思想的に新左翼のイデオローグであった津村喬と似た立場に立っていた存在である。山口昌男の思想的なバックボーンを見たとき、そこにあるのは林達夫の精神史的なモチーフから遡行して作り出される新左翼の文化闘争である。その山口に影響を受けたバブル期のトリックスター=文化英雄というべき浅田彰もまた、かかる左翼の思想史を前提にした存在であると考えるべきであろう。

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1、ポストモダンのバッタモンを売り続ける共産主義者

それは矛盾を孕んだ文化戦略ではあった。大衆消費社会を批判する前衛文化を、大衆消費社会の担い手である流通産業が積極的にフィーチャーしてみせる。

 これは、1999 年の『voice』3 ⽉号に搭載された浅⽥彰の「セゾン⽂化を継ぐ者は誰か」からの引⽤だ。浅⽥のセゾン⽂化に対する批評には、彼の思想の根本にあると思われる「ノリつつシラケつつ」への繋がりも感じられる。というのも、このセゾン⽂化に対する浅田の批評は、彼のポストモダン哲学に対する意識とも繋がっている様に思えるからである。

 『逃⾛論』における「スキゾ/パラノ」と⾔った⼆⽂法図式は、実はどちらかを肯定しているというわけではない。どちらも批判しているのである。⼋〇年代の浅⽥彰は⼀貫して「どちらも批判し、どちらの⽴場にもつかない。故に、懐疑が存在しないものとして、スキゾをメタ的に肯定する」という⽴場をとる。したがって浅⽥は、語の正確な意味でのポストモダン思想を流通させるのではなく、知的な「ファッション」のなかでの、すなわちコードさえ理解すれば把握できるバッタモンの商品を流通させることに重きを置くという⽴場に⽴つ。

 ポストモダンの思想(フーコードゥルーズ)はもともと六八年革命と同時並行的に出てきたものであって、極めて政治的・社会的な思想のはずである。浅田彰はそのようなポストモダンの政治性を敢えて脱臭し、「センスが良い」かどうかが問題になる磁場を作り上げていく。すなわち、パラノイアックにマルクス主義的な前衛に固執していた「思想」をスキゾキッズも消費できるバッタモンとして売ったのがセゾンと浅田彰の戦略である。

 しかし、重要なのは、浅⽥彰自身が思想を認知させる対象は「スキゾ」ではなく、「パラノ」であるということだ。これはコピーライターである⽷井重⾥にも通じるところで、「おいしい⽣活」「じぶん新発⾒」、「くうねるあそぶ」といった作品は、⻄武百貨店を基本とした既存の企業に対する作品である。浅⽥と⽷井は実際には「スキゾ」型の⼈間を相⼿にしていたのではなく、「スキゾ」的な消費スタイルを「パラノ」たちの社会に流通させるため、「⼤企業」に動員されたことになる。

 浅⽥彰は『逃⾛論』の中で次のように述べる。

広告なんだけど、すぐにわかるとおり、絶えざる差異化の場であるこの世界では、当然スキゾ型のひとのほうが多いんですね。ほかの世界ではちょっと社会的に認められないんじゃないか、というぐらいのひともいる。逆に言えば、広告の世界というのは、そういうひとのもってるある種のガキっぽさを縦横に発揮できる場なわけで、その点では、さっきも言ったように、心のたのしい世界だといってもいい(「差異化のパラノイア」二四頁) 

 ここでいわれている「広告」の概念は、浅⽥彰⾃⾝にも当てはまる。浅⽥は『逃⾛論』の冒頭で「キッズ」について語るのだが、この「キッズ」について語ることこそ、広告ならびに浅⽥彰の社会的な需要だった。すなわち⼤衆消費社会の中で⽣きている若者の思想を売りつけ、旧世代にバッタモンを売りつける担い手としての需要である。これは⼤衆資本主義という冷戦以後のあってない「駄法螺」を商品として流通させることなのだ。これを浅⽥的にいえば、「キッズ」としての、すなわち消費者としての⽴場からは、⼤衆資本主義を批判する⾼度な思想さえ、⼤衆資本主義の「バッタモン」になっている、というわけである。

 浅⽥彰の思想は『GS』の第⼀号「反ユートピア」にも具体的に現れている。ここでの伊藤俊⼆、四⽅⽥⽝彦との⿍談で出てくるのは、フーリエの『愛の新世界』、スウィフトの『ガリバー旅⾏記』、オーウェルの『1984』であり、これらのユートピア/反ユートピア⼩説という線引きを批判する形で対話は進んでいく。すべての共産主義ユートピア)は成立した時点で悪夢へと変わるからだ。

 この意味で、浅⽥は商品と思想の二項対立を解体するが、思想の価値をぐらつかせはしない。ここで彼はあくまで思想=マルクス主義の⽴場なのである。浅⽥はその点でマルクス主義の規格からは外れることはない。「商品と思想が等価になった」ということを既存の⽴場から説明しながら、既存の⽴場を批判するような⾝振りをすること。これが「ノリつつシラケつつ」の概要である。浅⽥の⽴場は、⼤衆消費社会を批判する前衛⽂化を、⼤衆消費社会の商品にしてしまうという「セゾン⽂化」の戦略と合致する。

 しかも浅⽥は、そうして⼤衆消費社会に商品にされることを⽢んじて受け⼊れつつ、それを「わかった上」で、「あえて」それをやっているという体裁をとるのである。この点を理解すると、浅⽥彰の思想の、とりわけマルクス主義の⽴場と、バッタモン⼤衆消費社会を肯定する⾝振りとの、⼀⾒相反する整合性が浮かび上がってくる。 

2、赤いトリックスター 〜荒唐無稽なアナルセックス〜

 そもそも浅田彰アルチュセールを日本に輸入した今村仁司の影響下から出発した批評家であり、彼が京都大学に入学した頃には滝田修の事件があったわけで、当時の浅田彰マルクス主義に影響を受けていたのは間違いない。

 そしてそのことを裏付けるように『ゲンロン4』に掲載されていたインタビューでは、浅田は一貫してソ連型のマルクス主義の失敗とハイエク的な資本主義を肯定する立場に回る発言をしながら、自らはマルクス主義の立場にパラノイアックに固執している。

 以上の事からもわかるように浅田彰ニューアカ以降の批評家の中では、極めて稀な形でマルクス主義固執している批評家だと言えるだろう。しかしこのマルクス主義は単純な「マルクス主義浅田彰」の顔を描写するわけではない。

 浅田彰マルクス主義の異例な所は、現在あるマルクス主義は全て失敗作であったと断定する点にある。ゲンロンカフェにおける東浩紀中沢新一との鼎談で語られた「すべての共産主義は成立した時点で悪夢へと変わる」という発言がそのことを現している。ではなぜ悪夢になるのだろうか。我々はソビエト中華人民共和国の現状を見ているからこのことを肌感覚として理解できる。しかしなぜ浅田彰はすべての共産主義が悪夢と化してしまうことを断定できるのであろうか。それを理解するためには、まず浅田彰の資本主義観を理解する必要がある。浅田は朝日新聞上で行われた大江健三郎との対談で次のような発言をしている。 

 一般論として、近代とは、恐るべき終わりを予期しながら、常にそれを先送りすることによって均衡を保つプロセスです。

 世界の終わりの日が分かっていたなら、だれもその日には紙幣を受け取らない。だから、その前日も、いや、巡り巡って今日も、受け取らない。必ず明日があるという前提のもとで、最終的決算、つまり恐慌を繰り延べていくのが資本主義です。(平成二年五月一日夕刊)

 浅田的には、資本主義とは自己の破滅=恐慌を予期しながら、そのような恐慌、死の恐怖があるからこそ、延命されうるシステムだということになる。つまり資本主義は自己を破壊するものでありながらその破壊を阻止するために、より深い傷口を開けようとするシステムに他ならない。そしてこれは米ソ冷戦にも言えることである。資本主義とソビエト核兵器の大量生産を際限なく競い合っている状態は世界の終末を予感させるものだが、極めて均衡した状態であるとも言えるのだ。もしもこれが一方の陣営の弱体に寄ったならば、直ちに核兵器の発射ボタンが押され、世界は終末へと至る。現状ある共産主義が悪夢でしかないのは、それが資本主義の合わせ鏡となって、生産性の競争という極めてメタ的な形での資本主義的な均衡を保つほかないからである。

 その悪夢は、東浩紀中沢新一との鼎談における発言にもある通り、オナニーを覚えた猿である。浅田は、本来的にはオナニーを覚えたらやめられないのは猿ではなく人間だと考える。人間は恐慌と言う名のテクノブレイクを予期しながらも、オナニーとしての資本主義を止めることができない。一定程度の所で止めればいいものを紙幣の増幅をより増やそうとするのがオナニーの如き資本主義の理論である。

 対する浅田彰が何を持ってくるかと言えば、それはアナルセックスに他ならない。勃起をしたペニスをしごいてテクノブレイクに至るオナニーに対して、前立腺を刺激することでテクノブレイクに至らず何時間でも満たされない快楽に酔いしれる*1。このゲイ・ピープルの思想が、浅田彰の求める共産主義である*2。したがって射精という彼岸へと至った革命もまたテクノブレイクであって、射精ギリギリの地点で快楽にまどろむ存在が浅田彰なのだ。

 しかし注意するべきなのは、アナルセックス自体、その根本にあるのはマゾヒズム的な感性、すなわち自己破壊的な欲求である点である。そもそも排泄器官であるところの肛門を性器に変形し、変形されるプレイがアナルセックスであって、資本主義と同じく、そこには自己破壊の衝動が刻印されている。この資本主義と浅田的ゲイ・ピープルの破壊衝動の差異は、それが後に予期されるものであるのか、もしくは始まりであるかの違いである。資本主義的な自己破壊はただ予期されるものであり、到来しないものである。それに対してゲイ・ピープルは自己破壊そのものが目的になった思想である。それは、資本主義が結果的に産出してしまう倒錯的な均衡を先取りし、資本主義の破壊衝動が達成されることがない状態を続けていくことに他ならない。

 浅田彰が資本主義を批判する共産主義者の立場に立ちながらも、資本主義の成功を容認し続けるのもそのためである。浅田彰共産主義は中心になることがないものだ。もしもそれが中心に位置するならば、一夜に悪夢へと変わるだろう。そのことを予期しながら、資本主義とは違い、先取りした形で共産主義を自虐的に評価する自己破壊に位置し続けるのが、中心に対する周縁人(トリックスター)の位置付けである。

 したがって、共産主義は永遠に正しいものになることはなく、やはり「駄法螺」以上のものではない。駄法螺であるから、それは現実化したならば不条理な悪夢になるしかない。浅田彰共産主義は資本主義と対置されるものではない。それは永遠に資本主義の中にあり、資本主義を制圧することはない。しかし一方で、自爆し続けることで、この荒唐無稽な駄法螺は生き続けるのである。浅田彰トリックスターたる所以は、資本主義というテクノブレイクに対置され、周縁に位置し続ける「駄法螺」を永遠に発し続ける点にあるのだ。

 

(後編に続く)

 

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(文責 − しげのかいり

 

 

*1:ここでアナルセックスはテクノブレイクに至らないメタファーとして使われているが、実際にはアナルセックスがテクノブレイクに至ることもありうる。

*2:このような共産主義思想を持つ浅田彰に影響を受けた東浩紀が「ピストン東」と評されることは妥当なことではあるまいか。かかる文脈から見た時、ゲンロンカフェは正しくゲイ・ピープルの「誤配」=「散種」の場としての「ハッテン場」に他ならない。