批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」な批評集団。https://twitter.com/daisippai19

資本主義の光 ——マイケル・マンの光

 あらゆる可能性は明示的に表象されるものではなく、潜在的なものとして現れるものだ。例えば「社会的意識が人間の意識を規定する」というマルクスの言葉にも当てはまる。この言葉はアリストテレスがいう「人間は社会的動物である」とは訳が違う。アリストテレスは人間の行動が不可避的に政治や社会に結びついてしまうことを指摘している。マルクスが見出したのは、そもそも主体的に社会を作ろうとしている人間の意識が、実は政治と社会に憑依され作らされているという事態に他ならない。

 わたしが「疎外」を解消可能な概念として批判したり肯定したりすることを不毛としか思えないのはこのためだ。「疎外」を人間が主体的に克服可能として把握するのは「社会」に対する甘えでしかない。そのような社会による人間主体の「疎外」からの克服すらも現代社会はあらかじめ予期し、プログラムしているのである。我々が為すべきは「社会の外側へ出ようとする」などという、人間が疎外される社会があらかじめ予期しているメロドラマではない。そのようなあらかじめ仮構されたメロドラマを内破させる部分を見出すことこそが必要なのだ。

 

 マーク・フィッシャーはマイケル・マンの『ヒート』を次のように分析する。

『ヒート』で犯行を行うのは、祖国へのつながり持つ家族ではない。むしろ根無し草の組員が、磨き上げられたクロムめっきと均質的なデザイナーズキッチン、そしてのっぺりとした高速道路と深夜食堂が立ち並ぶロサアンゼルスにおいて、ヤマを踏むのだ。(一九七九年十月六日——「何事にも執着するな」*1

 マーク・フィッシャーは『ヒート』を通して89年以降の自由主義社会主義に勝利し、全てが市場原理主義に基づいて再編された世界を正確に描写している。『ヒート』の主人公である犯罪組織のボス、ニール・マッコーリーは『ゴットファーザー』や『グッドフェローズ』のような前時代の映画が拠り所にしていた地域的な色彩、料理の香り、俗語など必要としていない。マッコーリー達は「根無し草」の職能集団であり、言わば「非正規雇用」的な存在なのだ。

 このマーク・フィッシャーのニール・マッコーリー論=ネオリベ論の中でも、特に注目すべき点はフィッシャーが「家族」をとりあげている点である。マッコーリーのような資本主義社会の掟に基づいて生きる「根無し草」にとって、日々の労働を癒す家族はセーフティ・ネットとして必要なものだ。しかし資本主義の論理は前時代的な地域の色彩や関係を再編し、家族を弱体化させる。従って「社会経済におけるアナーキー的状況がもたらす精神的傷を慰めるための救心剤」として必要な家族はマッコーリーの生きている世界には存在しない。

 かかる「家族」の問題はマイケル・マンのフィルモグラフィ的にもきわめて重要な問題である。例えば最初期の作品にあたる『ザ・クラッカー 真夜中のアウトロー』では、円満な家族を持つために嫌々ながらマフィアに手をかす金庫破りが主人公になっている。彼は裏社会から足を洗い家族を持つ夢を叶えるために犯罪に手を染めるのだが、逆にマフィアのボスから恋人を人質にとられて、裏社会から足を洗うことができない状態に陥れられてしまう。この点で、『ザ・クラッカー 真夜中のアウトロー』は家族のために労働に従事していたはずの存在が、いつのまにか労働することを目的化してしまい、家族と疎遠になってしまう転倒を描いた作品である。

 あるいは『コラテラル』を挙げてみても良い。『コラテラル』では、しがない非正規雇用のタクシー運転手が「プロの殺し屋」を客として載せるところから物語が始まる。この作品でも家族が主題となっており、タクシー運転手は母に対して自分の不遇な状態をひた隠しにし、嘘をつくことで家族間の安定を図っている。このタクシー運転手と母の関係が物語の中できわめて重要な位置を占めている。非正社員であるタクシー運転手は母の「自慢の息子」であることをまもるために嘘ついているように見えながら、内実「自尊心」をまもるため母に嘘をついているのだ。彼に嘘をつかせるのは家族に対する愛情であると同時に、嘘をつくことしかできない状況を生む、希望のない資本主義社会の非正規雇用の状態なのだ。

 このように、マーク・フィッシャーが『ヒート』の中で見出した「家族」の問題は、マイケル・マンのフィルモグラフィにおいて大きなテーマになっていることがよくわかるだろう。

  

 しかし「家族」の問題をあぶり出すだけでは、マイケル・マンの資本主義の問題を取り扱うには不十分である。マイケル・マンを取り扱う際にマーク・フィッシャーが見落としているのは「夜景」を彩るビルディングの明かり。つまり「光」の問題が抜けているのだ。

 マイケル・マンが見出す根無し草達が「労働」に従事する際、いつも風景には夜の光がある。この、夜の光りがグローバルに活躍する(マッコーリーのような)根無し草たちの姿を着飾るのだ。いうまでもなく夜の明かりとは、ビルディングの明かりである。この夜景を彩るビルの光は労働者の「残業」によって捻出された絵の具であり、夜景は資本主義によって作り出された「ジャンク」な美に他ならない。つまり、一つ一つの光にマッコーリーのように安定した生活を賄う事が出来ない労働と生活がある。

 かかる風景画は夜だからこそ顕在化するのであって、昼の世界においては潜在的なものである。いうまでもなく、昼にだって労働はある。しかしながら夜になっても労働をし続ける他ない人間達の蠢きはビルディングの「光」という表象をもってしか観ることができない。

 労働者が夜になって光るからこそ、我々は意識的にそれを「夜景」と名指すことができるし、さらには労働がそこにあることを了解することもできるのである。昼の世界では、労働が顕在的なものでありながら(であるがゆえに)、労働者を意識することはしないし、無意識のうちに自明なものとして通り過ぎてしまう。白昼の労働者は風景画足り得ず、日常の自明な風景と化しているのだ。マーク・フィッシャーが問題とする資本主義と家族の問題は、マイケル・マンの作品中では光として表象されている。マイケル・マンは夜を切り取り、「残業」というあまりに非人間的な状況を「夜景」の残酷な美として表象する光=労働の作家なのだ。

 かかるマイケル・マンの「光」の主題は最新作『ブラック・ハット』において、さらなる発展を迎える。 


 『ブラック・ハット』は主人公のハッカーが不可視の世界と戦う映画である。ストーリーは香港の原発アメリカの金融市場がハッキング攻撃を受けたところから始まる。この事件を受けて、政府はニコラス・ハサウェイへの協力を余儀なくされる。ハサウェイ自身もまた、カード詐欺の罪で投獄されていたハッカーである。かかる流れの中で獄中から釈放されたハサウェイが見通す地平線は、彼が世界に開かれたことを明示している。そしてハサウェイが戦うハッカーたちは不可視の存在である。彼らは現実には見えないサイバースペースの中の存在であり、現実的にはのっぺりとした機械の電気信号という形でのみ表象される「光」なのだ。

 彼らは「孤独」な存在ではない。むしろ、サイバースペースの中で「強固」に繋がりあう存在である。しかし我々はハッカーたちの繋がりを実際に見る事はできない。現実的には、そこには「光」の明滅という痕跡があるだけだからである。

 このことでもわかる通り、マーク・フィッシャーの現在の資本主義の見方はある側面で正しいが、ある側面で間違っている。たしかにマーク・フィッシャーが言うように前時代的な「繋がり」は資本主義の原理によって粉砕された。しかし我々は技術の進歩によって生成されたグローバルなネットワーク空間によって、現実的な世界では繋がっていなくとも半ば強制的に潜在的な形で強固に繋がっている。

 サイバースペース『ブラック・ハット』の中でハッカー集団は原発を爆破するという形で、世界を混沌に落とし込もうとする。サイバースペースを介入することで、一般的に入ることができない原発内部に不可視に潜り込み、世界を混沌に落とし込むテロルが可能となる(話は若干ズレるが、そもそもマーク・フィッシャーの考えの中には「原発」という問題はないのではないか。「原発」こそ資本主義リアリズムを覆い隠す、すべての仮構された「光」のエネルギー、ビルディングの明かりの源たる太陽であり、かかる現実のエネルギー源たる原発の事故とは資本主義リアリズムの裂け目に他なるまい)。

 注目すべきはラストでハサウェイは世界の混沌を調停することなく姿をくらます点である。ラストで敵のハッカーを倒したところで、ハサウェイはアメリカに帰ることなく、電気信号の網の目のなか、夢の中(「光」が表象される現実ではなく、「光」が暗示する潜在性)へと消えていくのだ。ハサウェイがとった結論とは国家によって、社会によって規定された現実世界の承認はさして自由たり得ないということである。この点はマーク・フィッシャーの指摘を参照すれば明白な話だろう。

 「夢を叶える労働」においては、夢と労働の関係はいつしか転倒し、労働が主目的化していく。であるならば、サイバースペースによって生じた裂け目(混沌)を利用し逃走する賭けにハサウェイは出たのだ。混沌の中に紛れ込んだハサウェイはある意味できわめて抽象的な存在になってしまったとも言える。ハサウェイは、もはや電気信号の中で明滅する「光」によってしか映し出されることなく、顕在的な世界の中では不可視の領域の住人となった*2。『コラテラル』や『ヒート』と『ブラック・ハット』の決定的な違いはこの点である。

 『コラテラル』や『ヒート』で映し出されたのっぺりとした郊外の世界のー夜の風景は、根無し草たる男たちを過剰な労働によって抑圧するものである。そうした風景が抑圧的であるからこそ、これを超克しようとするサクセスストーリーを導き出した。このばあい「光」とは非正規雇用から這い上がり家族をもつ夢のことである。この点でサイバースペースを意味する『ブラック・ハット』の「光」とは決定的に違う。『ブラック・ハット』のハサウェイが出した結論は「光」を超克するのではなく、あえてサイバースペースの明滅の、「光」の中へ紛れ込んで見せるということであった。

 ハサウェイは事件を解決させた後に政府へ帰還することなく女と二人で電気信号の網の目の中へと消え、顕在的な世界からの逃走を成功させたのだ。つまりそれは潜在的なものを潜在的なものとして、疎外を疎外として、受け入れた上で現実世界からドロップアウトし、自らの自由を獲得する逆説的な発想によって規定された戦術である。

 我々が為すべきは現実世界に対する皮肉としての自殺ではなく、現実世界の要請(すなわち労働のことだ)をドロップアウトすることであって、その時必要なのは「死ぬ」勇気ではなくサボタージュする勇気である。マーク・フィッシャーの出した「世界の終わりを考えるよりも資本主義を終わらせることは難しい」という結論は正しい。しかし終わらせようとするからこそ資本主義に取り込まれる余地が生まれるのだ。

 資本主義に寄生し続けることで、その自壊に賭けることこそ今日の我々に必要な戦術なのではあるまいか。というのも、資本主義は資本家とも言えども利潤の追求を止めることができない点が最大の強みであり弱点だからである。誰も恐慌を予想することはできない。この予測不可能性の了解こそが「資本主義を終わらせる」ための主体を獲得する上でまず必要な点であろう。

 誰も資本の流れを予想することはできない。無論この「誰も」にはマルクスも入っている。

 

 

 

(文責 - しげのかいり

 

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▲『ブラック・ハット』(二〇一五年)

*1:マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』河南瑠璃/セバスチャン・ブロイ訳、堀之内出版、二〇一八年、八四頁。

*2:『ブラック・ハット』と相似的な映画として、押井守の『イノセンス』が挙げられる。あの作品で草薙素子が出した結論もハサウェイと同じものだ。草薙素子もハサウェイも有限な自己をインターネットのサイバースペースに還元することで社会から遊離し、逆説的に主体を獲得している