批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」な批評集団。https://twitter.com/daisippai19

「反動的異化」に居直る —永觀堂雁琳「晦暝手帖」のこれまでとこれから  

 私、永觀堂雁琳は、この度左藤青(砂糖)氏(@satodex)によって結成された批評集団「大失敗」に招聘され、同会が出版する同人誌『大失敗』創刊号に評論を寄稿する運びとなった。批評集団「大失敗」のサイトの巻頭を飾る左藤氏による「哄笑批評宣言」には、2017年に自殺した批評家マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』を手引きにして、外部の可能性が消失した「資本主義リアリズム」という「現実」の下では最早屈託のないオルタナティヴ達によるストレートな「成功」など有り得ない、という旨が論じられている。そのような「絶望的」な情況下において左藤氏が模索する批評の可能性は、次のようなものである。左藤氏曰く、

①批評とはオルタナティヴを目指すものであり、誤配を誘発するものであり、ひとつの「現実」に対する抵抗でなければならない。②しかしそのとき、同時にその「大失敗」が発覚しなければならない

 こう言うこともできる。①批評は読者に何らかの、ある「運動」の夢を見させる。しかし同時に、②その「運動」の行き詰まりを見せ、絶望させ、憤激させ、不安を抱かせるものでもなければならない。そこで初めて批評はくだらない「自己啓発」であることをやめ、現実に対する異化効果を得る。 

 私なりに氏の戦略を分析してみれば、最早出口なしとなった「現実」に対して「批評」(誤配の誘発)という形で抵抗してみせはするし、それによって読者に対して「運動」の夢を見させはするが、その試みそのものの中に(或いは読者の夢そのものの中に)当初から否定的契機としての「大失敗」が組み込まれてなければならない、ということになる。現実に対する不可能なる反定立を仕掛け、絶望、憤激、不安に駆られることによってしか、批評は生き延びられないのだ、という氏の現状認識に基づく固い信念がここには込められているように思われる。ここに、素朴なオルタナティヴの定立に終始する(と氏が考える)「くだらない「自己啓発」」としての現今の批評に対する批判も、その否定的契機として織り込まれている。

 左藤氏の言うように、現今の批評が、裏返った現実への追従としての「運動」の夢を「自己啓発」に成り下がっているのだとすれば、すなわちオルタナティヴという名のイデオロギー装置に成り果てているのだとすれば、展望と絶望を同時に提示することによって現実を「異化する」しか道が残されていない。私が慮るに、その道は、展望の不可能性を語り続けることによって目の前の現実を超越した絶対的なるものを提示しようとするイロニーか、展望と絶望の遊戯的な交錯を続けることによって絶えず目の前の現実を別の位相へと転化し続けるユーモアか、その何れかになるであろう。「哄笑批評宣言」から読み取れる氏の志向する方向性は、悲劇ではなく喜劇、すなわちイロニーではなくユーモアである(私としては、もう一つ、それ自体が危険をも孕む脱出路として「神秘主義」というものを提示したい所である)。

 

 勿論、「大失敗」に招聘されたとはいえ、私がこのような氏の理念を完全に共有して活動している訳ではない。そのように振る舞うことこそ、ナイーヴに「成功」を信じることに他ならないのであり、氏が最も嫌悪する所のものでなければならない筈である。ツイッターにおいて(「反動主義」的な)「冷笑派」として数えられることの多い「イロニー派」の私がこの場に呼ばれたこともまた、現実に対する一つの「異化効果」であるということなのだろう。

 扨、ここまで批評集団「大失敗」の趣旨について私の考えを縷説してきたが、この記事においては、これまで私が書いてきた評論めいた幾つかの文章について上記の観点を踏まえて改めて紹介してみたい。というのも、私は普段、記事投稿サイトnote(https://note.mu/)に「晦暝手帖」と号して不定期に文章を投稿しているのである。何れも有料の記事となるが、左藤氏の御好意により、その紹介文を書いて良いという都合になった。一つ一つ紹介していこう。無論、詳細について識りたく思われるならば、御購入頂き、一読して頂くに及くことはない。 


①「中断」する生と加速する世界––『ゲンロン0 観光客の哲学』『勉強の哲学 来たるべきバカのために』『中動態の世界 意志と責任の考古学』に寄せて

https://note.mu/ganrim_/n/n2cf094ab8d00

「晦暝手帖」の劈頭を飾るこの文章では、昨年江湖に送り出され、洛陽の紙価を高めた三冊の批評的な色彩を持つ書物を紹介しつつ解釈する中で、そこに通底する世界観を拾い上げ、更にその世界観から零れ落ちているように見える現代の世界情勢を分析したものである。「大失敗」のコンセプトに最も沿った文章でありながら、同時にそのユーモア推奨に対する批判的な視座もまた(知らぬ内に)伏蔵している評論であると言える。私の見る所、三つの書物に共通したヴィジョンは、二者択一の両極を取らずに、所々で「中断」を重ねていく遊動的な生という世界観である。しかし、グローバル資本主義、およびその反発として巻き起こる宗教原理主義ナショナリズムの「加速」を踏まえた時に、そうした世界観は持ち堪えられるのか、或いは「中断」はここに至って一部の恵まれた者だけに許された生の様式なのではないか、という疑義が呈示される。

②「方法論的女性蔑視」について−『男子劣化社会』を読んで

https://note.mu/ganrim_/n/n0160c6593bd4

①の文章が「中断」の許されぬ「加速」する世界を訴えたとすれば、この文章はまさに「中断」する生が許されぬ性の人々に対して更なる「加速」へのアクセルを提案したものである。ここでは、アメリカの高名な心理学者フィリップ・ジンバルドーらの著書『男子劣化社会』に描かれた(アメリカの)男性の置かれた惨状を追いかけながら日本の男性をめぐる情勢について鑑み、それが現代世界の正統的「正義」を司るフェミニズムや政治的正しさに起因する所大きいこと、そしてこの傾向がひいては社会全体の自壊を招くことを指摘した。そして、特にそうした体制の下敷きになっている「弱者男性」に対して、社会的な自己認識を「方法論的に」見直し、かつそのような社会の中での「方法的な」生存戦略を、「リーサル・ウェポン」として呈示した。それが、窮境の逆張りであり居直りである、「方法論的女性蔑視」なのである。 

③「反動的新体制」の可能性−柳澤健葡萄牙サラザール』を読んで

https://note.mu/ganrim_/n/nccc081169020

一方で①の文章が現代日本の知的パラダイムにおける世界観とその限界を考察し、他方で②の文章が全世界的なその限界とそれを支持する体制を暴き立てた上でその破壊的突破を提案したものだとすれば、この文章は、そのような情況全体において喪われた歴史的社会的想像力を模索したものである。私はここで、文人外交官であった柳澤健の『葡萄牙サラザール』という著書を元にして、ポルトガルの無欲恬淡なる独裁者アントニオ・サラザールの生涯と事業を回顧した。そしてそこで、国際資本主義に抗って独立を確保した国家の庇護の下、中間共同体に支えられて生きる個人という「反動的新体制」の可能性を取り上げてみた。その上で、①②で指摘した一連の問題は、中間共同体の崩壊と個人主義社会自由主義によるその促進が根柢にあると考察する。サラザールについては手軽に読める纏まった資料が尠く、珍しい歴史読み物としても楽しんで頂けるのではないかと思う。

④「告発権力」について−ポリティカル・コレクトネスという名の新たなる専制

https://note.mu/ganrim_/n/n8929f06c8b15

これまでの論考は何れも別の書物に拠りつつ議論を展開したものであるが、この文章は、私自身が全体として近代における権力と暴力の在り方の一面を見ながら、現代世界を席捲する「告発権力」について考察したものである。「告発権力」とは、簡単に言えば、暴力を背景にせず「政治的正しさ」を背景にすることによって、その「正義」の上で政治的マイノリティと「規定」される属性に対して非対称的に割り振られる言説的な権力のことである。或いはこの論考が目指しているところをより有り体に言えば、普通は持たざるものの反権力的抵抗として捉えられる被抑圧者からの「告発」が、現代の「政治的正しさ」という体制の下では寧ろ権力そのものとして働いている、という事態の剔出である。ここから考えれば、決して「政治的に正しい」とは言えない(それどころか最も政治的に正しくないとも言える)これまでの三つの論考は、この「告発権力」に対して抵抗しうる視座を方々の観点から示唆したものであるとも言える。

 

 こうして各論考を概観してみると、全体を通じて私が提示してきたものはまさに、外部の無い「現実」に対して、通常「オルタナティヴ」として考えられるようなオルタナティヴの、通常「横断」として捉えられるような横断の「真逆」を反定立として提示することによる「異化効果」を狙ったものであると言える。こうした逆張り的な姿勢は、(まさにオルタナ右翼を煽動するように)ベタに受け入れられることを目指しながらも、同時にその強烈な「現実」否定がまさにその実現不可能性として逆照射されることによって、「現実」のメタ化を目指したものであるとも言える。例えば、「方法論的女性蔑視」が単に弱者男性のライフハック的な「方法」であると同時に、言説体系や社会関係の常識的な自明性を括弧に入れて認識するための「方法論」でもなければならないことには、そうした含意がある。

 こうして捉え直してみれば、私の営為は紛れも無く「イロニー」であると思う(何を背景にしたイロニーであるのかは読者諸賢に考えて頂きたい。それは無論、言葉や概念を超えたものであるように考えられる)。しかしながら、こうした「アイロニカルな」行いそのものが例えば余りに極端な言辞の故に、寧ろ「ユーモラス」に映ることもあるだろう。私自身は、そのように「ユーモア」であると取ってもらっても構わない。何れにせよ、一連の論考が人々を「絶望させ、憤激させ、不安を抱かせる」ものになっているとは思う。言うまでもないが、煽りばかりで不誠実だ何だと言われようとも私は意識的にそう書いているのであって、「反動的冷笑家」の名誉ある呼称を謹んでお受けする所存である。私はこれから批評誌「大失敗」にも寄稿するし、「晦暝手帖」にも引き続き書き続けるであろう。

 私、永觀堂雁琳は、読者諸賢により一層深く、酷薄で、底なき「晦暝」をこれからもお届けし続けられるよう、粉骨砕身するばかりである。

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(文責 - 永觀堂雁琳