批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」な批評集団。https://twitter.com/daisippai19

遠近法と声の抵抗——P-MODEL『Perspective』について

 

われわれが屋根裏部屋をもたなくなったときでも、またマンサルドをうしなったときでも、われわれが屋根裏部屋を愛したということや、マンサルドにすんだということは、いつものこることであろう。われわれは夜ごとの夢でそこにかえってゆく。この隠れ家は貝殻の価値をもつ。そしてわれわれが眠りの迷路の端にゆきつき、深い眠りの国に達すると、おそらく人類存在以前の休息を知ることであろう。ガストン・バシュラール『空間の詩学』)*1

空間はかたく/うめてゆかれて

この身キミの目/うかれさせてもP-MODEL - Perspective II) 

 

f:id:daisippai:20181005181302p:plain

 平沢進率いるP-MODELというバンドが、かつてあった。私がP-MODELを批評するのはこれが初めてではなく、別の場所で以前書いたものがある。これと被る部分が大いにあるので、もし以前の記事を読んだ人には既視感があるかもしれない。

デビューと「大失敗」

 P-MODELは一九七九年にデビューしたロック・バンドである。デビュー時のメンバーは、平沢進田中靖美秋山勝彦田井中貞利。彼らはいわゆる「テクノ・ポップ」のバンドとして認知されていた。

 テクノ・ポップの源泉をひとつに限定することはできないが、例えば六〇年代以降のドイツの電子音楽(カン、クラフトワーク、ノイ!、タンジェリン・ドリームなど)にそのひとつを求めることもできる。そしてそれはシンセサイザーの登場とも連動している。しかしもちろん、それは当時からテクノと呼ばれていたわけではなかった。「テクノ」という言葉が一般的になったのはイエロー・マジック・オーケストラの登場によるものである。

 実際P-MODELも「テクノ」というよりはパンク的サウンドに「ピコピコ」を加味したものであり、シーンと連動した言い方では「ニューウェイヴ・パンク」だった。 当時はXTCDEVOTalking Headsといった欧米のバンドたちも、同じく「パンクでありながらワザとポップ」というサウンドを作るようになっていったわけだが、こうしたバンドにおいては、「ポップさ」はひとつのパロディとして、(「ノリつつシラケつつ」!)方法論として用られている。

 それは、社会と音楽と批評とが緊密な関係を保っていた、遠い昔だったからこそ可能であったスタイルだ。

話す言葉は管理されたし/手紙を出せばとりあげられる

二重思考の平穏無事から/無頓着の人殺しまで

きらいな人から/はなれられない/いまわしい人から/はなれられない

はなれなくても/ダイジョブ

ハロー/活字の中から ハロー/音のミゾから

ハロー/ラジオの中から ハロー/ブラウン管から

ハロー/私しぶとい伝染病P-MODEL - ダイジョブ

 P-MODELの歌詞は都市を批評し、テクノロジー、ミーハーな大衆を批判するものだった。シニカルな社会批評を「(テクノ)ポップ」な音楽に乗せて歌うというのは、ある種の「あえて」だったわけだが、当然当時のリスナーの多くは、P-MODELをただ「新しくキャッチーなもの」として消費することになったし、ライブは「ただ盛り上がるだけ」のものにしかならなかった(むろん、平沢進は「それ以上」を望んでいたのである)。つまり、「あえて」は通用しなかったのだ。

敗北宣言

 結果として、P-MODELは初期の「ポップ」路線を捨て実験的なポスト・パンクへと舵を切ることになる。それは世間がYMOを中心とするテクノ・ブームに沸き、音楽が「芸能」になり、テクノ歌謡が量産されはじめた頃だった。

 彼らは方向性の異なる秋山をクビにし、三人体制で三枚目のアルバム『ポプリ』(1981)を製作する。このあたりから、P-MODELの歌詞は初期のようにわかりやすいものではなくなる。なぜなら、いくら社会批評を歌ったところで、聞き手はそれをただ消費するだけだからだ。それが批評として受け取られることはない。

 こうして平沢は、非常に抽象的な歌詞を歌うようになる。それはある種の「隠喩」であって、もはや何かのメッセージを健全に伝達したりはしない。P-MODELの歌詞は、アジテーションであることをやめたのだ。

目覚めるとfuneral/夜明けの前に時は止まった

ボクは月をうらんでいない

勝負は始めについていたから 

ふりむくとcarnival/人混みに浮かぶボクの抜け殻

うしろ髪に巻かれて笑う/せめて香りのgestalt

あなたの頬を紅く染めてP-MODEL - Potpourri) 

 「時は止ま」った。「ボク」は「抜け殻」になった。そこで期待できることは、「香りのgestalt」=残り香、痕跡に、「あなた」が気づいてくれることだけである。

 この3rdでは、他にもこのように抽象的な歌詞が散見される。ここで滲んでいる一つの敗北感。ピンクや黄色のケバケバしい色に塗られていた楽器やアルバムジャケットは、モノクロに塗り替えられた。平沢は『Potpourri』を「敗北宣言」と呼んでいるが、それは、何かを伝えることを諦めた言葉たちのことを言い表しているのだ。この歌詞の内向化と複雑化は、私たちが問題とする4th『Perspective』(1982)において頂点に達する。

言葉があるだけ

身の丈百寸/絵姿うわばみ

たしかにこわいが/見る目にゃふつう

めぐる日ぼうしの/ゾウの日々/ゾウの日々

寸善尺魔/えんきんほうきん遠近法

実録狂乱/めぐる日々めぐるP-MODEL - うわばみ

 ここを開始点にしよう。この歌詞には社会性はもはやなく、意味や寓意よりも語感が重視され、隠喩的なものになっている。平沢はこの時期、言葉の意味よりも、その音的な質感を強調した歌詞を書いている(1曲目“Heaven”の歌詞にそれは顕著だ)。

 だが、周辺の事情を加味することで、あえてこの歌詞の意味を読み取ってみよう。このアルバムのジャケットはサン=テグジュペリ星の王子さま』の挿絵である。そこでは、本編同様「うわばみがゾウを飲み込んだ姿」が描かれている(それは一目見る限り「帽子」にしか見えない)。

f:id:daisippai:20181005185715j:plain

 この情報を合わせれば、その隠喩はそれなりに読み解くことが可能なものとなる。うわばみの絵は、「たしかにこわいが(帽子にしか見えないから)見る目にゃふつう」であり、「めぐる日」は、「ぼうしの(飲み込まれた)ゾウの日々」である。

 ここで重要になるのは、うわばみの本質(「たしかにこわい」)と見た目(「見る目にゃ普通」)の差異であり、距離感(「えんきんほうきん遠近法」)である。「遠近」は、『Perspective』のテーマとなっている(題名どおり)。すなわちここで問題になっているのは、空間的な奥行きなのだ。

 そして「遠近法」は歌詞だけの問題ではない。このアルバムをレコーディングする際重要になったのは、具体的なリヴァーヴ(音の反響、残響)である。『Perspective』では、通常のスタジオの機材で可能なリヴァーヴには満足がいかず、ドラムを階段の踊り場に設置し、そこで音を録音したことが知られている。「遠近法」は具体的にも抽象的にもこのアルバムのテーマである。

 そのためこのアルバムの楽曲では過剰なほどのリヴァーヴが施され、ポップ・ミュージックとしてはもはや音のバランスが崩壊している。6曲目“Perspective”は、強烈なスネアの一撃から曲が始まる。

厳粛な光の視覚/言葉だけが身をかこむ

あらゆる物ものがたり/流れるTime 

立像の無常は動かぬ律動/夢はいつも終わりから

うかれる目がチャンス殺す/流れるTime

Cosmosは高さに宿り/消えぬ想い歩巾がかこむ

言葉なくては見えないこの身よ果てろ/流れるTime

P-MODEL - Perspective

 重要なのは、「言葉だけが身をかこむ」、「あらゆる物ものがたり」や「言葉なくては見えないこの身よ果てろ」という表現だ。『Perspective』の「遠近法」は、単に視覚的なものに留まらない。何しろ「言葉なくては見えない」のだ。ここで問題となっている「奥行き」とは、実際の物理的な空間(音の広がり)であると同時に、「言葉」のことでもある。これをつづめて、「言語空間」と呼ぶことができる。

ゾンビ/そのわけは/ドキュメントの教理

ゾンビ/目に映るを/言葉で殺す

〔…〕

ここはここになくただストーリー

すれちがうNarratage の亡霊P-MODEL - Zombi) 

 言語空間においては、他者に意味を明確に伝えることはできない。言語というドキュメントは、解釈を挟む以上相対的である。言葉は「意味そのもの」を伝えるのではなく、ただ「物語」を生成する。つまり、ものの「大きさそのもの」ではなく、「奥行き」だけを伝えるのだ。それゆえ、「ここはここになく」、「ただストーリー」(=「あらゆる物ものがたり」)と言われるのである。「ここ」を「ここ」として捉えようという企図は、言語空間という媒介によって失敗に終わる。

 その意味では、『Perspective』も『Potpourri』と同じく失敗と落胆がコンセプトである。「消えぬ想い」という計測不可能なものは、「歩巾」という計測可能なもの(「厳粛な光の視角」、「コスモス=秩序」)に囲まれてしまう。

 ゾンビとは「ナラタージュ(語り)の亡霊」であり、言葉で殺された「ここ」そのものだ。「いま・ここ」にあるのは、かつての亡霊の往来である。言葉はいつでも、すでに死んでいる。

きめこまやかにのこぎり鳥は/見える角度で姿を変える

うそなんかじゃありゃしない

ましてほんとうなんかじゃありゃしない

日記があるだけ/のこぎり鳥はどこ義理欠いた

底意地とれて/のこりギリギリ

〔…〕

時はやおそくのこぎり鳥は 直線上の視界の奴隷

いちぬけたいねさようなら

ましていちぬけたいねさようなら

言葉があるだけ/のこぎり鳥はどこ義理欠いた

底意地とれて/のこりギリギリP-MODEL - のこりギリギリ

 8曲目、 “のこりギリギリ”では、ほとんどラップのように語感の近い言葉が並べ立てられている。「見える角度で姿を変え」、「直線上の視界の奴隷」でしかない「のこぎり鳥」には、「嘘」すらない。そこには「日記」があるだけであり、日記という私的なドキュメントに「嘘」や「本当」は存在しないからだ。

 「日記があるだけ」、「言葉があるだけ」……。この歌詞全体をみると、この部分の歌詞は「カガミ」「日記」「恐怖」「言葉」があるだけ、という風に言い換えられている、このカガミや日記が、あるいは言葉が、「自身を映すもの」であることに着目しなければならない。言語が過剰に相対的であるということは、そこには、自身の虚像だけががある、ということなのだ。「言葉なくては見えないこの身」だが、見たところで、そこには「嘘」も「本当」もなく、ただ、「この身」だけが存在している。

 「のこぎり鳥」は、「直線上の視界」、すなわち遠近法の奴隷である。だからそれは見える角度で姿を変え、そのものとして現れることがない。もちろん、その多面性は言語の多義性とパラレルである。視界の内側、言葉の内側をどこまでも掘ったところで、そこにはまた結局自分自身が現れてしまう。他者=「キミ」に出会うことができない。

 言葉は現実を捉えることなどできないし、ましてや他者に意味を伝えることもできない。平沢はこの構造から「いちぬけたい」のである。

自傷

とりあえずは外へ/ランダムに歩く

くだらぬ迷路の/かべぞいに行けば

Shining…Solid air

〔…〕

とりあえずは夜に/ランダムに歩く

もういちどキミを/さがしに行くため

Shining…Solid airP-MODEL - Solid Air

 

 徹頭徹尾再成補修/低速列車高速列車

 列車は列車線路を行く

 南極北極強行突破/ゆれるひずみは

 反面展望私はおりる

 Neo Science Fiction 秩序を欠いて狂え

 Livin' Lovin' New Transport

 いっきに飛ぶように本気で愛してP-MODEL - 列車)

 『Perspective』には相反する二つの側面がある。一つは「敗北」である。言語空間を介してしか世界は捉えられないし、それゆえ常に世界は錯視的であり、他者に正確な意味を伝えることなどはできない。いくら社会批判をそこに込めたところで、それが聴き取られることはない。言葉は「厳粛な光の視覚」であり、「直線上の視界の奴隷」であり、「秩序」である。

 しかし、平沢はもう一方で他者との関係を欲望する。言語の秩序(「くだらぬ迷路」)の外側へと抜け出ることによって(「いっきに飛ぶように本気で愛して」)。

 このような二つの関係をまとめると、『Perspective』の企図は自身の言葉の破壊にあるということになる。敵は「社会」や「街」ではなく、自分自身だったのだ。『Perspective』は、その空間それ自体を根本的に突き詰め、その裂け目(「ゆれるひずみ」)を作り出し、内破させようとする、ひとつの自傷行為である。

声の抵抗

その声この身/トンネルすると

この感じの愉快/スポンジにして

ひょうたんのキミのこまをすいとる

 

すぐにもわたし/うなずいたのは

その声のもとの/遠くの感じ

空間に水をそそぐひびきの

空間はかたく/うめてゆかれて

この身キミの目/うかれさせても

身体の中吹く/風のうちから

行かないで/行かないで(P-MODEL - Perspective II) 

 『Perspective』の最後の一曲(9曲目)で「わたし」が頷く「その声」は、「この身」を「トンネル」しながら、「遠くの感じ」を保つ。ここで平沢が歌うのは、ここまでの二つのテーマが、矛盾しながらひとつになり、内破していく様である。「身体の中吹く」、「この身」という、まさにここを貫く「声」は、同時に遠くにもある。だから、それは「愉快」なのだ。

 ここで平沢はそれを「水をそそぐひびき」、「声」と音声的な隠喩で表している。これは、ここまでに見た視覚的な隠喩(「目にうつる」、「遠近法」、「うかれる目」、「光」、「Shining」、「直線上の視界」)と、実は対比的である。

 次のように言えるだろう。『Perspective』のコンセプトを一言でまとめると、声による遠近法への抵抗である。音による光への抵抗、無意味による意味への抵抗、と言ってもいい。それは、このアルバムが「リヴァーヴ」や歌詞の「語感」に異様なほど執着していることと無関係ではないし、歌詞がもはや寓意的ではなくなってしまったこととも無関係ではない。ここで平沢は徹底して「声」、「音」のもとに立つことによって、「目」=言葉=歌詞の、秩序の世界から逸脱しようとしているのだ。

 このアルバムの音楽的特徴のもう一つの点は、展開が非常に乏しく、ミニマルに作られていることである。1曲目“Heaven”と6曲目“シーラカンス”に特に顕著だが、ほとんどの楽曲は、同じフレーズの禁欲的な反復だけで成り立っている(「コード一発」で作られているものが多いことからもそう言えるか)。同じ意識が途切れることなく続き、リズムが反復していく様はある種の「一気に飛ぶ」ようなトリップ効果を狙っていると言えるかもしれない。この「神秘体験」において、意味の世界は破壊されていく。

 反響と反復、音の質感それ自体への偏執。その要素のどれもが、目で見える散文的言語空間(「歌詞」)の意味の秩序と充溢から「いち抜け」しようとしている。つまり、目に見えないもの、耳でしか聞こえないもの、韻文、「声」によって秩序の外部へと抜け出そうとしている。だからP-MODELは「パンク」なのだ。それは平沢において、不在の他者(「キミ」)のもとへ向かうことなのである。

 平沢進の歌詞が特異なのは、その内容やテーマにおいてだけではない。その特異さは、それを音と文の「裂け目」において示したことであり、(とりわけ日本語の)「歌詞」に固有かつ新たな表現を達成したこと、これである。これは「ロックとして特殊」というような矮小な評価では済まないだろう。

 「大成功」?

 概ねこれで文章は終わりである。ただし、以前も書いた通り、上記で論じたような、『Perspective』で提起された「言語」の問題、あるいは他者との「コミュニケーション不全」は、実はその後すぐに解決されている。具体的にはそれは催眠療法によって、である。

 この時期の平沢はユングに傾倒していた。ユングによれば表面上は異なるように見える自己と他者、あるいは異なる民族でも、夢ないし無意識という深層においては一つのものを共有している。

鳥になり 獣になり ボクのままでキミになる

おやすみ これすなわち こんにちは(P-MODEL - Rem Sleep

 この楽曲(『スキューバ』、一九八四年)は、平沢のユング趣味を端的に表している。つまり、言葉=意識では他者に到達しえず、あれほどに孤独を強調していた平沢が、無意識(=「おやすみ」)を介することで今度はいとも簡単に他者にアクセスする(=「これすなわち/こんにちは」)。いわば平沢は敗北と失敗を乗り越えたのである。「ボクはキミだから」。まあ一言で言うと、平沢はニューエイジ思想に接近したのだが。

 一九八二年『Perspective』であれほどにアナーキーな音楽を披露した平沢は、二年後一九八四年『スキューバ』に至ると、いとも簡単に「ボクがキミ」である場所(「夢」)に到達している。いわば平沢進はそこで「答え」を見つけてしまった。

 

 しかし、「ボクがキミ」であるような場所は、またもうひとつの空間、出口のない全体、より強固なもうひとつの「コスモス(秩序)」に過ぎないのではないだろうか。こうしたユング的解決こそ、回避しなければならないものなのではないだろうか。少なくともある時期以降の平沢進の歌詞が「ワン・パターン」なのは、彼がもう悩んでいないからであり、「答え」を見つけたからだ。「裂け目」は今や綺麗に縫合されている。

(こうした問題意識は、実は、ケラリーノ・サンドロヴィッチの作詞に、すなわちP-MODELに多大に影響を受けたニューウェイヴ・バンド有頂天の歌詞に、引き継がれているようにも思われる。ケラの詩は、平沢進の詩の発展編として考えられるべきであろう)

 少なくとも私たちが『大失敗』と名乗る限りは、『Perspective』の問題を引き継ごう。たぶん私たちは、もはや「休息」としてはありえないような臨界点としての「言語空間」にとどまり、別の「空間の詩学」を目指す必要がある。

  

  

 

(文責 - 左藤青

*1:岩村行雄訳、ちくま学芸文庫、二〇〇二年、五三、五四頁