批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」な批評集団。https://twitter.com/daisippai19

松坂牛の天皇——天皇制と脱構築(後編)

※前編

昼となく 夜となく

憑きまくれ 物の怪 (P-MODEL - "Holland Element") 

3-1.松坂牛が日本である

 中上健次ジャック・デリダは、一九八六年一二月一三日、パリのポンピドゥセンターで実際に対談している(「穢れということ」、『中上健次発言集成3』所収)。一二日〜一三日に行われたシンポジウムには、柄谷行人蓮實重彦浅田彰などのいわゆる『批評空間』派閥が出席した。ここでのデリダと中上のやりとりは、まさに天皇をめぐって展開されており、両者の立場の違いを明確にするのに役に立つものである。つまり、〈われわれ〉は守中のいう「デリダ=中上的思考」に対し、「デリダ≠中上的思考」を考えることができるだろう——後編では、この問題を扱いたい。 

 ここで中上は、「松坂牛が日本である」という、奇妙なメタファーから議論をはじめる。まず前提事項を確認しよう。中上によれば、

僕は、イキとヤボが、安土桃山のあたりではグシャグシャになってたんじゃないかと思うんですね。イキとヤボを分けて、腑分けして、これがイキでこれがヤボでと、ジャパノロジストのように言うのではなく、イキとヤボがグシャグシャになっているということを言い続けるのが、熊野の人間の役割である、と(笑)。*1

 「松坂牛」は中上によれば「文化的で、味としては本当に最高のものなんだけれども、〔…〕あの牛は完全に病気」である。中上における日本は、つねにそのヒエラルキーの頂点と底辺が、未分の状態で「グシャグシャ」になっているものである。だから日本には「文化的に病んだところ」がある。デリダの質問に対してより正確に答えている中上の言辞を引用すれば、

 天皇、それと同時に下にあるアブジェクション〔おぞましさ〕として、ほとんど天皇と同じような資質を持ちながら下に行ってしまうという、そういうアブジェクション、アウト・カーストの人びと——天皇もアウト・カーストですよね、カースト外ですから。そういう、両方を補完し合っている。しかし何度も言いますが、このカースト外というのも、ツリー状ではありません。霜降り肉状です。*2 

 中上は、天皇と「被差別部落民」がたえず「同じような資質を持ち」、相補関係にあることをまず指摘する。そしてデリダとのやりとりの中で、中上はこの図式が「ツリー状」ではないということを何度も繰り返している。

 ここでの「霜降り状」を中上は、日本の都市の成り立ちから説明している。中上によれば、「被差別部落民」は近代(明治期)において建設された駅(たいていの場合郊外に作られる)のそばに住んでいた。その結果、「部落」は「霜降り肉の脂肪のように、〔都市の〕中に入り込んで」*3しまったのである。

 すなわち、中上のいう「松坂牛が日本である」というメタファーにおいては、その「霜降り状」の脂肪が、「被差別部落民」が都市において占める実際の位置をそのまま図像的に説明するのである。これは非常に重要だろう。天皇=部落」は、政治=経済の次元に、否応なくつねにすでに、しかも「霜降り状」に潜む文化的異物、こう言ってよければ遍在する異物なのだ。

 このような前提から、中上は「要するに、部落も天皇も文化でできている」という。しかしここからデリダと中上のすれ違いが生まれてくるだろう。デリダは、こうした状況に対しいかなる介入がありうるのかを中上に尋ねるのだが、中上は一方ではデリダ脱構築の意義を認めつつも、「幾重にも折り重なった高度に文化的な社会で、政治的な道なんてありゃしない*4と断言するのだ。

 いかに「天皇=部落」の文化が霜降り状に遍在し、社会との複雑な絡み合いを呈していようとも、中上のなかでは、端的に政治の次元と文化の次元が分かれていると言ってよい。天皇も「部落」も、中上にとっては、自明のことのように人々の感覚(身体感覚・皮膚感覚)に浸透している「文化」であり、「松坂牛」なのである。だから、それがいくら政治=社会の中に「霜降り状」に合一しているとしても、結局のところ中上にとって文化と政治の二項は別次元のものである。いや、正確に言えば、おそらく文化は政治に影響を与えるが、政治が文化を変革することはできない、のである。

 言うまでもないが、ここでは、「松坂牛が日本である」というメタファーはある別の表現を折りたたんで収納している、と言わねばならない。その襞は天皇(=部落)が日本である」と展開することができるのである。だがこのひとつの換喩はおそらく、もうこれ以上展開することができないし、換言することもできない。それは最後の審級であり、暴力の行使である*5。しかも、「天皇(=部落)が日本である」という表現は、実際に「天皇=部落」というひとつの特権的なシニフィアンひとつの部分に「日本」という全体を代表させ、表象させ、象徴させている以上、修辞ではなく、日本国憲法に記載された条項のたんなる確認でさえある。

 もう一度繰り返せば、「霜降り状」の脂肪をもつ「松坂牛」は、つまり「天皇=部落=日本」は、「文化的で、味としては本当に最高のものなんだけれども、〔…〕完全に病気」である。しかし、この「病」は中上にとって治癒しえないものだろう。こうした中上の態度を、会場にいた浅田彰は「いわば正の天皇主義者である三島に対して、負の天皇主義者として自己規定されたように思うのですけれども」*6と適切に要約している。

3-2.松坂牛の弁証法/松坂牛の脱構築

 「松坂牛が日本である」というメタファーは、見た目の間抜けさに反してきわめて鋭利な批評ではある。しかし私見では、この中上の態度には、現代における大多数にとっての天皇制への政治的無関心と多かれ少なかれ通底するものも孕んでいるだろう。

 中上に対するデリダの態度を確認しよう。デリダは、「階層秩序の頂点にある天皇または天皇制の構造と、もう一方のアブジェクシオンとの間に、連帯性や補完性があるのか。もしそういった補完性が存在するとしたら、〔…〕排除されたものの力をテコにして、構造を変換することができるのか」と端的に投げかける*7デリダは、ここでいう政治と文化の相補関係(「代補」)こそを問題とした思想家だからだ。この問いは、本項前編で扱った守中の戦略に対しても差し向けられている。

 この政治−文化構造に対する脱構築に対して中上は、「デリダさんの考え方〔脱構築〕なんかが有効かもしれません」と言いつつも、「一緒にそれ〔天皇=部落の背中合わせの構造〕と同じようなサイクルで回りながら、どんどん輪を回しながら次々と脱ぎ捨てていくみたいな、そう言う形を考えるんですけどね。しかしそれは、政治的というよりは文化的、つまり松坂牛をすき焼きで食うか、シャブシャブで食うかという違い〔…〕」*8として、やはりそれを文化のレヴェルへと引き戻している。ここでデリダと中上の明確な差異が現れてくるだろう。

 ここで、中上自身は徹底した「ノンポリ」であり、「天皇=部落」は、文化であることによってある種の「聖域」(聖俗の合一した「聖域」)である。 しかもそれはツリーではなく霜降り、「松坂牛」なのだ。

 デリダは松坂牛に対してどのように反応しているか。ここで、まずデリダは「〈ディコンストラクション〉〔脱構築〕とは、周縁の必要性を一方で認めながら、まさに周縁性が必要だからこそ、中心と周縁あるいは中央とまわりという二極への階層化とか固定化に、疑問を付すものです」*9と自分の立場を要約的に表明しつつ、中上の態度に「ある図式が隠されているのではないか」*10と疑う。

 デリダは、「部落」という、周縁性を自覚した熊野の人間たち(ここでは中上)が、その周縁性を担う伝統の純粋性を前提とし、「周縁性をいわばイデオロギーとして回収しようと」*11しているのではないか、としつつ、「中上はアブジェクシオン(おぞましさ)を変換した上で、階層秩序の頂点に据えようとする」*12と指摘し、そこに、中上健次弁証法を見て取っている。松坂牛の弁証法である。

 デリダの批判をさらに端的にいえば、こうなる。中上は政治と文化の不可分な関係を指摘しつつも、文化の次元を不可侵の「聖域」として設定してしまうことで、実は政治に対する文化(ここでは被差別部落民の伝統)のヒエラルキー的上位性を主張しているのではないか? それは、実は、霜降り状でも松坂牛でもなんでもない端的なツリー、もうひとつのツリーの創設なのではないだろうか?

 これに対し中上は、「私は聖なるもの、賎なるものを、まさに松坂牛の霜降り肉状にとらえているのですが、デリダさんの問いは、どうやらツリー状に考えておられるから出てくるのではないか」*13と批判的に返すのだが、この中上による批評は、脱構築的思考について、あるいはデリダ中上健次の差異についての輪郭をとらえる上ではかなりクリティカルな発言だろう。実際、脱構築は、あらゆる構造がツリー的になってしまうというところから出発しているように思われる。それはあるツリーに対する端的な外部・「聖域」が、少なくとも素朴な仕方では不可能である、という態度からし当然の帰結なのである。 

 

4-1.終わりなき汚染

 この対談では、ほかにも「排除されるもの」と文学の関係や、浅田によって提起されるジュネの問題など、重要な論点が揃っているが、あまり展開されておらず、デリダ側が質問を(なかば強引に)打ち切り、対談が終了しているように見える。

 

 さて、もう一度守中のテキストに戻ろう。守中の提起した図は、中上の小説をデリダ的に(というよりもラカン的に)要約し図式化することで得られた。

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 だが、少なくとも中上自身の発言に基づくのなら、この守中の図式は「ツリー状の思考」から出てきたものでしかないだろう。おそらく、ここでは「賎なるもの」=「物」を天皇に対する抵抗の契機として捉えることはそもそもできない。なぜなら中上にとってその両者は、端的に「同じもの」=「同じ『物』」であり、しかもそれらは政治から遠く離れた「文化」でしかないからだ。それは作為的な介入で変革することがほとんどできない。

 「味としては本当に最高のものなんだけれども、〔…〕完全に病気」な「天皇=部落」という文化概念は、都市や社会に対し「霜降り肉状」に合一している。この聖俗の入り混じった状況こそ、中上にとっての「日本」である(だから、中上は天皇に批判的な目線を持っていたとしても、天皇と背中合わせの「部落」に目線を向け続ける以上「負の天皇主義者」になるのだ)。ここから、守中の図に中上的な、正であれ負であれ——天皇主義的な反論が可能となる。

 一方で、デリダの言述から守中の図を批判することもできる。大まかに分けて二つの論点があるだろう。

 第一に、図における−φとφの項は、守中自身がいうように相補関係・共犯関係にある。とすれば、−φを用いてφを打倒しようとするとき、そこにはφを単に強めるだけになる可能性は常にある(これは、単に構造的な話ではなく、近年の日本における左翼の「天皇主義化」*14で実証されているとも言ってよいのかもしれない。中上の場合と同様、マイノリティ志向と天皇主義は簡単に共犯関係になる)。これはデリダの文学に対する態度にも一貫している。

二つの文学があることになります。つまり、左翼文学とかイデオロギー状の役割をとったとしても、結局は、既存のフィールドにすんなり回収されてしまうような文学がひとつ。それから、フィールドに回収されえない別種の文学、あるいは文学の中にある何者か、これがもう一つ。〔…〕後者については、文学としての部落民サイドのようなものを想定しているのですが。 *15

 おそらくここでは、単なる反天皇主義が天皇主義に実は通じている危険性(「知らず知らずのうちに既成の政治秩序を利する」危険性)を計算するべきだろう。あるいは、その反天皇主義そのものが——その「意志」で結ばれた〈われわれ〉が——もう一つの抑圧である危険について。

 ただ、たしかにデリダもまた、既存の枠組みの中にありながら、つまりまさに霜降り状に、内部に位置しながらも異物であるもの(「文学としての部落民サイド」)に着目している。ここで、「在日」や「部落」をテコに全体性の脱構築を迫るという点では、守中とデリダの態度は重なる。

 ただしここにも問題がある。そうした異物は、それ自体目に見える異物として実存するわけではなく、「『在日』と呼ばれる人々を範例と」*16することなどできない(そもそも範例とは具体的にどうするつもりなのか?)ことである。これについては後述する。

 第二に、守中の「脱構築」には終わりがある。「天皇という象徴による汚染を拭い去り、真の共和制へと歩みを進めたいと願うわれわれが真っ先になすべきなのは、このような『秘密』を白日のもとに晒し、『亡霊』の機能を停止させること」*17なのだから、天皇制が廃止され(そして悪しき自民党政権が打倒され)、「真の共和制」が体現されれば、「脱構築」の役目は終わることになるだろう。

 むろん、天皇の戦争責任を問う作業はつねに重要である。しかし脱構築は目的論ではない。だから脱構築には「終わり」(fin 目的=終わり)がない。言い換えれば、脱構築は「真の共和制」という「三」に向かうのではない。重要なのは、その「真の共和制」が仮に実現されたとしても、そこにもさらに「秘密」と「亡霊」がとり憑き、その「真の」を脱構築しにやってくることである。脱構築は、そのある一面においては、真の-純粋な-自然な-直接的な-即自的な-無媒介な-共和制の不可能を告知する、「無限な有限性」の主張である*18

 「現前の形而上学」に支えられた意識がつねに抹消する、記号(媒介)による現前への起源的「汚染」は、しかし「亡霊」(「再来霊」)として回帰する。それをなかったことにしようとする意識の形而上学的作用こそを、デリダは「良心=潔癖意識」と呼んだのではなかっただろうか(『アポリア』ほか)。

 なんども指摘してきたように、媒介を欠いた「即自的存在」は単に空疎な理念に留まるだろう。だから、「亡霊」による汚染を祓い、「秘密」を干上がらせ、真の共和制へ向けて「良心=潔癖意識」を滾らせつつ「加速」するような議論では、それがいくら合法的=正当 justeであれ、「脱構築」という語が登場する余地はまったくない。ここに、たんに言葉遊びにしか見えないかもしれない大きな隔たりがあるのだ。

4-2.非実存の残余=抵抗

 では天皇制と脱構築は関係を結びえない、どころか、その解体不可能性を告知するのだろうか。

 いったん迂回しよう。アラン・バディウはあるテクストのなかで、デリダ脱構築の戦術について次のように要約している。まずバディウは、「現出する多様体のなかには、その実存が強度ゼロの要素がつねにある〔…〕また世界内にあるためには非実存の点がつねになければなら」*19ないとした上で、そうした「非実存者」は「ある限定的な世界やある場所に特有の仕方で、非実存する」*20と定義づける。そしてバディウは、このような「非実存者」をめぐってこう結論する。「デリダエクリチュール〔…〕の要点は、非実存者の組み入れの不可能性を、組み入れの形式として組み入れることである」*21

 ここでバディウが「非実存者」ということで、同時に資本主義におけるプロレタリアートを想起していることは非常に重要である。なぜなら、バディウのこの連想は守中における在日朝鮮人被差別部落民とまったくパラレルだからだ(「非実存点」=−φ)。非実存者は、社会においてつねに見えないもの触れえないものになる。非実存者は存在しながらにして存在しないことになっている。この「特有の仕方」での非実存を、おそらく中上健次は極めて鋭敏な仕方で描写した。

 しかし一点、バディウデリダ読解が守中の「脱構築」と異なる点がある。バディウデリダ脱構築を、「組み入れ不可能性の組み入れ」と要約している点である。ある構造が必然的に抑圧し、忘却し、抹消し、修正する痕跡は、それ自体は端的に抹消されており、「範例」として組み入れることなどできないのだ。

 すなわち、痕跡--つまりここでは「賎民」あるいはプロレタリアートのことだが--を、ある一つの独立した「存在者」あるいは「実在」として(「四」として)図式の中に組み入れることは不可能である。−φは抹消されているがゆえに、項として設定できない。まさにその不可能性こそが、全体性が抑圧的であることを示すのだ。

 デリダの戦略は、まさにその組み入れが不可能であることを図式のなかに組み入れる(だからそれは非実存者=「幽霊」として非実存する)。この抹消された痕跡の不可能な抵抗こそが、たえずトラウマとしてひとつの構造にとり憑き、その構造を変革し、異化するよう働きかける。この抵抗を、デリダは様々な場所で「残余=抵抗 restance」とまとめている*22

 

5.幽霊的知性

 この奇天烈な論理をたどったすえ、ある種の結論としてこう言わなければならないのだが、脱構築は革命も、純粋な理念も、少なくとも正面から「まっすぐに droit」肯定することができない。さらには、特定の少数者を「範例として」ある体制に反対することももちろんできないだろう。結局、さまざまな思想家たちに誤解を含めてそう言われてきたように、脱構築見かけ上現状追認的である。ここに脱構築の危険と困難がある。デリダは『ポジシオン』(一九七二年)でこう言う。

この仕事〔脱構築的実践〕は、見たところ、『イデオロギー』の諸分野〔…〕と規定されるような、限定された諸分野に出発点を取っているように思われます。だから、並外れて大きな歴史的有効性、直接的に全般に及ぶような有効性をそれに期待する余地はないように思われます。とはいえ、有効性なるものは、それが確実であるためには、やはり限定されているものであって、複雑な網状組織にしたがって中継され、分節され、差延されるのです。*23

 ここでデリダは「見たところ」や「思われます」や「直接的に全般に」という語を嫌味なほど強調している。デリダ自身が言うように、脱構築は、つねにある部分的な操作でしかなく、だからこそ見かけや、思惟や意識に直接的に現前するような「ラディカル」な効果を持ちえないだろう。またもう一方で、脱構築は、語の根本的な意味において「リベラル」ではあるが、改良主義ではない。それはなにかを「より良く」することなどない。むしろ、いまここで「より良い」とされているものを白けさせ、異化し、別の土台に乗せ、その限界を指摘するだろう(脱構築が唯一改良するとしたら、改良主義を改良するのである)。

 これは非常に残念なことなのだが、もちろん「脱構築」が安倍政権を打倒することはないだろうし、天皇制を解体することもないだろう。というより、そうした仕方で現前することがないだろう。それは喫緊に、差し迫った問題を、すぐさま、有効に、プラグマティックに、目に見えて、解決しはしない。

 だが、脱構築の効力を即時的な有効性や直接的な妥当性の次元で思考する、まさにその思考そのものへと脱構築は向けられている(「有効性なるものは、それが確実であるためには、やはり限定されているものであって、複雑な網状組織にしたがって中継され、分節され、差延される」)。「実効性」と「文学的幻想」を、つまりここでは政治と文学、現実と虚構をはっきり腑分けする、成熟やリアリズムを装うその潔癖症、秘密裡に流行している境界的思考*24にこそ、脱構築が--そしておそらく「批評」が、異議を申し立て、ずらし、不快にさせにやってくるのである。

 

 さて、こうして天皇制をめぐる文化と政治の奇妙な結託を目の当たりにした〈われわれ〉にとっては、天皇制の脱構築がはたして文化的次元に属するのか、政治的次元に属するのかは、つまり表象的か現実的か、「すき焼きで食うか、シャブシャブで食うか」はもはや問題になりえない。まさにこの視座に立ってはじめて、天皇制の脱構築を考えはじめるべきなのだ。抑圧的媒介として、文化的であることによってこそ政治的な力を持つ天皇制の特権を脱構築しなければならない。

 しかし、それは無駄に反天皇反日を掲げ、「非国民」を自称するラディカリズム(あるいはその逆の愛国主義)や、不可能な近代主義を掲げるアイロニーや、友敵を〈われわれ〉という語により峻別する決断や、〈弱者〉探しゲームや、一見賢しらな専門家への委託によってはなされないだろう。天皇制と脱構築が仮に関係を結びうるとしたら、様々な領域(象徴と現実、文化と政治、文学と社会、実存と構造、暴力と平和、法と権力)の、見かけ目立たない奇妙な絡み合いとそこに働く暴力を発見し、その位相をずらそうとつねに策謀を巡らせることによってのみである。

 ところで、こうした作業は日本において、「批評」と呼ばれる伝統のなかで、自覚の有無を問わず、担われてきたように思われる(少なくともある時期までは)。しかし今となっては、系譜に対するこうした位置ずらしを敢行し続けることは、冗談か、時代遅れの懐古趣味か、「ものの言い方の些末な違いに拘泥」する子供の戯れにしか見えないかもしれない(拙稿「哄笑批評宣言」で書いたように)。それは特定の専門領域や方法論をもたない「憑在論 hauntology」であるがゆえに、目的も理念も持たないし、具体案もオルタナティブも、新奇な選択肢も直接的には示さないからだ。

 しかし〈われわれ〉の唯一の積極的なテーゼは、この戯れ、この「喜劇」をこそ維持しなければならないということであった*25。そしてそのためには、きわめて奇妙なひとつの知性が必要になるだろう。すなわち、いまだに不可視なままの「幽霊」たちと戯れる、別の「知」が必要となるだろう。この非-知にも近いもうひとつの知性を、さしあたってきわめて乱暴に、「幽霊的知性」と呼んでおきたい。この知性のためにこそ、はじめてあなたと私は加速しなければならない。

 

 

 

  

 

(文責 - 左藤青) 

 

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脱構築のイメージ

*1:中上健次ジャック・デリダ「穢れということ」(柄谷行人・絓秀実編『中上健次発言集成3 対談Ⅲ』所収、第三文明社、一九九六年)一四頁。

*2:同上、二六頁。強調引用者。

*3:同上、二六頁。

*4:同上、二七頁。強調引用者

*5:デリダは、このようにあるひとつの名前が全体を特権的に代表=表象する暴力性、換喩の暴力にきわめて鋭敏な思想家であった。「ある名で他の名をあらわし、部分で全体をあらわす。人はつねに、アパルトヘイトの歴史的暴力を一つの換喩(メトニミー)として扱うことができるだろう」(デリダマルクスの亡霊たち』増田一夫訳、藤原書店、二〇〇七年、六頁。)

*6:同上、三二頁。

*7:同上、二四頁。強調引用者

*8:同上、二七頁。強調引用者。むろん、松坂牛をすき焼きで食おうがしゃぶしゃぶで食おうが、結局はブルジョワジーの嗜好品であろう。

*9:同上、一八頁、一九頁。

*10:同上、一七頁。

*11:同上。

*12:同上、二一頁。

*13:同上、二四頁。

*14:この点については、周知の通り絓秀実が鋭く指摘している。『増補 革命的な、あまりに革命的な』(ちくま学芸文庫、二〇一八年)の付論ほか参照。ここで絓の議論は、三島由紀夫における「文化概念としての天皇」への批判を含む。

*15:同上、二五頁。ところで、これはデリダの「パロディ」に対する考え方とまったくパラレルである。「二つのパロディのあいだに区別をもうける必要はありませんか。ひとつは、〔…〕知らず知らずのうちに既成の政治秩序を利することになるもの。そして他方に、既成の政治秩序を実際に脱構築することが可能なパロディがあります」(『ニーチェは、今日?』、ディスカッション部分でのクロソウスキーとのやりとり。邦訳、林好雄の解説中に引用されている。デリダドゥルーズ・リオタール・クロソウスキーニーチェは、今日?』林好雄ほか訳、ちくま学芸文庫、二〇〇二年、一一五頁)。

*16:守中高明「ネイションと内的『差異』」、『終わりなきパッション デリダブランショドゥルーズ』所収、未来社、二〇一二年、二七二頁。

*17:守中「ファロス・亡霊・天皇制」三四二、三四三頁。

*18:たとえば、マーティン・へグルンド『ラディカル無神論 デリダと生の時間』参照。

*19:アラン・バディウジャック・デリダへのオマージュ」松葉祥一訳(『ジャック・デリダ(別冊『環』13号)』所収、藤原良雄編、藤原書店)、二〇〇七年、九五頁。強調バディウ

*20:同上、一〇一頁。

*21:同上、九六頁。強調バディウ

*22:エクリチュールはおのれの消去過程、廃棄過程をおのれ自身のなかに構造論的に含み、他方しかしそのような消去の残余を標記する〔…〕」(デリダ『ポジシオン』高橋允昭訳、青土社、二〇〇〇年、一〇一頁。強調デリダ

*23:同上、一三四頁。強調デリダ

*24:結局、全体からの「逃走」に対しても、デリダに倣って二つの方向性を認める必要があるのだろう。たとえば、いくら領域から領域へと〈Exit〉しつづけ、ノマドを気取ったところで、依然としてこうした境界や全体性は大手を振って機能することになる(というよりまさにこうした亜流ノマディズムこそが「全体主義」と親和的である)。なんでも代入可能な真理xは、存在しなかったとしても存在するかのように機能するのだから、たんに「意味のない無意味」などと言いつのったり、あるいは(同じことだが)無意味を享楽するだけでは「ポスト・トゥルース」状況はいつまでも訪れない。ある全体性にけっして安住せず、しかし全体性などないと言い切ってすませてしまう安易さにも阿らないで「他者」を志向するという点に脱構築の揺るぎなさがある。まさにこのような状況においてこそ、「読むことのアレルギー」(福尾匠)に屈することのない、脱構築の介入が必要なのではないか。そうした介入はひょっとしたらある時にはカント的な批判哲学の相貌に近似するかもしれないし、ある時には「テロリズム的な蒙昧主義」(フーコーによるデリダ批判)と呼ばれるような、戯れの作業になるかもしれないのだが。

*25:拙稿「哄笑批評宣言」、また『大失敗』創刊号巻頭言(しげのかいりとの共作)を参照されたい。巻頭言でも、『共産党宣言』をなぞる形で「幽霊」が問題になっている。ところで、『ゴースツ・オブ・マイライフ』(邦題:「わが人生の幽霊たち」)の著者マーク・フィッシャーはここに限りなく漸近したが、その喜劇を悲劇と取り違えたために、その作業を維持することができなかったのではないだろうか。この悲劇においてこそ、拙稿「昭和の終わりの『大失敗』」(『大失敗』創刊号所収)で「ニューウェイヴ」と名付けたひとつの態度が登場しなければならない。