批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」な批評集団。https://twitter.com/daisippai19

角田光代『空中庭園』を読む(後編)

 (前編) 

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郊外、この光あふれる空間

 前半で見てきましたように、この小説『空中庭園』は作者である角田光代の意図を超えて空間の近代性そのものを問題化しています。それは言い換えれば、日本の住宅空間がきわめて形式的/機能的に近代化=西洋化したことを意味し、また日本的な空間の性質というものを半ば喪失したということも意味するでしょう。仮に前者を「明るさ」や「透明」といった言葉で表現するなら、その逆は「暗さ」や「影」といった性質であるわけですから、空間における「日本的な性質」は後者の側にあったのではないでしょうか。

 そのように仮定して考えてみますと、たとえば「美」の探究者である谷崎潤一郎が、『痴人の愛』(一九二四)に見られるような軽薄な西洋趣味から一転し、いわゆる「古典回帰」の時期に書いた『陰翳礼讃』(一九三九)では、やはり「暗さ」や「影」に重きが置かれています。

われらは落懸のうしろや、花活の周囲や、違い棚の下などを塡めている闇を眺めて、それが何でもない蔭であることを知りながらも、そこの空気だけがシーンと沈み切っているような、永劫不変の閑寂がその暗がりを領しているような感銘を受ける。思うに西洋人の云う「東洋の神秘」とは、かくの如き暗がりが持つ不気味な静かさを指すのであろう。〔…〕その神秘の鍵は何処にあるのか。種明かしをすれば、畢竟それは陰翳の魔法であって、もし隅々に作られている蔭を追い除けてしまったら、忽焉としてのその床の間はたゝの空白に帰するのである。われらの祖先の天才は、虚無の空間を任意に遮蔽して自ずから生ずる陰翳の世界に、いかなる絵画や装飾にも優る幽玄味を持たせたのである。(谷崎潤一郎『陰翳礼讃』)*1

 谷崎はこのように「陰翳の世界」という美学を特権化するわけでありますが、わたくしたちには「東洋の神秘」や「陰翳の魔法」と言われても、正直なところよく分かりません。例えば「古民家」や「茶室」といった日本的な空間は、むしろわたくしたちにとってはエキゾチックな印象を与えるでしょう。それにもかかわらず、なにかもっともらしく「これが落ち着く」とか「これが自然だ」などと言うのは愚かしい欺瞞でしかありません。

 わたくしたちが最も落ち着く場所、それはむしろ「陰翳の魔法」が解けてしまった場所ではないでしょうか。つまり、ただの空白、それも澄ました顔に塗りつけられたような化粧としての白ではなく、本当にどうでもいいような白さ、何かの問題を惹起するような自己主張をもたない白さ、そういった空白の空間です。

 この空間は、具体的な文化の質から自由になった無限の空間だと思います。すなわち、平等かつ均質に切り取った非-目的の空間、もしくは多目的にひらかれた空間、それこそが団地の、あるいはオフィスビルディングなどの実際の姿ではないでしょうか。だから、例えば一見してアパートに見える建物がじつは収納倉庫であったり、もしくは建物それ自体がスクラップ&ビルドされたとしても、何の変りもなく見えてくるのでありましょう。

 そのようなわけで、団地の居住空間は文化的な固有性から自由になり平等化された空間それ自体を実質としています。この建築様式が日本において一般化されたのは、個人の自由と平等を掲げた戦後民主主義が日本人の心理に浸透していく過程と同時期でありました。この「戦後民主主義」と「団地」を結び付けて考えるとき、たとえば原武史が指摘しているように、暮らしの在りようはアメリカ型であっても、労働者住宅に酷似するこの団地という建築様式そのものは「標準設計制度を指向した点で、同時代のソ連と共通していた。実際に公団は職員を国交が回復して間もないソ連に派遣させ、団地建設の模様を視察させてい」*2たわけですから、日本の団地暮らしに「ハコとしてのソ連」という要素があったことを踏まえねばなりません。

 ここで『空中庭園』の「ダンチ」に戻ってみますと、やはりそこには「落懸」や「花活」や「違い棚」といった伝統的文化から自由になり、そしてしばしば倫理を代行するようにさえ思える「東洋の神秘」という美学的な特権性をも剥奪した、平等で透明な空間が現れていることが分かります。すなわち、谷崎が言うような「われらの祖先」といった内的な時間によって担保される空間ではなく、「外からも見えて心を癒さなければいけない」とされるベランダの鉢植え、空中に浮かぶ一見して華やかな庭園が、ここでは問題として浮上してくるでしょう。このような「ダンチ」の空間には、絵里子の自意識を形成する要因でもあった「外からの視線」がミクロな権力として遍在し作用していることが分かります。

あの時期〔フランス革命以前から〕しばしば求められたあの「世論」の支配、それは直接で集団的で無名の一種の視線によって物が知られ、人が見られるだろうという、その事実によって権力が行使されうるような一つの働き方なのです。世論を主たる原動力とするような権力には、陰の地帯を許容することはできないでしょう。ベンサムの企図が人の関心を誘ったのは、それが多くの異なる領域に適用できるものとして、「透明による」権力の方式、「光をあてる」ことによって服従させる方式を与えてくれたからです。一望監視装置とは、「城館」の形態(壁に囲まれた天守閣)を若干利用して逆説的に細部にわたって読みとれる空間を造り出すことだったのです。(ミシェル・フーコー「権力の眼」)*3

 現代における「政治と空間」という問題圏のなかでは、やはりミシェル・フーコーを避けて通ることはできないわけでありますが、とはいえ「監視」と聞くや否や、そらきた「パノプティコン」だ、やれ「規律=訓練」だと、たしかにそのとおりではあるものの、しかしまるで試験問題かのように即答するその態度は、本来的な意味での哲学や批評といった営為からはあまりにも遠いものだと言わざるをえません。だから、一問一答式の回答をするのではなく、近代の空間について思考するときに起点となる要素をフーコーから導き出すとするのならば、それは「光」なのです。

 ミシェル・フーコーが喝破したこの近代空間の論理は、前編でも参照した批評家・秋山駿の「千篇一律の光景」や角田の『空中庭園』の風景を裏書きしています。この空間とは「光をあてる」という条件によって可能になる権力空間であり、「見られる」ことはそれなしにはありえないわけですから、「世論」という名の大衆の専制は、「光の専制政治」と言いかえることができます。すなわち、全ての人びとが全ての人びとに対して、後ろめたい陰、つまり「秘密」はないとして「服従する」のです。だから、秋山は団地居住者のことを「社会に対して秘密を抱くことのもっとも寡い新しい種族の一群」と書いたのかもしれません。

 『空中庭園』の世界における「外からも見えて心を癒さなければいけない」ベランダは、フーコーがあらゆる建造物に見出した「一望監視装置」の構造を内面化した空間と言えます。つまり、家庭の内部という独立性が消失することを前提にしたうえで戦略的・意識的に「光」をあてさせるということ、それは換言すれば、演じられた空間であります。こうした意識空間、すなわち前述の空間化した絵里子の自意識は、無数のまなざしに対して、あるいは外部の「ルール」に対して、強迫観念に駆られるがごとく自身を透明にしていきます。家庭の隅々まで「光かがやく」ように、自分たちが「明るく善なるもの」であるように。

 さて、このように分析できてしまう『空中庭園』でありますが、わたくしはいささかつまらないことをしたと反省しています。というのも、フーコーの図式であるところの微視的権力の遍在、それによって自分たちの日常生活が規定されているとして、そこから何が見えてくるかと言えば、外在的な構造による非-人間の世界しか見ることができないからです。もし具体的な日常生活という観点から、実体的存在である人間の姿や経験を論じてみようということであれば、ここからは別の方法を採らねばならないでしょう。

 では、別の方法とはいったい何でしょうか。『空中庭園』の世界にそって言うならば、それは母・絵里子の自意識ではなく、娘のマナや息子のコウの身体性をとおして郊外を知覚することです。この子どもの視点は、絵里子の勘違いであるところの「子どもは素直である」という思い込みに対して、じつのところまったく素直ではなく、いやある意味では「素直すぎる」と言っていいリアリストのそれでありましょう。

 たとえば、絵里子が自分の家をいつまでも「光かがやく新しい未来」の場所だと思っているのに対して、マナは「ダンチはのっぺりしていて、外壁がずいぶん汚れている。巨大なのに、どことなくみずぼらしい」と感じています。時間の経過を把握しているこの素朴な感想はニュータウンがもはやNewではないことを理解しています。ただ一方で、郊外の風景に対する弟・コウの直観は、マナの理解よりもはるかに身体性に依拠していて示唆的と言えるのではないでしょうか。

建ち並ぶ高層アパートの、ほとんどすべての窓は南を向いている。〔…〕南には全面窓、北には全面ドア。その眺めは、なんていうか、ものすごくみにくい。グロテスクだとも思う。すべて等しい大きさの窓が、すべて等しい角度で南を向いていれば、それぞれに等しく光が射し込むと、設計者は考えたのだろうか。〔…〕もしくはただ単純に、光があふれれば平和になる――少なくとも平和そうに見えるという、単純な理由からだろうか。(角田光代空中庭園』)*4

 コウの批評は設計主義批判そのものと言えます。ここでは同一の方向、等質の規格、そうした建築様式を志向させる「光」が、その専制的な力学によって「平和」という観念に接合されます。そのような世界観に対して、「ものすごくみにくい」「グロテスク」だと評するコウの態度はきわめて身体的な把握の仕方であります。

 ここで言うグロテスクな平和とはどのような事態を意味するのでしょうか。それはコウによれば「ぼくんちの、あの重苦しい決意みたいなもの。チェーンソーを手にした殺人鬼の姿が見えたとしても、絶対にそちらを見ないような意志」としての「平和」です。そのような「平和」が「光」によって可能になるというのであれば、やはりここでも「光」は世界に必ず存在する邪悪さを隠蔽する欺瞞的なものとして現れていることが分かります。だから、「平和」をもたらすとされる「光」を重要視する建築思想に対して、コウは「グロテスク」で「重苦しい」と考えているのです。

 「平和」を強要する「光の専制政治」に対して、母・絵里子は自意識を家庭に反映させて演技的なものとして空間化し、無数のまなざしを受け容れるわけですが、一方でコウは自分の身体に依拠して、反抗的な行動まではしなくとも心の裡では抵抗しています。それはどのような抵抗かと言えば、次のようなセリフが象徴的でありましょう。 

もし童貞だったらこういうもの〔学校でのいじめや同調圧力、家族のモットー〕に、気持ちの上でどんなふうに対抗できたろう。きっと、できなかったんじゃないかな。押しつぶされていたんじゃないかな。マナ姉の安っぽい想像どおり、部屋に閉じこもって出なくなっていたかもしれないし、家の空気をかきまわすために非平和的な行為に走ったかもしれない。(『空中庭園』) *5

 コウの「童貞」に対する裏返しの信仰を嘲笑することは容易く、また一般的に考えればそれは歪んだ自己肯定とも言えるわけですが、しかし、中学三年生の地味でおとなしいコウにとって自分が非童貞であるということは、他の男子と比較してどうこうということではなく、自分を否定してくるあらゆる暴力に抵抗するための心理的防壁として機能しています。それは一体どのようなことなのでしょうか。ここでは同心円状にひろがる自己の内側にしか存在しない他の男子ではなく、他者の身体を導入することが重要になります。

 コウは同じ「ダンチ」に住む一歳年上のミソノと共に童貞・処女を捨てるわけですが、しかし二人は「おたがいに愛しあっていたからじゃなくて、似たような切実さで体験を求めていた」のでした。童貞や処女を捨てる以前の二人の切実さとは何か、それは小説のなかで具体的に説明されているわけではありません。しかし、ミソノのことを「ブス」だと思っているコウは、自分が学校社会に馴染めない人間であることを自覚していて、それでもミソノは「あの広大な学校でぼくと口をきいてくれる唯一の人間」なのです。他方で、ミソノもまたコウに「自分の前世」を語り聞かせるというなかなかの人物であります。

 このことから見えてくる「切実さ」とは何でしょうか。それは理想の自分を他者に投影する関係、すなわち離れつつも内閉した関係ではなく、むしろ「疎外された者」あるいは「中二病患者」という意味で、すでに二人は同調圧力のつよい学校社会においては近似している者同士の関係です。だから「似たような切実さ」とはそういった意味合いにおいてであり、そうであるがゆえにコウとミソノは、性交という身体的方法を用いて他者とはちがう存在としての自己を獲得したのだとわたくしは思います。 

郊外、この覆い尽くす空間

 このようにしてコウは郊外社会を生きているわけですが、ある日、入院した祖母を見舞うために、コウは病院へ行きます。そこの廊下から見える景色、そして他の二か所の高所から見える景色を総括して、コウは次のように感じたのでした。

ディスカバリー・センター〔ショッピングモール〕と、病院と、自分の家〔ダンチ〕、それぞれから外を眺めていると、ぼくは自分が神さまになったような気分になる。それは全能感だとか多幸感とかでは全然なくて、京橋一家全員の、いや、ミソノや北野先生や、この町に住む全員の、決定された行動範囲を見まわっている気分だ。そこからだれも脱走などしないよう。きちんと線の内側におさまっているよう。ささやかな毎日をひたすらくりかえしていくように。神さまってのが実際こんな立場なんだとしたら、神さまというはずいぶんみじめな気分のものなんだな。(『空中庭園』)*6

 「神さま」の視点を獲得したコウは、実は近代的視座を得たと言い換えることができます。なぜなら、前近代の都市が中心的な建造物を起点にして秩序付けられる象徴空間として把握されていたのに対して、近代都市の最終的な所産であるところの郊外は、中心がなく全てが等質なように、幾何学的で抽象的な図像としてしか視えないからです。そこからコウは「町に住む全員」を見渡して、「線の内側」に郊外を見るわけですが、しかし実際はこの町に限らず全ての郊外が「外部なき内側」と言えるでしょう。

 とはいえ、そのようなコウが示唆するのは「視点」の問題だけではなく、むしろ重要なことはこの郊外の「空間」と「時間」であります。これらをコウは「決定された行動範囲」と「ささやかな毎日をひたすらくりかしていく」と表現していますが、この言葉が直観的であるにせよ、都市社会の構造として考えてみてもやはり正しいのではないでしょうか。ここでは近代都市に対するアンリ・ルフェーヴルの考察が適切な補助線として利用できますので、その部分を引用してみます。

居住の側では、日常生活の裁断や調整、自動車(《私的》交通手段)の厖大な止揚、移動性(制動されてもいて、不十分な)、マスメディアの影響などが、諸個人や諸集団(家族、組織体)を風景や国土から切り離した。近隣は姿がうすれ、地区は崩壊する。人々(住民たち)は、場所や瞬間の質的相違がもはや重要性を持たないところの、指示や合図でいっぱいの幾何学的同域へとむかう傾向をもった空間のなかを移動する。(アンリ・ルフェーヴル『都市への権利』)*7

 またルフェーヴルは別のところでこのようにも書いています。「まさに完全な日常性、諸々の機能、処方、融通のきかない時間割などといったものが、この居住地のなかにおいて記入され意義づけられるのである」*8と。ここでコウの見解とルフェーヴルの指摘はほとんど合致していることが分かるでしょう。ひたすら繰り返される「ささやかな毎日」とは、「完全な日常性」「融通のきかない時間割」であり、「線の内側」にある「決定された行動範囲」とは、「指示や合図でいっぱいの幾何学的同域」として考えることができます。

 では、このことを前提に『空中庭園』の「時間」と「空間」を検討してみましょう。ここからはふだん何気なくすごしている日常生活についての意識的な理解がわたくしたちの方に求められます。

 まず郊外におけるささやかな毎日=日常は、なぜひたすら繰り返され、また融通のきかない時間割として存在するのでしょうか。『空中庭園』の世界では、何度も「バス」や「電車」が出てきて、絵里子をショッピングモールや実家やバイト先まで運び、マナやコウを学校やラブホテル(「ホテル野猿」)まで送ったりします。そこから考えるに、この小説世界の郊外では、住民が団地からあらゆる場所へ行くにしては、たとえば自転車では遠すぎることが暗示されているとは言えないでしょうか。言い換えれば、この郊外は居住地だけが孤立している閉鎖的な空間なのです。

 例えば東京の多摩ニュータウンはそうした場所でしょう。いくつかの小高い丘を覆うように団地やマンションが林立し、その網目を縫うようにバスが巡回して、最後は駅や商業施設へと到着します。こうした環境が意味するところは、住民の行動範囲や行先がバスをはじめとした交通機関によって規定される計画された閉鎖-循環的な空間であるということです。ルフェーヴルは次のように書いています。

表象の空間でありテクノクラートの空間であるこの道具的な空間は、実際の社会的空間ではない。道具的である限り、空間は収縮し、閉鎖し、反復的なものと認知ずみのシニフィアン以外の何ものをも認めない傾向にある。(ルフェーヴル『空間と政治』)*9

 『空中庭園』の世界に置き換えて言うならば、ディスカバリー・センター(ショッピング・モール)と、ダンチ(「グランドアーバンメゾン」)とのあいだを、バスは時刻表に従って何度も往復します。この時間が、例えば絵里子の日常を「融通のきかない」ものとして支配し、それを裏返せば、絵里子の「時間割」は絵里子の予定ではなくバス会社の予定によって規定されていると言えましょう。こうした時間の支配は、ルフェーヴルの言う「制動されていて、不十分な」移動性そのものでもあります。しかし絵里子はこの時間割によって提供される場所、すなわちショッピングセンターによって生かされているのです。実家の母の相手をさせられることにウンザリしていた絵里子は、「ディスカバリー・センター」のことを「私を私の殺意から救ってくれたのは、時間でもなく家族でもなく、その郊外型ショッピングセンターだった」*10と考えています。すなわち、ショッピングセンターは住民にとって解放の場になりえているのですが、しかしマナと同級生の森崎は、この空間設計の狡知を見抜いています。

ディスカバリー・センターは、この町のトウキョウであり、この町のディズニーランドであり、この町の飛行場であり外国であり、更生施設であり職業安定所である。

でもな、ひょっとしたら、ディスカバリー・センターはおれたちを救ったんじゃなく、ここに閉じこめてしまっただけなのかもな、と森崎くんは言う。そういうことを考えると、爆弾をつくりたくなるのだそうだ。*11

 ルフェーヴルを引用した箇所ですでに確認したように、商業地区と住居地区によって完結した「小トウキョウ」である郊外は、つねに人々を反復−循環させるような閉鎖的構造になっています。この「決定された行動範囲」には、住民の生々しい殺意をも、夢のような消費によって解放=救済する装置すら内蔵されているのです。前半の論で書いた「出口のない郊外」とは、このような意味でもあります。

 他方で、同級生の森崎はその構造を理解したうえで「爆弾をつくりたくなる」と言います。実はこの森崎の心境は、徹底したニヒリストである秋山駿と、さほど遠い距離にあるわけではありません。森崎は、企業資本の投資とその配分の上に成立し管理された郊外的空間、そしてその空間に記入された意味や記号によって住民を飼い慣らしていく郊外社会に風穴を空けようとしているのではないでしょうか。他方で、秋山はその爆弾を自己自身へと向けて、「否定」という「創造的な虚無」に「私」を見出します。

この自己、あるいは、私という存在は、一つの否定の意識とともに在る奇妙な存在ではないか、と思われてくる。何の否定か。現実的に生活しつつある人間、あるいは社会的に生存しつつある人間についての、否定である。私とは何か、と問うとき、これまでまったく疑いを容れぬほど明らかだった生活の流れ、社会的な生存の意識の流れが、ぷつりと中断され、すべてが不可解なものとなり、何も知らぬ者になってしまう。そして、眼の前に、絶えず新しい、真っ白なページ状の場面が現れる。したがって、とにかく、何の意味もなく、何処へという当てもなく、すぐ歩き出さなければ、それこそすべてが無になってしまう。だから、この「私」という存在は、一時代前の旧式の言葉で呼んでみると――あの「創造的な虚無」というものと、ほとんど等しい存在ではないか、と私は思う。(秋山駿『舗石の思想』)*12

 秋山の意図は明確でありましょう。すなわち、外界の現実社会に働きかけようとするのではなく、自分の内部を白紙化させ社会から切断することによって「何も知らぬ者」になり、それゆえに「絶えず新しい」場面へと自己を運んでいくことが可能になったのです。だから秋山の自己否定は、社会を変えるための手段としてではなく、自分が「舗石の零度」に位置することのみを目的とした方法ではありますが、しかしそのことによって、日常生活の自明性を相対化できるようになります。言い換えれば、自らの生の社会性を否定し、何でもない「石ころ」になって、水平化された郊外の市民社会とは異なる次元に身を置くことで秋山は批評家になりえたのだと言えるでしょう。

 一方で、同級生・森崎はどうでしょうか。マナによれば森崎は「実際に爆弾をつくれるくらい賢い高校生でない」ということですが、しかし「浮ついてない。地に足がついて」いる家庭で育っています。彼の家にはマナの一家にないものがあります。それは「日向と日陰と、埃と醤油のしみと、テリトリーと無関心」です。

 この区切りのある生活環境と、彼の頭のなかで作られつつある「爆弾」には、どのような関係があるのでしょうか。あるいはこの「爆弾」発言は、いわゆる「中二病」の一種にすぎないのでしょうか。ここで初めのほうに書いた古屋健三による「内向の世代」の定義が有用になります。一市民のふりをしながらも「さながら市井に隠れた犯罪者のような、心と生活とのこの背理が内向の世代のぶきみさ」。すなわち、市井の暮らしのなかで育った森崎は、言ってみれば、埃の被った日陰にある自分のテリトリーで、「内向」の心性を育んだと考えられます。つまり、彼は「爆弾をつくりたくなる」という「秘密」を持っているのです。

 わたくしはここで想像をたくましくしてみたいと思います。もし森崎が何かの偶然で爆弾を手に入れたとしたら、彼はそれをどこに向かって投げるでしょうか。彼は郊外社会の密閉された循環構造を理解していました。それならば、やはりショッピングセンターでしょうか。あるいはダンチでしょうか。もしくはバスを爆発させるでしょうか。わたくしはそのどれでもないと考えます。爆薬の詰まったそれを手にしたとき彼は、きっとこう悟るはずでしょう。郊外でこれを爆発させても何も変わらない、と。まったく無意味である、と。

 なぜなら、もし彼が正確に郊外の空間構造を把握しているのならば、たとえショッピングセンターを爆破したところで、一か月後にはまた同じように復元されていることが容易に想像できるはずだからです。あるいは、より強固で豊かなものとして復活してさえいるかもしれません。歴史的な積み重ねをもつ文化の固有性、それを持たない交換可能な空間にとって、破壊など意味がないと言えます。むしろ破壊=否定されることによって、監視カメラの増設や警備員の増員といったような、より完全に密閉された空間として再生するはずです。そうすることによって、モノと労働力の需要は増え、また絵里子のような善良な消費者も安心して買い物ができるのですから、一石二鳥どころか一石三鳥というわけでありましょう。

 そのうえで森崎が爆弾を使用するならば、例えばこのショッピングセンターを経営する本社ビル、すなわち郊外社会の消費を規定する決定の中心であるところの都市を爆破するでしょう。その行動が、「東アジア反日武装戦線〈狼〉」による三菱重工爆破事件と妙な重なりを見せるのは偶然ではありません。ただその違いは、当時は外側へと向けられていた帝国主義が、現在は内側に向けられているというだけのことです。それは都市が郊外から隔絶した外部であることを意味しません。なぜなら都市もまた、家族単位で大量の消費が行われ、また労働力をも供給するところの郊外に依存しているのですから、資本家と消費者/労働者という主-奴の関係がやはり厳然として存在しています。

 ともかくここから分かることは、わたくしの虚妄としか言いようのない想像によって仮定された森崎と秋山駿が実は同じ心性を持っているということであります。すなわち、両者は「社会を否定する」という一点を同じくして表裏の関係にあるということです。秋山は自己の内部に留まってそれを否定し続けることで内なる社会性をも否定し、一方で森崎は都市へ向かって爆弾を投げることで、その従属‐依存の関係に覆い尽くされた郊外社会を否定しようとするでしょう。

 どちらが善いのか、あるいはどちらも悪いのか、何を基準にしてこの郊外を生きればよいのか。角田光代の『空中庭園』から導き出されたこの問いは、今もなおわたくしを含めた郊外に住む人びとに向かって差し出されています。

 

 

 

(文責 - 赤井浩太

 

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▲ ホテル野猿東京都八王子市大塚ラブホテル2008年頃に改装され、「フェスタリゾート野猿」という名称に変わっている)

 

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*1:谷崎潤一郎『陰翳礼讃』中公論新社、一九七五年、三五頁。

*2:原武史団地の空間政治学NHKブックス、二〇一二年、四四頁。

*3:ミシェル・フーコーフーコー・コレクション4 権力・監禁』筑摩書房、二〇〇六年、三八五―三八六頁。

*4:角田光代空中庭園文藝春秋、二〇〇五年、二四五頁。

*5:同上、二二九、二三〇頁。

*6:同上、二四〇頁。

*7:アンリ・ルフェーヴル『都市への権利』筑摩書房、二〇一一年、一一八、一一九頁。

*8:同上、三五頁。

*9:アンリ・ルフェーヴル『空間と政治』晶文社、一九七五年、一四九、一五〇頁。

*10:角田光代空中庭園文藝春秋、二〇〇五年、一〇一頁。

*11:同上、三一頁

*12:秋山駿『舗石の思想』講談社文芸文庫、二〇〇二年、一九三頁