批評集団「大失敗」

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鈍刀(ひらがな)を振るうー赤井浩太について

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 昨日、わたしの友人である赤井浩太さんが『すばるクリティーク賞』なる賞を受賞しました。これはたいへんめでたい事です。賞のなまえが県名の後に「情報」とか「クリエイティブ」とかつけさえすれば大学の名になるとおもっているバカ大学のようであっても、これはたいへんめでたいことでしょう。なぜならば賞をとれば賞のなまえがもらえるからです。レースならば一番をとるべきであり、二番三番など意味はありません。つまり赤井浩太さんの批評は一番をとったわけですから、これほどめでたいことは無いのです。

 なぜ一番しか意味がないのか。それはいささかバカ大学的な論理にさんどうするかたちになりますが、なまえにつけることができるからです。なのるなら「一番の男」でしょう。わたしは「二番の男」とか「三番の男」などとじまんしている人間を見たことがありません。ですから「一番の男」しかなのれないのではないかと、わたしはおもうのです。したがって赤井浩太さんは、賞を獲ったその日から一番の男になったわけです。りっぱですね。すごいですね。一番の男・赤井浩太はこれから権謀術数が渦巻いている乱世の世を二つの大太刀、平岡正明谷川雁をもってして、わたりあるくわけです。

 その点で中島岳志のかれに対する「尾崎豊のようになってしまう」という疑問符はいささかミスリーディングのようにみえます。かれのような一番の男が、二枚目であり、内面をもった青年期の屈託を象徴する「尾崎豊」になるはずがないでしょう。リアルを腹にすえたかれのような「一番の男」が、現実から打ちのめされ、自らをこわしていく尾崎豊のごとき恐怖や憂鬱を、文学として据えられるはずがありません。そもそもかれは二五歳であり、それぐらいの大人だったら「尾崎豊」のような「社会に出てきて、仕事に追われ夢を追っていた自分が時間とともに薄れることを感傷する」なんてことは無いに決まっているではありませんか。

 とにかく、かれは一番の男になれたのであり、かれの評する「リアル」は一番だと認められたわけです。しかしながらそのように総評を見ていくとよくわからない箇所があります。大澤信亮さんがいう「コスプレ感」という評です。

大澤 〔…〕さっき杉田さんが言っていたコスプレ感というのが、僕はどうしても消えなかった。〔…〕真面目な人が無理やりコスプレ的にワルな感じを出しながらノリで書いているんじゃないか(笑)。必死にノリで自分を鼓舞しているようにも読めた。(『すばるクリティーク』二〇一九年二月号、選考座談会より。二五三頁)

 選評を見ていくと、選考委員たちは赤井浩太さんが共同体をベースにして書いていることをよみながらも、それがコスプレ感があることで否定的に扱っていますそれならあんたのおとなりにいるのは福田恆存のコスプレじゃないのか、なんてことはいいおとななので云いません。そんなことはどうでもよろしい。それよりも問題は、選考委員たちが赤井浩太さんの文章を一個の共同体論としてよみながらも、それがコスプレ的であることが疑問符として持ち出されていることでしょう。

 わたしならこう考えます。一番の男赤井浩太が共同体をベースにして物事を考えて「レペゼン地元」を生成しているのであれば、それはコスプレ的になるのは当たり前の話ではないか。なぜならば吉本隆明の『共同幻想論』を持ち出すまでもなく、共同体というのは「約束事」がなければ成立しえない。この「約束事」は、いくらか馬鹿に見えてもまもらないと共同体は維持できないだろう。バラバラな個が個としているだけならば、それは共同体とはいえないからだ。こう思うのです。ですから、共同体はフィクションを要請するし、それこそが方言としての「ヒップホップ」ではないかとなります。

 その点でわたしには赤井浩太さんの文章が共同体の構成するフィクションについてかたっているライト・ノベル(小説)のようにみえなくもありません。しかしながらわたしは「リアル」というフィクションによって構成される共同体に対して、いささかも興味が惹かれません。わたしにとって興味があるのは、個のなかにある共同体であり、もっというと分裂し続けながらもどこかで空間と時間の一致を「しんじている」内面であり、もっといえば、内面が身体に出てしまうことであり、さらに言って仕舞えば内面の統一性をどこか信用させてしまう他者の身振り・手振りであり、つまり、分裂し続けながらも、それ自体が機能として承認されてしまう視覚の作用です。

 その点では赤井浩太さんが言うリアルとは一番の男として言うべきことを言ったとは、わたしも思いますが、かかる一番の男の「リアル」を「リアル」として受け入れることはできません。そのような「リアル」は地元のなかにしかないと言いたいのではなく、「真実のリアリティ」なるものを映し出しているのは不敵な笑みを浮かべた視覚だというのがわたしの考えです。

 わたしは戦後民主主義自体はきらいです。しかしながら「リアル」をこうせいするラッパー族(あぶれ族)の魅力よりも、地元という「リアル」を粉砕して、地に足のつかない都市を増幅しつづける高度経済成長の搾取に下支えされた戦後民主主義の方が、いささか破壊的なアジテーションではないかと思うのです。まあそんなことはどうでいい。いずれにせよ赤井浩太さんが一番の男になれたのはとてもいいことではありませんか。ちなみにわたしだって一番の男になりたいときもあります。しかしそれは多重人格の一番の男であり、足や手を失った人間たちの「唯一」の一番を据えられる批評を書いてみたらなという願望以外のものではないでしょう。

 

 それは具体的になんぞやときかれれば、この文章であると不徹底ながら、わたしはいいかえします。そして、ここからさきはわたしと読者の諸君がともにかんがえることです。なぜならばわたしは「一番の男」でもなければ、賞を受賞した唯一の批評でもないからです。これは「一番の男」である赤井浩太さんにけいはつされてかいた、わたしなりの「アジビラ」でありますが、都市と対峙する谷川雁平岡正明の「方言」とおなじく、意味を規定する「漢字」にたいしてわたしがもちだした「ひらがな」もまた、それなりに戦後民主主義やラッパーのバイブスとたたかうことができる魅力的なことばのようにおもえます。まあそんなことはいまおもいついたデタラメにすぎませんが、意識的なデタラメほど権力的な「リアル」を撹乱するものはないのではないかとわたしは思います。

 

 いずれにせよ赤井浩太さんの受賞はめでたいことです。一番の男赤井浩太さんのこれからの歩みをわたしは期待してみてしまいますね。

 

(文責 - しげのかいり

 

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