批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」な批評集団。https://twitter.com/daisippai19

『大失敗』創刊号 巻頭言(左藤青+しげのかいり)

《現実≠現在》へ

 もうひとつの〈前衛〉と「大失敗」のために

 

 現代日本に幽霊が出る——「批評」という幽霊である。

 「批評」はしばしば「アクチュアル」な問題に対応すると言われる。学問・研究(=アカデミズム)が「すでに死んだもの」の死体検分にすぎず、つねに「遅延」をはらんでいるのに対し、「批評」は、生き生きとした「思想」であり、「生きた自由な言葉」であり、目の前にあるその都度のコンテンツ、その都度の〈現実=現在アクチュアル〉に対応し、あるいは対抗していくのだとされる。「批評」と「研究」はあるときには共同し、あるときには敵対するが、それらはそもそも別のものとされている。

 その定義自体はそれほどおかしいものではない。私たちもまた、ある種の「研究」のためにこの本を書いたわけではなく、ある意味で、現実をよりよく理解し、よりよく批判するために書いた。けれども、そもそも私たちにとって〈現実=現在アクチュアル〉は、それほど自明のことではない。ここでこう問わなければならなくなるのだろう。すなわち、アクチュアルactual=顕在的なものとは何か? と。

 けれども、こうして語り出しているとき、私とあなたはすでに、一つのわなにとらわれている。この段階へと躊躇なく突き進んで行くとき、批評はたやすく、一個の哲学的「闘争」へと変貌してしまうだろう。すなわち「〈現実=現在アクチュアル〉とは何で〈ある〉か」という本質=存在論に、そして「真の〈現実=現在アクチュアル〉とは私たちの言うところのものである」という定義の「闘争」に。だが批評はかつて「学の王」であった哲学でも、「存在の家」であった詩でもなく、したがってひとつの「闘争」ではなかった。これまでの歴史の中で、批評はつねに「婢女」であり、存在から遠く離れた散文であり、《異化》であり、ひとつの「逃走」であった。

 では、なぜ我々は存在から「逃走」しているのか。それは「反日武装戦線〈狼〉」による「三菱重工爆破事件」から逃れるためである。

 

 たとえばジル・ドゥルーズは、『ニーチェと哲学』(一九六二)の中で、ニーチェを読解しながら「解釈とは計量である」と書いた。カント以来の批判クリティー(=「批評」)を貫徹することとは、ある現象の意味をいま占領している力のバランスを計量し、その力の「高次の度合い」を見極め、そこに介入することなのである。介入することができるのは、そのピュイサンスが最大の値を取るときである(ニーチェが自らの仕事を「系譜学」に位置付け、ギリシャ哲学を読んだのは、それこそが哲学にとって「高次の度合い」を取ったときだったからだ)。

 その点で、反日武装戦線〈狼〉が起こした事件はきわめて批評的だった。当時の新左翼の「反帝・反スタ」が無自覚なナショナリズムに基づいていることを彼らは「計量」し、それを否定したからである。

 この事件は、当時の「闘争」する主体である新左翼——日本の批評家を含めた——に対する痛烈な批判として機能した。新左翼の論理には、帝国主義戦争を戦う環として、そもそも「日本」が自明のものとして想定されていた。むろんこの認識には無自覚なナショナリズムと土着性が否応なく刻み込まれている。この土着性を批判するロジックこそが「反日武装戦線」だったのである。この「反日」というアンチテーゼには、日本という存在の根拠を問う、ラディカルな問いが含まれていた(だから、「アクチュアル」なものとは「反日武装戦線〈狼〉」である)。

 ドゥルーズによれば、「計量」はつねに、その批判者の〈生の様式〉や〈存在の仕方〉、すなわち「実存」を反映したものとなる。反日武装戦線〈狼〉がこのように「反日」を掲げることで、いわば日本にとって存在論的ともいえる問題を提起できたのは、彼ら自身、新左翼の無自覚なナショナリズムナルシシズムの力を「計量」できるほどにその問題に自覚的であり、その問題提起が彼らの実存に根ざしていたからである。

 しかしもちろん、この問題提起はひとつのディレンマに陥る。日本人が「日本」を否定し「闘争」したとしても、そこには「日本人の死体」が積まれるだけで、「日本人」でなくなるわけではない。このディレンマから、必然的に「闘争」は特攻隊的な精神主義と自滅に向かわざるをえないだろう。私たちは反日武装戦線〈狼〉の、「反日」という存在論的・根本的な問題提起の正当性を認めよう。とはいえ「反日」のラディカリズムとテロルによって「日本人」の死を夢見ることは、私たちにはもはやできないのである。

 それでは、私たちはどこへ行くのか。

 

 ところで、「前衛」とは、かつての新左翼によって切り捨てられたジャーゴンである。マルクス・レーニン主義は、「前衛」を掲げる自分たち左翼こそが「アクチュアリティ」を持ったものであり、それに対して西側諸国は愚劣な後進国にすぎないと認識していた。この「前衛」を批判したのが、かの吉本隆明である。吉本は、前衛を主張した共産党は「大衆の原像」を喪失しているとして批判した。吉本の批評は、全体主義化してしまった前衛党による統制主義、いわゆるスターリニズムの「大失敗」を批判し、返す刀で「アクチュアル」なもの、すなわち「大衆」を持ち出すのだ。

 もちろんこのような吉本的・新左翼的な「前衛」批判には、見え透いたレトリックが隠されている。実のところ、吉本や新左翼が持ってくる「大衆」や「反日」は、前衛に対立する「後衛」ではなく、前衛を差異化した別の「前衛」だったのである。吉本的な批判は、それ自体「前衛」の反復に過ぎず、「前衛」から離れることができたわけではない(むろん、「エリートを批判して生活者を擁護する」この吉本的批判は、今なお力を持っている)。私たちはテロルの悲劇からも、吉本的なレトリックからも遠く離れて、いまいちど〈前衛〉アヴァンギャルドの方へ赴いていくことにしよう。

 私たちはこの〈前衛〉という語を用いることで、「アクチュアル」というあまりに多義的な言葉に、差異を導入したいと思う。〈前衛〉は、このイコールの上に逃走線=抹消線を引き(〈現実≠現在〉)、隊列を構成するための、もっとも「ニューウェイヴ」な、かつ、もっとも古い標語である(実際、歴史的に見て、批評はつねに、このある種の懐古趣味を披露してきた。批評が「幽霊」だとすれば、それは「再来霊ルヴェナン」なのである)。

 実際、私たちは、もはや〈現実≠現在〉すなわち「ポスト・フェストゥム」(「後の祭り・祭りの後」)を生きているのであり、生き生きとした〈現実=現在アクチュアル〉を生きてはいない。木村敏はこの「ポスト・フェストゥム」を、「躁鬱病」的心性だと述べた。実際、「現代人」は存在論的に鬱病である。終わってしまった現実を生きている現代人に、「現在」など存在しない(あるのは過去だけである)。過去の失敗の訂正不可能性を生き続ける人間にとって、さまざまな「アクチュアル」な学問や芸術や技術たちは、せいぜい対処療法くらいのものである。たとえば『ゲンロン4』で東浩紀はいみじくも「批評とは病」であると述べているが、私たちはここで東のまったき正しさを認めなくてはならないだろう。この「病」とはここでいう「鬱病」だからである(それは最近の東の様子を見てもあきらかだ)。ところで、批評は「患者」の増殖を目指すゲームだった。

 ちなみに、東浩紀が正しい点はもうひとつある。東が、近視眼的=非思想的なリベラルを批判し、「思想」とは長期的に耐えうるものでなければならないと述べるところである。前段までの事情で、私たちはこの東の指摘にまったく同意しなければならないだろう(ただし、東がそうした「愚痴」を言う際にカントやヘーゲルのような哲学を引き合いに出すのに対し、私たちはそこに「マルクスの亡霊たち」という〈前衛〉を見るのではあるが)。

 私たちは悲劇的なテロル=闘争を回避する、喜劇的「逃走」(「大失敗」)として〈前衛〉を標榜する——けれどもそのとき同時に、ある「知性」の持続を、継続的に運営することが可能な「党」の復権を目指さなければならないはずだ。〈前衛〉を標榜し、かつ持続させるために、私たちは批評的知性を信じよう。東のプロジェクトは、いかに「成功」しようとも、持続しえた試しがない。これは本質的な問題である。

 

 最後に、「大失敗」という、わざとらしく笑いを狙って場を白けさせているようなこの「名」について触れておこう。この名を人がどのように解するかについて、私たちは特に語ることがない。けれども確かなことは、この名前をつけた直後から(つまり私たちがまだ一冊も本を出していない段階で)いくつものリアクションがあったということである。あるときには、その名は神経を逆撫でする「逆説」として読み込まれ、あるときには何かのギャグとして、あるときにはかえって勇気づけるものとして(なぜか)読み込まれた。そしてこの言葉は、しばしば安易に用いられる。「日本は大失敗だ」、「私が大失敗だ」、「あいつらは大失敗だ」と。

 むろん、ただの名詞を何に用いようが自由である。誰であれ、この名を道具としてたやすく用いることができる。「『大失敗』こそ大失敗ではないか」と、誰でも思いつく皮肉もあったようだ。しかし確実なのは、ごく単純に、「大失敗」があまりに「広告的」な言葉であり、使用者の手に馴染んで、どのような対象に対しても用いられうるということである(ここに、ある凡庸な「手癖」がある)。この「広告」こそ、まさに反復される〈前衛〉だった。そのとき彼らは自由に話しているつもりで(「シラケつつ」)、実はその手元の広告的言辞の使いやすさに「ノって」、束縛されていたのではなかったか。

 

 私たちに必要なのは「生きた自由な言葉」なる、ブルジョワの玩具ではないし、私たちがそのようなものを持ちうるはずもない。ここにあるのは、『神曲』の如きカノンによって構成される「不自由な」言葉の敗走であり、陰に陽に永続し続ける階級社会に対する、「たたかうエクリチュール」である。


 

 

(文責 - 左藤青しげのかいり

 

『大失敗』創刊号は二〇一九年一月、京都文フリ(@みやこめっせ)にて発売。(出店:こ-38。入って奥の左側)

 

 本誌内容紹介

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