批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」な批評集団。https://twitter.com/daisippai19

「大失敗」十一月記事まとめ

(九月・十月の記事まとめはこちらです)

 平素より大変お世話になっております。批評集団「大失敗」の左藤青(@satodex)です。

 いよいよ寒くなってきましたね。実は『大失敗』第一号の原稿がだいたい出揃い、今編集作業に入っています。胃が痛いです。本誌の方の情報も、もう少ししたら解禁していきます。「アクチュアル」かどうかはわかりませんが、この平成の終わりに出るものとしてはきっと異色で面白いものになっているはずです。

 さて、十一月の記事まとめです。

10、資本主義的、革命的(後編)(11月9日)

daisippai.hatenablog.com

 ブログ立ち上げから十個目の記事です。前編と合わせて結構読まれた気がしますし、いまのところ僕の代表作みたいな扱いを受けていて、お褒めいただく機会も多かったです(ありがとうございます)。外山恒一の戦略ないし理論的射程を、「批評」的文脈と比較しつつ、言語化した例はそれほどなかったのではないかと思っています。

 まあ、書いていることはある種の読者にとってはだいたい「自明」ではあるのですが、「こんなの自明だよ」ということを、誰もやってないうちに言語化してしまうのも批評ですよね(というか、その「自明さ」は文章が書かれたあとから発覚する一種の錯覚だったりするわけです)。そういう錯覚、ないし「共同の場」を作ることができていれば幸いです。

 そしてこれは、個人的にはブログ記事の中で書くのに一番苦労したものでもあります。外山論と言いつつ東浩紀に関する記述が多いのも、そういう痕跡が見えますね。苦労の甲斐あって、とくに「我々」の問題、「共同性のない共同体」(これは実はバタイユジャン=リュック・ナンシーブランショといったフランスの思想家たちの主題でもある)についての箇所は自分で気に入っています。

 柄谷は近年、デモによって社会は「デモがある社会」に変わる、よってデモは社会を変えているという、ほとんど空虚なロジックを組み立てているわけですが(笑)、外山氏がやっているのは実はこれを派手に・面白くしたものなのではないか、と思うんです。

 もちろん彼は真面目に「ファシスト」でもあるわけだからそれだけではないと思いますが、少なくともパフォーマンスの次元では、柄谷ロジックの空虚さをラディカルに実践できるのは外山恒一だけでしょう。彼がいることによって社会は直接的には変わらないかもしれないけれど、少なくとも「運動がある社会に」は変わると、まあそういうことですよね(東の「批評」の場合も同じです)。それは結局、「人民」が持っている当たり前のような「リアリティ」を揺さぶることであり、異化を目指すということです。

 そんな感じの記事でした。結構中心的に使っている『批評空間』の「いま批評の場所はどこにあるのか」座談会は、現在の「批評」観(批評=思想)がどれほど偏ってるかを知るためにはかなり重要な座談会ですね。いま読んでる人間がどれほどいるのか知らないけど。 

11、絓秀実入門(前編)(11月16日)

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 しげのかいりによる絓秀実論です。しげのは絓氏の文章を兼ねてからよく読んでいて、僕は彼から長年「スガを読め」と言われてきた(笑)。やはり気合が入っているなと思います。

 絓秀実氏といえば「一九六八年」論で有名な批評家です。けれども、その射程を六八年五月に押し込めて、単なる全共闘経験者・左翼運動家のように捉えるのも少し違っていて、彼の六八年論はリテラルに運動を語りつつ、同じ枠内で、しかも一定以上の抽象度で表象文化(文学やら芸術やら)の話をするから「批評」として成り立っているわけで、その両義性というか、不可思議としかいえないバランスとダイナミズムが考えられるべきですよね。

 僕は密かに現在の状況を「絓秀実ルネサンス」だと思っているのですが、これは「小林秀雄の言葉は今なお生き生きとして我々の思考を捉えている」とか「吉本隆明(略)」とかいった、そういうおじいちゃん的言説ではなく、絓氏の批評の射程が今だに現代の問題に突き刺さっており、それが特に震災以後際立ってきたように感じるからですね。絓秀実の批評は誠実な「批判(critique)」として、単純に昔も今も有効であるのではないかと。

 これも、筒井康隆との論争(?)を扱ったことで結構読まれたようです。僕の東・外山論は一気に拡散されて読まれたような感じだったのですが、しげのかいりの記事はそういうインスタントに消費されるものというより、少しずつ拡散されて、じわじわと読者を獲得したような感じで、僕と彼の文章の性質の違いがわかって個人的には面白かった(まあ題材の違いも大きくありますけど)。しげのかいりは自衛隊でお国のために日々シバかれているため、中編以降がいつになるかわかりませんが、まあ気長にお待ちください。 

12・13、待ちぼうける陽水(前編11月23日、後編11月30日)

daisippai.hatenablog.com

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 左藤の井上陽水論です。割と記事が足りなくなり、かつて書いたものを急遽書き直したものです(もはや僕としげのの共同ブログみたいになっており、疲れてきたので「大失敗」は書き手を募集しています)。

 僕はフォークというジャンルはそれほど好きではないのですが、陽水に関しては割とよく聴きます。まあいまさら陽水論を誰が読むんだという感じで、これは本当にジワっとしか伸びなかったですが、毎回ビュー数を狙っていくサイトでもありません(そんなことをしても我々には一銭も入らない)。

 記事がかわいそうなので、せめても長々語っておきましょう。これは批評家・蓮實重彦の表層批評=テマティスム(小説や映画を、その物語や主題や「言いたいこと」といった「深層」ではなく、具体的な描写や作家の手癖から読み込む)を一回真似してみよう、と思って書いたものです。「踏切り」が何かの比喩(「都会」とか)ではなく、むしろそれは具体的な「境界のイメージ」なのだ、みたいな話がそれっぽいなと自分では思います。うまくできたかはわかりませんが。

 けれども、自戒を込めていうと、このテマティスム自体はわりと誰でも時間かければ真似できると思うのです。その上、何か巨大な謎を明らかにしたような気に(書き手も読み手も)させられるんで結構危ない手法でもあるんですよね。そもそも蓮實の文体そのものにも独特の快楽があって(ああいう文体を開発できるのが批評家だなと思います)あれも真似すれば書けるけど「書けるだけ」だけなんですよ。むしろ問題は、どういう「深層」を裏切ることができるかであって、手法自体はそれほどすごいことではありません。やたら流行っている業界もあるようですが。

 この場合は大澤真幸の『虚構の時代の果て』に一瞬だけ登場する陽水に関する解釈(竹田青嗣からの引用ですけど)がその「裏切る相手」だったわけで、途中で岡村靖幸みたいな全然関係ない名前も使いつつ、『虚構の時代の果て』が提出している図式自体に疑義を呈することができればいいと思いました。「虚構の時代」と「理想の時代」とかいうけど、両方結局都合よく「待ちぼうけ」てるだけのモラトリアムなんじゃないの? みたいな話です。

 そして、後編で書いたようにもちろんそれは「いま・ここ」の問題でもあって、我々はどれほど希望がなくても勝手に希望があるかのように、つまり何かの意味を「待ちぼうけ」ればなんとかなるかのように「お話」を作るわけですね。シンギュラリティとか。もちろん、人間は物語がないと生きていけないとも言えるのだけれども、一方で、例えばスラヴォイ・ジジェクが去年『絶望する勇気』という本を書いたけれど、あそこで言われていることは正しい指摘だと思っています。

ここで浮上するのは偽物の活動という概念である。要するに、人々は何かを変えるために活動するだけではない、人々は何かが起こるのを妨げるために、つまり何も変わらないようにするために行為することもできるのである。これはまさに強迫神経症の典型的な戦略である。〔…〕/〔…〕危険なのは受け身の姿勢ではなく、にせの積極性である。つまり、「積極的」でありたい、「関与」したい、事態の無意味さを糊塗したいという衝動である、人々はなんでも首を突っ込む、「何かをする」。〔…〕われわれは、今日の苦境に効果的に介入できるようになるために、一歩身を引いて思考する必要があるのだ。(スラヴォイ・ジジェク『絶望する勇気』)*1

 実は言っていることはごく当たり前の「理性的」で「知性的」な言説なんですが、日本にはほとんどこういう人は、とくにリベラルにはいないんじゃないですか。 柄谷でさえデモ行くんだから。

十一月まとめ

 そういえば、十一月の出来事として、第一号に寄稿を予定されていた永観堂雁琳氏が急遽辞められるということがあったようです。まあ我々いかんせん地味なので、彼のような「活動家」にはどうにも内向的なオタクの集団に見えてしまったのかもしれません。実際そうなんだけど。もちろん、理念は共有しているはずですから(?)これからも我々は(というか、僕は)雁琳氏の「批評」から遠く離れて、密かに応援しております。

 さて、そんな不人気批評集団「大失敗」ですから、皆様におかれましてはブログの「読者になる」ボタンを押していただくか、Twitter (@daisippai19) をフォローしていただければ大変励みになります。あと質問箱も始めましたので、ご利用ください。

 「大失敗」は本当に書き手を募集しております。本誌第一号の原稿は足りてるんですけど、ウェブ上で何か書きたい方、次号以降で書きたい方、「『批評』に飽きた」方はぜひTwitterのほうでDMください。ご相談だけでも結構です。

 

 『大失敗』Vol.1は一月二十二日に京都文フリで発売です。どうぞ皆様お買い求めください。

 それでは失礼いたします。

 

(文責 - 左藤青 @satodex

*1:スラヴォイ・ジジェク『絶望する勇気』中山徹訳、青土社、2018年。448、449頁。強調ジジェク