批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」な批評集団。https://twitter.com/daisippai19

待ちぼうける陽水——井上陽水『氷の世界』について(後編)

道は光ばかり
胸の影を誰が知る(平沢進 - 空転G)

※前編

daisippai.hatenablog.com

 

〈夜〉=執行猶予

 前編では、『氷の世界』が、常にある踏切=境界=「断絶」のイメージで貫かれていること、その彼岸と此岸のどっちつかずの緊張感において井上陽水は「待ちぼうけ」ていることを記述した。けれどもここからは、いささか例外的すなわち特権的な事項について述べておかなければならない。

 外を見つめながらも内に引きこもり続け、「断絶」を必要としながらその「断絶」の裂開を希求する、不在の他者だけをただ待ち続ける、そのようなひとつの「メシアニズム」がここにある。けれども、実は井上陽水は、この自身の欲望が全く不合理であることをどこかで理解している。つまり、いつまでも「待つ」ことが不可能だと知っている。それを確認するために、ここでは井上陽水の〈夜〉の性格について書いておく必要がある*1

夜が来た/華やかな/ドレスを着飾り夜が来た

きれいだな/ふるえそう/今夜は誰でも愛せそう井上陽水 - はじまり)

 ここで井上陽水は「今夜は誰でも愛せそう」という驚きを隠せない文言を口にしている。目の前に現れる他者は全て避け続けてきた井上陽水が、である。アルバムの(一曲目からシームレスにつながった)二曲目であり、40秒にも満たないこの楽曲において、そして全体の「はじまり」を告げるこの位相において、井上陽水はここまでに記述してきた図式、すなわち欲望と他者の二重性を全て破壊し、開き直ってあらゆる他者を肯定するかのように見える。

 一方で最後の楽曲である“おやすみ”を見てみよう。

あやとり糸は昔/切れたままなのに

想いつづけていれば/心がやすまる

もうすべて終わったのに/みんな/みんな終わったのに

 

偽り事の中で/君をたしかめて

泣いたり笑ったりが/今日も続いてる

もうすべて終わったのに/みんな/みんな終わったのに

 

深く眠ってしまおう/誰も起こすまい

あたたかそうな毛布で/体をつつもう

もうすべて終わったから/みんな/終わったから(井上陽水 - おやすみ) 

 ここでは、「今夜は誰でも愛せそう」(“はじまり”)と「想いつづけていれば/心がやすまる」(“おやすみ”)の対応関係に目を向けなければならない。

 すなわち、井上陽水は「はじまり」の躁状態(=祭りの前)で、〈夜〉の訪れを告げ(「夜が来た」)、その〈夜〉が終わる「おやすみ」の鬱状態(=祭りの後)において、「もうすべて終わったのに/みんな/みんな終わったのに/深く眠ってしまおう/誰も起こすまい」と述べているのである。

 〈夜〉は、一種の祝祭の空間であり時間なのだ。そこでだけ井上陽水は、あらゆる「断絶」=距離を排除し、「君をたしかめ」ることができる(もしかすると、『ツァラトゥストラ』のニーチェならば、全く逆に、この〈夜〉を「大いなる正午」と呼ぶかもしれない)。そして、「深く眠」ることは、その〈夜〉の終わり、〈夜〉の不可能性を表示するのである。

 もう一つの補助線を引こう。

思ったよりも夜霧は冷たく/二人の声もふるえていました

“僕は君を”と言いかけた時/街の灯が消えました

もう星は帰ろうとしている/帰れない二人を残して

 

街は静かに眠りを続けて/口ぐせの様な夢を見ている

結んだ手と手のぬくもりだけが/とてもたしかに見えたのに

もう夢は急がされている/帰れない二人を残して(“帰れない二人”)

 この詩において忌野清志郎井上陽水が述べる一種の「理想状態」は、またもや〈夜〉として表現される。あれほど他者との「断絶」を強調してきた井上陽水が、ここでは「帰れない二人」として容易に他者との共同を告知する。「“僕は君を”と言いかけ」、二人が直接コミュニケーションしようとしたその瞬間、「街の灯が消え」、〈夜〉が訪れる。〈夜〉は一つの「例外状態」なのである。

 「二人」(僕と君)はあくまで〈夜〉の間だけその理想を持つことができるのだ。けれども、その〈夜〉さえ、「急がされて」いる。“おやすみ”を見れば明らかなように、「偽り事」なのは、まさに〈夜〉そのものなのである。〈夜〉はつねに明けるし、一旦停止はあくまで一旦停止であり、完全な停止ではない(モラトリアム)。

 踏切りを前にした「待ちぼうけ」・滞留(祭りの前)、〈夜〉の祝祭時間・祝祭空間(祭りの最中)、そのどちらかに属している限り、井上陽水は、いつまでも終わることのない夢に安堵していることができる。けれども、実際には彼は、〈夜〉の「執行猶予性」を自覚してしまっていた。このことは井上陽水にとって絶望である。“氷の世界”のディストピアは、その執行猶予が嘘でしかないことに気づいてしまった、その絶望を表象する。

誰か指切りしようよ/僕と指切りしようよ
軽い嘘でもいいから/今日は一日はりつめた気持でいたい(井上陽水 - 氷の世界)

 ここで明らかになるのは、実は井上陽水は滞留に対しても、不在の他者に対しても、ひとつも心酔してはいないことである。“チエちゃん”も“小春おばさん”も、他のあらゆる「君」も、「偽り事の中」でしか愛することができない。けれども、全てが虚構であり、「もうすべて終わっ」ていたとしても、「想いつづけていれば/心がやすまる」のだ。

 井上陽水は、その安堵・その滞留がいつか解かれてしまうことを知っている。一旦停止が結局たんなる「一旦」停止であり、執行猶予が猶予に過ぎないことを知っている。井上陽水に残されたのは、できる限りその時間を「のばしてほしい」と、願うことだけである。

踏切りのむこうに恋人がいる/あたたかいごはんの匂いがする
ふきこぼれてもいいけど/食事の時間はのばしてほしい
ここはあかずの踏切り(井上陽水 - あかずの踏切り) 

 “おやすみ”はその井上陽水の醒めた告白である。「あかずの踏切り」はいつか開くだろう。遅延に遅延を重ねた挙句*2、麺が伸びきった中華そばのような気だるさとともに、井上陽水は最後、「深く眠」る(“おやすみ”)。ここに見えるのは、すべてを諦めた鬱病患者の姿である。"夢の中へ"(一九七三年、シングル)は、この文脈から遡行して捉えられるべきであろう。

探しものはなんですか?/まだまだ探す気ですか?

夢の中へ行ってみたいと思いませんか?(井上陽水 - 夢の中へ)

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▲ 一九八八年、日産・セフィーロのCMに「みなさん、お元気ですか?」と言いながら登場する井上陽水

四畳半と連合赤軍

連合赤軍とその悲劇を同時代的なものとして——つまり自分自身の問題として——引き受けざるをえなかった人々とは、世代的に言えば、主として、『団塊の世代』に属する人々である。団塊の世代とは、そこ(連合赤軍事件)までの人生が、ちょうど日本の『理想の時代』と重なっていた人々であると、言っても良いだろう。/団塊の世代に属する優れた思想家は、共通の課題をかかえているように見える。彼らの思想的課題の中核は〔…〕理想を否定しつつ、いかにしてなお理想を維持するか、といったほとんど解答不能な問いに集約させることができる(大澤真幸『増補 虚構の時代の果て』)*3

 『虚構の時代の果て』(一九九六)で大澤真幸はいみじくも上のように書いている。上の引用はこう続く。「そのような思想家の代表的な例の一人として、竹田青嗣を見ることができる。竹田の鮮烈な問題意識に満ちた井上陽水論はよく知られている」。

 周知のように、この時期の井上陽水のスタイル、そして同時代の同じく内向的な歌詞の内容を特徴とするフォーク・ソングは「四畳半フォーク」と呼ばれた(井上陽水をここに含むかどうかは定義によるだろうが、それはここで問題ではない)。彼らは、社会や政治よりも、自分の身の回りにしか興味がない若者たちと言われ、「シラケ世代」を代表していたと言われている。むろん、この七〇年代・八〇年代=全共闘以後が「シラケ」=「虚構の時代」であるという認識に反駁するには、外山恒一の卓越した記述を参照するだけでよい。 

 さておき、確かにここまでに見たように、井上陽水の歌詞は内向的である。前回も引用した通り、「都会では自殺する若者が増えている/今朝来た新聞に書いていた/けれども問題は今日の雨/傘がない」(“傘がない”、一九七二年)。ここでは、新聞に書かれている「社会」問題などよりも、「私」に傘がないという事柄の方がずっと「問題」なのである。

 しかし、ここで竹田と大澤が依拠するのはそのような井上陽水の像ではない。彼らが着目するのは“あこがれ”(『断絶』収録)である。

さびしい時は男がわかる/笑顔で隠す男の涙

男は一人旅するものだ/荒野をめざし旅するものだ

これが男の姿なら/私もついあこがれてしまう(井上陽水 - あこがれ)

 随分マッチョな歌詞だ。『断絶』は連合赤軍の年(一九七二年)に発売された1stである。大澤は、竹田の陽水論を次のように分析する。

陽水の場合には、同じ認識を共有しつつ、逆に自分の中の現実主義者としての側面を嚙みつぶし、(理想像のまさに「理想」としての対象性ではなく)理想へとあこがれる内的な欲望=志向性のみを保持しようとしたのだ。幻想に固執する理想主義者でもなく、しかし一切の理想に対して冷笑的なだけの現実主義者でもない、緊張にみちた中間的な立場を竹田は評価する。(大澤真幸『増補 虚構の時代の果て』)*4

 この記事を読んできた読者なら、この竹田=大澤の読解にすでに違和感を持ったかもしれない。我々は「あこがれ」る陽水などではなく、「待ちぼうけ」る陽水を読んだからである。もう少し我慢して、彼らの議論を参照しよう。

 一方で、竹田青嗣井上陽水を批判してもいる。大澤真幸は、それを彼の図式「理想の時代」と「虚構の時代」に当てはめることで、次のように述べる。

たとえば井上陽水は、一九七三年に発表した『夢の中へ』〔…〕において、次のように歌う。〔…〕『カバンの中も、つくえの中も、探したけれど見つからない』探しもの、『休む事も許されず、笑う事も止められて、はいつくばって はいつくばって』探さなければならない対象とは、『理想』であろう。〔…〕しかし、積極的な『理想』として探求することをやめたとき、見つかる何かとは、もはや理想ではなく、『夢』すなわち虚構である。竹田青嗣は、この曲を好まない。ここでは、『理想』から『虚構』への越境が完了してしまっているからである。(大澤真幸『増補 虚構の時代の果て』)*5

 大澤真幸社会学的分析は、戦後日本において、「理想の時代」がいかに形骸化し「虚構の時代」へと変わっていったのか、積極的な理想がいつのまにか、ありもしない「夢」への欲動へと変わっていったのか——そしてそれがいかにして地下鉄サリンへと繋がっていったのか——を、たしかに見事に暴露しているようである。その分析のうえでは、井上陽水(そして村上春樹)が「理想」と「虚構」の移行期に出現し、「理想」が「虚構」へと移動していった、その移行期を代表する作家として見られている。

 その分析は五頁にも満たないが、あえて取り上げてみよう。竹田=大澤によれば、ここで“あこがれ”は「理想」を示し(「これが男の姿なら/私もついあこがれてしまう」)、“夢の中へ”は「虚構」を示す(「夢の中へ行ってみたいと思いませんか?」)。ここで移行が完了したのである。ところで、私たちが読解してきた『氷の世界』はその移行の後の作品である。しかし、本当にそうだっただろうか。それは“あこがれ”(一九七二)から“夢の中へ”(一九七三)のたった一年で、いや、正確に言えばたった十ヶ月で変容したものだったのだろうか。

 そもそも井上陽水が「あこがれ」たのは本当に竹田=大澤のいう「理想」だったのか、検討する必要がある。「理想に埋没もせず、冷笑もせず、理想への志向だけが残っている」ような態度を井上陽水一度でもとったのだろうか?(この疑問から遡れば、こう問うこともできるだろう。そもそも「理想の時代」と「虚構の時代」は区別できるのだろうか。それは結局、どちらも単純に不在にすぎないわけだ)前回私はこう書いた。

 滞留は苦しみであるが、安堵でもある。この意味で、「僕は君を待ってる」のだが、ただし、井上陽水が待っているのはそのドアが開く寸前までである。ドアが開いた瞬間、井上陽水は一切の興味を失うであろう。井上陽水の眼前にはただ空席がある。その空席に座る人なら、「君」だろうが、「小春おばさん」だろうが、「チエちゃん」だろうが誰だって望ましいのだ。ただし、実際にそこに座らない限りで。

 理想とは訪れないものであり、訪れないものとは理想である。 

 つまり、井上陽水が「男らしさ」や「女らしさ」に「あこがれ」ているのは(「男は強く/すべてを悟り/女は弱く何かにすがり/正義の為に戦う男/無口でいつもほほえむ女/これが男と女なら/私もつい、あこがれてしまう」)、単純にそれらが虚構であり、不在であることの表明にすぎないのではないだろうか。

 また、積極的に読解してみれば、井上陽水はここで、戯画的な「男らしさ」や「女らしさ」を用意して、そのマッチョな理念の虚構性を皮肉っていると捉えることすら可能である。一言で言えば、これはパロディなのではないだろうか。ここでの理念は、「これが男と女なら」と、仮定法で語られている。事実上、それはどこまでも仮定=虚構にとどまるだろう。

 むろん、このように陽水が理想との距離を取っていることは竹田=大澤も認めている。けれども、彼らはそうした態度を「これだけでは、青春の喪失や挫折を自己哀惜したり、苦々しく語る定型に収まってしまう」*6として、ある種の「定型」へと追いやり、「第二の態度」=「理想像の挫折にもかかわらず、理想を憧憬する欲望・志向性を維持しようとする態度」の評価へと向かう。

 確かに、そのような「欲望・志向性」を否定することはできない。にしても、少なくとも『氷の世界』の井上陽水は、ここまでに見てきたように、初めからそれが嘘だとわかっている理念、〈夜〉が明ければ醒めてしまい、ウソだと気づいてしまう理念、すなわち虚構の理想を掲げているだけである。だから彼は、その執行猶予=モラトリアムのなかでは、どこまでも安心できるのだ。「理想に埋没もせず、冷笑もせず、理想への志向だけが残っている」のは、たんに「想いつづけていれば/心がやすまる」からにすぎない。

 それは「理想から虚構へ」という、この上なく単純で垂直な図式で計量することができるだろうか?

虚構の時代の果ての果て

 井上陽水はいつでも、たんに「心が休まる」ウソを思い描きたいだけである。井上陽水の歌詞が、単なるくだらないモラトリアムであることは、いうまでもない。ただし、そのとき同時に、井上陽水が実は持っていた、「理想と現実」の間の緊張とはまた別の緊張すなわち〈夜〉=「執行猶予性」の自覚に注意すべきである。例えばここに岡村靖幸を接続することもできる。

カタログ眺めるあの娘の瞳/まだ爛爛としている/oh my little girl

クレジットの領収書/もういい加減に7時からハイダウェイ

借金の返済日、今月の月水までさ

 

ぼくらがいつか大人になった時

こんなことしてちゃ/絶対戦争すりゃすぐ負けちゃうよ

かっこいいな/あれいいな/欲しがってばかりのBaby

かっこいいな/あれいいな

でも本当に大事なKissなら僕しか販売してない(岡村靖幸 - (E)na)

 地下鉄サリン事件の五年前、“(E)na”(一九九〇年)ではこう歌われていた。これに限らず岡村靖幸の歌詞は、高度経済成長期の若者たちのナルシシズムを痛快に表現する。しかしそれだけではなく岡村靖幸は同時にある種の不安も暴露するのだ。すなわちそれは、「借金の返済日、今月の月水までさ」であり、「こんなことしてちゃ/絶対戦争すりゃすぐ負けちゃうよ」である。ここで岡村靖幸が吐露するのは、成熟できないことへの不安であり、そのツケが回ってくることへの恐怖なのだ(ところで絶対に来るとわかっているものが来ることは、たとえばホラー映画の典型的な構成でもある)。

 ここで引き合いに出した岡村靖幸の歌詞は大澤が言うところの「虚構の時代の果て」に属すものであり、井上陽水“夢の中へ”の遠い縁戚に他ならない。確かに彼らが属しているのは虚構の世界であり、これを「アイロニカルな没入」(相対化しながらそれに没入する矛盾した態度)として読む点では大澤の分析は正しい。

 けれども、高度経済成長という子供じみた虚構の中で戯れ、流行りのファッションで身を固めてただセックスするだけの若者たちの心情を歌いながら、岡村靖幸はしかし、それが「虚構」であることを十分に理解し、不安を持っている。「借金の返済日」=戦争という現実がいつか到来することに汗ばんでいる。

 岡村靖幸井上陽水も「虚構の時代」においてすでに、それが虚構(=モラトリアム)であって、いつかは終わるものだという不安を常に持っている。それは「現実と理想」の緊張状態ではないかもしれないが、彼らは「虚構と現実」の緊張状態の中には常に属していたのである。 おそらく注目しなければならなかったのは、その臨界点であり、限界であり、切迫だったのではないか。

 最後に説教くさいことを書いて終わろう。虚構の時代の果てすら終わりそうな「平成の終わり」においては、この執行猶予性は消失しているのかもしれない。実際のところ、もはやそうした「夢」も「子供じみた虚構」も残されてはいない。〈夜〉などもうなく、「道は光ばかり」であるかのようだ。

 「想いつづけていれば/心がやすまる/もうすべて終わったのに/みんな/みんな終わったのに」は、「祭りの後(ポスト・フェストゥム*7)」という鬱病的心性を表示するわけだが、私たちはおそらく、本質的に躁鬱的な時代を生きている。鬱病患者であり、もう「待ち終わった」私たちにとってよりリアルなのは過去であり、現在はその取り返しのつかない大失敗(後の祭り)としてのみ位置を占めている。「ポスト現実」である。

 たぶん、現在目の前にある問題たちは、井上陽水が見ていたであろう五〇年前(一九六八年)の現実からほとんど変わっていない。けれども、そうした「理想の時代」の問題を問うことにはいまいちリアリティ(あるいは「アクチュアリティ」)がないと思われているようだ。このような状態においては、新しい〈夜〉、新しい「待ちぼうけ」を希求するよりも、昼にとどまりつつも、眩し過ぎて目が潰れるほどの陽光を考えるほうが得策なのかもしれない。

 現実そのものがどこかしら虚構じみていながらも、それ自体どこまでも強固になり、「別の現実」を想像すること自体が不可能になっている(資本主義リアリズム)。階級闘争も精神病理も身体的苦痛も何もかも、存在する問題をすべて「心がやすまる」技術革新で解決しようとする新しいメシアニズム、新しい「待ちぼうけ」としての加速主義が台頭するのは、そのような背景からである。むろん、どれほど心を休めていようが、私たちがいる場所は相変わらず「氷の世界」でしかない。

  

(文責 - 左藤 青

 

*1:ところで、本稿とは関係ないが、〈夜〉について鋭く批評したフランスの思想家に、モーリス・ブランショエマニュエル・レヴィナスを挙げることができる。いつか別の場所で、おそらくまったく別の仕方ではあるが、この〈夜〉についても考えてみたい。

*2:むろん、モラトリアムの語源は「遅れ mora」である。

*3:大澤真幸『増補 虚構の時代の果て』ちくま学芸文庫、二〇〇九年、五六頁。

*4:同上、五七頁。

*5:同上、六一、六二頁。

*6:同上、五七頁。

*7:木村敏の表現。これにある意味で対置されるものとして「祭りの前(アンテ・フェストゥム)」があり、それは分裂病的と言われる。