批評集団「大失敗」

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絓秀実入門(前編)差別意識とフォルマリズム

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▲映画『LEFT ALONE1』(2005)より、絓 秀実

作家神話の破壊としてのフォルマリズム

 SNSが広まり、誰もが「表現すること」の快楽を享受しうることが可能な現代において、言論の自由並びに、表現の自由はきわめて「民主的」な権利となっている。しかし金井美恵子がいうように「書くという権利は誰にでも平等にあるわけなんですけれど、書く資格というのは違う」わけであって、誰もが憲法の下に「書く権利」はいうまでもなく認められるが、それが即時的に批判を寄せ付けぬものになるわけではない。誰もが糾弾される可能性を孕んでいる。敢えて極論するなら、「書く権利」とは「言葉狩りされる権利」に他ならない。
 その点で、一見すると政治と文学の対立のように仮定される「言葉狩り」の問題は、本来的には文学と文学の対立である。言葉狩りによる「失語症」に陥った作家を単なる「権力の被害者」と想定することは許されない。

金井美恵子:〕それと、あれはなんと言うの、言葉狩りとかなんとか、すごく批判されたじゃないですか。何、あれ?いいじゃない、やってりゃ、と思うけど、言葉狩りなんて。それに筒井康隆が、何が一番馬鹿だなあと思ったかと言うと、言葉なんて小説家にとって、自由でもなんでもないでしょう。いかにそれが「自由」ではないということを意識しつづけるということが、エクリチュールじゃないですか。文学は絶対的な表現の自由の聖域であって、それがどうやって保証されているかと言えば、それは虚構だっていうのが、彼の考え方でしょう。文学なんて聖域なんかじゃありませんよ。(「不自由なエクリチュールとしての小説」、絓秀実・金井美恵子の対談)*1

 ここで金井美恵子が批判しているような、「言葉」が不自由である、という認識を欠いた作家たちは未だに大勢いる。特に筒井康隆のようなアイロニカルな作家ほど、「言論の自由」の名の下に自らの加害者意識を被害者意識に転化し、暴力性を隠蔽する工作をはかっている。そのような人間たちが自称したがるのが「炭鉱のカナリア」なる珍妙なメタファーだ。炭鉱のカナリアは、有毒ガスが発生した際、人間よりも先に察知して鳴き声(さえずり)を止める。「言論の自由」を振りかざす彼らは、そのようなものとして自らを規定しているのだろうが、実のところ、かのカナリアは自らが出している有毒ガスに対しては無頓着であり、鳴き声を止めることなく「言論の自由が脅かされている」とさえずり続けているのではないか。

 作家は「不可侵にして侵すべからず」存在ではない。しかしそれがかくのごとく天皇として「不可侵にして侵すべからず」存在に倒錯してしまう可能性は充分にある。かかる神聖化を拒否し、糾弾し破壊することこそ批評に要請されるものであろう。そしてそれは「言葉狩り」のことであることはいうまでもない。

優雅で感傷的な筒井康隆

 筒井康隆と絓秀実による論争は、高等学校国語教科書に採用された筒井康隆の小説『無人警察』の中に癲癇への差別的表現があることをてんかん協会が批判したところから端を発している。筒井はてんかん協会に対して、断筆宣言で応答。「直接的には日本の癲癇協会などの糾弾への抗議でもあるが、また、自由に小説が書けない状況や、及び、そうした社会の風潮を是認したり、見て見ぬふりをしたりする気配が多くの言論の媒体にまで見られる傾向に対しての抗議でもある」と筒井は説明している。
 この論争は現代では筒井康隆の「勝利」に終わったと認知されている場合が多い。しかしそれは全くの誤謬に他ならないのではないか。かかる歴史認識のもっとも批判されるべき点は、政治と文学の対立に立って筒井康隆を擁護する位置づけである。筒井康隆を文学の場におき、絓秀実を政治の場に置くという紋切り型的な見識は愚劣としか言いようのないものであろう。第一に、そうした「表現の自由」に対しては、前章で示したような「糾弾する自由」がある。そして第二に、何よりも絓秀実の立場(「言葉狩り」)が、まずもってフォルマリズムの立場であることが認識されるべきなのである。

 前章で金井美恵子を引いて主張したように「言葉」は不自由なものである。何ゆえ不自由なのか。それは作家の占有物ではないからである。言葉は作家の占有物ではないし、語り手の占有物ではない。言葉はコミュニケーションする段階で生じる共通認識であり、道具である。この言葉はあまりにも自明なものとして使われているために「使われる」ことに対して無自覚なものになっている場合が多い。この無自覚性を批判するのがフォルマリズムに他ならない。

 周知のようにフォルマリズムは形式が内実を規定することを主張した文学運動であって、フォルマリズムの立場では「何を指し示すか」よりも「どのように指し示されるか」の方が重要になる。言いかえれば上部構造の「本質的」な議論よりも、それを規定している下部構造の方が重要なものになるのだ。「言葉狩り」論者は自覚を問わず、常にフォルマリスティックになる。
 差別は日常生活の中で無意識に反復された身振りによって規定されるものである。日本の左翼運動を差別運動にパラダイムシフトさせた津村喬は、これを「スタイル」と呼んでいる。「スタイル」は「風」によって規定される。「学風」「社風」といったものだ。こうした諸々の「風」は、明示的かつ非明示的に、日常生活の運動を規定している。だからこそ差別論者の、あの「差別される方にも問題がある」「差別は不可避的なものだ」という愚劣な論理が要請されるのだ。差別が不可避的なもののように思われるのは、無意識に「風」の中へと自らを位置づけているからであって、形式としての「スタイル」に対する批判意識を欠いているからに他ならない。
 この身振りに関する闘争が言葉の次元に集約すると、それはフォルマリズムになるのであって、言葉狩りの運動とは本来的に文学の形式を変革する文学運動のはずだったのである。

 

 しかし事態を筒井康隆の「勝利」へと導いたのは、そもそもてんかん協会側に、政治的であるという自己認識があったからだ。

筒井によるてんかんの通俗イメージの流布は、教科書のみに限定して批判されるべき問題ではありません。てんかん協会は、協会が当初行なっていた「無人警察」所収の文庫・全集等の回収などというーこれ自体は全く誤ったー要求の不当さを「表現の自由」の側から糾弾されたことへの反作用として、問題を教科書に絞ったのでしょうが、これまた「芸術(文学)」という文化的イメージへの妥協にほかならない。(『「超」言葉狩り宣言』)

 絓秀実は筒井康隆が表現している通俗イメージ、すなわち無自覚に筒井康隆が共有しているであろう差別意識てんかん協会が批判しなかったことに疑問を呈している。つまりてんかん協会は筒井康隆の問題を無自覚な「通俗イメージ」にあるのではなく、その政治意識の低さによるものであると誤認したわけである。それは言葉の内実ではなく形式を問題にするフォルマリズム的な視座が、てんかん協会には決定的に欠如していることに起因する問題であろう。
 周知のように六〇年代に隆盛した新左翼のスローガンは「想像力が権力を取る」であった。しかしこのスローガンは正確には「想像力の権力を批判する」と言った方が正しいはずだ。なぜならば、新左翼とは旧左翼の資本主義との共犯関係と、並びに全体主義化していたスターリン主義への批判から出てきたものであるからだ。資本主義社会やファシズムを批判する旧左翼もまた、資本主義と同じ想像力しか持ち得ない。だからこそスターリン主義全体主義化してしまう。この問題意識があるからこそ、党による大衆の啓蒙を是とする前衛共産党神話を批判し、かかる前衛ではおさまりきらない「他者」の問題、差別問題を津村喬は提起できたのである。
 絓秀実の筒井康隆に対する批判も正しく「想像力への批判」である。そして言うまでもなく、想像力の批判は、フォルマリズム的な文学的「言葉狩り」の次元によって要請されるものでなければならない。 

ベンヤミン的な闘争へ

 かかるてんかん協会の誤認は結果として筒井康隆の“優雅”で“感傷的”な被差別意識(=差別意識)を温存させることになった。筒井康隆の通俗イメージは、無知によって構成されるだけではない。それはSF的想像力の「芸術的政治性」によって起因するものである。

 周知のように「芸術的政治」とはベンヤミンナチスを批判する際に用いた造語だが、これは政治的な判断でしかないものを、極めて美的に表現することで、あたかもそれが許されていると民衆を扇動させる方法論を指した言葉だ。例えば罪のないユダヤ人を虐殺しても、それを神話とトレースさせることで、勇猛果敢であるかのようにみせ、人々を賛同させるやり方のことである。これに対してベンヤミンは「政治的芸術」を対抗させる。政治的芸術とは、かかる芸術的政治の欺瞞を暴露させる方法であり、実体よりも美化された独裁者の錯誤と、そのような美意識のレトリックを批判する方法論を指す。
 この点で筒井康隆に対抗し、その通俗イメージを明るみに出した絓秀実の立場はベンヤミン的なものであろう。絓秀実=ベンヤミンは美のために批評することはない。なぜならそれはファシストの論理だからである。「美しい」からこそファシズムは民衆に許されているのだ。絓秀実=ベンヤミンは、美の判断基準であるクリティークを積極的に動員する。したがって彼らは必ずしも美しいものを擁護する批評家ではない。むしろ彼らは美しいものを批判するのだ。代わりに彼らが擁護するのは、かかる美の詐欺性を糾弾しうるユーモラスな批評精神である。
 筒井康隆的なSFのばあい、この美は「皮肉(イロニー)」として称揚される。皮肉は「炭鉱のカナリア」であるから、社会に対して超越的な立場に立てると考えている。しかし筒井康隆的なSFは再三言っているように超越的な立場でもなければ、ましてや「言論の自由」の名の下に再批判を封殺できるものではない。加害者でありながら被害者であることを自認し続ける筒井康隆は未だに「ファシスト」と評価するほかなく、我々は彼の作品を「言葉狩り」しなければならない。

中上健次から天皇制批判へ

 本稿は筒井康隆と絓秀実の論争を絓秀実の勝利であると書き続けてきた。これは『「超」言葉狩り宣言』の読解を通したものだが、この著作には絓秀実と金静美との対談が収録されている。この中で、金は部落解放運動が戦中の天皇ファシズムに加担したことを糾弾しているのだが、そこからさらに作家・中上健次天皇主義に対する疑問にまで話が及んでいる。
 ところが、絓秀実にとって中上健次はカノンとなりうる作家のはずである。中上は『日輪の翼』を象徴として、天皇に対してシンパシーを抱く発言を繰り返していた。ある意味で金のリゴリスティックな問題提起は中上をカノンにしていた絓秀実にも当てはまる問題であり、苛烈であると言うほかない。この金静美の批判から、絓秀実の天皇制に対する問題意識が始まったのではないだろうか。中編ではこの問題を扱いたい。

 

(中編に続く)

 

  

 

(文責 - しげのかいり

*1:絓秀実『「超」言葉狩り宣言』所収。太田出版、一九九四年