批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」な批評集団。https://twitter.com/daisippai19

待ちぼうける陽水——井上陽水『氷の世界』について(前編)

そうすると、避けがたい二重の不可能性のなかにいることになります。つまりそれは、決定することの不可能であると同時に、決定不可能なもののなかに留まることの不可能性でもあるのです(J.デリダ『滞留』)

美術館で会った人だろ/そうさあんた/まちがいないさ

なのにどうして街で会うと/いつも知らんぷり(P-MODEL - 美術館で会った人だろ)

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滞留

 『氷の世界』(一九七三年)の井上陽水滞留している。ここでの滞留とはある境界の上で滞り、留まることである。井上陽水はどっちつかずの場所で「待ちぼうけ」ているのだ。

 井上陽水の詩において、世界は動き続け、主体(「僕」)は動けない。井上陽水は、世界を部屋の窓から、ただ他人事として見ている。

窓の外ではリンゴ売り/声を枯らしてリンゴ売り

きっと誰かがふざけて

リンゴ売りの真似をしているだけなんだろう(井上陽水 - 氷の世界)

 アルバムの題と同じ名を持つこの詩において、つまり、アルバムという「全体」のなかの単なるひとつの構成要素でありながらその全体を代表し、中心を刻む権威を与えられたその位置において、すでに自己解題がなされているのである。“氷の世界”が表象=代理するものは、部屋の中、内部での滞留にほかならない。

 しかし、ここで真の意味で滞留しているのは、井上陽水の時間的/空間的な座標だけではない。実際のところ、決定の余地もまた同様に滞留したままである。だから井上陽水はリンゴ売りが本物なのか嘘なのか、「きっと」と疑うだけで決定できず、その手前でただ、滞留する。

 井上陽水は窓の外を見に行くことが(「運動」することが)できない。結果として、ここで世界は窓に遮蔽され間接的なもののまま滞留する(この「窓」についてはすぐのちに触れることになるだろう)。井上陽水は世界に追いつくことができない。部屋の中では、世界は、ただの書き割りの絵であり、風景でしかない。

 にもかかわらず、井上陽水はその場でただ安堵するわけではなく、「シラケ」続けているわけではない。井上陽水は外の世界につねに足をとられつづける。 

誰か指切りしようよ/僕と指切りしようよ

軽い嘘でもいいから/今日は一日はりつめた気持でいたい

小指が僕にからんで/動きが取れなくなれば

みんな笑ってくれるし/僕もそんなに悪い気はしないはずだよ(井上陽水 - 氷の世界)

 部屋の中では、距離も時間も世界から離れ、遅延していくのだが、ここには部屋の「外」を志向する欲望と、部屋から出たくないという「内」を志向する欲望の両義性がある。

 他者との関係(「指切り」)が仮に「軽い嘘」であったとしても、井上陽水はその関係への欲望を停止させることができない。なぜなら、そうしなければ「はりつめた気持」でいることが不可能だからである。ここで井上陽水が「はりつめた」と呼ぶものは、この内−外の二重性に潜む緊張である。井上陽水は引きこもっているが、その滞留はただの安住ではなく「滞り」なのだ。

 その意味で、より抽象的な意味で井上陽水が滞留しているのは、単なる内部だけではなくて、欲望と欲望の緊張関係の内部でもある。井上陽水は内にただ篭るだけでもなければ、外に出ていくわけでもなく、その間の緊張関係に滞留しているのだ。

 

 しかし、おそらく井上陽水は世界にも他者にも出会うことがないだろう。井上陽水は、他者を風景としてしか捉えることができないのだ。井上陽水が他者と出会いえない理由は明快である。それは井上陽水の滞留する地点が、世界から徹底して断絶した座標だからだ。井上陽水にとって私と世界、内部と外部は絶えず「断絶」されている。ひとまずこの断絶を言語化しなければ、氷の世界の両義性は理解されえないだろう。

電車/境界/断絶

 井上陽水の詩に、執拗なほど電車や踏切りといった表象が登場するのは、電車が「都会の象徴」として機能するからだと、とりあえずは素朴に言ってもよい。

 たとえば(『氷の世界』収録曲ではないが)“東へ西へ”では電車は次のようにして登場する。

電車は今日もスシヅメ/のびる線路が拍車をかける

満員いつも満員/床にたおれた老婆が笑う

お情け無用のお祭り電車に呼吸も止められ

身動きできずに夢見る旅路へ/だから

ガンバレみんなガンバレ/夢の電車は東へ西へ(井上陽水 - 東へ西へ)

 ここでの「満員電車」は明らかに、都会の喧騒に対する嫌悪感を表現している。ほとんど捨て鉢に歌われる「ガンバレ」は、現代社会に対する倦怠感や皮肉として読まれる。確かにこのように井上陽水の詩の表層には、都会、あるいは人工物全般に対するたやすい嫌悪感がはりついている。

 しかしそれはあくまで表面的なものにすぎない。なぜなら踏切りは、そして線路は、何よりまず、彼岸と此岸の境界であり、断絶だからである。

 井上陽水の詩は実際のところ都市批評としてはほとんど機能していない。それは都市に対する鋭い批評ではなく、ただ凡庸な嫌悪を表出するに留まっている。井上陽水の風景描写は、すべて内省に還元されるものでしかない。

 それは例えばファースト・アルバム収録の“傘がない”の歌詞などに露骨だが(「都会では自殺する若者が増えている/今朝来た新聞に書いていた/けれども問題は今日の雨/傘がない」)、『氷の世界』の中でもなお、より抽象度を高めたかたちで展開されている。「人を傷つけたいな/誰か傷つけたいな/だけどできない理由は/やっぱりただ自分が怖いだけなんだな」(“氷の世界”)。ここではもはや、傷つけるという形ですら、井上陽水は他者との関係をもたないのだ。

 

 だから、この時期の井上陽水の詩に頻出する電車、踏切、線路の表象は、そもそも単純に境界線のイメージであると言わなければならない。それは、内と外の「断絶」を、そしてさらに、その手前で留まり続ける「僕」を表現する。

踏切りのむこうに恋人がいる/あたたかいごはんの匂いがする

ふきこぼれてもいいけど/食事の時間はのばしてほしい

ここはあかずの踏切り

電車は行き先を隠していたが/僕には調べる余裕もない

子供は踏切りのむこうと/こっちでキャッチボールをしている

ここはあかずの踏切り

相変わらず僕は待っている/踏切りがあくのを待っている

極彩色の色どりで/次々と電車が駆け抜けてゆく

ここはあかずの踏切り(井上陽水 - あかずの踏切り)

 踏切りはある種の境界であり、断絶である。井上陽水のファースト・アルバムもまた『断絶』(一九七二)の名を共有しているわけだが、井上陽水はつねにその「断絶」のこちら側に滞留する。「踏切り」は「むこう」と「こっち」のはざまを裁断し、「僕」は「あかずの踏切り」に阻まれてしまう。同じく踏切りのイメージを共有する以下の詩では、それはさらに露骨となる。

ある日踏切りの向こうに君がいて/通り過ぎる汽車を待つ

遮断機があがり/振り向いた君は/もう大人の顔をしてるだろう

この腕を差し伸べて/その肩を抱きしめて

ありふれた幸せに/持ち込めればいいのだけれど

今日も一日が過ぎてゆく(井上陽水 - 白い一日) 

 ここで遮断機はただ空間を遮断しているだけではなく、時間の断絶(遅延)さえも生んでいる(「振り向いた君は/もう大人の顔をしてるだろう」)

 この詩が井上陽水ではなく小椋佳によって書かれたなどという周辺事情を超越し、“白い一日”は『氷の世界』を自己批評し、井上陽水の作家性の中心を暴露している。問題になるのはまさしく遮断機なのだ。「僕」はその遮断の向こうに直接触れられない。断絶の手前で、「この腕を差し伸べて/その肩を抱きしめて/ありふれた幸せに/持ち込めればいいのだけれど」、とただ願うだけだ。だから、ただ「今日も一日が過ぎてゆく」。

 「踏切りのむこう/こっち」、これが「窓の外/部屋の中」の対立関係とパラレルであることは言うまでもない。すなわち、“氷の世界”における「窓の外」は「むこう」であり、「部屋の中」は「こっち」である。その間を裁断する「窓」とは、「踏切り」であり、「境界」なのだ。井上陽水はこうして、他者/外部から断絶される。 

不在の他者/他者の不在

 ただし対照的なのは、“あかずの踏切り”や“白い一日”の「むこう」は触れられない「君」として特権化されているのにもかかわらず、“氷の世界”の「窓の外」の「リンゴ売り」はむしろディストピアのように描かれていることである。ここには二つの他者が存在しているように見える。

いつも僕は君を待ってる/早くドアを開けておくれ

僕の部屋に甘い臭い/僕にすこしわけておくれ

マジックパズルで遊ぼう/時を忘れて

楽しい夕べに/何かが待っているみたい

 

少しドアを開けてみたら/誰か「こんにちは」と言った

だけどそれは隣の住人/さようならとドアを閉めた

今夜の為に買ってた/花がしおれて

悲しい気持ちが/ますますセンチメンタルに(井上陽水 - 待ちぼうけ) 

 忌野清志郎との共作であるこの詩において明確なのは、同じ他者でも「君」と「誰か」の対立である。「僕は君を待って」いるが、しかしドアを実際に開けてみて、実際に出会えるのは「誰か」であり「隣の住人」である。その「誰か」に対して「僕」は「さようならとドアを閉め」る。

 「君」であろうが「誰か」であろうが、他者であることには変わりがない。にも関わらず、ここには当然のように明確な差異が横たわっている。ここにはいわば二つの他者があり、その両者には明確に非対称性がある。

 「僕」は外部から内部に他者が到来する瞬間をただ部屋で待っているのだ。ここでも井上陽水は「待ちぼうけ」ている。

 

 では井上陽水はどのような他者を待っているのか。「君」とは誰なのか。ここで迂回して、やや具体的な問題に取り組まなければならないだろう。それはすなわち固有名の問題である。先ほども挙げた通り井上陽水には都会に対するのっぺりとした嫌悪感があるが、それと対応するようにして、井上陽水には一種の田舎に対する郷愁がある。 

小春おばさんの家は/北風が通りすぎた

小さな田舎町/僕の大好きな/貸本屋のある田舎町

 

小春おばさん/逢いに行くよ/明日必ず/逢いに行くよ(井上陽水 - 小春おばさん) 

 ここで「小春おばさん」の固有名は、「田舎町」を単に表象している。ここでも井上陽水の都会/田舎は、たしかに単なるディストピアユートピアに対応してもいるが、“小春おばさん”はマイナー調のいささか大げさな曲調で歌い上げられ、そのEマイナーはむしろ「逢いに行くこと」の不可能性を示している。そして『氷の世界』にはもう一つ女性の固有名を冠せられた曲がある。

ひまわり模様の飛行機にのり/夏の日にあの娘は行ってしまった

誰にも「さよなら」言わないままで/誰にも見送られずに

ひとりで空へ/まぶしい空へ/消えてしまった

〔…〕

見知らぬ街から遠くの街へ/何かを見つけて戻ってくるの?

それともどこかに住みついたまま/帰ってこないつもりなの?

どうして君は/だまって海を/渡っていったの?

ひとりで空へ/まぶしい空へ/消えてしまったの?(“チエちゃん”)

 この固有名は、“小春おばさん”と対照的ながら同じ事態を指している。すなわち、「小春おばさん」は「僕」が去った後の田舎町におり、「チエちゃん」は「僕」の元から去っている。すなわちこの二つの固有名は共に不在という性格を共有している。二つの固有名が存在するのは、会いに行くことが不可能な「ここではないどこか」であり過去なのである。ここでは、都会/田舎という二項対立というよりも、むしろノスタルジーとでもいうべきものが井上陽水を支配している。

 ここでそろそろ気づかなければならないだろう。井上陽水が安堵して肯定できる他者は、そして理想とする他者は、目の前にいない他者である。井上陽水は、「不在の他者」にこそ惹かれている。目の前に現前する他者は、それは「隣の住人/さようならとドアを閉めた」という形で排除されてしまうからだ。

 しかし不在の他者という語には注意しなければならない。実際のところ、それは順序が逆なのだ。待ち望んでいる誰かが不在であるのではない。不在であるからこそ待ち望むのである。誰かがいない(他者の不在)ではなくいない誰か(不在の他者)なのだ。

 井上陽水が他者を理想化しえるのは、まさにその関係が遮断され、間接的なものに止まり、断絶の向こうにあるからに他ならない。理想的なものの到来を待っているのではなく、待っているものが理想になると言わなければならない。つまり井上陽水が滞留している部屋は、他者を待つ場であり、そして同時に、決して他者が訪れてはいけない場所なのである。

 不可能なものであるうちは強くそれを望むのに、実際達成されてみれば熱が冷めてしまうというようなことは、たとえば恋愛において身近にありうる。井上陽水がここで無意識のうちに表出している欲望は、それである。理想が理想たり得るのは、それが達成されえないからだ。「この腕を差し伸べて/その肩を抱きしめて/ありふれた幸せに/持ち込めればいいのだけれど」(“白い一日”)と言いつつ井上陽水が真の意味で恐怖しているのは、むしろ理想が達成されてしまうことのほうである。だから井上陽水は暗に、「あかずの踏切り」がいっこうにあかないままであることを欲望しているはずだ。外への欲望と内への欲望のズレは、単に、自らが醒めてしまうこと、すべてに「シラケ」てしまうこと、「はりつめた気持ち」が失われることを恐れているのである。

 しかし、滞留は苦しみであるが、安堵でもある。この意味で、「僕は君を待ってる」のだが、ただし、井上陽水が待っているのはそのドアが開く寸前までである。ドアが開いた瞬間、井上陽水は一切の興味を失うであろう。井上陽水の眼前にはただ空席がある。その空席に座る人なら、「君」だろうが、「小春おばさん」だろうが、「チエちゃん」だろうが誰だって望ましいのだ。ただし、実際にそこに座らない限りで。

 理想とは訪れないものであり、訪れないものとは理想である。

無自覚な転倒

遠くで暮すことが/二人によくないのはわかっていました

くもりガラスの/外は雨/私の気持ちは書けません

さみしさだけを手紙につめて/ふるさとに住むあなたに送る

あなたにとって見飽きた文字が/季節の中でうもれてしまう

あざやか色の春はかげろう/まぶしい夏の光は強く

秋風のあと雪が追いかけ/季節はめぐり/あなたを変える(井上陽水 - 心もよう) 

 けれども、井上陽水にはその転倒が自覚できない。井上陽水にとって不在は、表面上、直接的なコミュニケーションへの渇望と同一視されるのである。

 ここで手紙という間接的なコミュニケーションの中でさえ、井上陽水は自分(の感情)が直接他者のもとに晒されることを許せない。なぜなら、そこで井上陽水が書いたものは、「あなたにとって見飽きた文字」でしかなく、「季節の中でうもれてしまう」ものだからだ。井上陽水は、他者を風景に還元しながら、自らが風景となってしまうことを恐怖する。だから、「私の気持ちは書け」ない(しかし我々は、他者に風景化されるその暴力性を了承した上でしか、コミュニケーションなどできはしないのだが)。

 だから、井上陽水は「文字」という間接的な媒介を、矛盾した二つの意味で許すことができないことになる。①それが直接的なコミュニケーションではない(手紙は「遠くで暮らす」「さみしさ」を解消しない)。②それが直接的なコミュニケーションである(不在の他者の純粋な「不在性」を傷つけてしまうことになる)。窓の外のリンゴ売りに井上陽水が悪意を向けるのは、たとえその姿が見えなくても、「声を枯らした」その声が届いてしまうからなのだ。こうして井上陽水は『氷の世界』の中で、徹底して、他者とのコミュニケーションを避け続ける。井上陽水は事実上、断絶を望んでいる。

 不在であるからこそ他者を待ち望むことができる。にもかかわらず、一方でその間接性を排除しようとし、嫌悪し、直接的な他者の到来こそを待ってしまう。それが『氷の世界』の逆説なのである。

 井上陽水はつねに誰かに裏切られること・誰かに飽きてしまうことを恐れ、観念的でどこにもいない他者を「待ちぼうけ」る。そしてその待つという所作の「はりつめた気持ち」こそ、井上陽水が安堵していられる唯一の「四畳半」であり、モラトリアムなのだ。彼の楽曲はその限りで「四畳半フォーク」なのだ。

 

 しかし、『氷の世界』はこれだけではない。このアルバムには、じつはひとつの「例外状態」が存在している。後編ではこの「例外状態」と、大澤真幸『虚構の時代の果て』における井上陽水の取り扱い(連合赤軍の後の世代としての井上陽水)について論じる。

 

   

 

(後編に続く)

 

(文責 - 左藤 青