批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」な批評集団。https://twitter.com/daisippai19

【時評】人間の時代と「ポップ」なもの —『新潮45』のキャッチーさに抗して  

 あまりに人間的

何か新しいことをやらかさなきゃいけません。私のビジネスはひどく難しい。なぜって、人間の情に訴えるのが私の商売ですからね。そりゃ、人間の心を揺すぶることはまだいくらかはありますよ。ほんのいくらかはね。ところが、そういう手でも何度も使うともう効き目がなくなっちまうんです。こいつが困ったことだ〔…〕(『三文オペラ』第一幕冒頭)*1

 ご存知のように、「理念をかざす左翼と、人間の現実に寄り添う右翼」という対立項はもはや成立していない。その両者は、その中の極めて数少ない例外を除いて、ほとんど共存し、共犯関係にある。

 リベラル派に関していえば、「マイノリティ」や弱者の疎外を見出し、それに対する共感、さらに最悪な場合、同情によって動いているところがある。彼らは間違いなく、自他共に認めるヒューマニストたちである。そこでは、「進歩」とは「マイノリティに対する配慮がよりなされていくこと」と規定されている。

 一方で保守派、少なくとも「ネトウヨ」は、自分たちの現実がそうしたヒューマニスティックな「理念」と食い違うことを主張する。彼らにとっては「動物的」欲望・情念・他者との食い合い・経済といった「下部構造」こそが真理なのであり、「寛容」や「連帯」を強要するリベラルな言説は、真理を疎外し、抑圧するものでしかない。そこからさらに彼らの一部は、そうした疎外と抑圧を受けている自分たちこそが「弱者」なのだ、と宣言することもある。

 しかし実は、「動物的」欲望を起源として採用する際、「ネトウヨ」はその欲望こそを真の「人間の現実」として再創設しているにすぎない(ある意味「精神分析的」である)。だから彼らはリベラル派の失敗を見て、あざ笑うことができるのだ。その「笑い」の根底には、やはりリベラル派も単なる「人間」にすぎないという、その同質性=「現実」への安心がある。「やっぱり人間は所詮こういうものだ」という安堵である。

 だがこれは「理念と現実」の戦いや「進歩と保守」の戦いなどではなく、「人間」の定義の奪い合いにすぎない。お互いが、自分たちこそが「人間」の真の「現実」、しかも疎外され、抑圧された「弱者」の現実をよく知っていると主張し、それを回復しようとすること。それは疎外論への非政治的回帰でしかない。〈弱者〉探しゲームだ。こうした「ゲーム」に批評はない。(あるいは「政治」に見向きもしない批評家たち!)

 人間というものの同質性をより弱く設定した方が勝ちという状況において、2017年に話題になった、「平等に貧しくなろう」という上野千鶴子のコメントは、事実としても隠喩としても非常に批評的である。あれはリベラル的な言説の当然の帰結なのだ。まさしく「人間の時代」である(しかもそれは「動物の時代」ということでもある)。

新潮45』 のキャッチーさ

 ネット上の流通形式は(あるいは「資本主義は」と言ってもいいのかもしれないが)、発言の質にかかわらず、共感や反感を増幅する装置として、ひとつの「現実」を補強するものとして機能する。『新潮45』的な「炎上商法」は、そうしたシステムのなかでは当然発生するものである。それに共感する声も反抗する声も、「動物的」反応によって流通していくのだ。

 例えば、私は『新潮45』の小川の文章に対して映像で反論し、大いに拡散されているツイートを見かけた(彼がYouTuberなのかなんなのかは知らない)。その動画は沖縄の海で撮影されたもので、非常に「爽やか」な印象を与える。また、ドローンによる空撮が派手で「テレビ的」である。カメラワークやカット編集も緻密だった(視聴者の視線の誘導の巧みさ、また早いテンポの編集。ヒカキンの動画の豪華版、といえばわかるだろうか)。

 それは実際、映像作品としてよくできているが、その「見やすさ」こそがコマーシャリズムなのである。実際その反論している内容に特筆すべき点は何もない凡庸なもので、なんの新規性も異化効果もない。そのツイートないし動画が「正論」などと呼ばれ拡散されるのは、明らかに映像の力による。フォーマットの、伝達経路の、形式上の力によって、我々は共感させられるわけだ。

 『新潮45』が問題なのは、真剣に取るに値しないあのヘイト的主張内容ではなく、特定のセンシティヴな話題に言及して「炎上」すれば儲かるという端的な形式的事実の方だ。「文春」的なものが強いのは当たり前であり、「炎上しても廃刊・休刊までに至らないギリギリ」を攻めるデッドヒートがすでに始まっているのだ。

 

 こうした「キャッチーなもの」に無意識のうちに隷従してしまう態度は、まさに左翼によってこそ省みられなければならない(それが「理性」だからだ)。しかし、現行リベラル派はどこまでも「共感」ベースで動いているために、キャッチーさに加担している(=集団クレーマーになっている)。そういう意味では多くの評論家たちの『新潮45』休刊に対する「違和感」は適切と言える*2

 だから、リベラルのなかでも「理知的」な部類に入るとみなされる人間ですら、自民党やら冷笑主義者やらの「敵」の失態を見つけ出し、揶揄することが「止められない」のだ。彼らはその快楽を遮断できない。「あいつは他人を冷笑したのだからわれわれから冷笑されても仕方がない」と言い、自らがそうした冷笑主義者、あるいは「ネトウヨ」たちと同レベルの、低俗なリテラシーしか有していないことを自慢げに宣言する。日本は「右傾化」したのではなくたんに頭が悪くなったのだ。

 是非とも忌避しなければならないのは、「人間的なもの」と、それに対する動物的な反応である。おそらく、「人間的なもの」を相対化したうえで、それを成り立たせしめる構造へのまなざしを持たなければならない。

(ただし私はそれであらゆる「人間性」が割り切れる、あるいはこれからは割り切れるようになっていく、というSF的「実在論」に立つつもりもない。「人間」という名前は常に「余剰」あるいは「幽霊」のように我々につきまとうだろう)

ディス・イズ・ポップ

 ところで、上記のような現状で最も価値を貶められているのは、「ポップ」という概念であると私は思う。私は「キャッチー」なものを批判したが、「ポップ」はそれと異なる。私がここで「ポップ」と言いたいのは例えばアンディ・ウォーホル的なものなのだが、実際には私はXTCというバンドの“This Is Pop?”という曲を思い浮かべている。

 

XTC - This Is Pop? (1978) - YouTube

In a milk bar and feeling lost
Drinking sodas as cold as frost
Someone leans in my direction
Quizzing on my juke-box selection
What do you call that noise
That you put on?
This is pop, yeah, yeah
This is

〔…〕

「お前が選んだそのノイズ、なんて言うんだよ?」

「これがポップなんだよ、これが」

 初期にはニューウェイヴ・パンクを代表するバンドだったXTC。“This Is Pop?”は上に引用したように「ノイズ」を肯定し、これこそが「ポップ」だと宣言するような歌詞になっている。しかし、PVを見てみるとむしろ逆の意味も読み取れてしまう。

 見れば分かる通り、そのPVは大量生産される製品を皮肉るような内容になっている。アンディ・パートリッジがレコードをミッキーマウスの耳風に掲げるところなど、まさに「ニューウェイヴ」的な皮肉の精神が溢れているが、このPVは、音楽ももはやスーパーマーケットで売られる安物の肉と大して変わらない「既製品=ポップ」なのだ、と、つまりむしろ「ポップ」さを批判しているようにも読める。

 要するに、「ディス・イズ・ポップ」という言明は、「これこそがポップだ」と単に指示する意味としても取れるし、逆に「こんな(大量生産された)ものがいわゆる『ポップ』なのだ」という皮肉としても取れる。これはまさにウォーホルの「ポップ・アート」ともほぼ同じなのであって、この二重所属性が「ポップ」に必要なのである。「パロディ」と言ってもいい。それは人間的「共感」に終わることがない。没入したとたんにそれを突き放す。

 

 「ポップ」を目指すということは、実は我々の「動物的」な部分を認めるということである。もちろん、われわれは自分たちの動物性を完全に切り離し、完全に理性的に思考することはできない。流通に振り回され、暴力的な「リツイート」の海の中で生きていかざるをえないだろう。

 しかし、まさに情報は「暴力的」なのだから、それを利用しない手はない。「ノイズ」をポップなものとしてムリヤリ聞かせること。それでいてこの自分たちが発する「ノイズ」こそが真にポップであると、開き直って自らを肯定して演じること。「ポップ」は人間的共感・人間的反感をどこまでも異化・相対化していくだろう。

 私たちは喉元過ぎれば熱さを忘れるわけで、別に忘れてもよいが、忘れやすいことは覚えておかなくてはならない。たとえば、『ジョジョ』六部の「ジェイル・ハウス・ロック」(物事を三つまでしか記憶できなくさせるスタンド能力)戦を思い返してみよう。この闘いこそ、まさに我々が今置かれている状況なのである。

 

〔…〕ジェーコブ、お前はまだ勉強が足りんぞ。これからは君も苦労が多いぞ、ポリー。こういうクズ野郎どもをまともな人間に仕立てなきゃならんのだからなあ。一体お前らにゃわかってんのか、人間らしいやり方ってものが。(『三文オペラ』第一幕)*3

 

    

 

 

(文責:左藤青 @satodex

*1:ブレヒト三文オペラ』岩淵達治訳、岩波文庫、二〇〇六年、一四、一五頁。乞食たちのボス、ピーチャムの台詞。

*2:例えば、https://twitter.com/masayachiba/status/1044561780372959233

*3:ブレヒト、前掲書、四五、四六頁。ギャングのボス、メッキースの台詞。