批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」な批評集団。https://twitter.com/daisippai19

【時評】抽象化の悪と「想像力」のゆくえ ——磯﨑憲一郎による落合陽一・古市憲寿批判

Imagine there's no Heaven
It's easy if you try(Imagine / John Lennon

想像力の欠如?

 僕は小説家・磯﨑憲一郎を尊敬しているし、氏の作品が好きである。「批評」を標榜している割には、とりわけ小説の類をそんなに読めていない僕にとっては、端正で執拗なまでの具体的描写と、時には突飛な場面転換が持ち味の磯﨑の作品は数少ない愛読書である。

 ところで、Twitterでは、最近磯﨑憲一郎のある「文芸時評」がにわかに話題になっていた。 

 リンクの先を読んでもらえればおおよその事情はわかるであろう。磯﨑の時評は『文學界』一月号における落合陽一と古市憲寿の対談「『平成』が終わり、『魔法元年』が始まる」(これもweb上で読める)に対する批判になっているのだ。

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 この対談の内容は、全てを「テック」で解決し合理化していく、という落合の「芸風」からほとんど想像可能なものではある。この対談の中でとりわけ問題になったのは、終身医療をめぐる落合と古市の議論だ。古市は「お金はかかっているのは終末期医療、特に最後の一ヶ月」と前置きした上で、次のように言う。

古市 〔…〕だから、高齢者に「十年早く死んでくれ」と言うわけじゃなくて、「最後の一ヶ月の延命治療はやめませんか?」と提案すればいい。胃ろうを作ったり、ベッドでただ眠ったり、その一ヶ月は必要ないんじゃないですか、と。(落合・古市「『平成』が終わり、『魔法元年』が始まる」)

 人間の生命をコストカットという「合理化」のうちに収めるという点で、ショッキングなようにも見える一節だし、実際ここに怒る読者も少なくないだろう。それに対する磯﨑の批判は次のようなものだ。

この想像力の欠如! 余命一カ月と宣告された命を前にしたとき、更に生き延びてくれるかもしれない一%の可能性に賭けずにはいられないのが人間なのだという想像力と、加えて身体性の欠如に絶望する。そしてその当然の帰結として、対談後半で語られる二人の小説観も、「文体よりもプロットに惹かれる」と述べてしまっている通り、身体性を欠いた、単なる伝達手段以上のものではない。(磯﨑「文芸時評 作家の生き様」)

 ここで磯﨑憲一郎の指摘が興味深いのは、この落合・古市の態度を「身体性の欠如」として、そのまま文学に直結させている点である。文学における具体性=身体、つまり「文体」を見落とし、「想像力」を欠如した古市と落合の態度は、文学的ではなく、人間を抽象化に巻き込んでいく「悪」の所業に他ならないというわけだ。

 ちなみに対応箇所は次の通り。

古市 最近読んだ朝吹真理子さんの『TIMELESS』がそういう小説だった。言葉の一つ一つが端麗でみずみずしくて、ストーリーよりも言葉の美しさを追える素敵な小説。でも、僕は基本的には文体よりもプロットに惹かれる。(落合・古市「『平成』が終わり、『魔法元年』が始まる」)

 しかしこうしてみると、若干磯﨑による批判は強引なものなのがわかる。古市は「プロットに惹かれる」と述べる前に、それこそ具体的に朝吹真理子の小説を挙げ、しかもその文体を評価していた。だから、具体性を称揚する作家が、実はこのように古市の議論を「抽象化」することで批判しえている点は注目しておく必要がある。しかもそのように古市が「プロット」を好む理由は、藤子・F・不二雄の作品を通して次のように語られる。

古市 〔…〕そうやって世界の違うありようを見せてくれる作品が好きなんだよね。/現実世界においても、フィクションの想像力はすごく使われているなと思う。〔…〕/小説に比べると、いわゆる論文なんてここ数百年のもので、そこまで普遍性のあるフォーマットではない。でも、おそらく物語はホモ・サピエンスの歴史と同じぐらい昔からある。文字が残される前から、神話という形で物語が存在してきた。物語は評論より全然古くて、物語でしか伝わらないものがあっても不思議じゃない。(落合・古市「『平成』が終わり、『魔法元年』が始まる」)

  正直に言って僕自身、この対談を実際に読むまでは、こいつらの言っていることは磯﨑のいう通り具体性を欠いたものなのだろう、ぐらいに思っていた。しかし、読んでみると彼らの議論は(確かに素朴だが)別の意味合いを持って現れてきたのである。問題はほんとうに「想像力の欠如」だろうか?

 そもそも磯﨑は「想像力の欠如」を問題としている割に、この古市の「フィクションの想像力」という発言は読まなかったことにしている。古市にもなにかしらの「想像力」がある。重要なのは、この両者の「想像力」の差異を明確にすることだ。

 磯﨑にとっての「想像力」は、「更に生き延びてくれるかもしれない一%の可能性に賭けずにはいられないのが人間なのだという」、人間のリアリティに対する想像力である。磯﨑の「想像力」はリアルへと向いている。現実存在する「人間」であり、ここでは特に「老人」に向いている。

 しかし古市の「想像力」はあくまで虚構に向いており、非実在への想像力、物語の想像力である。フィクションの想像力は、むしろ現実を別の仕方で見せるものだ。それは磯﨑のいう「想像力」とは異なるものの、とはいえそれを一概に「想像力の欠如」と言うことはできない。古市によればそれは、つねに現実に影響を及ぼしてきたものでもある。

 「世界の違うありようを見せてくれる」想像力の必要性は、僕自身、哄笑批評宣言でも書いたし、一月二〇日に出る『大失敗』創刊号では、それを「《異化》としての批評」という形でテーマにしてある。しかし厄介なことは、ここで古市の虚構への想像力が、次の様に説明されていることである。

古市 〔…〕落合君の言う「魔法」は物語に近いところがある。昔の人にとっては、言葉を語ること、物語を語ることは、ファンタジーを見せることに近かったんじゃないかな。〔…〕今ここにないものを見せてくれるという意味では、文学と魔法はすごく近い位置にあるんだと思います。(落合・古市「『平成』が終わり、『魔法元年』が始まる」)

 ここでは、文学の「現実とは異なる姿を見せてくれる」という点が、古市の卓越した要約能力により、落合陽一の「魔法」すなわち、「テクノロジーの進化により我々の物の見方そのものが変わるので問題はなくなる論」(僕による大雑把な要約だ)に接合されているのである。

 しかし、ここで一つのことに気づかなくてはならない。つまり、磯﨑が「想像力の欠如」と罵った落合や古市の議論がそれ自体、むしろ、「いまだ−ない」ものへの過剰な想像力によって下支えされていることだ(落合なら、それを想像力ではなく可能な「未来予測」だというかもしれないが)。したがって問題は想像力の欠如どころか、むしろ想像力の過剰にあるのではないかというのが、僕の見立てである。

 「哄笑批評宣言」で、自殺したマーク・フィッシャーに倣って、僕は「いま・ここ」とは別の世界像を見せるものが批評(の一側面)だと書いた。ところが、その想像力は、実はある意味で、簡単に現状肯定に繋がってしまいうるものだ(実際、対談の中で落合は現政権をかなりベタに肯定している)。つまり「魔法」という別の現実がなんとかしてくれるんだから、理系の人らに色々任せて我々庶民はたんに待っていればいいという話になる。こうした加速主義の「魔法」が単なる気休めであることは、遠回しにではあるが、僕は井上陽水論でもすでに書いている。

目覚めよ、ニューアカしぐさから

 ところで、磯﨑の批判はほぼ古市に向けられていたが、同時多発的に? ツイッターでは落合陽一批判の流れがあった。その中で使われていた言葉に「ニューアカしぐさ」というものがある。

 なぜかこの落合批判とともに、その時代を生きた老人達のニューアカ批判がはじまった不思議の国ツイッターランドだが、相変わらずこの世界には、ソーカルを持ち出せばドゥルーズラカンを終わったことにできると思ったり、ニューアカとさえ言えば浅田彰中沢新一を批判できたと思ったりする「土人」(©︎浅田)が後をたたないので、そういう人たちにこそ「想像力」を身につけてほしいものだ。

 「ニューアカ」が「衒学」や「ファッション」なのはある意味間違っていないにしても、こういう認識に対して、「大失敗」はしげのの論考ですでに応答しているので、特に語ることはないだろう。また、この手の誤解に関しては

 こういったツイートを見るだけで済む話だ。

 ところで、僕が思うに問題の根本はこうした謎の「ニューアカ」批判が多くの場合、「成熟」ベースでものを捉えていることである。

 つまり森次の、あまり文章を読めたことのなさそうな(「天才画家」だから言葉などいらないのであろうが)ツイートを参照するさい見なければならないのは、「ああいう文を読んで『インテリってすごーい!』となる時期」や「無知な少年少女達を守りたい」という文言だ。ここに現れているのは、「衒学的な文章に惑わされていた時期」から「そこから目覚めて正しい現実を知った時期」の見事な分断であり、成熟の幻想である。

 特定の人々のあいだでは、この二つの時期は綺麗さっぱりと「境界画定」されている。自分はある段階を超えて——「ニューアカ」を乗り越え——「成長」してきたのであり、「無知な少年少女たち」を教え導く立場にあるのだ。ここには、ある「成熟」への自明視がある*1。つまり「俺たち昔は夢見てたけど現実知ってやめたよ(お前も現実を早く知りなさい)」なのである(ちなみにこの「現実」には「経済」や「科学」などの語が代入可能)。

 僕が想像してみるに、彼ら彼女らには、おそらくなんらかの苦い青春というか挫折、諦め、「黒歴史」があったのだろう。彼ら彼女らはそれを反省し、明日へ向かって日々の労働を始めたというわけだ。しかしそれは実は単に反動的なのであり、「この道しかない」というひとつの「現実」、ひとつの「成熟」を無批判に決定してしまっただけである(もちろん、浅田彰ならばそうした雑な「成熟」観を批判するはずだ)。こうした粗雑な「現実」主義/「現場」主義(=リアリズム・「資本主義リアリズム」)こそが、むしろ、おそらく「想像力が欠如した」状態に対応しているというべきだろう。

 落合や古市を「エセ学問」として冷笑したくなる気持ちはわからなくはない。しかし、多くの場合その手合いに限って、ベタなリアリズムに陥り、またしても「制度」に対し無批判的になってしまう。事実、多くの人々が、彼らが実際大学では大した業績を残していないことをあげつらい、その「不真面目さ」を指摘していたが、もちろんそうした優等生的な自意識が問題の本質を批評できるはずもない。

 そうしたリアリズム論者に比べれば、先ほどの古市の方がよほど豊かな想像力を持っている。というか「魔法」は多くの場合、このリアリズムに対してこそ強力な力を発揮するのであり、共犯関係ですらある。

 問題は、やはりそのように別の世界を見せる想像力が、「気休め」として機能してしまうことなのだ。リアリズム(想像力の欠如)にせよ「魔法」(想像力の過剰)にせよ、「現実」を批判=批評しえないのである。

 

抽象の悪から

 「現実」を《異化》しつつ、さりとていっときの気休めとしての「夢」を見せないためにどうすれば良いのだろう(ちなみに『大失敗』創刊号の赤井さんの論考がこの辺に深くつっこんで考えてます)。磯﨑ならばそこにおそらく文学の仕事を見るだろう。

今の時代に、具体性・身体性の積み上げである芸術=小説を書き、読むこともまた、「抽象化と数値化」に抗する一つの実践となるのではないだろうか?(磯﨑「作家の生き様」)

 ところで、ここで磯﨑が依拠しているのは、『新潮』一月号の東浩紀のエッセイ「悪と記念碑の問題」である。

ぼくはむかしから人間の悪に関心があった。それも、個人がなす悪ではなく、集団がなす悪、つまり、政治や組織の力によって媒介され増幅される悪に興味があった。(東「悪と記念碑の問題」)

 東が「悪」というものこそ、上の引用で磯﨑がいう「抽象化と数値化」である。我々一人一人、僕やあなたは「具体的」で、固有名を持つ、交換不可能な、かけがえのない個人である。ところが、例えば国家はそうした具体性を剥奪し、我々を数的に管理する。つまり質から量への転換を測るのだ。東はこれを、自身が小学五年生でたまたま読んだ森村誠一悪魔の飽食』から語る。

ぼくがそこで出会ったのは、いま振り返って名づけるとすれば、人間から固有名を剥奪し、単なる「素材」として「処理」する、抽象化と数値化の暴力である。(東「悪と記念碑の問題」)

 磯﨑がここで「具体性・身体性の積み上げである芸術=小説」を書くことを称揚するのは、この暴力への抵抗としてなのである。ところで東の話はこれで終わっていない。磯﨑が引用しつつ無視している通り、東はこの暴力を「知の源泉」として不可避のものと捉えているからである。

 東によれば、「人間から固有名を剥奪し、『素材』として『処理』することができなければ、ぼくたちは国家も作れないし資本主義も運営できない」。そして「人間は国家と資本主義のもとでしか人間たりえない」。それが本当なのかは前項の理由から留保をつけたいが、東がいう「逆説」とはこれなのだ。(「国家」や「資本主義」に限らず)抽象化と数値化の暴力は批判すべきものだが、同時に必須であり、我々はその暴力がなければ生きていくことができない。ちなみにこの逆説が、「暴力と形而上学」以来のデリダの「暴力」論から受け継がれているのは、デリダの読者には自明であろう。

 東はさらに、ロシアへの「観光」の記憶から、この逆説を展開する。東は、「ペルミ36」(ソ連時代の収容所跡)で見た「銃殺対象者」のリストと、ブトヴォの虐殺の記念碑を対比させ、それらが意味合いは全く違うものの、どちらも固有名の羅列であることから、「両者のリストはかぎりなく似ている」と直感する。つまり、一方ではそれは「犠牲者から人生を奪うために、すなわち固有名を剥奪するためにこそ」作成されたリストであり、もう一方で「犠牲者の家族たち」が「逆に彼らの人生を取り戻すためにこそ」利用するリストなのである。だから東はこう結論する。「抽象化と数値化の暴力は、一方で固有名を剥奪し、一方で固有名を回復させる」。

同じ精神が、銃殺と記念碑をともに可能にしている。抽象化と数値化の精神が。(東「悪と記念碑の問題」)

 しかも記念碑は(プラトンが「文字=エクリチュール」に対して指摘しているのと同じく)それ自体記憶のために建てられるにもかかわらず、しばしばそれが「建てられたこと」によって出来事を忘却させるものである。必要なのはこの想像力、つまり、具体性でも虚構でもなく、このジレンマを思考する想像力ではないのだろうか。この複雑さを磯﨑はどう読んだのだろう?

 「具体性・身体性の積み上げである芸術=小説」という、使い古された抽象的な定義が、実際のところ抽象化にどう抵抗しうるというのだろうか。おそらくそれも、たとえば書店で、図書館で、アマゾンで、抽象化され数値化され、単なる交換可能な番号としてアーカイヴ化されるのである。

 そしてアーカイヴ化されたことによってはじめて、つまり磯﨑言うところの「身体性を欠いた、単なる伝達手段」という媒介を通じることではじめて、人々は磯﨑の小説の「身体性」にアクセスできる。東の言説はそのレベルのきわめて「具体的な」問題にまで拡張できる。

 磯﨑は、文学と具体性の神話、その権力に対する外部性を素朴に信じている。もちろん、そのような試みはいままでもなされ続けてきたし、そして多くの場合「大失敗」し続けてきた。芸術への素朴な信頼は、度々「政治の美学化」へと帰着するだろう。芸術の具体性、すなわち素朴な「現前」をいくら信奉していたとしても、それは「表象=再現前」を介して、ここで言えば「悪」を介してしか、効力を発揮することはない。

 僕もそれなりには文学を信じたいのであるが、もしそれが力を持つとしたら、つねにそうした抽象性に抹消されてしまうものの、それでも「痕跡」としては残る「もの」としての文学、あるいは「ジャンク」としての芸術(©︎絓秀実)だけだろう。これが東のいう逆説から出発して具体性=身体性を思考することであり、「現実」を異化するにたる批評だといまは思っている。

 最後に、もう一度古市・落合の話題に戻しておこう。古市はその延命治療の問題に当たって、こう言っている。

古市 今の六〇代や七〇代は自分の親世代の介護ですごく苦労してるんだよね。そういう六十五歳の人は、定義上は高齢者ではあるけれど、もしかしたら安楽死には肯定的かもしれない。六十五歳以上を一緒くたに高齢者と捉えると、見誤ってしまうことが多い。〔…〕死にたいと思っている高齢者も多いかもしれない。この超高齢社会で安楽死や延命治療の議論は避けては通れないはず。(落合・古市「『平成』が終わり、『魔法元年』が始まる」)

  「更に生き延びてくれるかもしれない一%の可能性に賭けずにはいられないのが人間」だとするなら、「家族に迷惑をかけたくないからさっさと死にたい」と思うのも人間だし、「だらだら生き延びるくらいなら安楽死したい」と思うのも人間だろう。そして、介護に疲れて親を殺してしまう子も、一個の人間なのだ。長生きして欲しい気持ちと介護に疲れてやめたくなる(=早く死んで欲しいと思う)ことはおそらく普通に両立する。

 どのケースが人間の「具体的」現実かなど決定できるわけがないし、それが複数的で決定不可能であることが具体性なのではないだろうか。実際介護が大きな負担になっている家族はあるし、将来的に介護を不安に思っている若者も多いだろう。だから「この超高齢社会で安楽死や延命治療の議論は避けては通れない」と言う古市の指摘そのものは、普通に正しい。果たして、それでも生きたいのが人間であり、それが身体性なのだと言う磯﨑の実存主義的「想像力」はどれほどに「リアリティ」を言い当てたものなのだろうか?

 むろん、この後に続く落合の「終末期医療の延命治療を保険適用外にするだけで話が終わるような気もする」というネオリベきわまる発言に対しては、僕も磯﨑同様「この想像力の欠如!」と言わざるを得ないし、全く同意しない。結局この二人を批判するなら、「お前らは人間の現実を知らない」などという単なるマウンティング以上のクオリティで、彼らの前提そのものを批判しなければならないはずである。

 

 磯﨑憲一郎は、作家としては非常に具体的かつ細密な描写が得意な小説家であり、冒頭に書いたように僕は本当に氏を敬愛している。彼が「具体性・身体性の積み上げである芸術」としての小説を、矜持を持って書いていることも読めばわかる。

 しかし、僕は磯﨑の他の評論を読んだことがないから何も言えないが、彼はこのような「文芸時評」では、度々細かい具体的な論述を読み飛ばし=削ぎ落とし、抽象化をはかってしまう「悪癖」があるのかもしれない。落合と古市の対談が載っている『文學界』での新連載「日本蒙昧前史」も始まったことだから、しばらくは小説に専念していただくのがよいということなのだろう。

 

※ ちなみに東のエッセイが載った『新潮』一月号は、創作大特集と銘打って数多くの新連載をスタートさせている。表紙に書いてある文言は「読むことは、想像力」。またもや「想像力」である。この語はクリシェとして「文学」にまとわりついているようだ。想像力をたくましくさせるのはいいが、問題はその想像力をどう使うかであって、そろそろその使い道を考える時期である。

 

 

追記

二〇日に京都文フリ(@みやこめっせ)発売の『大失敗』創刊号についての紹介を載せておきます。創刊号では、批評家・絓秀実氏の論考「柳田国男戦後民主主義の神話」を収録。

さらには、『新潮』でも『文學界』でもなく『すばる』で、「すばるクリティーク賞」を獲った赤井浩太の文章も載っています(赤井は「大失敗」の運営の一人)。ツイッターも運営中。

daisippai.hatenablog.com

これまでのブログ記事まとめ。

daisippai.hatenablog.com

 

 

 

(文責 - 左藤 青

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*1:むろんこの「少年少女達」と「大人」の境界は「決定不可能」であろう(そう、これが「ニューアカしぐさ」です)。