批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」な批評集団。https://twitter.com/daisippai19

資本主義的、革命的(前編)—東浩紀の広告戦略について

 

新しい情報の提供があるわけでもなく、新しい価値判断があるわけでもない、ましてや学問的研究の積み重ねがあるわけでもない、なにか特定の題材を設定しては、それについてただひたすらに思考を展開し、そしてこれいった結論もなく終わる、奇妙に思弁的な散文(『ゲンロン4』33頁)

 東浩紀によって、「批評」とはこのように要約され、定義されている。東によれば批評とは日本における特異な現象であり、批評それ自体が考えるに値する。東の思索は、その批評の内容や対象というよりは、その批評という営為が生まれてくる現象そのものに向いている。

 東は「批評」という語自体を批評という営為の「可能性の中心」に据えるのだ。

 

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▲広告の例

 

歴史修正的

批評という病は、言い換えれば言葉と現実の乖離は、ねじれそのものが解消されなければ癒えることがない。そしてそのねじれはいまも変わらずに存在している(『ゲンロン4』33頁、強調引用者)

 こういう手法は、東浩紀の戦略としてオーソドックスなものである。彼の戦略は、「批評」であるとか「ポストモダン」であるとかいう、一般的に流布し、使われてきた語の定義を改造することによって、自らの思想を述べる点にある(デリダの「古名 paleonymie」の戦略に相当する)。

 そして実際彼の言葉とともに、「批評」や「ポストモダン」は全く豹変した意味を持ってしまい、まるではじめからそうであったかのような「遠近法」的な錯覚に読者は陥ることになる(たとえば彼を「ポストモダン」として批判する立場は、常にそのことに留意していなければならない)。

おそらく、デリダを研究している人であれば研究している人であるほど怒るでしょうが、僕はデリダ脱構築の理論は本質的には歴史修正主義の理論だと捉えています。歴史はいくらでも修正できる。というか、人間はいくらでも修正してしまう。人間とはそういう生き物で、言葉にはそういう性質がある〔…〕(「デッドレターとしての哲学」一二二、一二三頁)*1 

 東浩紀デリダの哲学を「歴史修正」の理論だと、思い切って言う。むろん、歴史修正だから悪だなどということをここで書きたいわけではない。哲学や批評と呼ばれる一定の思想運動は、本性的に「歴史修正的」であり、東はそれを自覚した書き手なのだ。これが『存在論的、郵便的』(以下『郵便本』と略記する)以来の東の「訂正可能性」にかかわる議論であることは言うまでもない。

暴力的

 したがって、私たちは『動物化するポストモダン』や『観光客の哲学』だけではなく、それを準備するかのようにして書かれていた『郵便的不安たち』や『現代日本の批評』や『ゲンロン4』巻頭言の短い文章を含めて、彼の主著とか「代表作」と呼ぶ必要がある。彼の「批評」=歴史修正はそこからすでに始まっているからだ。そうした前準備こそが、彼の本を理論的にも実践的にも支えているのだ。

 少なくとも「批評」に関わる東浩紀の文章は、ほぼ間違いなく①コンテクストを独自の仕方で圧縮し、その独特の状況認識/歴史認識を示すこと(批評に対する批評)、②それに対する応答を特異な場所に接続しながらキャッチーな言葉で示すこと(誤配)、という手順で書かれている。

 後者、すなわち誤配に関してはわかりやすいだろう。東浩紀はいつでも、彼がそれまで属していた領域からずれていこうとする。「オタクから見た日本社会」も「観光客の哲学」も、それまでと全く異なるように見える領域に「接ぎ木」する意志が明確に現れたサブタイトルである。もちろん、ここで問題なのは議論の内容ではない。文体であり語の選択が重要なのだ。「誤配」的文体は、「『遠いところ』にいる観客」であり「批評という病=ゲームを鑑賞し、その成否を判断する『観客』の共同体」を目指す。

 しかし、しばしば見落とされているのだが、東がその手際を最も発揮しているのは、実は①においてなのだ。自分に至るまでの「批評史」を暴力的なまでの手際で「要約」=「歴史修正」し、問題領域を確定するという段階にこそ、東浩紀の鋭利さがある。

 暴力的な要約能力。東浩紀の読者であればそれも皮膚感覚としては理解できるはずだ、東はこの戦略をひとつの文章のなかでも多用している。東が用いる「言い換えれば」や「すなわち」という接続語は、実は「言い換え」でもなんでもないものを接続している。この跳躍を自然なものに錯覚させ、読み手を「ドライヴさせ」るのが、彼の文章の特徴である。東浩紀の業績を一言でまとめれば、この文体を開発したことに尽きる。

 『郵便本』前後においては、東自身、こうした文体にまつわる問題系に対する異様なこだわりを見せていた。この時期の東は柄谷や蓮實の文体を分析したり、国語学者時枝誠記の仕事に着目したり、今から見れば非常にマニアックな問題に取り組んでいる。『郵便本』はジャック・デリダの文体の変化をある理論的な必然性において読み解くという、特異な問題意識から書かれている(「存在論脱構築」から「郵便的脱構築」への変異)。

柄谷文体と蓮實文体は、一時期よく言われていたように対照的なものには思えないんですね。実際は彼らの批評文はともに、使い方は違うけれど、「辞」の力に非常に頼っている。辞の力とは、今日の講演で言えば、パフォーマティヴな力です。しかしぼくは、もうそれには頼れないと考えています。かわりにぼくは、コンスタティヴな詞だけが、辞の支えも象徴界の配達もなしに、ただヒュンヒュンと発送されていくようなテクストを夢見ているのです。(『郵便的不安たちβ』、一〇二頁)

広告的

 この意味では、東浩紀の作風は『郵便本』と『郵便的不安たち』ですでに完成しており、『動ポモ』も『一般意志』も『ゲンロン0』もその実践編=応用編に過ぎないとすら言えるだろう。要するに、注意しなければならないのは、「批評」は、それ自体が東が用いるひとつの独特な用語であるということだ。

 例えば、哲学の歴史もまた、往々にしてある言葉、ある「用語(ターム)」に特殊な意味を付与し、特権化することで世界を説明してきた。「コギト」、「超越的/超越論的」、「ノエシスノエマ」、「存在論的差異」……云々である。東は初期の短い論考のなかで、しきりにこうした「大文字のキーワード」の必要性を主張している。東浩紀は、「批評」という語をそのキーワードとして、キャッチーな言葉として採用している批評家なのである。

 この東の戦略の強さは、仮に東浩紀を批判したとしても、その「用語」は変わらず使われていく点にある。哲学の歴史もそうであったように、そのシニフィアンにまつわる議論を重ねるほど、「データーベース消費」とか「セカイ系」とかいった用語の強度は、その適切さとは別に増していくことになるだろう。文脈を離れ、記号の集積として機能する「キャラ」のように。

 だから一言で言って、東浩紀は広告的である。彼が経営者としても手腕を持っているのは、彼が徹底的に広告的だからだ。広告を批判したところで、ただ広告を広めるだけであまり意味がない。東浩紀にキレる「オタク」は、広告に性の非対称性を見出す人種と似通ってくる(ここで、そうしたクレームが「適切」かどうかは本質的問題ではない)。もっとも、こうした「オタク」こそが東にとってよき読者でありよき顧客だったのだが。

独占的

 誤配は哲学的な意味を付与されているが、むろん、現実的な売上の問題でもある。東浩紀という批評家は、浅田彰=広告と柄谷行人=思弁のハイブリッドである。そういう意味で東浩紀は正しくニューアカデミズムの(『批評空間』の)後継者なのだ。

 誤配は資本主義下の「広告」の流通の中では最強である。それが佐々木敦評するところの「東浩紀一人勝ち」を生み出した。東はあらゆる語を「広告」として、流通性のあるものとして扱っている。東のテキストは、広告的な断片の寄せ集めである。

 この広告によって、読者すなわち観客すなわち顧客は〈どうやら「批評」というものがあって、それをやっている東浩紀は「批評家」で、それを読むと違った世界を見られるらしい〉と思い込んだり、あるいは〈これだからポストモダンはダメだ。俺たちの本当のセカイ系はこんなものではない〉と憤慨させられたりする。「あなたもまた『観光客』である」とは「あなたもまた(ゲンロンの)『顧客』である」と同義であり、この憤慨する読者はクレームを飛ばしてはいるが、同じく一人の消費者である。

 この思弁的マーケティングを、東浩紀は絶え間なく続けてきた。東浩紀がいち早く起業したのも、彼のこの嗅覚の鋭さによるのではないか。全てが資本のゲームと化し、知的な営みはせいぜい「大学」に任せればよい、専門性のない衒学的な議論はすべきではない、となれば、批評だの文学は、もはや「売れない商品」であり「不良債権」としてしか存在しえなくなってしまう*2。ならば、批評家とはそもそも批評が売れる構造を作る立場でなければならない。そのことに東浩紀以外に気づいていたのは、注で挙げた大塚英志くらいではないだろうか。

 その帰結が東の「一人勝ち」状態である。これは大企業による「独占」に似ている。東浩紀一人が本社の社長で、あとは「フリーター」、せいぜい「下請け業者」である。いくら下請け業者が五反田の社長に文句を言おうが、構図は変わらない。

資本主義的、革命的

 こうして「あっちもこっちもコピーだらけ」の批評市場が出来上がってしまった。しかし実は、私はこうした状況に対して、東の批評は欺瞞である、と言うつもりはない。とはいえ、東浩紀と同等かそれ以上の力を持つために、批評家は今すぐ起業せよという「意識の高い」ことを言うつもりもない。 

 いや、事実上、まさに東浩紀こそ「賢くチャレンジングな生き方」をしているのだが、このツイートの危機感に関しては権利上正しいだろう。この状況下で「批評」を別の形で成り立たせるには、おそらく別のアイディアが、「別の普遍性」が必要なのではないかという気がする。

 いまのところやり方は、大まかに言って二つあるのではないか。

①「資本家」

 この構造に順応しつつ、さらに「売れる」構造を思考し、そこにおいて文学や批評を存続させる「資本家」。「商業主義に屈しないために売る」というコンセプトは、ここでは矛盾ではない。資本主義それ自体が乗り越えられず、しかもそこで人文書というマイナーなジャンルでサヴァイヴしていくとなれば、批評家は資本家になるしかない。彼らは、徹頭徹尾タコツボを破壊しつつ、観客を育て、自分たちを売り込み続けなければならないのだ。この路線において、東浩紀は商売上のライバルであるが、ときには良い「取引先」にもなる。

 ただし、この路線で行く場合、流行をなんとか追い、その都度の読者を満足させるコンテンツを発し続けるだけの「自転車操業」になってしまう危険性もある(『ユリイカ』とか)。

②「革命家」

 そうした「資本」主義に対抗して、それ以上に自らの批評の普遍性を打ち出すことのできる「革命家」。こちらも多少なりとも売れなければ=知られなければ意味がないわけだが、それは手段にすぎない。しかしここでは、「観客」を育てるのは主たる目的ではない。革命家は、観客を育てるのではなくオルグする。言い換えれば、観客を無理やり当事者に変えてしまう。観客の育成は、当事者=優秀な党員を確保するためである。こちらは、むしろ、セクトを作ること、党派を作ること、タコツボを増殖させつつ拡大することが重要である。

 

 あくまで図式的な言い方だ。むろん、この二つは完全に相反するものではなく、両面を持つことは可能だし、そういう人間は存在する(おそらくそれが「知識人」と呼ばれる立場である)。そして、実際には、第三の選択肢として、学術誌と批評誌の中間のような位置を取りつつ、研究者という安定した「読者=観客」に売っていく、という戦術が存在する(これは、「結果として学者に読まれる」こととは異なる)。ただ、私にとってそういう戦略はアカデミズムの縮小再生産にしか見えない。この場合「横断」は「学際的」の言い換えでしかないのではないか。

 話が逸れた。東浩紀は、やはりどうあがいても「資本家」であろう。では、後者すなわち「革命家」にあたる人物は誰か。何人か想像できる。しかし、実は東浩紀と近い仕方で、しかしそれでいてまったく「東浩紀的ではないもの」を作り出している知識人が、日本にもう一人存在するように思うのだ。

 彼は東浩紀と一歳差で、ほとんど同年代であるが、東と全く違う文脈から言葉を発している。東ほどに覇権を握っているわけではないが、「マニアック」な人物ではない。それなりに知名度と話題性を持っているし、しかもそれは年々増してきている。

 

 それは誰か。もちろん、「反体制知識人」外山恒一にほかならない。

 

(後編に続く)

 

 ※後編書きました

daisippai.hatenablog.com

 

  

 

▲書いている途中で決まったイベント。これが決まったから書いたわけではない…

 

(文責  -  左藤 青

*1:現代思想デリダ特集号所収。二〇一四年。

*2:ここには大塚英志の影響を見る必要もあるかもしれない。ゼロ年代初頭の大塚と笙野頼子の論争について、不良債権としての「文学」 | 文学フリマを参照。以下、関係しそうな部分を抜粋しておく。「コミケ的なイベントに「文学」〔が〕学ぶことがあるとすれば、それが既存の版元以外の場所から新人が世に出ることを可能にしたという点、是非はともかく「同人誌で食っていける」という状況を生んだ点です。〔…〕プロになった者たちがコミケに戻っていくという現象もこのイベントの集客能力を支えています。それは例えば松本徹氏の時評で扱われる無数の同人誌に混じって柄谷行人氏が「トランスクリティーク」を手売りし、その隣で吉本隆明氏が「試行」バックナンバーを叩き売りし、あるいは高橋源一郎氏が「官能小説家無修版」(なんてあるのかどうかも知りませんが)をこそこそ売っているような「場」です。そのような「場」を「文学」が用意できず「まんが」が用意できたのは、はたして「まんが」の市場が巨大だったからだけなのでしょうか。それはやはりそのジャンルそのものの「生き残る意志」の問題のような気もするのです。/〔…〕必要なのはそういった議論を「仮想敵」を立てることで回避せず、きっちりと行い、実行に移すことで「文学」が自らの生き延びる手段を模索することではありませんか。/繰り返しますが、ぼくは「経済的自立」に「文学」の全ての価値があると言っているのではありません。しかし大西巨人氏のように黙々とHPに「文学」を無償で発信していく覚悟がないなら、現実的に「文学」や「文学者」を存続せしめる具体的な悪あがき一つせずに「文壇」で「文学」を秘儀のまま存続させるのは不可能だと言っているだけです」。