批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」な批評集団。https://twitter.com/daisippai19

「大失敗」九月・十月記事まとめ

 平素より大変お世話になっております。批評集団「大失敗」の左藤青(@satodex)です。

 早いもので、「大失敗」立ち上げから一ヶ月以上が立ちました。

 はじめはブログを作るつもりなどなく、宣伝する意識も薄かったのですが、一言で言うと成り行きでことが運び、基本的に週にひとつのペースで記事が上げるという勤勉なスタイルを継続できております。

 むろん、そうした受験勉強めいた勤勉さにも少しの休息が必要なものでしょう。今週は、これまでに書いてきた記事のまとめとしたいと思います。このまとめは一ヶ月程度に一度作っていくつもりです。

1、「哄笑批評宣言」(9月27日)

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 立ち上げに当たって「批評宣言」を書いたものです。マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』をダシに使って色々語っております。

「横断」(あるいは「誤配」)は常に事後的にのみ見出される。しかし、「資本主義リアリズム」はその事後的な可能性を、「いまだない」という外部をどこまでも消去していくことになるだろう。この不可能性を私たちは「大失敗」と呼ぼう。

 現代批評において、もはやクリシェのように繰り返される「横断」や、「誤配」(©︎東浩紀)というものが、「批評」なる営為の可能性の中心であることは認めつつも、一旦それにゴネてみる、というのがこの文章の趣旨です。

 その辺にいる、映画とか音楽とか好きな、適当なサブカルプチブル大学生(私のことではない)にとっては、そりゃ「横断」とかは素晴らしいことなのですが、批評ってそれだけだったっけ、と。〈僕たち〉の批評はまあ、いいけど、それだけではないということです。

 『大失敗』Vol.1は一月二十二日に京都文フリで発売します。郵送なども予定していますので、どうぞ皆様お買い求めください。上記記事にメンバー紹介もくっついてるので、とりあえず読んでいただければ幸いです。

2、【時評】人間の時代と「ポップ」なもの(9月29日)

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 なんとなく時評とかを書いたほうがウケるかなという安直な考えで書いたものです。いちおう連載しているのですが、本当に書くべきことのない、くだらない論争ばかりが日々生じていますので、よっぽど気が向くまで次回は書かないと思います。

 しかし『新潮45』に関しては、一応これから雑誌を作る身として触れておこうと思いました。

 現代はとりわけマイノリティの話にはやたらと過敏です。そしてその過敏さ自体はある意味完全に真っ当で、小川榮太郎に怒る人が出てくるのは当然です。しかし、いわばその「反応速度」こそ、週刊誌的なゴシップと全く共犯関係なのであって、要するに反応すればするほどゴシップ的なものの影響力と価値は相対的に上がっていくということです。

 これはのちに書いた東浩紀論にも通底しますが、私は基本的に、広告に声をあげて怒るのは広告を広めるだけでなんの意味もないと思っています。

 あと、一応付け加えておくと、この件について高橋源一郎さんが記事を書かれましたが、少なくとも「批評」としては適当なことしか書かれておりません。こういうものを「ポップ」というのではありません。

3、遠近法と声の抵抗(10月5日) 

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 十月頭の記事です。私は七〇年代〜八〇年代のニューウェイヴの時代の音楽が好きなのですが、P-MODELというのは、日本を代表するニューウェイヴ・バンドです。これは『ベルセルク』や『パプリカ』の音楽などで一般に知られている平沢進さんがかつてやっていたバンドでもあります。そのP-MODELの中でももっとも暗く実験的なアルバムを批評したものとなっています。

 平沢進のリスナー(「馬の骨」とか呼ばれています)というのはけっこう多いので、その辺を狙って書いた記事です。私は平沢進の歌詞が難解だと思ったことは一度もないのですが、リスナーたちのあいだでは考察の対象となっているようです。

 しかし、そもそも音楽のリスナーって基本批評的なものからすごく遠く(それはもちろん、聞き手のせいではなく、音楽批評にろくなものがないからなんですけど)、ジャンルの抱えている問題があるのかもしれません。

 4、【書評】外山恒一全共闘以後』(10月6日)

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 赤井さんは以前から私やしげのかいり(@hahaha8201)と親交があったのですが、今回の「大失敗」旗揚げに際してもっとも早くレスポンスをいただきました。是非とも『大失敗』で書きたい、と言っていただけたので、とりあえずは書評を書いてもらったという経緯です。この書評は外山さんご本人にも反応いただき、ブログでも紹介されました。

 私たち「大失敗」は、批評の(再)政治化、をテーマの一つとして持っています。そんな中、外山恒一東浩紀の「非政治的」批評史観にほぼ唯一批判的に反応している知識人だったわけです。『全共闘以後』もそういうコンセプトですね。

 私たちには東浩紀外山恒一によって現在の批評状況を見る(そしてそこから遡る)、というゆるいコンセンサスが一応あります(これは、私としては、京大熊野寮の外山さん&絓秀実さんのイベントに参加し、ご両名と直接お話しさせていただいたという体験も大きかったのですが)。赤井さんは平岡正明の専門家であり、左翼思想史などに強い関心をお持ちなので、書評を書くにはうってつけの人材でしょう。

 赤井さんの論考では、鬼気迫る文体ではありますが、割と誠実に『全共闘以後』がまとめられていると思います。

時代を問うことが思想的営為の第一条件だとするならば、単一な過去に規定された「現在の現実」をひっくり返しにかかっている外山恒一は、まぎれもなく思想家である。また近年の絓秀実や千坂恭二の動きも含めて考えれば、状況は水面下ですでに大きく動きだしているといっても過言ではないだろう。

 

5、浅田彰と資本主義(前編)(10月7日)

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 しげのかいりによる浅田彰論です。

 浅田彰は名前だけはよく知られているのですが、いまの若者にとっては、何をした人なのかよくわからず、ポストモダンの衒学的な評論家、としか思われていないのではないでしょうか。

 その印象もある意味間違っていないのですが、その「ノリつつシラケる」衒学こそ、彼のある種の政治的思想の発露であり、左翼思想史に位置付けられるものなのだというのが、忘れられつつある前提なんですね。たとえば『逃走論』に現れるゲイ・ピープルの思想は、かなりパフォーマティヴなもの、つまり「あえて」の思想なのですが、その「あえて」がなくなると、彼が一体何に向けてパフォーマンスをしていたのか、わからなくなってしまうわけです。

山口昌男の思想的なバックボーンを見たとき、そこにあるのは林達夫の精神史的なモチーフから遡行して作り出される新左翼の文化闘争である。その山口に影響を受けたバブル期のトリックスター=文化英雄というべき浅田彰もまた、かかる左翼の思想史を前提にした存在であると考えるべきであろう。 

 批評とか思想を読むって、ある意味そのコンテクストがわからないと理解できないところがあるので、かなり文脈依存ですよね(しかし文脈依存であることと売れることは大部分で反しますよね。パッと読んでもわからないものなんだから)。そしてコンテクストを欠いた「批評」は、コンテンツの「批評」でしかなく、批評ではないんです。

 なので、私たちとしてはその文脈をまず紹介するところから始めるべきだと思いました。これは相談の結果しげのに書いてもらったものです。しかし、編集段階で結構私の手が入っており、「ドゥルーズ=ガタリ」的に言えば、「しげのかいり=左藤」が書いたというべき作品でしょう(笑)。

 反応としては、浅田彰に影響を受けた(そして多くの場合今ではなぜかそれを反省している)読者たちによく読まれたように思います。彼らにとっては浅田の政治性はある種自明のことだったわけですけれど、私としては、浅田が(そして「大失敗」が)何をやっているのかよくわからない人たちにこそ読んで欲しいと思っています。なぜ人がこれほど浅田彰を崇めたり、避けたり、怖がったり、憎んだり、軽視する態度をあえて取ったりするのか。

浅田彰が資本主義を批判する共産主義者の立場に立ちながらも、資本主義の成功を容認し続けるのもそのためである。浅田彰共産主義は中心になることがないものだ。もしもそれが中心に位置するならば、一夜に悪夢へと変わるだろう。そのことを予期しながら、資本主義とは違い、先取りした形で共産主義を自虐的に評価する自己破壊に位置し続けるのが、中心に対する周縁人(トリックスター)の位置付けである。 

6、「反動的異化」に居直る(10月12日)

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 永観堂雁琳(@ganrim_)氏による記事です。

 彼がこの批評集団にいるのは割と異色なことではありますが、概ね彼が書いているとおりの理由です。雁琳さんがいることによって、単なる批評好きの集まりにはならず、政治的な色を出すことができるというのが私の目論見でした。この記事では、雁琳さん自身の「大失敗」に対する考えも開陳されています。

左藤氏の言うように、現今の批評が、裏返った現実への追従としての「運動」の夢を「自己啓発」に成り下がっているのだとすれば、すなわちオルタナティヴという名のイデオロギー装置に成り果てているのだとすれば、展望と絶望を同時に提示することによって現実を「異化する」しか道が残されていない。私が慮るに、その道は、展望の不可能性を語り続けることによって目の前の現実を超越した絶対的なるものを提示しようとするイロニーか、展望と絶望の遊戯的な交錯を続けることによって絶えず目の前の現実を別の位相へと転化し続けるユーモアか、その何れかになるであろう。

 妙に難しい書き方してますが、要するに差異化のゲームに甘んじ続けることのできるのがユーモアであり、そのように見せかけて実は何か絶対的な現実を措定してしまってるのがイロニーということで、これ自体、色々議論の歴史があります。→浪漫的イロニー(ろうまんてきいろにー)とは - コトバンク

『私はユーモアの人です』という蓮實さんの言葉ほどアイロニカルに響くものはないとも言えるし、無謀と見えるほど直截に原理に迫っていく柄谷さんの言葉が時に思わぬユーモアを帯びることもある。それが、しかし、批評の逆説というものなのでしょう(柄谷行人編『近代日本の批評Ⅱ』、浅田彰の発言)*1

 まあ私の立場がどうなのかはよくわかりませんが、この区分で言えば私は蓮實派で、雁琳さんは柄谷派だということになるのでしょう。とりあえず、「大失敗」はシリアスなものであると同時にポップ(というか「ギャグ」)でなくてはならないということはもともと考えていたことです。時評でも引用したブレヒトのイメージですけどね。 

7、浅田彰と資本主義(前編)(10月21日)

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 浅田論後半です。前半の論考は、浅田自身の立場が左翼思想史に規定されていること、その中でこそ彼は「トリック・スター」であることを見ようとしていたのですが、後半では、小林秀雄吉本隆明という批評の流れの中で、浅田を見てみようという内容になっています。

 「ボヘミアン的」というフレーズが使われていますが、結局この論考のオチは、世俗から離れた仙人のような立ち位置としての「ボヘミアン」が、もはや現代に至ると単なるフリーターでしかなくなってしまったということなんですね。いわばその転換点に浅田彰がいる。批評家に憧れる庶民ワナビーたちは、「ボヘミアン」になりたいがなれないフリーターになってしまったわけです。

 「横断」的に浮遊する非専門家であることを自負する「批評家」の形は、今や翻って、単なる契約社員的なものになってしまった。しかも、正社員からフリーターへというパースペクティブを下支えする、公務員の解体=ネオリベ政策は、吉本的な大衆のルサンチマン(いわゆる「税金ドロボー」叩き)によって力を持っているのである。
 この点に関して浅田彰に責任があるとは思わないが、『逃走論』は実は極めてネオリベ的なものである。考えなければならない点は、今日におけるボヘミアン的知識人は、「契約社員」以上の意味を持ってないこと、これである。

 また、この記事にいただいた「そらまぎる」氏のコメントがかなり適切なまとめになっているので、引用しておきます。

近年においては、もはや学者も「領域横断的」であり、「国際的」たることが求められるようになりました。自らの研究分野(およびテーマ)に関しても、2つ以上もっていなければならない、といったように専門性(深さ)を追求することが困難な状況です。そのようななかで研究を続けていこうとする者たちは、往々にして「ネオリベ的主体」となっていきます。言い換えるならば、研究者として通用する(=要求されている)人間は、一般企業において要求される人材と相違ないということです。
〔…〕
〔研究者は〕敗北を認め、「ジャンク」化していることに徹底的に絶望するところから、はじめなければならないと思います。〔…〕

8、資本主義的、革命的(前編)(10月26日)

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 私の記事です。東浩紀論になっており、こちらも東さんご本人に一言言及いただきました。

 「意外とおもしろかった」(小学生並みの感想)という一言ではありますが、私は一面においては素朴な東ファンですので、結構普通に嬉しかったと思います。このツイートの効果もあって、この記事は結構たくさんの方に読んでいただけました。内容はご一読いただければだいたいわかると思うのですが、「結局、東浩紀って何をしている人なのか?」というのは意外と見えづらいんですよね。しかし私にとっては彼はずっと同じことをしている人です。

 Twitterで「東浩紀」とかで検索すればわかりますが、もはや東の読者は彼を自己啓発のようにして読んでおり、東は「泣ける文章」を書く人になっています。が、その効果は東の人格以上に、かなり戦略として作られたものであり、しかもその戦略の必要性そのものを東は初期の論考で言っている。彼がやっていることは徹頭徹尾「広告」であり「営業」なのであって、仮に彼を批判する立場であったとしても、「顧客になってコンテンツを消費している」ことには変わりない、ということです。

 むろん、これはしげのかいりの浅田論とも繋がっている内容です。

いまや、むしろ、このような浅田彰の貴族的「広告」戦略に対置されるものが必要なのであって、それこそが「ボヘミアン」神話それ自体を真に批判しうるものになるはずだ。それは具体的には、既存の自由主義を“愚直”に批判する、政治性を持った「アジビラ」ということになるのではないだろうか。(浅田彰と資本主義 赤い文化英雄(後編)より)

 続けて読めば何かしらの文脈が見えてくると思います。まだ『資本主義的、革命的』の後半を書いていないのですが、ここに外山恒一氏が登場してくるというのも我々の間で一致している見解です。

ボクたち、批評に飽きました

 さらっと書くつもりで長くなってしまい大変苦労しました。そういうわけで、また十一月も記事を更新していきますので、よろしくお願いいたします。よければ「読者になる」ボタンを押していただくか、Twitter (@daisippai19) をフォローしていただければ大変励みになります。

 なお、「大失敗」は書き手を募集しております。本誌の方でもウェブ上でも、何か書きたい方、「批評に飽きた」方はぜひTwitterのほうでDMください。

 繰り返しますが、『大失敗』Vol.1は一月二十二日に京都文フリで発売です。郵送なども予定していますので、どうぞ皆様お買い求めください。

 それでは失礼いたします。

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(文責 - 左藤青

*1:柄谷行人編『近代日本の批評Ⅱ』、講談社文芸文庫、一九九七年、二五二頁