批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」な批評集団。https://twitter.com/daisippai19

加速主義と日本的身体 —柄谷行人から出発して

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different ≠ another("different ≠ another" - P-MODEL

内分泌のカタストロフィー/思考機能の感覚代行/健忘症の優しい私は/花がいとしい/鳥がいとしい ("趣味の時代" - ハルメンズ 

日本的身体

 ここ数年、日本の言論界が今さら話題にしている思想「加速主義」や「暗黒啓蒙」に対して、私たちはある種の「もっともらしさ」や「既視感」を感じてしまった。おそらく、加速主義はその成立の現場においては「いかがわしい」思想であったのだろう。しかしこの「いかがわしい」思想も、日本の言語空間に輸入されるとたちどころに口当たりの良い「もっともらしい」思想になってしまう。

 この日本という言語空間の「体質」は今に始まった事ではない。例えばアメリカの社会学者デイヴィッド・リースマンが来日した際、大学教授でもなさそうな一般市民が講演に押し寄せリースマンを驚愕させた事態、あるいは、フーコードゥルーズの難解なテクストが「ニューアカデミズム」として「流行」する事態と同じものだ。

 もちろん、「思想がその成立現場から離れてしまう」という現象は、日本特有のものではない。例えば、アメリカという風土は、どんな背景を持つ思想であれ、往々にしてプラグマティックな「道具」や「手法」に加工してしまう。しかし、私たちにとっては、外来思想の奥行きや「本来の」価値が理解されないということが問題なのではない。すなわち、日本人の人文知に対するアカデミックな認識やら語学力やらが劣っているという端的な事実は、「批評」の問題とはならない。日本においてより深刻なのは、どんなに「目新しく」、「異なった」(different)思想であれ、それが、日本という場所に対する「もう一つの(another)価値」を持つことがないということである。内部を脅かす異物であるはずの「いかがわしい」思想は、それ自体がまさに外部であることによって逆説的に内部に位置するメインカルチャーを補強してしまうのだ。この風土のなかで、「批評家」や研究者たちは、こうした外来思想を平明に解説し、読者たちの趣味的な好奇心を満たす「輸入業者」として動員されるのである。

 しかしもちろんこれは外来思想に限った話ではない。国内においては、例えば敗戦後の焼け跡を称揚した「堕落論」の坂口安吾もまた、時が経つにつれてもともと持っていたはずの「いかがわしさ」をなかったものとされ、戦後の自由と平等を擁護する「戦後民主主義者」としての安吾像へと変貌していった。こうした事情は、少なくとも日本という一個の身体——これを日本的身体と呼ぼう——がもつ深刻な問題である。

 加速主義が仮にラディカルな思想だとしても、それは「ラディカルなもの」として紹介されるがゆえに、この凝り固まった身体を粉砕するような破壊力は持ち得ない。「日本的身体」は、エスニック料理を楽しむ品のいい消費者として、あらゆる思想を「現代思想」として美味しく調理して食べている。

 この状況では、加速主義は日本の「体質」を強固にするものにしかなり得ないだろう。もしも私たちがかかる現実を理解した上で思想しようとするならば、柄谷行人が言ったように、日本という身体の在り方そのものを変革するような思想のあり方を自覚的な仕方で模索しなければならないはずだ。

日本のポスト・モダニズムは、西洋かぶれの外見を持ちながら、この種のナショナリズムを含意している。それはありとあらゆるものを外から導入しながら、「外部」を持たない閉じられた言説体系である。そこでは、自分の考えていることだけがすべてであって、自分がどう在るかは忘れられている。むろん、どんな人間も他人が自分をどう思っているかくらいは知っているが、それは結局自意識でしかない。他者に対して過敏な者がしばしば“他者“を持たないように、現在の日本の言説空間は「外部」を持たない。いいかえれば《批評》の不在である(「批評とポストモダン」)

 ここで柄谷行人が批判しているのは日本のポストモダニズムであり、そこから遡行された京都学派である。柄谷によれば、彼らは一見「西洋かぶれ」の外見を持ちながら、それを規定する日本の風土(すなわち自身の身体)に対して無頓着であった。その結果、彼らは単なるナショナリズムへと陥ってしまう。

 柄谷のいうとおり、「私たち」はいつでも、「自分の考えていることだけがすべてであって、自分がどう在るか」を忘れている。つまり、こうした議論の内容の新奇さに気を取られ、新たなものとして対象化して熱中したり、あるいはそれをパロディして「メタ化/ネタ化」した気になっているとき、私たちはまさにその議論の手元的で形式的な反復性、そしてその対象をまなざす我々自身の「手癖」に気づくことができない。つまり、自身の身体の「スタイル」に気づくことができない。

 この種の、柄谷のいう《批評》の不在は日本においては奇異な事でもなんでもない。むしろ《批評》の不在こそ日本においては常態なのだ。

宣長のいうような自然=生成は、制度あるいは構築を拒絶するかにみえて、それ自体独特の制度であり構築なのだ。もしわれわれが神・超越者あるいはそのヴァリエーションに対して、西欧人のように闘い、挑むのならば、的はずれである。(「批評とポストモダン」)

 日本における批評の《不在》は「脱構築」(構築からの脱出)ではなく、むしろ精巧に作られた構築であり、「制度」に過ぎないと柄谷は批判している。 この状況下では、例えば「戦争」に論評を加える知識人を批判して「国民は黙つて事変に処した」と喝破した小林秀雄さえまた、「構築を批判する構築論者」でしかなくなってしまう。私たちに見えないのは、この「自然」という構築物であり、制度を拒絶する制度に守られた日本の土壌であり風土であり、日本的身体に他ならないのだ。ここでは、あらゆる「いかがわしい」思想が「もっともらしい」思想として流通し、「いかがわしい」ものであったことが忘れ去られてしまう。いわば、日本においては「他者」と出会うことなどできないのである。

 これは、日本という「身体」であり、日本語という「文体」に強く根付いた問題である。どれだけグローバル化が「加速」し、日本という固有の場所が無くなっていくように見えたとしても、あるいは様々な言説の中で「現代思想」の状況が変わっているかのように見せられていたとしても、この身体の「制度」は未だ残り続けている。

 

なんでもよく、どうでもいい

 加速主義の議論は 「暗黒啓蒙」と言う名からも分かる通り、啓蒙主義を批判しながら啓蒙主義の最たるものである自由主義啓蒙思想に結びつくパラドックスをはらんでいる。しかしそもそも、このパラドックスだけでは加速主義の「いかがわしさ」を論証することはできないだろう。これはちょうど柄谷行人江藤淳を引用して批判している「護憲論者」と同じ身振りに過ぎない。

江藤淳の議論は、その逆の、すべてを憲法から流出させる連中の論理と似ている。あるいは、もっとラディカルである。というのは、後者は、「原理」に固執するようにみえながら、誰がどうみても現状と背反する「憲法九条」をうやむやにしているからだ。本当は彼らは文脈をこえた、同一的な「意味」に固執する人々ではない(無作為の権力) 

 加速主義を流通させている「のっぺりとした土壌」としての日本の言論空間は、小林秀雄のように原理原則にこだわらないという原理原則に則っている。この原理原則とはすなわち、「護憲論者」のように原理と現場とのズレをうやむやにする「制度」である。この意味では日本人はほとんど全員「護憲論者」でしかない。一言で言ってしまえば日本の言論空間=日本的身体にとっては、あらゆるものが「なんでもよく、どうでもいい」からである。

 日本的身体にとっては、新しく持ち込まれた「異なるもの」の材料がニック・ランドだろうがサッカナ・シーだろうが(つまり肉料理だろうが魚料理だろうが)同じであり、どうせ調理して口当たりを良くして食べるのだから、同じなのである。それが「新しい思想」として流通しさえすれば、後は「なんでもよく、どうでもいい」のだ。

 むしろこうした流通ルートに「シラケつつノリ」、訳知り顔の紹介者あるいは「批評家」として、読者たちに「美食」を供して名を売り金を稼ぐことの方が、多くの人間にとって重要である(むろんこの流れから完全に身を切り離すことなど、誰にもできない)。このレベルではそもそも日本において近代は未発達であるだとか、資本主義社会が徹底されていないと言った丸山真男小室直樹の議論は「野暮」の二文字、あるいは「ネタにマジレス」というクリシェで片付けられるだけだろう(しかしネタはベタに機能する)。そもそも丸山的な問題意識を持っていたとしたら、この反復性に気付くはずである。

 むろん、かかる風土からは絶対に《批評》は生まれない。《批評》は原理主義でも現場主義でもない。《批評》は、原理が必然的に持ってしまう現実とのズレに対する鋭い反省から、はじめて生まれるのである。

柄谷行人クリシェ/差別の問題

 ところで、柄谷はこの日本的身体から、自身をどの程度切断しえたのか。柄谷がこの問題を掘り下げたのは、中上健次という切り口からである。柄谷にとっては中上健次は差別小説を書いた単なる小説家ではない。柄谷にとって中上とは「日本近代文学が中心としてきた近代小説という枠におさまらなかった」小説家に他ならない。

中上健次における過剰性は、どんな同時代作家よりも彼を健康にし且つ病的にしている。いっそ彼は「病気」だといった方が良い。「病者の光学」という言葉が彼にはふさわしい。彼において、暴力的なのは、本当は肯定の力だ。が、その肯定力は、どんな否定力よりも破壊的である(「今ここへ――中上健次」)

 柄谷行人は一般的な「今・ここ」と中上健次が肯定する《今・ここ》を峻別する。「今・ここ」とは差別を隠蔽する「同一性」の場であるが、中上が肯定する過剰な《今・ここ》はむしろ、同一性に隠蔽された場である「今・ここ」を破壊し、差異を露呈させる肯定の力だ。しかし柄谷の論旨にもある独断が見えると言わざるをえない。《今・ここ》は、柄谷がいうような「破壊的な肯定の力」ばかりを持つとは限らないからだ。むしろそれは、時に肯定の力によって粉砕されるはずの「否定」の力へと結びつき、対極の「今・ここ」に反転してしまいうるのではないだろうか。

 例えば、在日朝鮮人の問題である。在日朝鮮人の差別はもはや「隠蔽」されたものではない。それは、そうした差別(による特権)が「隠蔽されていること」を「在日特権」として糾弾する陰謀論者じみた人間がいることから逆説的に明らかである(むろんそれは特権でも何でもない)。

 しかし「在日特権を許さない」人々がいくら最終的には「同一性」(同質性)を目指していたとしても、彼らが根拠とするのは、つねに在日朝鮮人と日本人との「差異」である。彼らこそが、まさに差異が隠蔽された「今・ここ」を粉砕する力、言ってしまえば「破壊的な肯定の力」を利用しているのだ。すなわち、差別主義者は「同一性」のもとに差別を隠蔽するのではなく、むしろ差別を利用する。同一性と差別は、柄谷が言うように必ずしも一致するわけではない。差異が露呈していたとして、相変わらずそれが否定的に働くことはつねにある。

 これは柄谷が単に中上健次を誤読しているという問題ではない。重要なのは、むしろ柄谷自身が「加速主義」や日本のポストモダンと同じ病理を抱えているのではないかということである。先に述べたように、柄谷は中上健次の小説を「日本近代文学が中心としてきた近代小説という枠におさまらなかった」小説として評価している。この読み方自体を否定するつもりはない。しかし「近代小説におさまらない」というこの「オルタナティヴ性」が、柄谷行人における肯定的な評価の根拠になっている点が問題なのだ。

 つまり柄谷行人にとっては、中上の小説が「近代小説」の枠組みから逸脱するもの、すなわち小説とは「異なるもの」でさえあれば、「なんでもよく、どうでもいい」わけである。中上健次あるいは差別の問題もその地平線の内側からのみ評価されるものであって、そのバイアスの外にある問題はあらかじめなかったこととされてしまう。したがって柄谷行人のテクスト読解は、その対象(中上のテクスト)がいかに「いかがわしい」ものであったとしても、そこから出てくる結論はいつも「のっぺり」とした、単に「もっともらしい」だけのものになるだろう。

 なお、この傾向は現在の柄谷をみればさらに明らかである。先に引用したのは護憲論者を批判するかつての柄谷だが、今の柄谷行人は誰がどう見てもかつての彼が批判していた対象に成り下がっている。すなわち、柄谷もまた「『原理』に固執するようにみえながら、誰がどうみても現状と背反する事実をうやむやにしている」日本的身体にのっかった書き手の一人に過ぎなかった(あるいはそうなった)のだ。

 さて、中上を論じるにあたって、柄谷行人の正確な「真贋」が「真贋」であるがゆえに見落としているのは、中上健次の小説そのものが持つ「小説としての暴力性」である。柄谷は「日本近代文学が中心としてきた近代小説という枠におさまらなかった」と手癖的に評価してしまうことで、「小説的な暴力性」そのものの異物性をむしろ無視してしまったのだ。

 柄谷にとって「小説」は単に近代のドグマでしかない。だからこそ、それと「異なる」中上の「肯定の力」を必要としたのだ。しかし、言ってしまえば柄谷の「小説」観はリアリズムを前提にしたものに過ぎない。

 「小説」はそもそも散文芸術であるがゆえに、市民社会に依存しつつも、当の市民社会にとっての「雑文」(=ジャンク)にとどまる*1。しかし、「小説」は、まさにそれ自体がジャンクであり、弁証法から抜け落ちるものであるからこそ、弁証法に対する「内部における外部」として機能しうるのである。この「内部における外部」という構図は、柄谷自身が「脱構築」として見出していたものであるが、それにも関わらず、中上に接する柄谷はこの表裏一体の関係性を見落としている。

 「今・ここ」にある日本的身体を問題にしつつも、「近代小説」の二重性を見落とした柄谷の議論は、自身の在り方にいつまでも気づかない日本的身体の問題と通底している。つまり本質的な問題は、「近代」の持つ相反する二重性の中にこそあるのだ。この問題は、「近代」の半面しか見ない加速主義の議論にさえ敷衍できるのである。

different ≠ another

 加速主義(とりわけニック・ランド)の抱える問題についても触れておく。日本的身体にも加速主義にも共通する問題は、「異なるもの」をつねに「もう一つのもの」として無批判に受け止めてしまう遠近法である。真に〈EXIT〉しなければならないのはこの地平であろう。

 加速主義の抱える問題は、「差別がない」時代に「差別をいう」ことがラディカルであるかのように錯覚している、露悪的で幼稚な心象である。オルタナ右翼が、たかがポリティカル・コレクトネスに差別を、民主主義に自由を対置した程度でダークでタブーな「現実」を発見した気になっているのなら、その凡庸さにはつい笑いが込み上げてしまう。それは「オルタナ」などではなく、単なる現実追認であり、大多数の人間が持つよくある差別意識に過ぎないからである*2。また、彼らの「技術的進歩」にまつわる議論についても凡庸と言わざるをえない。それは、単なるリニアな時間性、すなわち二〇世紀の哲学が批判してきた「目的論」あるいは「終末論」の安易な変奏に過ぎないのではないだろうか。

 この点で、私たちは当然だが(少なくとも『資本主義リアリズム』の時点での)マーク・フィッシャーの方を相対的に評価する。フィッシャーは「もう一つのもの」を希求しつつも、むしろ安易な「オルタナティヴ」をリアリズムと同等に批判し、原理と現実のズレに直面した「加速主義者」であった。

 しかし、ランド的=オルタナ右翼的「暗黒」趣味では、「相関主義」を超えるどころか、単に議論をポストモダン以前に、もっといえばカント以前にまで差し戻してしまうだけだろう(もっとも、彼らはそれでいいというかもしれないが)。このような「反動」は「新しい」反動などではない。それは「今・ここ」の遠近法に無自覚・共犯的な単なるルサンチマンである。だからそれは何の「異化」効果も持たないし、いつしか忘れられるのみだろう。このような「新しいもの」は、これまでもつねにすでに忘れられてきたのだ。

 「差別」は実際にある。しかしそれはもはや「同一」の空間によって、すなわち「同調圧力」によって隠蔽され、抑圧されるものではない。それはむしろ「黙つて事変に処し」ていることによって自明なものになった土壌=身体から「他者」をながめ見た時に、その「遠近法」的差異によって強調され、発見され、作り出されるものなのだ。

健忘症=潔癖症を超えて

 ここまでにも何度か触れたように、日本的身体、日本という「制度」は、遠近法を利用している。この身体は、どんな「異なる」思想であれ、既視感のうちに包摂してしまうだろう。一方、この身体は、日本人のアイデンティティを実際に脅かしかねない「在日」の、その己に似た相貌についてはアレルギーを引き起こす。すなわち、そこにある「差異」=「距離」を極端に強調し、体外へ排出しようとするのだ。そのようにすることで、制度はいつまでも自分の身体を「固有=清潔」(propre)なままに守り続けている。

 この身体の身振りのうちで、どんなトピックも、いずれも「なんでもよく、どうでもいい」退屈な趣味の問題へと還元され、いつのまにか忘れさせられてしまうだろう。かかる健忘症=潔癖症こそ私たちは批判しなければならない。新たに現れてくる様々な影。しかしそれは繰り返されてきた問題であって、実は「目新しい」ものでも「いかがわしい」ものでも「もう一つの」ものでもなかった。「目新しい」ものはいつでも、「差異化という差別」を生む「もっともらしい」ものでしかなかった。

 この「遠近法」を狂わせるために、私たちは自分たちの身体の関節を、そして自明となっている文体の流れを脱臼させなければならない。差し迫った問題は、加速することではない。からだ(身体=文体)をどのようにして変えるか、これである。 それはおそらく、「新しいもの」や、「奇異なもの」、あるいは「マイナーなもの」を持ち出すことによっては不可能だろう。そうした諸々は、「趣味」に陥ってしまうに過ぎず、その時点で既に無毒化されているからだ。言い換えれば、それは日本的身体の「健康」に従事しているのである。

 だから、「あの思想はもはや古くなったので、新たな枠組みが必要だ」と「状況分析」を述べ、何かを「批評」した気になるのはもうやめよう。むしろ私たちは、一見「アクチュアリティ」からかけ離れ、「終わった」、「遅れた」と思われているつるりとした過去の資料に目を向けるべきなのだ。そこにこそ、日本的身体の見せかけの統一性=単一性を複数化し、リニアな時間を脱臼させる、抵抗の手立てを見いだすことができるはずだからである。

 もはや「風流」として自明のものとなった記憶の中からこそ、身体を不意打ちし、時間の関節を外し、「いかがわしさ」の幽霊が到来する。資本に内包されてしまう「もっともらしい」様々なる意匠を超えて、今そこに幽霊が徘徊している。

 

しげのかいり左藤青 共同執筆)

 

 

 

daisippai.hatenablog.com

 

*1:このことを指摘した批評家として、中村光夫を挙げることができる。

*2:したがって「オルタナ右翼」は「オルタナ」でもなんでもなく、単なるベタな差別主義者ではないだろうか。それは歴史の中で何度も出てきては「オルタナティブ」を自称してきたものだ。

(紹介)『大失敗』創刊号についてのご感想

 いつもお世話になっております、「大失敗」左藤青です。一月の京都文フリと五月の東京文フリで無事『大失敗』創刊号を完売することができました。ありがとうございます。

 様々な方からメールやTwitterその他様々な場所でご感想をいただいているのですが、その中に、素晴らしい「批評」がございましたので、ご本人の許可を得てご紹介させていただきます。『大失敗』をお持ちの方はぜひ傍に創刊号を置いて、お持ちでない方は『大失敗』創刊号内容紹介をご一読いただいてから、ご覧ください。

※なお、匿名希望とのことでお名前等は伏せさせていただきます。

 

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レコロ様、ならびに『大失敗』誌同人の皆様

 夜分に失礼いたします。連絡が遅くなってしまいましたが、ようやく『大失敗』誌を読むことができましたので、感想を送らせていただきます。

 複数の著者によって書かれた複数の文章をおさめた同人誌について、よくまとまった見解のようなものは示すというのはやはり難しいことだと思います。むしろそんな乱暴なことをしてもよいのだろうかとちょっと尻込みしてしまいます。

 けれども無茶を承知で言うのであれば、『大失敗』誌におさめられたそれぞれの文章に共通するものは、その雑誌名のキャッチーで「広告的な」響きに反して、思考停止を許してくれるわかりやすさからあくまで距離をとりつづけることであったはずだとわたしは読みました。

 しげのさんの文章は作家の「自由」で「純粋」な想像=創造と「不純なもの」を「否認」し自己を構成=「更正」しようとする潔癖症とをパラレルに、レコロさんの文章は極度に主観的なものとしての夢すなわち「当為としての天皇」というバーチャルなヴィジョンを、左藤さんの文章はパンク的な「あらゆる意味のレッテルに対する否定」の「大失敗」を「病だの悲劇だの」として享楽する「「エモい」言葉」あるいは態度を、それぞれ批判しているわけですが、これらはおそらく、わたしたち文学や批評の読者が思考停止の安楽をもとめて手にとってしまいやすいものの羅列であるとも言えるでしょう。

 そしてまた、巻頭と巻末の絓氏とディスコゾンビさんの文章がそれぞれ、「国民主権」を謳う市民社会がつねにすでに「トーテミズム」としての天皇制との共犯関係にあることと、60年代に始まっていまにいたる時代の「末代までの恥」を産んだどうしようもなさとを示してしまっているがために、わたしたち読者は、同じく手にとりやすい「平和主義」にも、「若者」の文化に引きこもることも許されてはいません。

 そのうえ、小野まき子さんの文章は、「「われわれ」は(それが仮に「ゲロ」だの「クソ」だの「テンノウ」だのといった、即物的(ジャンク)な露悪趣味だったとしても)、センセーショナルな広告的戦略に安易に動員されるべきではないだろう」、つまりこの『大失敗』という冊子に書きこまれたさまざまな言葉のリストにも、簡単に「同化」してはならない、この冊子をさえ「古びた写真のように」、あるいは「植物図鑑のように」読まなければならないと読者に告げてしまっています。

 だから『大失敗』誌の(言うまでもなく意図的なものであれ非意図的なものであれ)わたしたち読者に対する呼びかけは、(あなたたち、ではなく)あなたも考えよ、というものであったのではないかとわたしは考えます。しかもそれは、誰かを励まし勇気づけるような、あなたにも考えることはできる、あなた自身の考えを大切にしなさい、というような受け止めやすい自己啓発あるいは啓蒙的なものではまったくなく、容易にいたりうる思考の陥穽への経路を先回りして封鎖し、ほとんど袋小路のような場所にいることをわたしたちに認識させたうえでの(ある意味厳しい)呼びかけであったのでしょう。

 ひとまず『大失敗』誌についての感想をここまでまとめたところにいたって、この冊子が受け取り手に(ちょっと信じ難いほどの怒りと叱責をも含む)さまざまな反応を引き起こした理由がわかるような気がします。

 単純にそれは、この冊子におさめられた文章のひとつひとつが、わたしたちが(「生きた自由な言葉」の操作によって)手にしたと信じこんでいる結論すなわちあるひとつの「アクチュアル actual = 顕在的なもの」の不自由さあるいは有限性を指摘してみせたからではないでしょうか。ただそれは、ある種古典的なものにさえ見える「批評的知性」が、やはりその当然の(不自由な)帰結としてなさなければならなかったことであるようにも、わたしには思えています。

 

 

 本当は個別の文章についてもそれぞれそれなりの長さの感想を書きたかったのですが、それでは今月が終わってもメールを送れないような気がして、乱暴気味ですが短くまとめたものを送ることといたしました。

 末筆ながら、レコロさまと、『大失敗』同人の皆様との、ご健勝とご多幸とを心からお祈り申し上げます。

 

『大失敗』の読者に与える袋小路と思考停止の禁止に至って

2019年5月16日

〇〇〇〇

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ご感想はTwitter・メールなどで受け付けております。

(編集 - 左藤青

 

「大失敗」のスタイル変革を要望する

 

※ 赤井浩太による報告記事

 

 5月3日に行われた『機関精神史』主宰・後藤護氏と赤井浩太によるトークイベント(『令和残俠伝 ー止められるか俺たちを』)は盛況に終わり、東京文フリで売られた『大失敗』も完売という形で終わったことは喜ばしいことである。しかしながらこのゴールデンウィークは、我々の問題点が明らかになったゴールデンウィークでもある。

 まず後藤護氏とのトークイベントだが、大失敗側は後藤氏におんぶに抱っこで何もできていなかったと総括するべきだろう。あのトークイベントを見て平岡正明氏に関心を持ってくれた人がいたなら良かったが、わたしにはあのトークイベントで十全に平岡正明が魅力的に語られていたとは思えない。今回のトークイベントでは後藤氏の平岡像と赤井浩太の平岡像がすれ違いを起こしてしまい、わたしには対話が成り立っていたように見えなかった。それは赤井氏と後藤氏との認識のズレに起因するものではないし、後藤氏が赤井よりも、あるいは赤井が後藤氏よりも馬鹿だったからスレ違いを起こしたわけでもない。

 原因は赤井浩太のあがり症にある。赤井は生真面目な性格の持ち主で、であるが故に持ち前のサービス精神でもって客に問いかけようとしていたが、返す刀で後藤護と丁々発止することを忘れていたのだ。これでは片手落ちである。

 この性格的原因は赤井浩太個人の問題を超えて思想的な課題になるだろうが、それ以前に、我々は常日頃から集団制作の必要性を問い続けてきた。しかしながら今回のトークイベントでは、その集団制作的な思想運動がうまく機能していたとはいえない。わたしも左藤も赤井浩太に孤立無援の戦いをしいてしまった。この問題は平岡正明から、より広く「批評」ないし「批評同人誌」を議題とする二部にも見られることである。

 二部では左藤と後藤氏が主に議論する流れになっていたが、二部のセッションでは左藤の研究対象であるデリダや、批評同人誌の内輪批評に話に収縮してしまった印象がある。今回のトークイベントでは荒木優太をはじめとする、現在批評家として活動している人間がたくさん見てくれたから成立したものの、正直わたしの理想とするトークイベントにはなっていなかった。なによりも、コンテンツをいかに売るか。もしくはコンテンツの趣味判断に議論が終始してしまい、よりマクロの「来たるべき知」のあり方を語り合うようなイベントにはなっていなかったように思う。

 もしかしたら批評や文学の読者はしみったれた連中が多いから、この内容でも我慢できたのかもしれない。しかしもっとポジティブなことを後藤氏と対話できたらより強度あるトークイベントが実現できたのではなかろうか。わたしは最後の最後で登壇したものの、大味気味の表現しか出来ず、自分の無力さを痛感せざるを得なかった。

 我々は常日頃から「党」の重要性や持続力を考えることを強調してきた。しかしこのままでは我々の党は、すぐ滅んでしまうものになる筈である。ゴールデンウィークの「成功」に浮かれず、より一層「集団制作」の練度向上に励む必要がある筈だ。これが、先ずなおさなければならない課題の一つである。

 

 二つ目に問題を挙げるとすれば「売れた」ことである。売れたこと自体が問題なのではない。売れてからが問題なのだ。我が大失敗は『大失敗』を「売るため」に作っているのではない。それは目的の一つだが、第一目標ではないだろう。我々の目標は「問題提起」する事ではなかったか。いくらか売れたところでちり紙に使われてしまっては元も子もない。赤井浩太や左藤青や小野まき子やディスコゾンビ氏、あるいは絓秀実氏の優れた論考を読んで、批判し、糧にしてくれなければ意味がないのだろう。つまり、買ってそれでおしまい。あとは本棚の肥やしでは作った必要がないではないのだ。したがって我々が真に成功したという言えるのは、読者の中から異論含めた意見が出てきて、そこからまた新しい思想運動の萌芽が生まれた時だけだ。そしてこの問題は我々内部の問題だけではなく、買ってくれた読者に対する異議申し立てでもある。読み手こそが思想し、批判的に『大失敗』を読まなければ『大失敗』の意味がない。つまり読者も十年一日のごとく同じようなジャーゴンを用いた「感想」という名の批評ごっこを「ツイート」をする呑気な消費者ではいられない筈だ。『大失敗』を買った時点で、少なからず我々にオルグされており、そして執筆者になる可能性をたぶんにある。つまりわたしは『大失敗』に対する積極的な批判と投稿を要望する(その点で住本麻子氏による『小失敗』への批判が出てきたのは喜ばしいことである)。

 

 最後に、先にも触れたが私見によれば、今回のゴールデンウィークは我々の反省点と問題点が浮き彫りになったゴールデンウィークだということができる。我々に未だ足りないのは、むろん「党」を前提にしてモノを考える「革命中心の思想」であり、持続する運動を形成しうるだけの組織作りである。そしてそれは言うまでもなく自己批判と対話の不十分が招いた結果だ。他者性を欠いた有象無象に党など作れるはずがない。

 その点で我々とは多少立場が違うが、我々にとって後藤護氏の立場は積極的に評価すべきものである。なぜなら彼の立場はきわめてシンプルだ。その点が良い。「マニエリスム」と精神史。むろんそれだけではないし、この二つも多層的な意味を持っているに違いないが、このような蝶番になるであろうフレーズが明解であることはアジビラとして必要条件であるとわたしは考えている。『機関精神史』は、こうしたフレーズを明解にすることによって自らの立場を規定し、対話することによって雑誌全体に余裕を持たせることに成功している。自己は自己がなにものかに侵食されない限りで余裕を持つものである。後藤護氏の立場はきわめて明解であるがゆえに対立物を見定めて、対象を見ることに成功しているのではないか。今日の『大失敗』に必要なのはこの余裕である。紋切り型を拒否するのではなく、紋切り型によって紋切り型を制す花田清輝以来の批評運動をあり方をより一層確固たるものにしなければならないのではないかとわたしは考えている。

 さわさりながら、このようなイベントや状況に恵まれたことが、昨年九月から我々がやってきた運動の成果であるのはれっきとした事実だ。その点を踏まえた上で十年一日のごとき反復に陥らない意識変化と新しい風こそ、我々には必要なのだ。「風」の流れを変えること。そこからしか革命は生まれない。ファシスト的熱風をコミュニズムの風へと変化する新たな執筆者こそ我々は待ち望んでいる。

 

(文責 - しげのかいり

 

twitter.com

 

※ ここでしげのが触れているGWの「大失敗」については下記参照。

daisippai.hatenablog.com

 

 

 

大失敗、東京遠征編

 

  どうも、赤井浩太です。こういった報告記事の類いはたいてい左藤がやってくれるのですが、いま彼は国にお金をねだるための書類作りで忙しいので、今回はぼくが担当します。

 さて、GWでした。われわれ「大失敗」は初の東京遠征だったのです。トークイベント「令和残侠伝」と、同人誌イベント「文フリ東京」の二本立てで、とても充実したGWとなりました。というわけで、その報告をぼくの感想を含めてお伝えしようと思います。

トークイベント「令和残侠伝」

 「せっかく東京に行くんだから、何かやらないともったいない」というビンボー根性(営業努力?)でトークイベントをやろうと言い出したのは左藤でした。そこでぼくが日ごろお世話になっている「機関精神史」主宰の後藤護さんにお願いして一緒に対談イベントを開催する運びになりました。「令和残侠伝 —止められるか、俺たちを―」というタイトルは後藤さんが考えてくれた名前です。トークイベントに登壇することなんて初めてのぼくは、「イケイケドンドン感がすごいな」と思い、正直なところ若干尻込みをしていたのですが、何度かの打ち合わせの末、イベントのプログラムが「機関精神史」×「大失敗」による〝対バン〟のような様相を呈してきて、これはもう大変なことになるぞと思いました。

 というのも、大失敗ファンの皆さまはご存知の通り、気の弱いぼくとは違って、左藤としげのは息をするように人様の悪口を言うので、当日何を言い出すか分かったものではなかったからです。それに、たかが同人誌のイベントにお客さんは来てくれるのか、用意したプログラムは上手くいくのか、そもそもぼくはちゃんと人前で喋ることができるのか……。そういう考えたらキリがないほどの心配をバックパックに詰めて東京へ向かいました。

 そして当日、フタを開けてみれば超満員。立ち見客にとどまらず、外でキャス放送を聞く人たちまで出てしまうことになりました。これは予想していた来場者数よりも遥かに上回った結果ですが、ぼくたちはこんなに多くの人たちが見に来てくれるとは思いもしなかったのです(次こそはもっとキャパの大きい会場でやりたいです)。そして肝心の対談はというと、個人的な反省は山ほどあるのですが、それはともかくとして、後藤さんとぼくの「マチャアキ観」の違い、そして「機関精神史」と「大失敗」の目的や方法の違いなどが鮮明になり、スリリングかつシビアな議論が展開できたと思います。ちなみに左藤としげのは基本的に通常運転ではあったものの、ぼくが心配したほどのことはありませんでした。むしろぼくが穏当すぎたかと反省した次第です。ともあれ、トークイベント「令和残侠伝」は盛会のうちに幕を閉じました。

 19時から21時過ぎまでの長丁場にもかかわらず、ぼくらの話を聞いて頂いた皆さま、本当にありがとうございました。それから、このイベントを手伝ってくれた方々にも感謝を申し上げます。そして後藤護さん、「機関精神史」の皆さま、お付き合いいただき本当にありがとうございました。

文学フリマ東京

 ぼくたちが初めて出店したのは今年一月の文学フリマ京都でした。どうやら京都は評論ブースが東京に比べて少なく、そちらを目当てのお客さんも比較的少なかったようなのですが、それでも滑り出しとしては好調でした。そのあと通信販売を始めて、地方に住む読者の方にも郵送で販売をしました(現在は受付を一時停止しています)。

 前から予定していたことではありますが、文学フリマ東京ではどれぐらい売れるのかということがぼくの関心事でした。とはいえ、ブログがどれだけ読まれていても、それがそのまま同人誌を買ってくれる人の数になるとはかぎりません。その意味ではどうなるのか、これもまたトークイベント同様に予想がつきませんでした。

 ほかの同人ブースに比べると、店の外装も貧相な「大失敗」ブースではあったのですが、しかし開場直後からありがたいことに客足は途切れず、本誌『大失敗』創刊号も『小失敗』も順調なペースで売れていきました。そうそう、今回はただ創刊号を持っていくだけではつまらないと、これもまた左藤が言い出したので(彼は本当に仕事熱心です)、おまけとしてエッセイとブック&CDレビューを載せた冊子「小失敗」を作ったのです。入稿〆切まで時間がなかったので、大急ぎでエッセイを1本、レビュー6~7本を三人それぞれ書きました。ブログで「大失敗」を始めてからというもの、左藤が言うように「地獄の千本ノック」をやっているような気持ちになります。(ブログの書き手を募集しています)

 まぁそれはいいとして、「大失敗」ブースには創刊号に寄稿して頂いた絓秀実さんをはじめ、商業誌でお名前を目にする著名な方々にも『大失敗』や『小失敗』を買っていただきました。ぼく個人としては、「わー、ツイッターでフォローしてる人だー!」と感動しつつ、恐縮しきりでした。途中、杉田俊介さんと話すためにぼくが席を外したため、左藤のワンオペ状態となってしまい、どうやら大変だったようです。しかしぼくが戻ってきたときには売り子の方も到着し、それからもどんどんと売れていって、ついには閉会までかなり時間を残して『大失敗』も『小失敗』も在庫がなくなってしまいました。

 そのようなわけで「大失敗」初の東京進出はありがたいことに大盛況、これにて創刊号初版は完売となりました。もちろん増刷は予定しています。おそらくそのうち通信販売も再開しますので、今回買いそびれた方は受付再開の告知をお待ちください。

赤井の極私的総括

 楽しすぎて疲れた。それがGWの、というか「大失敗」を始めてから創刊号を売りきったGWまでのぼくの感想です。よく知らないままとんでもないジェットコースターに乗ってしまったあとのような、興奮と緊張が一気に弛緩していく感覚がまだ残っています。思い出してみれば、初っ端からバズったり、炎上しかけたり、ケンカを売ったり売られたりと、「大失敗」への道はスタートからスリル満点でした。何かあるたびにゲラゲラ笑って、そのたびに速度がグングンと上がっていき、気がつけば暴走列車のようになっていました。そう、だから、笑う暴走列車、ドーン。つまり、大失敗。

 とはいえ、ぼくたちにとって重要なことは「持続」であって、「加速」ではないのですが、ただ「出発」するためにはやはりある程度「加速」しなければならないこともまた事実でしょう。その意味で「大失敗」はなかなかの初速を出せたのではないでしょうか。

 さて、ここからは「持続」することが課題になってきます。これに関しては不足している要素が多々あることは否めません。ブログの書き手、校正・編集員、その他の雑務など、「大失敗」はつねに人員不足です。お手伝いをして頂ける方、募集中です。大失敗の「愉快な仲間たち」が歓待いたします。それから『大失敗』二号ですが、現在準備中です。メンバーを増やして、さらに「ポップ」で「前衛」的な批評誌を作る予定です。読者の皆さま、どうぞご期待ください。

 以上、ぼくの報告はこれで終わりです。

 ここまで読んで頂き、ありがとうございました。

 

(文責 - 赤井浩太

 

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▲都内某所の「大失敗」。左から、しげのかいり、赤井浩太、左藤青。ちなみに、「大失敗」が一堂に会したのは実はこの度が初めて。

 

「令和残俠伝」プログラム

「大失敗」運営の赤井浩太です。

5/3のトークイベント・プログラムを発表いたします。

当日は御来場の皆様にお会いできることを楽しみにしています。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

令和残侠伝―止められるか、俺たちを

 

概要

後藤護(機関精神史)と赤井浩太(大失敗)のトークイベント。

イベント開始は19時、会場は神保町のギャラリーSPINOR、エントランス1500円、ドリンクなし(必要な方は持参してください)。

 

タイムテーブル

19:00~19:05 挨拶およびイベントの主旨説明(左藤青)

19;05~19:50問題提起① 平岡正明リバイバルをめぐって(後藤護)

「方法としての平岡正明

1.「平岡文体」の必要性(主語、比喩、造語、ルビ)

2.「梁山泊」という組織論(平岡正明の徒党性)

3.「精神史家」としての平岡正明(平岡的な史論とは何か)

 

【休憩15分】

 

20:05~20:45 問題提起② 思想史/精神史の復権のために(赤井浩太)

「批評における歴史の消失」

両同人誌の紹介(後藤/左藤)

1.東浩紀蓮實重彦劣化コピー(左藤青)

2.批評同人誌の現在(後藤護、赤井浩太、左藤青)

3.商業誌/同人誌のこれから

 

20:45~21:15 問題提起③ しげのかいり/山田宗史登壇

1.しげのかいり/山田宗史による補足/批判

2.花田清輝という論点

 

21:00~?? 質問&フリータイム

 

 

以上

 

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(文責 - 赤井浩太)

赤井浩太 文フリ東京【エ-18】 (@rouge_22) | Twitter

「令和残俠伝」開催ならびに『小失敗』販売のお知らせ

みなさま、ご無沙汰しております。左藤青です。本日は二つほど告知させていただきます。ゴールデンウィーク中の『大失敗』についてです。

令和残俠伝(5月3日)

来るべき5月3日、元号が変わって間も無く、『機関精神史』後藤護氏と『大失敗』赤井浩太でイベントがあります。

 

『機関精神史』は『大失敗』よりほんの少し先輩で、ほぼ同時期に活動を開始した批評誌。「学魔」高山宏をフューチャーし、アングラパンクな批評を展開しています。

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ニューウェイヴ前衛批評集団である『大失敗』とは何かと共通項があり、とりわけ後藤氏と赤井はともに平岡正明を論じていますので、当日は平岡批評の臨界点について語られることになるでしょう。そのほか、現在の批評の問題、思想史の問題、批評誌のあり方、"令和以後"の批評など、さまざまな議論、プロレス、場外乱闘が予定されています。われわれの「不揃いなシンクロ感」あるいは「調和感のある調子外れ」にご期待ください。

ちなみに私、左藤は司会で参加します(そして後半からは、さらに登壇者が増える…かもしれません)。

※ 予約ありません。当日、スピノールに直接お越しください。

前衛批評おまけ雑誌『小失敗』 (5月6日)

『大失敗』は東京文フリ(5月6日)に参加します。絓秀実氏の論考も掲載している創刊号は、おかげさまで無駄に刷り過ぎた在庫を順調に減らしており、増刷も確定しております。

しかし、来るべき東京文フリに、一月発売の創刊号だけを持っていくのはつまらない。というわけで、前衛批評おまけ雑誌『小失敗』を発刊いたします。

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ディスコゾンビ#104氏によるすばらしい表紙

『小失敗』は、赤井・左藤・しげのによるエッセイ&補論集、「大失敗読書会」参加者が書いたレポート、「前衛」のための義務教育と題したレビュー集(20冊)を収録(とはいえ60頁以上あります)。創刊号と併せて読むと「大失敗」の全貌がちょっとだけ明らかになります。部数はそれほど刷らないので、お買い求めの際はお早めにお越しください。

500円を予定していますが、『大失敗』と合わせてご購入いただくか、すでに『大失敗』をお持ちの方はご提示いただければ300円になります。

 

それでは、皆様とお会いできるのを楽しみにしております。

大失敗なゴールデンウィークをお過ごしください。

 

(文責 - 左藤青

 

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資本主義の光 ——マイケル・マンの光

 あらゆる可能性は明示的に表象されるものではなく、潜在的なものとして現れるものだ。例えば「社会的意識が人間の意識を規定する」というマルクスの言葉にも当てはまる。この言葉はアリストテレスがいう「人間は社会的動物である」とは訳が違う。アリストテレスは人間の行動が不可避的に政治や社会に結びついてしまうことを指摘している。マルクスが見出したのは、そもそも主体的に社会を作ろうとしている人間の意識が、実は政治と社会に憑依され作らされているという事態に他ならない。

 わたしが「疎外」を解消可能な概念として批判したり肯定したりすることを不毛としか思えないのはこのためだ。「疎外」を人間が主体的に克服可能として把握するのは「社会」に対する甘えでしかない。そのような社会による人間主体の「疎外」からの克服すらも現代社会はあらかじめ予期し、プログラムしているのである。我々が為すべきは「社会の外側へ出ようとする」などという、人間が疎外される社会があらかじめ予期しているメロドラマではない。そのようなあらかじめ仮構されたメロドラマを内破させる部分を見出すことこそが必要なのだ。

 

 マーク・フィッシャーはマイケル・マンの『ヒート』を次のように分析する。

『ヒート』で犯行を行うのは、祖国へのつながり持つ家族ではない。むしろ根無し草の組員が、磨き上げられたクロムめっきと均質的なデザイナーズキッチン、そしてのっぺりとした高速道路と深夜食堂が立ち並ぶロサアンゼルスにおいて、ヤマを踏むのだ。(一九七九年十月六日——「何事にも執着するな」*1

 マーク・フィッシャーは『ヒート』を通して89年以降の自由主義社会主義に勝利し、全てが市場原理主義に基づいて再編された世界を正確に描写している。『ヒート』の主人公である犯罪組織のボス、ニール・マッコーリーは『ゴットファーザー』や『グッドフェローズ』のような前時代の映画が拠り所にしていた地域的な色彩、料理の香り、俗語など必要としていない。マッコーリー達は「根無し草」の職能集団であり、言わば「非正規雇用」的な存在なのだ。

 このマーク・フィッシャーのニール・マッコーリー論=ネオリベ論の中でも、特に注目すべき点はフィッシャーが「家族」をとりあげている点である。マッコーリーのような資本主義社会の掟に基づいて生きる「根無し草」にとって、日々の労働を癒す家族はセーフティ・ネットとして必要なものだ。しかし資本主義の論理は前時代的な地域の色彩や関係を再編し、家族を弱体化させる。従って「社会経済におけるアナーキー的状況がもたらす精神的傷を慰めるための救心剤」として必要な家族はマッコーリーの生きている世界には存在しない。

 かかる「家族」の問題はマイケル・マンのフィルモグラフィ的にもきわめて重要な問題である。例えば最初期の作品にあたる『ザ・クラッカー 真夜中のアウトロー』では、円満な家族を持つために嫌々ながらマフィアに手をかす金庫破りが主人公になっている。彼は裏社会から足を洗い家族を持つ夢を叶えるために犯罪に手を染めるのだが、逆にマフィアのボスから恋人を人質にとられて、裏社会から足を洗うことができない状態に陥れられてしまう。この点で、『ザ・クラッカー 真夜中のアウトロー』は家族のために労働に従事していたはずの存在が、いつのまにか労働することを目的化してしまい、家族と疎遠になってしまう転倒を描いた作品である。

 あるいは『コラテラル』を挙げてみても良い。『コラテラル』では、しがない非正規雇用のタクシー運転手が「プロの殺し屋」を客として載せるところから物語が始まる。この作品でも家族が主題となっており、タクシー運転手は母に対して自分の不遇な状態をひた隠しにし、嘘をつくことで家族間の安定を図っている。このタクシー運転手と母の関係が物語の中できわめて重要な位置を占めている。非正社員であるタクシー運転手は母の「自慢の息子」であることをまもるために嘘ついているように見えながら、内実「自尊心」をまもるため母に嘘をついているのだ。彼に嘘をつかせるのは家族に対する愛情であると同時に、嘘をつくことしかできない状況を生む、希望のない資本主義社会の非正規雇用の状態なのだ。

 このように、マーク・フィッシャーが『ヒート』の中で見出した「家族」の問題は、マイケル・マンのフィルモグラフィにおいて大きなテーマになっていることがよくわかるだろう。

  

 しかし「家族」の問題をあぶり出すだけでは、マイケル・マンの資本主義の問題を取り扱うには不十分である。マイケル・マンを取り扱う際にマーク・フィッシャーが見落としているのは「夜景」を彩るビルディングの明かり。つまり「光」の問題が抜けているのだ。

 マイケル・マンが見出す根無し草達が「労働」に従事する際、いつも風景には夜の光がある。この、夜の光りがグローバルに活躍する(マッコーリーのような)根無し草たちの姿を着飾るのだ。いうまでもなく夜の明かりとは、ビルディングの明かりである。この夜景を彩るビルの光は労働者の「残業」によって捻出された絵の具であり、夜景は資本主義によって作り出された「ジャンク」な美に他ならない。つまり、一つ一つの光にマッコーリーのように安定した生活を賄う事が出来ない労働と生活がある。

 かかる風景画は夜だからこそ顕在化するのであって、昼の世界においては潜在的なものである。いうまでもなく、昼にだって労働はある。しかしながら夜になっても労働をし続ける他ない人間達の蠢きはビルディングの「光」という表象をもってしか観ることができない。

 労働者が夜になって光るからこそ、我々は意識的にそれを「夜景」と名指すことができるし、さらには労働がそこにあることを了解することもできるのである。昼の世界では、労働が顕在的なものでありながら(であるがゆえに)、労働者を意識することはしないし、無意識のうちに自明なものとして通り過ぎてしまう。白昼の労働者は風景画足り得ず、日常の自明な風景と化しているのだ。マーク・フィッシャーが問題とする資本主義と家族の問題は、マイケル・マンの作品中では光として表象されている。マイケル・マンは夜を切り取り、「残業」というあまりに非人間的な状況を「夜景」の残酷な美として表象する光=労働の作家なのだ。

 かかるマイケル・マンの「光」の主題は最新作『ブラック・ハット』において、さらなる発展を迎える。 


 『ブラック・ハット』は主人公のハッカーが不可視の世界と戦う映画である。ストーリーは香港の原発アメリカの金融市場がハッキング攻撃を受けたところから始まる。この事件を受けて、政府はニコラス・ハサウェイへの協力を余儀なくされる。ハサウェイ自身もまた、カード詐欺の罪で投獄されていたハッカーである。かかる流れの中で獄中から釈放されたハサウェイが見通す地平線は、彼が世界に開かれたことを明示している。そしてハサウェイが戦うハッカーたちは不可視の存在である。彼らは現実には見えないサイバースペースの中の存在であり、現実的にはのっぺりとした機械の電気信号という形でのみ表象される「光」なのだ。

 彼らは「孤独」な存在ではない。むしろ、サイバースペースの中で「強固」に繋がりあう存在である。しかし我々はハッカーたちの繋がりを実際に見る事はできない。現実的には、そこには「光」の明滅という痕跡があるだけだからである。

 このことでもわかる通り、マーク・フィッシャーの現在の資本主義の見方はある側面で正しいが、ある側面で間違っている。たしかにマーク・フィッシャーが言うように前時代的な「繋がり」は資本主義の原理によって粉砕された。しかし我々は技術の進歩によって生成されたグローバルなネットワーク空間によって、現実的な世界では繋がっていなくとも半ば強制的に潜在的な形で強固に繋がっている。

 サイバースペース『ブラック・ハット』の中でハッカー集団は原発を爆破するという形で、世界を混沌に落とし込もうとする。サイバースペースを介入することで、一般的に入ることができない原発内部に不可視に潜り込み、世界を混沌に落とし込むテロルが可能となる(話は若干ズレるが、そもそもマーク・フィッシャーの考えの中には「原発」という問題はないのではないか。「原発」こそ資本主義リアリズムを覆い隠す、すべての仮構された「光」のエネルギー、ビルディングの明かりの源たる太陽であり、かかる現実のエネルギー源たる原発の事故とは資本主義リアリズムの裂け目に他なるまい)。

 注目すべきはラストでハサウェイは世界の混沌を調停することなく姿をくらます点である。ラストで敵のハッカーを倒したところで、ハサウェイはアメリカに帰ることなく、電気信号の網の目のなか、夢の中(「光」が表象される現実ではなく、「光」が暗示する潜在性)へと消えていくのだ。ハサウェイがとった結論とは国家によって、社会によって規定された現実世界の承認はさして自由たり得ないということである。この点はマーク・フィッシャーの指摘を参照すれば明白な話だろう。

 「夢を叶える労働」においては、夢と労働の関係はいつしか転倒し、労働が主目的化していく。であるならば、サイバースペースによって生じた裂け目(混沌)を利用し逃走する賭けにハサウェイは出たのだ。混沌の中に紛れ込んだハサウェイはある意味できわめて抽象的な存在になってしまったとも言える。ハサウェイは、もはや電気信号の中で明滅する「光」によってしか映し出されることなく、顕在的な世界の中では不可視の領域の住人となった*2。『コラテラル』や『ヒート』と『ブラック・ハット』の決定的な違いはこの点である。

 『コラテラル』や『ヒート』で映し出されたのっぺりとした郊外の世界のー夜の風景は、根無し草たる男たちを過剰な労働によって抑圧するものである。そうした風景が抑圧的であるからこそ、これを超克しようとするサクセスストーリーを導き出した。このばあい「光」とは非正規雇用から這い上がり家族をもつ夢のことである。この点でサイバースペースを意味する『ブラック・ハット』の「光」とは決定的に違う。『ブラック・ハット』のハサウェイが出した結論は「光」を超克するのではなく、あえてサイバースペースの明滅の、「光」の中へ紛れ込んで見せるということであった。

 ハサウェイは事件を解決させた後に政府へ帰還することなく女と二人で電気信号の網の目の中へと消え、顕在的な世界からの逃走を成功させたのだ。つまりそれは潜在的なものを潜在的なものとして、疎外を疎外として、受け入れた上で現実世界からドロップアウトし、自らの自由を獲得する逆説的な発想によって規定された戦術である。

 我々が為すべきは現実世界に対する皮肉としての自殺ではなく、現実世界の要請(すなわち労働のことだ)をドロップアウトすることであって、その時必要なのは「死ぬ」勇気ではなくサボタージュする勇気である。マーク・フィッシャーの出した「世界の終わりを考えるよりも資本主義を終わらせることは難しい」という結論は正しい。しかし終わらせようとするからこそ資本主義に取り込まれる余地が生まれるのだ。

 資本主義に寄生し続けることで、その自壊に賭けることこそ今日の我々に必要な戦術なのではあるまいか。というのも、資本主義は資本家とも言えども利潤の追求を止めることができない点が最大の強みであり弱点だからである。誰も恐慌を予想することはできない。この予測不可能性の了解こそが「資本主義を終わらせる」ための主体を獲得する上でまず必要な点であろう。

 誰も資本の流れを予想することはできない。無論この「誰も」にはマルクスも入っている。

 

 

 

(文責 - しげのかいり

 

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▲『ブラック・ハット』(二〇一五年)

*1:マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』河南瑠璃/セバスチャン・ブロイ訳、堀之内出版、二〇一八年、八四頁。

*2:『ブラック・ハット』と相似的な映画として、押井守の『イノセンス』が挙げられる。あの作品で草薙素子が出した結論もハサウェイと同じものだ。草薙素子もハサウェイも有限な自己をインターネットのサイバースペースに還元することで社会から遊離し、逆説的に主体を獲得している