批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」な批評集団。https://twitter.com/daisippai19

【絓秀実氏寄稿決定】『大失敗』創刊号内容紹介

 ※通販始めました

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私たちに必要なのは「生きた自由な言葉」なる、ブルジョワの玩具ではないし、私たちがそのようなものを持ちうるはずもない。ここにあるのは、『神曲』の如きカノンによって構成される「不自由な」言葉の敗走であり、陰に陽に永続し続ける階級社会に対する、「たたかうエクリチュール」なのである。(左藤としげのによる「巻頭言」から抜粋) 

 ご無沙汰しております、批評集団「大失敗」です。

 九月に「大失敗」立ち上げて以来、ブログを書いたり色々していたわけですけれども、あまりに創刊号の内容を公開しないので周囲から「本当に出るのか?」と心配されている有様です。この度、二〇一九年一月に刊行する創刊号の内容紹介をしたいと思います。

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  ▲創刊号表紙

 コンテンツは次の通りです。全体としては二つのテーマから成っています。

絓秀実「柳田国男戦後民主主義の神話」(特別寄稿)

 本ブログでも以前取り扱った、批評家・絓秀実氏による論考です。先日(十二月十五日)の京大人文研のシンポジウム「1968年と宗教―全共闘以後の「革命」のゆくえ―」における絓氏のご発表を収録する形になっています。

 絓秀実氏は、一九四九年生まれの文芸評論家です。「六八年の思想」をはじめ、多種多様な哲学的・批評的言説をたくみに用いつつ思想史を解きほぐし、一方で個別具体の政治運動や芸術運動に「フェティシスト的に拘泥」(王寺賢太による表現)する、独自の批評を展開されてきました。

 本論考は、戦後民主主義、そしてその勘所としての天皇制について思想史を整理し、その問題に迫る内容となっています。『アナキスト民俗学』や『増補 革命的な、あまりに革命的な』(特に付論部分)で展開された議論のまとめ、かつ直接的な問題提起として受け止めることができます。

柳田の神学は、その危惧をこえて強力であった。そのことは、東日本大震災以降における今の天皇のパフォーマンスにおいて明らかになったことである。震災以降、全国を巡る天皇夫妻のパフォーマンス、あるいは、それと相即してなされた海外の戦地歴訪は、それがいかに「ヒューマン」なものに見えようとも、「祖先崇拝」=天皇制トーテミズムの再活性化以外のものではないだろう。繰り返すまでもなく、そのような「祖先崇拝」イデオロギーの顕在化とともに、戦後民主主義を守れという声も高まり、天皇をその「象徴」(=トーテム)と見なす言説が、当然のことのように発せられるようになったのである。(「柳田国男戦後民主主義の神話」本文より)

 ここで絓氏が直接的に参照しているのはフロイトのトーテム理論であり、いわば一種の「日本精神分析」になっているわけですが、この論考における議論が個別具体の文学や表象の問題に直結していることは間違いありません(もちろん「表象の問題」とは「表現の自由」の問題であり、「ポリティカル・コレクトネス」の問題にほかならない)。表象の(再)政治化という私たちの問題意識にとって、絓氏は大きな参照元となりました。

 シンポジウムを聞き逃した方から絓氏の批評に初めて触れる方まで、読み応えのあるものとなっているでしょう。

テーマ①《異化》としての批評

ブレヒトをはじめ、フーコーバディウに至るラディカルな思想家の数々が主張してきたように、社会の解放を目指す政治はつねに「自然秩序(あたりまえ)」という体裁を破壊すべきで、必然で不可避と見せられていたことをただの偶然として明かしていくと同様に、不可能と思われたことを達成可能であると見せなければならない。現時点で現実的と呼ばれるものも、かつては「不可能」と呼ばれていたことをここで思い出してみよう。〔…〕(マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』*1

ある出来事ないしは性格を異化するというのは、簡単にいって、まずその出来事ないしは性格から当然なもの、既知のもの、明白なものを取り去って、それに対する驚きや好奇心をつくりだすことである。〔…〕異化するというのは、だから、歴史化するということであり、つまり諸々の出来事や人物を、歴史的なものとして、移り変わるものとして表現することである(ベルトルト・ブレヒト「実験的演劇について」*2) 

 「異化効果」はブレヒトによって(そしてロシア・フォルマニズムではシクロフスキーによって)提唱されました。「異化」とは何でしょうか。

 このように問うてしまうと、たちどころに「異化」は空虚なものになるでしょう。あるものをあるものに変えると言っても、何をどのように変えて、どうするのか、《異化》という言葉には何も書き込まれていません。それは端的に歴史に左右されるからであり、《異化》は「誤配」と同じく事後的にしか確認できないからです。言い換えればそれは、「〜とは何か」という問いに答えうるような一つの「理論」ではありません。

 それはあくまで実践であり、行為であり、効果です。それは奇妙なほど「不安定」なひとつの出来事だと言えます。ともすれば、他人を不快にさえさせれば《異化》であるというような安易さにすら結びつくでしょう。

 これは批評も同じく、それは積極的に定義を持つものではありません。もちろんあるコンテクストの中で批評の役割を確定することは普通に可能ですが、とはいえ、批評の本質であり批評の存在について問う(「〜とは何か」)ことはできないのではないでしょうか。批評は一個の自立したコンテンツではなく、したがって、またひとつの効果でしかありませんでした。批評もまた「不安定」です。

 ブレヒトアリストテレスの演劇論に対抗していました。それは観客を登場人物、物語に感情移入=同化させる理論だからです。《異化》という実践は、感情移入を拒みます。なぜなら、《異化》は世界の見え方をがらっと変えてしまう、言い換えれば、観客のそれまでの世界観を「疎外」するからです(しかし実は、もしかしたら昔のえらい人はこれを「啓蒙」と呼んだのかもしれません。あるいは最近では「ダーク・エンライトメント」と)。

 このようにして既存の価値基準を「同じもの」でありながら「同一ではない」ものに変化させる効果こそ、《異化》と呼ばれたのでした。ところで、いま「批評」と呼ばれるものはそうした不快さや不安定さを持っているでしょうか。このことについてはすでに別の場所でも触れましたが(哄笑批評宣言)、この答えは宙吊りのままにしておきましょう。

 しかし、もし〈同〉化が必然であるとしたら、《異化》はそれほど簡単ではありません。そのような中で、いかにして〈同〉という〈主〉を《異化》すべきでしょうか。

 そのような観点から次の二つの論考を収録いたしました。

小野まき子「煙草と図鑑 ブレヒト『セチュアンの善人』について」

二〇一八年はブレヒトの当たり年であった。(「煙草と図鑑」本文より)

 ブレヒトの戯曲『セチュアンの善人』は、「善人であれ、しかも生きよ」というテーゼで知られています。この戯曲の中では、神々によって要請される「善人である」ことと、一方で一個の人間として「生きる」ことが、常に矛盾した形で展開されていくのでした。

沈徳〔シェン・テ〕 (不安でいっぱいになって)でも自信がないんです、神様。こんなに物価が高くて、どうして善人でいられるでしょう?

神二 悪いがそれはわしらには手のつけようがない。経済の問題にはかかわれんのでな。(ブレヒト「セチュアンの善人」*3

 娼婦であったシェン・テは、セチュアンの町を訪れた神を家に泊めてやり、神からの礼で煙草屋を営み始めるのでした。%2%同時にシェン・テは、神から「善人」であるよう命を受けます。しかし劇内では、この「善人であること」と「生きること」は、絶えず「弁証法的」な対立を含むものとして表現されていきます。つまりシェン・テは、道徳と労働の間で——上部構造と下部構造のあいだで——引き裂かれていくのです。

 この分裂は具体的に描写されます。善人であるがゆえに他者に施しを与えてしまい、貧乏になっていくシェン・テは、資本の原理に則り、自己のために他者を排斥することのできるシュイ・タを「従兄弟」として作り出し、一人二役を演じることで、なんとかそれを両立しようとするのです。

 小野の論考では、この戯曲における「煙草」というモチーフに着目することで、物語を貫通する「弁証法的」構造を解釈していきます。煙草はもちろん、単に劇中に登場する象徴・表象に止まるものではありません。煙草は公共空間にとっては、他人の権利を侵害する「悪」として排斥されるものでした。

このことは当然、近代都市の群衆の問題として理解されるべきであろう。交換価値の支配する大都市の群衆は、彼ら自身が名もなき社会の成員=労働者であり、清潔に管理されるべき商品なのだ。(「煙草と図鑑」本文より)

 このように資本主義や都市空間へのブレヒトの鮮烈な問題意識を明らかにしていく小野の論考ですが、議論の後半では、「当たり年」であったとされる(例えば:『東京芸術祭』は現代の人々に生じる分断を解消する「お祭り」 - インタビュー : CINRA.NET)二〇一八年のブレヒトの用いられ方に対し、スーザン・ソンタグベンヤミン中平卓馬の写真論などの材料を使いつつ、批判的な考察を展開します。ブレヒトは度々「アクチュアル」な作家とされています。しかし、仮にそうだとしたら、その「アクチュアル」さはどのように担保されているのでしょうか。また現代の作家たちは、劇場という空間の中でどのようにして観客を扱っているのでしょうか。小野まき子の論考です。

都市の人間について何ごとかを語れる重要な詩人は、たぶんブレヒトが最初である。(ヴァルター・ベンヤミンブレヒトの詩への注釈」、*4

しげのかいり「金井美恵子論 吐き気あるいは野蛮な情熱」

さしあたっての問題は書くことのはじまりと同時にやってくる。なぜならばわたしたちは書くことを原点とすることによってしか、作品のはじまりという文学創造の原理へ到達することが出来ないからである。(金井美恵子「書くことのはじまりにむかって」*5

吐き気がするほどロマンチックだぜ/お前は(ロマンチスト - The Stalin

 金井美恵子は一九四七年生まれの小説家・詩人・批評家です。ヌーヴォー・ロマンに影響を受けた、長くうねるような文体や、批評家や小説家を皮肉るエッセーで知られる金井ですが、しげのかいりの論考では、金井の初期小説作品における「書くこと」が分析されます。

 しげのによれば、金井の「書くこと」は初期作品から執拗に繰り返される《私》と《あなた》の構造のうちで、極めて奇矯な自己撞着的構造を持っています。ここでの分析では、「書く」行為は、「読む」ことで摂取した=食べたものを「吐くこと」であり、エクリチュールは一個の吐瀉物なのです。

金井美恵子にとって「書くこと」とは、「読むこと」によって必然的に催す「吐き気」である。作家・金井美恵子は、書くことの動機として主体的な意志を必要としない。「書くこと」は「読むこと」によって突き上がってくる「吐き気」によって作られるにすぎないからである。(「金井美恵子論」本文より) 

 論考後半では、メニングハウス『吐き気』などを手掛かりに、「吐き気」をめぐる美/醜の問題に考察が及びます。「吐き気」は、美学的には、そして政治的にはどのように扱われるべきでしょうか。ここから見出される「不純なスターリン主義」とは何でしょうか。「吐き気がするほどロマンチック」(ザ・スターリン)な、しげのかいりによる金井美恵子論です。

テーマ②「昭和の終わり」と「平成の終わり」

 「昭和」から「平成」へ、かつてあったはずのあの切断についても、これから生じることになるあの切断についても、それ自体ひとつの「配列」以外のなにものでもないことが意識されなければならない。この視座からすれば、たとえば「平成生まれ」のような共同性に根ざして特定の出来事や対象を扱うことは、もはや「制度」に対し現状追認的である、と言わなければならなくなる。(左藤「昭和の終わりの『大失敗』」より)

一九四五年以後、この国には「戦前」と「戦後」という区別が存在する。これは「敗戦」を契機とするとはいえ、やはり「神」であった天皇が「人間」になってからの時間的思考だ。だから、ぼくたちが生きているこの日本社会には、いまでも「天皇制」の時間が流れていると言えるだろう。(赤井「宮台真司の夢」より)  

 『近代日本の批評』(柄谷行人編)『現代日本の批評』(東浩紀編)を見れば分かる通り、批評はときに時代を語ってきました。たとえば『現代日本の批評』は、座談会を七五年から八九年、八九年から〇一年で区分しています。そのことは、市川真人による基調報告「一九八九年の地殻変動」を見れば明らかです。もちろんこの「地殻変動」は「冷戦終結」でもあり、また様々な業界(音楽、ゲーム、お笑い、etc.)にとってもある種の変わり目であったわけですが、これらの「変わり目」がそのまま「昭和の終わり」/「平成の始まり」に(つまり昭和天皇崩御に)重なっていることは偶然でしょうか。

 『大失敗』が刊行される二〇一九年は、平成最後の年です。この平成最後の年に直面して、日本では再度「象徴天皇制」のある不思議さが露わになるとともに、「平成」とはなんだったのかという問いや、平成の出来事を回顧する言説も多く見られるようになりました。二〇一九年になればそれはさらに増えていくでしょう。二〇一九年はひとつの「区切り」や「変わり目」として認識されており、ひょっとしたらのちに「地殻変動」と呼ばれるのかもしれません。

 さてそのような「変動」をいま迎えようとしている、この切迫にある私たちは、〈いま・ここ〉の多様なアクチュアリティを語るのではなく元号という時間をめぐる言説・表象についていま一度考えてみたいと思います。そのことは、〈アクチュアリティ〉という言葉の新しさが消去するであろう、ある「持続」を暴露するのかもしれません。

赤井浩太「宮台真司の夢 私小説作家から天皇主義者へ」

 宮台真司はこうして一時はリベラル知識人の代表格と目されるようになるのだが、彼がその手口の裏側で温存したのが「天皇制」であったことは、反リベラルを自称する現在の彼を見れば明らかである。しかし、今もう一つあらためて明らかにされねばならないことは、彼がデビュー当初から現在まで一貫して「私小説作家」であったということだ。(「宮台真司の夢」本文より)

 昭和の終わり=平成のはじまりにデビューした社会学者・宮台真司は、九十年代を通じてある種のヒーローでした。システム理論という社会学的分析を武器に世相を斬り、様々な言説を論破していくパフォーマンスによって、「批評の社会学化」(「社会学の批評化」)を成し遂げた「リベラル知識人」宮台真司ですが、近年の彼がリベラルを批判し、「天皇主義者」を自称していることはよく知られています。

 赤井の論考では、そのように社会学的分析が反リベラル・「天皇主義」へと傾いていく様を、宮台の分析手法そのものが要請するものとして、つまり宮台の秘された内在的スタイルの問題として批評します。赤井によれば、宮台真司社会学者などではなく、「私小説」作家でありました。

つまり、彼は世界の「歴史」よりも私の「夢」を生きたかったのである。ただ、その志向を「社会」に投影したという一点において、彼は社会学を隠れ蓑にした私小説作家であった。(「宮台真司の夢」本文より)

 そのような「天皇主義」の問題とはなんでしょうか。そして、その問題を超えて思考するためにどうすればいいのでしょうか。そのような問題意識から出発し、宮台真司に対する痛烈な批判=ディスを含む、「批評界のMC」赤井浩太の論考です。

——仕方ねぇからシンジくんに見せてやるよ、マジもんの批評ハーコーアジビラスタイルってやつを。そして読者の皆様、大変長らくお待たせいたしました。ここからは白黒ならぬ赤白の決着をつけるショー・ビジネスでございます。不肖のわたくし、「大失敗」の鉄砲玉でありますが、打たれても出る杭、叩かれても出るモグラ、それでもドグマを説くのは、本邦まるで省みられることのないのルンペンの皆様のためであります。サァサァ、おあにいさん、おあねえさん、いらっしゃい、いらっしゃい! 退屈はさせないよ!(「宮台真司の夢」本文より)

左藤青「昭和の終わりの『大失敗』 八八年の有頂天から」

セックス・ピストルズが象徴した七〇年第後半の反体制=「パンク・ロック」は、実際非常に「ポップ」だったわけだが、そのポップさが単なるスタイルへと形骸化し、ひねくれた都会人のファッションになったものが「ニューウェイヴ」なのだ。パンクは「ロックは死んだ」と宣言した。ニューウェイヴは「すべてはコピーである」とあざ笑う。しかし、パンク/ニューウェイヴどちらにせよ、音楽だけではなく、ある種の態度決定にまつわる、雑に言えば「実存」にまつわる「運動」だったことは確かだ。それはものの見方を規定し、社会に接する態度を規定したのだ。(「昭和の終わりの『大失敗』」本文より)

  かねて「大失敗」は「ニューウェイヴ」を標榜してきました。しかし「ニューウェイヴ」とはなんでしょうか。それは確かに一つの音楽のスタイルです。XTCDEVO、一時期のYMOなどに代表させられるような軽薄短小なスタイル、「スカスカ」な音……けれどもそうした音楽たちは、その時代においては、ある「実存」に関するものでした。

 ここで左藤が着目するのは、そうしたニューウェイヴ・スタイルのある種の臨界点としての「ナゴム・レコード」です。ナゴムは、日本でも最初期(一九八三年)に創設されたインディーズ・レーベルです。

 ケラ(現在のケラリーノ・サンドロヴィッチ)が代表となった「ナゴム」には、筋肉少女帯電気グルーヴといったバンド、そしてもちろん大槻ケンヂピエール瀧といった「サブカル人」を輩出しました。「ナゴム」は、演劇、文筆、俳優、など音楽にとどまらない才能が集う場所であったわけですが、その実、非常にくだらないものでした。

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(「人生」は電気グルーヴの前身)

 この「ナゴム」のしょうもなさを批評の問題として引き受けることを考えつつ、ここで左藤はとりわけ、ケラ率いるニューウェイヴ・バンド「有頂天」の一九八八年のアルバム『G∩N』(ガン)を批評します。

 最近(おそらくは演劇の業績で)紫綬褒章を受章したケラリーノ・サンドロヴィッチは、八八年の昭和天皇吐血と「自粛」ムード(浅田彰はこれを指して「土人」と揶揄した)のなかで、次のように歌っていました。

王様はキトク/今に塔も折れる

あった国にあったボク/あったボクら

「ブチコワセ」なんてコトバ/ブチコワして

今日もアソコへ行こう(有頂天 - Sの終わり)

 この「Sの終わり」は「昭和の終わり」です。『G∩N』(=癌)では、他の楽曲でも、この「危篤」、「病」のイメージが頻出し、昭和天皇崩御を存分にネタにしていきます。この意味では、彼らの音楽は一種の「不敬」音楽でした。

 「大失敗」の名前の元ネタとなった楽曲「大失敗’85」も含むアルバム『G∩N』を通じて、表象の(無)意味と元号を考える、左藤青の論考です。

ディスコゾンビ#104「俺と空手とS−MX 我々は如何にして恋愛資本主義と戦ってきたか?」(コラム)

モテ/非モテという対立軸があった。(「俺と空手とS−MX」本文より)

 「昭和の終わり」と「平成の終わり」を生き抜く漫画家・ディスコゾンビ#104氏によるコラムです。八〇年代から今までを支配する「モテ−非モテ構造」(恋愛資本主義)を記述するこの文章では、多種多様な商品・広告・コンテンツが現れては消えていきます。そうしたコンテンツたちは、男の承認欲求を満たそうとする「商法」として整理され、その商法と非モテたちの「戦記」が描かれるのです。

究極の社会的弱者K.K.O.非モテらによる一斉武装決起によりSNS、とりわけツイッターは阿鼻叫喚の地獄と化した!(「俺と空手とS−MX」本文より)

  ある意味もっとも「アクチュアル」なこのコラムは、「昭和の終わり」から「平成の終わり」にかけての歴史を語るものとして重要な役割を果たしています。S-MXという「恋愛仕様」車を頂点とする恋愛資本主義に男たちはどのように立ち向かうのでしょうか。ディスコゾンビ#104による論考です。

 

 

 以上が『大失敗』創刊号の内容です。当初、「《異化》としての批評」で『大失敗』のコンセプトを説明し、「『昭和の終わり』と『平成の終わり』」で時事ネタに触れるつもりだったのですが、いざ書かれたものを見てみると、この両面は絡み合っており、それほど簡単に分割できるものではありませんでした。ぜひ全体を読んで判断していただきたいと思います(絓氏の論考が、いわば論考たちの「顔」としての機能しています)。創刊号ではこの他、左藤としげのによる巻頭言《現実≠現在へ》を収録いたします。

 

 『大失敗』は一月二〇日(日)の文学フリマ京都で販売開始されます(一五〇〇円を予定)。郵送による販売などは、在庫状況によって判断する予定ですが、おもに左藤と赤井による手売りがメインになりますので、ご興味がおありの方はぜひお越しください。

 それでは、当日みなさまとお会いできることを楽しみにしております。

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(文責 - 左藤 青

*1:マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』、セバスチャン・ブロイ、河南瑠莉訳、堀内出版、二〇一八年、五〇頁。

*2:『今日の世界は演劇によって再現できるか ブレヒト演劇論集』所収。千田是也訳、白水社、一九六二年、一二三、一二四頁。

*3:ベルトルト・ブレヒト「セチュアンの善人」『ブレヒト戯曲全集第5巻』所収。岩淵達治訳、未來社、一九九九年。岩淵訳では「ゼチュアンの善人」。

*4:ボードレール 他五篇』三〇二頁

*5:金井美恵子「書くことの始まりにむかって」、『金井美恵子エッセイ・コレクション{1964–2013}1 夜になっても遊びつづけろ』所収(平凡社、二〇一三年)、三〇頁。