批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」な批評集団。https://twitter.com/daisippai19

「大失敗」のスタイル変革を要望する

 

※ 赤井浩太による報告記事

 

 5月3日に行われた『機関精神史』主宰・後藤護氏と赤井浩太によるトークイベント(『令和残俠伝 ー止められるか俺たちを』)は盛況に終わり、東京文フリで売られた『大失敗』も完売という形で終わったことは喜ばしいことである。しかしながらこのゴールデンウィークは、我々の問題点が明らかになったゴールデンウィークでもある。

 まず後藤護氏とのトークイベントだが、大失敗側は後藤氏におんぶに抱っこで何もできていなかったと総括するべきだろう。あのトークイベントを見て平岡正明氏に関心を持ってくれた人がいたなら良かったが、わたしにはあのトークイベントで十全に平岡正明が魅力的に語られていたとは思えない。今回のトークイベントでは後藤氏の平岡像と赤井浩太の平岡像がすれ違いを起こしてしまい、わたしには対話が成り立っていたように見えなかった。それは赤井氏と後藤氏との認識のズレに起因するものではないし、後藤氏が赤井よりも、あるいは赤井が後藤氏よりも馬鹿だったからスレ違いを起こしたわけでもない。

 原因は赤井浩太のあがり症にある。赤井は生真面目な性格の持ち主で、であるが故に持ち前のサービス精神でもって客に問いかけようとしていたが、返す刀で後藤護と丁々発止することを忘れていたのだ。これでは片手落ちである。

 この性格的原因は赤井浩太個人の問題を超えて思想的な課題になるだろうが、それ以前に、我々は常日頃から集団制作の必要性を問い続けてきた。しかしながら今回のトークイベントでは、その集団制作的な思想運動がうまく機能していたとはいえない。わたしも左藤も赤井浩太に孤立無援の戦いをしいてしまった。この問題は平岡正明から、より広く「批評」ないし「批評同人誌」を議題とする二部にも見られることである。

 二部では左藤と後藤氏が主に議論する流れになっていたが、二部のセッションでは左藤の研究対象であるデリダや、批評同人誌の内輪批評に話に収縮してしまった印象がある。今回のトークイベントでは荒木優太をはじめとする、現在批評家として活動している人間がたくさん見てくれたから成立したものの、正直わたしの理想とするトークイベントにはなっていなかった。なによりも、コンテンツをいかに売るか。もしくはコンテンツの趣味判断に議論が終始してしまい、よりマクロの「来たるべき知」のあり方を語り合うようなイベントにはなっていなかったように思う。

 もしかしたら批評や文学の読者はしみったれた連中が多いから、この内容でも我慢できたのかもしれない。しかしもっとポジティブなことを後藤氏と対話できたらより強度あるトークイベントが実現できたのではなかろうか。わたしは最後の最後で登壇したものの、大味気味の表現しか出来ず、自分の無力さを痛感せざるを得なかった。

 我々は常日頃から「党」の重要性や持続力を考えることを強調してきた。しかしこのままでは我々の党は、すぐ滅んでしまうものになる筈である。ゴールデンウィークの「成功」に浮かれず、より一層「集団制作」の練度向上に励む必要がある筈だ。これが、先ずなおさなければならない課題の一つである。

 

 二つ目に問題を挙げるとすれば「売れた」ことである。売れたこと自体が問題なのではない。売れてからが問題なのだ。我が大失敗は『大失敗』を「売るため」に作っているのではない。それは目的の一つだが、第一目標ではないだろう。我々の目標は「問題提起」する事ではなかったか。いくらか売れたところでちり紙に使われてしまっては元も子もない。赤井浩太や左藤青や小野まき子やディスコゾンビ氏、あるいは絓秀実氏の優れた論考を読んで、批判し、糧にしてくれなければ意味がないのだろう。つまり、買ってそれでおしまい。あとは本棚の肥やしでは作った必要がないではないのだ。したがって我々が真に成功したという言えるのは、読者の中から異論含めた意見が出てきて、そこからまた新しい思想運動の萌芽が生まれた時だけだ。そしてこの問題は我々内部の問題だけではなく、買ってくれた読者に対する異議申し立てでもある。読み手こそが思想し、批判的に『大失敗』を読まなければ『大失敗』の意味がない。つまり読者も十年一日のごとく同じようなジャーゴンを用いた「感想」という名の批評ごっこを「ツイート」をする呑気な消費者ではいられない筈だ。『大失敗』を買った時点で、少なからず我々にオルグされており、そして執筆者になる可能性をたぶんにある。つまりわたしは『大失敗』に対する積極的な批判と投稿を要望する(その点で住本麻子氏による『小失敗』への批判が出てきたのは喜ばしいことである)。

 

 最後に、先にも触れたが私見によれば、今回のゴールデンウィークは我々の反省点と問題点が浮き彫りになったゴールデンウィークだということができる。我々に未だ足りないのは、むろん「党」を前提にしてモノを考える「革命中心の思想」であり、持続する運動を形成しうるだけの組織作りである。そしてそれは言うまでもなく自己批判と対話の不十分が招いた結果だ。他者性を欠いた有象無象に党など作れるはずがない。

 その点で我々とは多少立場が違うが、我々にとって後藤護氏の立場は積極的に評価すべきものである。なぜなら彼の立場はきわめてシンプルだ。その点が良い。「マニエリスム」と精神史。むろんそれだけではないし、この二つも多層的な意味を持っているに違いないが、このような蝶番になるであろうフレーズが明解であることはアジビラとして必要条件であるとわたしは考えている。『機関精神史』は、こうしたフレーズを明解にすることによって自らの立場を規定し、対話することによって雑誌全体に余裕を持たせることに成功している。自己は自己がなにものかに侵食されない限りで余裕を持つものである。後藤護氏の立場はきわめて明解であるがゆえに対立物を見定めて、対象を見ることに成功しているのではないか。今日の『大失敗』に必要なのはこの余裕である。紋切り型を拒否するのではなく、紋切り型によって紋切り型を制す花田清輝以来の批評運動をあり方をより一層確固たるものにしなければならないのではないかとわたしは考えている。

 さわさりながら、このようなイベントや状況に恵まれたことが、昨年九月から我々がやってきた運動の成果であるのはれっきとした事実だ。その点を踏まえた上で十年一日のごとき反復に陥らない意識変化と新しい風こそ、我々には必要なのだ。「風」の流れを変えること。そこからしか革命は生まれない。ファシスト的熱風をコミュニズムの風へと変化する新たな執筆者こそ我々は待ち望んでいる。

 

(文責 - しげのかいり

 

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※ ここでしげのが触れているGWの「大失敗」については下記参照。

daisippai.hatenablog.com