批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」な批評集団。https://twitter.com/daisippai19

遠近法と声の抵抗——P-MODEL『Perspective』について

 

われわれが屋根裏部屋をもたなくなったときでも、またマンサルドをうしなったときでも、われわれが屋根裏部屋を愛したということや、マンサルドにすんだということは、いつものこることであろう。われわれは夜ごとの夢でそこにかえってゆく。この隠れ家は貝殻の価値をもつ。そしてわれわれが眠りの迷路の端にゆきつき、深い眠りの国に達すると、おそらく人類存在以前の休息を知ることであろう。ガストン・バシュラール『空間の詩学』)*1

空間はかたく/うめてゆかれて

この身キミの目/うかれさせてもP-MODEL - Perspective II) 

 

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 平沢進率いるP-MODELというバンドが、かつてあった。私がP-MODELを批評するのはこれが初めてではなく、別の場所で以前書いたものがある。これと被る部分が大いにあるので、もし以前の記事を読んだ人には既視感があるかもしれない。

デビューと「大失敗」

 P-MODELは一九七九年にデビューしたロック・バンドである。デビュー時のメンバーは、平沢進田中靖美秋山勝彦田井中貞利。彼らはいわゆる「テクノ・ポップ」のバンドとして認知されていた。

 テクノ・ポップの源泉をひとつに限定することはできないが、例えば六〇年代以降のドイツの電子音楽(カン、クラフトワーク、ノイ!、タンジェリン・ドリームなど)にそのひとつを求めることもできる。そしてそれはシンセサイザーの登場とも連動している。しかしもちろん、それは当時からテクノと呼ばれていたわけではなかった。「テクノ」という言葉が一般的になったのはイエロー・マジック・オーケストラの登場によるものである。

 実際P-MODELも「テクノ」というよりはパンク的サウンドに「ピコピコ」を加味したものであり、シーンと連動した言い方では「ニューウェイヴ・パンク」だった。 当時はXTCDEVOTalking Headsといった欧米のバンドたちも、同じく「パンクでありながらワザとポップ」というサウンドを作るようになっていったわけだが、こうしたバンドにおいては、「ポップさ」はひとつのパロディとして、(「ノリつつシラケつつ」!)方法論として用られている。

 それは、社会と音楽と批評とが緊密な関係を保っていた、遠い昔だったからこそ可能であったスタイルだ。

話す言葉は管理されたし/手紙を出せばとりあげられる

二重思考の平穏無事から/無頓着の人殺しまで

きらいな人から/はなれられない/いまわしい人から/はなれられない

はなれなくても/ダイジョブ

ハロー/活字の中から ハロー/音のミゾから

ハロー/ラジオの中から ハロー/ブラウン管から

ハロー/私しぶとい伝染病P-MODEL - ダイジョブ

 P-MODELの歌詞は都市を批評し、テクノロジー、ミーハーな大衆を批判するものだった。シニカルな社会批評を「(テクノ)ポップ」な音楽に乗せて歌うというのは、ある種の「あえて」だったわけだが、当然当時のリスナーの多くは、P-MODELをただ「新しくキャッチーなもの」として消費することになったし、ライブは「ただ盛り上がるだけ」のものにしかならなかった(むろん、平沢進は「それ以上」を望んでいたのである)。つまり、「あえて」は通用しなかったのだ。

敗北宣言

 結果として、P-MODELは初期の「ポップ」路線を捨て実験的なポスト・パンクへと舵を切ることになる。それは世間がYMOを中心とするテクノ・ブームに沸き、音楽が「芸能」になり、テクノ歌謡が量産されはじめた頃だった。

 彼らは方向性の異なる秋山をクビにし、三人体制で三枚目のアルバム『ポプリ』(1981)を製作する。このあたりから、P-MODELの歌詞は初期のようにわかりやすいものではなくなる。なぜなら、いくら社会批評を歌ったところで、聞き手はそれをただ消費するだけだからだ。それが批評として受け取られることはない。

 こうして平沢は、非常に抽象的な歌詞を歌うようになる。それはある種の「隠喩」であって、もはや何かのメッセージを健全に伝達したりはしない。P-MODELの歌詞は、アジテーションであることをやめたのだ。

目覚めるとfuneral/夜明けの前に時は止まった

ボクは月をうらんでいない

勝負は始めについていたから 

ふりむくとcarnival/人混みに浮かぶボクの抜け殻

うしろ髪に巻かれて笑う/せめて香りのgestalt

あなたの頬を紅く染めてP-MODEL - Potpourri) 

 「時は止ま」った。「ボク」は「抜け殻」になった。そこで期待できることは、「香りのgestalt」=残り香、痕跡に、「あなた」が気づいてくれることだけである。

 この3rdでは、他にもこのように抽象的な歌詞が散見される。ここで滲んでいる一つの敗北感。ピンクや黄色のケバケバしい色に塗られていた楽器やアルバムジャケットは、モノクロに塗り替えられた。平沢は『Potpourri』を「敗北宣言」と呼んでいるが、それは、何かを伝えることを諦めた言葉たちのことを言い表しているのだ。この歌詞の内向化と複雑化は、私たちが問題とする4th『Perspective』(1982)において頂点に達する。

言葉があるだけ

身の丈百寸/絵姿うわばみ

たしかにこわいが/見る目にゃふつう

めぐる日ぼうしの/ゾウの日々/ゾウの日々

寸善尺魔/えんきんほうきん遠近法

実録狂乱/めぐる日々めぐるP-MODEL - うわばみ

 ここを開始点にしよう。この歌詞には社会性はもはやなく、意味や寓意よりも語感が重視され、隠喩的なものになっている。平沢はこの時期、言葉の意味よりも、その音的な質感を強調した歌詞を書いている(1曲目“Heaven”の歌詞にそれは顕著だ)。

 だが、周辺の事情を加味することで、あえてこの歌詞の意味を読み取ってみよう。このアルバムのジャケットはサン=テグジュペリ星の王子さま』の挿絵である。そこでは、本編同様「うわばみがゾウを飲み込んだ姿」が描かれている(それは一目見る限り「帽子」にしか見えない)。

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 この情報を合わせれば、その隠喩はそれなりに読み解くことが可能なものとなる。うわばみの絵は、「たしかにこわいが(帽子にしか見えないから)見る目にゃふつう」であり、「めぐる日」は、「ぼうしの(飲み込まれた)ゾウの日々」である。

 ここで重要になるのは、うわばみの本質(「たしかにこわい」)と見た目(「見る目にゃ普通」)の差異であり、距離感(「えんきんほうきん遠近法」)である。「遠近」は、『Perspective』のテーマとなっている(題名どおり)。すなわちここで問題になっているのは、空間的な奥行きなのだ。

 そして「遠近法」は歌詞だけの問題ではない。このアルバムをレコーディングする際重要になったのは、具体的なリヴァーヴ(音の反響、残響)である。『Perspective』では、通常のスタジオの機材で可能なリヴァーヴには満足がいかず、ドラムを階段の踊り場に設置し、そこで音を録音したことが知られている。「遠近法」は具体的にも抽象的にもこのアルバムのテーマである。

 そのためこのアルバムの楽曲では過剰なほどのリヴァーヴが施され、ポップ・ミュージックとしてはもはや音のバランスが崩壊している。6曲目“Perspective”は、強烈なスネアの一撃から曲が始まる。

厳粛な光の視覚/言葉だけが身をかこむ

あらゆる物ものがたり/流れるTime 

立像の無常は動かぬ律動/夢はいつも終わりから

うかれる目がチャンス殺す/流れるTime

Cosmosは高さに宿り/消えぬ想い歩巾がかこむ

言葉なくては見えないこの身よ果てろ/流れるTime

P-MODEL - Perspective

 重要なのは、「言葉だけが身をかこむ」、「あらゆる物ものがたり」や「言葉なくては見えないこの身よ果てろ」という表現だ。『Perspective』の「遠近法」は、単に視覚的なものに留まらない。何しろ「言葉なくては見えない」のだ。ここで問題となっている「奥行き」とは、実際の物理的な空間(音の広がり)であると同時に、「言葉」のことでもある。これをつづめて、「言語空間」と呼ぶことができる。

ゾンビ/そのわけは/ドキュメントの教理

ゾンビ/目に映るを/言葉で殺す

〔…〕

ここはここになくただストーリー

すれちがうNarratage の亡霊P-MODEL - Zombi) 

 言語空間においては、他者に意味を明確に伝えることはできない。言語というドキュメントは、解釈を挟む以上相対的である。言葉は「意味そのもの」を伝えるのではなく、ただ「物語」を生成する。つまり、ものの「大きさそのもの」ではなく、「奥行き」だけを伝えるのだ。それゆえ、「ここはここになく」、「ただストーリー」(=「あらゆる物ものがたり」)と言われるのである。「ここ」を「ここ」として捉えようという企図は、言語空間という媒介によって失敗に終わる。

 その意味では、『Perspective』も『Potpourri』と同じく失敗と落胆がコンセプトである。「消えぬ想い」という計測不可能なものは、「歩巾」という計測可能なもの(「厳粛な光の視角」、「コスモス=秩序」)に囲まれてしまう。

 ゾンビとは「ナラタージュ(語り)の亡霊」であり、言葉で殺された「ここ」そのものだ。「いま・ここ」にあるのは、かつての亡霊の往来である。言葉はいつでも、すでに死んでいる。

きめこまやかにのこぎり鳥は/見える角度で姿を変える

うそなんかじゃありゃしない

ましてほんとうなんかじゃありゃしない

日記があるだけ/のこぎり鳥はどこ義理欠いた

底意地とれて/のこりギリギリ

〔…〕

時はやおそくのこぎり鳥は 直線上の視界の奴隷

いちぬけたいねさようなら

ましていちぬけたいねさようなら

言葉があるだけ/のこぎり鳥はどこ義理欠いた

底意地とれて/のこりギリギリP-MODEL - のこりギリギリ

 8曲目、 “のこりギリギリ”では、ほとんどラップのように語感の近い言葉が並べ立てられている。「見える角度で姿を変え」、「直線上の視界の奴隷」でしかない「のこぎり鳥」には、「嘘」すらない。そこには「日記」があるだけであり、日記という私的なドキュメントに「嘘」や「本当」は存在しないからだ。

 「日記があるだけ」、「言葉があるだけ」……。この歌詞全体をみると、この部分の歌詞は「カガミ」「日記」「恐怖」「言葉」があるだけ、という風に言い換えられている、このカガミや日記が、あるいは言葉が、「自身を映すもの」であることに着目しなければならない。言語が過剰に相対的であるということは、そこには、自身の虚像だけががある、ということなのだ。「言葉なくては見えないこの身」だが、見たところで、そこには「嘘」も「本当」もなく、ただ、「この身」だけが存在している。

 「のこぎり鳥」は、「直線上の視界」、すなわち遠近法の奴隷である。だからそれは見える角度で姿を変え、そのものとして現れることがない。もちろん、その多面性は言語の多義性とパラレルである。視界の内側、言葉の内側をどこまでも掘ったところで、そこにはまた結局自分自身が現れてしまう。他者=「キミ」に出会うことができない。

 言葉は現実を捉えることなどできないし、ましてや他者に意味を伝えることもできない。平沢はこの構造から「いちぬけたい」のである。

自傷

とりあえずは外へ/ランダムに歩く

くだらぬ迷路の/かべぞいに行けば

Shining…Solid air

〔…〕

とりあえずは夜に/ランダムに歩く

もういちどキミを/さがしに行くため

Shining…Solid airP-MODEL - Solid Air

 

 徹頭徹尾再成補修/低速列車高速列車

 列車は列車線路を行く

 南極北極強行突破/ゆれるひずみは

 反面展望私はおりる

 Neo Science Fiction 秩序を欠いて狂え

 Livin' Lovin' New Transport

 いっきに飛ぶように本気で愛してP-MODEL - 列車)

 『Perspective』には相反する二つの側面がある。一つは「敗北」である。言語空間を介してしか世界は捉えられないし、それゆえ常に世界は錯視的であり、他者に正確な意味を伝えることなどはできない。いくら社会批判をそこに込めたところで、それが聴き取られることはない。言葉は「厳粛な光の視覚」であり、「直線上の視界の奴隷」であり、「秩序」である。

 しかし、平沢はもう一方で他者との関係を欲望する。言語の秩序(「くだらぬ迷路」)の外側へと抜け出ることによって(「いっきに飛ぶように本気で愛して」)。

 このような二つの関係をまとめると、『Perspective』の企図は自身の言葉の破壊にあるということになる。敵は「社会」や「街」ではなく、自分自身だったのだ。『Perspective』は、その空間それ自体を根本的に突き詰め、その裂け目(「ゆれるひずみ」)を作り出し、内破させようとする、ひとつの自傷行為である。

声の抵抗

その声この身/トンネルすると

この感じの愉快/スポンジにして

ひょうたんのキミのこまをすいとる

 

すぐにもわたし/うなずいたのは

その声のもとの/遠くの感じ

空間に水をそそぐひびきの

空間はかたく/うめてゆかれて

この身キミの目/うかれさせても

身体の中吹く/風のうちから

行かないで/行かないで(P-MODEL - Perspective II) 

 『Perspective』の最後の一曲(9曲目)で「わたし」が頷く「その声」は、「この身」を「トンネル」しながら、「遠くの感じ」を保つ。ここで平沢が歌うのは、ここまでの二つのテーマが、矛盾しながらひとつになり、内破していく様である。「身体の中吹く」、「この身」という、まさにここを貫く「声」は、同時に遠くにもある。だから、それは「愉快」なのだ。

 ここで平沢はそれを「水をそそぐひびき」、「声」と音声的な隠喩で表している。これは、ここまでに見た視覚的な隠喩(「目にうつる」、「遠近法」、「うかれる目」、「光」、「Shining」、「直線上の視界」)と、実は対比的である。

 次のように言えるだろう。『Perspective』のコンセプトを一言でまとめると、声による遠近法への抵抗である。音による光への抵抗、無意味による意味への抵抗、と言ってもいい。それは、このアルバムが「リヴァーヴ」や歌詞の「語感」に異様なほど執着していることと無関係ではないし、歌詞がもはや寓意的ではなくなってしまったこととも無関係ではない。ここで平沢は徹底して「声」、「音」のもとに立つことによって、「目」=言葉=歌詞の、秩序の世界から逸脱しようとしているのだ。

 このアルバムの音楽的特徴のもう一つの点は、展開が非常に乏しく、ミニマルに作られていることである。1曲目“Heaven”と6曲目“シーラカンス”に特に顕著だが、ほとんどの楽曲は、同じフレーズの禁欲的な反復だけで成り立っている(「コード一発」で作られているものが多いことからもそう言えるか)。同じ意識が途切れることなく続き、リズムが反復していく様はある種の「一気に飛ぶ」ようなトリップ効果を狙っていると言えるかもしれない。この「神秘体験」において、意味の世界は破壊されていく。

 反響と反復、音の質感それ自体への偏執。その要素のどれもが、目で見える散文的言語空間(「歌詞」)の意味の秩序と充溢から「いち抜け」しようとしている。つまり、目に見えないもの、耳でしか聞こえないもの、韻文、「声」によって秩序の外部へと抜け出そうとしている。だからP-MODELは「パンク」なのだ。それは平沢において、不在の他者(「キミ」)のもとへ向かうことなのである。

 平沢進の歌詞が特異なのは、その内容やテーマにおいてだけではない。その特異さは、それを音と文の「裂け目」において示したことであり、(とりわけ日本語の)「歌詞」に固有かつ新たな表現を達成したこと、これである。これは「ロックとして特殊」というような矮小な評価では済まないだろう。

 「大成功」?

 概ねこれで文章は終わりである。ただし、以前も書いた通り、上記で論じたような、『Perspective』で提起された「言語」の問題、あるいは他者との「コミュニケーション不全」は、実はその後すぐに解決されている。具体的にはそれは催眠療法によって、である。

 この時期の平沢はユングに傾倒していた。ユングによれば表面上は異なるように見える自己と他者、あるいは異なる民族でも、夢ないし無意識という深層においては一つのものを共有している。

鳥になり 獣になり ボクのままでキミになる

おやすみ これすなわち こんにちは(P-MODEL - Rem Sleep

 この楽曲(『スキューバ』、一九八四年)は、平沢のユング趣味を端的に表している。つまり、言葉=意識では他者に到達しえず、あれほどに孤独を強調していた平沢が、無意識(=「おやすみ」)を介することで今度はいとも簡単に他者にアクセスする(=「これすなわち/こんにちは」)。いわば平沢は敗北と失敗を乗り越えたのである。「ボクはキミだから」。まあ一言で言うと、平沢はニューエイジ思想に接近したのだが。

 一九八二年『Perspective』であれほどにアナーキーな音楽を披露した平沢は、二年後一九八四年『スキューバ』に至ると、いとも簡単に「ボクがキミ」である場所(「夢」)に到達している。いわば平沢進はそこで「答え」を見つけてしまった。

 

 しかし、「ボクがキミ」であるような場所は、またもうひとつの空間、出口のない全体、より強固なもうひとつの「コスモス(秩序)」に過ぎないのではないだろうか。こうしたユング的解決こそ、回避しなければならないものなのではないだろうか。少なくともある時期以降の平沢進の歌詞が「ワン・パターン」なのは、彼がもう悩んでいないからであり、「答え」を見つけたからだ。「裂け目」は今や綺麗に縫合されている。

(こうした問題意識は、実は、ケラリーノ・サンドロヴィッチの作詞に、すなわちP-MODELに多大に影響を受けたニューウェイヴ・バンド有頂天の歌詞に、引き継がれているようにも思われる。ケラの詩は、平沢進の詩の発展編として考えられるべきであろう)

 少なくとも私たちが『大失敗』と名乗る限りは、『Perspective』の問題を引き継ごう。たぶん私たちは、もはや「休息」としてはありえないような臨界点としての「言語空間」にとどまり、別の「空間の詩学」を目指す必要がある。

  

  

 

(文責 - 左藤青

*1:岩村行雄訳、ちくま学芸文庫、二〇〇二年、五三、五四頁

【時評】人間の時代と「ポップ」なもの —『新潮45』のキャッチーさに抗して  

 あまりに人間的

何か新しいことをやらかさなきゃいけません。私のビジネスはひどく難しい。なぜって、人間の情に訴えるのが私の商売ですからね。そりゃ、人間の心を揺すぶることはまだいくらかはありますよ。ほんのいくらかはね。ところが、そういう手でも何度も使うともう効き目がなくなっちまうんです。こいつが困ったことだ〔…〕(『三文オペラ』第一幕冒頭)*1

 ご存知のように、「理念をかざす左翼と、人間の現実に寄り添う右翼」という対立項はもはや成立していない。その両者は、その中の極めて数少ない例外を除いて、ほとんど共存し、共犯関係にある。

 リベラル派に関していえば、「マイノリティ」や弱者の疎外を見出し、それに対する共感、さらに最悪な場合、同情によって動いているところがある。彼らは間違いなく、自他共に認めるヒューマニストたちである。そこでは、「進歩」とは「マイノリティに対する配慮がよりなされていくこと」と規定されている。

 一方で保守派、少なくとも「ネトウヨ」は、自分たちの現実がそうしたヒューマニスティックな「理念」と食い違うことを主張する。彼らにとっては「動物的」欲望・情念・他者との食い合い・経済といった「下部構造」こそが真理なのであり、「寛容」や「連帯」を強要するリベラルな言説は、真理を疎外し、抑圧するものでしかない。そこからさらに彼らの一部は、そうした疎外と抑圧を受けている自分たちこそが「弱者」なのだ、と宣言することもある。

 しかし実は、「動物的」欲望を起源として採用する際、「ネトウヨ」はその欲望こそを真の「人間の現実」として再創設しているにすぎない(ある意味「精神分析的」である)。だから彼らはリベラル派の失敗を見て、あざ笑うことができるのだ。その「笑い」の根底には、やはりリベラル派も単なる「人間」にすぎないという、その同質性=「現実」への安心がある。「やっぱり人間は所詮こういうものだ」という安堵である。

 だがこれは「理念と現実」の戦いや「進歩と保守」の戦いなどではなく、「人間」の定義の奪い合いにすぎない。お互いが、自分たちこそが「人間」の真の「現実」、しかも疎外され、抑圧された「弱者」の現実をよく知っていると主張し、それを回復しようとすること。それは疎外論への非政治的回帰でしかない。〈弱者〉探しゲームだ。こうした「ゲーム」に批評はない。(あるいは「政治」に見向きもしない批評家たち!)

 人間というものの同質性をより弱く設定した方が勝ちという状況において、2017年に話題になった、「平等に貧しくなろう」という上野千鶴子のコメントは、事実としても隠喩としても非常に批評的である。あれはリベラル的な言説の当然の帰結なのだ。まさしく「人間の時代」である(しかもそれは「動物の時代」ということでもある)。

新潮45』 のキャッチーさ

 ネット上の流通形式は(あるいは「資本主義は」と言ってもいいのかもしれないが)、発言の質にかかわらず、共感や反感を増幅する装置として、ひとつの「現実」を補強するものとして機能する。『新潮45』的な「炎上商法」は、そうしたシステムのなかでは当然発生するものである。それに共感する声も反抗する声も、「動物的」反応によって流通していくのだ。

 例えば、私は『新潮45』の小川の文章に対して映像で反論し、大いに拡散されているツイートを見かけた(彼がYouTuberなのかなんなのかは知らない)。その動画は沖縄の海で撮影されたもので、非常に「爽やか」な印象を与える。また、ドローンによる空撮が派手で「テレビ的」である。カメラワークやカット編集も緻密だった(視聴者の視線の誘導の巧みさ、また早いテンポの編集。ヒカキンの動画の豪華版、といえばわかるだろうか)。

 それは実際、映像作品としてよくできているが、その「見やすさ」こそがコマーシャリズムなのである。実際その反論している内容に特筆すべき点は何もない凡庸なもので、なんの新規性も異化効果もない。そのツイートないし動画が「正論」などと呼ばれ拡散されるのは、明らかに映像の力による。フォーマットの、伝達経路の、形式上の力によって、我々は共感させられるわけだ。

 『新潮45』が問題なのは、真剣に取るに値しないあのヘイト的主張内容ではなく、特定のセンシティヴな話題に言及して「炎上」すれば儲かるという端的な形式的事実の方だ。「文春」的なものが強いのは当たり前であり、「炎上しても廃刊・休刊までに至らないギリギリ」を攻めるデッドヒートがすでに始まっているのだ。

 

 こうした「キャッチーなもの」に無意識のうちに隷従してしまう態度は、まさに左翼によってこそ省みられなければならない(それが「理性」だからだ)。しかし、現行リベラル派はどこまでも「共感」ベースで動いているために、キャッチーさに加担している(=集団クレーマーになっている)。そういう意味では多くの評論家たちの『新潮45』休刊に対する「違和感」は適切と言える*2

 だから、リベラルのなかでも「理知的」な部類に入るとみなされる人間ですら、自民党やら冷笑主義者やらの「敵」の失態を見つけ出し、揶揄することが「止められない」のだ。彼らはその快楽を遮断できない。「あいつは他人を冷笑したのだからわれわれから冷笑されても仕方がない」と言い、自らがそうした冷笑主義者、あるいは「ネトウヨ」たちと同レベルの、低俗なリテラシーしか有していないことを自慢げに宣言する。日本は「右傾化」したのではなくたんに頭が悪くなったのだ。

 是非とも忌避しなければならないのは、「人間的なもの」と、それに対する動物的な反応である。おそらく、「人間的なもの」を相対化したうえで、それを成り立たせしめる構造へのまなざしを持たなければならない。

(ただし私はそれであらゆる「人間性」が割り切れる、あるいはこれからは割り切れるようになっていく、というSF的「実在論」に立つつもりもない。「人間」という名前は常に「余剰」あるいは「幽霊」のように我々につきまとうだろう)

ディス・イズ・ポップ

 ところで、上記のような現状で最も価値を貶められているのは、「ポップ」という概念であると私は思う。私は「キャッチー」なものを批判したが、「ポップ」はそれと異なる。私がここで「ポップ」と言いたいのは例えばアンディ・ウォーホル的なものなのだが、実際には私はXTCというバンドの“This Is Pop?”という曲を思い浮かべている。

 

XTC - This Is Pop? (1978) - YouTube

In a milk bar and feeling lost
Drinking sodas as cold as frost
Someone leans in my direction
Quizzing on my juke-box selection
What do you call that noise
That you put on?
This is pop, yeah, yeah
This is

〔…〕

「お前が選んだそのノイズ、なんて言うんだよ?」

「これがポップなんだよ、これが」

 初期にはニューウェイヴ・パンクを代表するバンドだったXTC。“This Is Pop?”は上に引用したように「ノイズ」を肯定し、これこそが「ポップ」だと宣言するような歌詞になっている。しかし、PVを見てみるとむしろ逆の意味も読み取れてしまう。

 見れば分かる通り、そのPVは大量生産される製品を皮肉るような内容になっている。アンディ・パートリッジがレコードをミッキーマウスの耳風に掲げるところなど、まさに「ニューウェイヴ」的な皮肉の精神が溢れているが、このPVは、音楽ももはやスーパーマーケットで売られる安物の肉と大して変わらない「既製品=ポップ」なのだ、と、つまりむしろ「ポップ」さを批判しているようにも読める。

 要するに、「ディス・イズ・ポップ」という言明は、「これこそがポップだ」と単に指示する意味としても取れるし、逆に「こんな(大量生産された)ものがいわゆる『ポップ』なのだ」という皮肉としても取れる。これはまさにウォーホルの「ポップ・アート」ともほぼ同じなのであって、この二重所属性が「ポップ」に必要なのである。「パロディ」と言ってもいい。それは人間的「共感」に終わることがない。没入したとたんにそれを突き放す。

 

 「ポップ」を目指すということは、実は我々の「動物的」な部分を認めるということである。もちろん、われわれは自分たちの動物性を完全に切り離し、完全に理性的に思考することはできない。流通に振り回され、暴力的な「リツイート」の海の中で生きていかざるをえないだろう。

 しかし、まさに情報は「暴力的」なのだから、それを利用しない手はない。「ノイズ」をポップなものとしてムリヤリ聞かせること。それでいてこの自分たちが発する「ノイズ」こそが真にポップであると、開き直って自らを肯定して演じること。「ポップ」は人間的共感・人間的反感をどこまでも異化・相対化していくだろう。

 私たちは喉元過ぎれば熱さを忘れるわけで、別に忘れてもよいが、忘れやすいことは覚えておかなくてはならない。たとえば、『ジョジョ』六部の「ジェイル・ハウス・ロック」(物事を三つまでしか記憶できなくさせるスタンド能力)戦を思い返してみよう。この闘いこそ、まさに我々が今置かれている状況なのである。

 

〔…〕ジェーコブ、お前はまだ勉強が足りんぞ。これからは君も苦労が多いぞ、ポリー。こういうクズ野郎どもをまともな人間に仕立てなきゃならんのだからなあ。一体お前らにゃわかってんのか、人間らしいやり方ってものが。(『三文オペラ』第一幕)*3

 

    

 

 

(文責:左藤青 @satodex

*1:ブレヒト三文オペラ』岩淵達治訳、岩波文庫、二〇〇六年、一四、一五頁。乞食たちのボス、ピーチャムの台詞。

*2:例えば、https://twitter.com/masayachiba/status/1044561780372959233

*3:ブレヒト、前掲書、四五、四六頁。ギャングのボス、メッキースの台詞。

哄笑批評宣言

 マーク・フィッシャーが死んだ

 資本主義が唯一の存続可能な政治・経済的制度であるのみならず、今やそれに対する論理一貫した代替物を想像することすら不可能だ、という意識が蔓延した状態(マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』邦訳10頁)

 それが「資本主義リアリズム」である。社会の可能性の単数化、必然化に対するこの諦観。「この道しかない」。可能世界の消去、想像力の欠如。

 たとえば「現実は小さな改善を積み重ねることしかできない。大きな話や理念や革命の話を安易に持ち出してはならない/そういうことは専門家に任せるべきだ」という極めてもっともな考え方も、このリアリズムに属している。

 

 マーク・フィッシャーが見た世界は、冷戦が終結し、もはや資本主義とは別の可能性を、冗談以外では想像することのできなくなった世界である。「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」。そこにおいては、一見資本主義に反旗を翻すような「反・資本主義運動」や「カウンターカルチャー」すら、実は資本主義を強化し、リアリズムを補強するものとして機能してしまう可能性がある。

反・資本主義運動は、資本主義に代わる首尾一貫した政治経済モデルを提案することができなかったため、その真の狙いが資本主義を脱することではなく、ただたんに、そのもっとも酷い悪態を緩和することにあるのではないかと疑われた。〔…〕反・資本主義運動とは、そもそも叶うはずがないと自ら諦めつつも、一連のヒステリカルな要求を繰り返すものなのだ、との印象を残すことになった(『資本主義リアリズム』邦訳41頁)

 もちろん、フィッシャーは反資本主義運動一般を批判しているわけではない。けれども、フィッシャーにしたがえば、少なくとも「リベラル派」のデモなどは批判対象になる。それは、たんに資本主義の内側に留まっており、決して自身の普遍性を示すことができない。したがってオルタナティヴを決して示さないのである。これはすでに、ジジェクをはじめ様々な思想家によって指摘されていることでもある。

 もちろん、私たちは現代日本のリベラル・デモにもほぼ同類の問題を見出すことができる。震災後、「知識人」と一部のメディアは、まるで最後の希望を見出したかのように、SEALDsのデモに飛びついた。あるいは作り出した。しかし、それが何か現実の別の姿、ありうるかもしれない「別の選択肢」を見せてくれただろうか。

 おそらく、多くのデモは、「政治的に正しい」主張なのだろう。それはある人間の「実存」にとって必要な運動であり、真剣な要求なのだ。しかし、明らかにそれは「別の選択肢」としては機能していなかったし、これからもそうなることはないだろう、ということを、私たちは確信している。そもそも、デモの参加者たちもおそらく「別の現実」などを望んでいないし、そんなことは目的ではないと言うだろう。ただ、彼/彼女らは自らの目の前の「現実」を快適に生きたいのだ。

 

 このように、フィッシャーは「資本主義リアリズム」の打破、すなわち選択肢の複数化を非常に困難な問題として捉えた。けれども彼はそれこそが、ある種の思想の役目だと考えていた。

ブレヒトをはじめ、フーコーバディウに至るラディカルな思想家の数々が主張してきたように、社会の解放を目指す政治はつねに「自然秩序(あたりまえ)」という体裁を破壊すべきで、必然で不可避と見せられていたことをただの偶然として明かしていくと同様に、不可能と思われたことを達成可能であると見せなければならない。現時点で現実的と呼ばれるものも、かつては「不可能」と呼ばれていたことをここで思い出してみよう。〔…〕(『資本主義リアリズム』邦訳50頁) 

 この認識自体は、これはおそらくある種の思想家、あるいは「批評家」に一貫していると思われる。思想/「批評」とはオルタナティヴを思考する営みなのだ。私はこの定義に同意する。私たちの団体「大失敗」も、基本的にはここから出発している。しかし一方で、こうした記述は単にコンセプトを示しているだけにすぎないわけで、いたって当たり前、とも言える。 

 それとは別で、私たちがフィッシャーを読んでラディカルだと思った点が二つある。

 

臨界点

 一点は、彼が「オルタナティヴ」のハードルをどこまでもあげていく部分である。一方で彼は現行体制を差異化する「別の選択肢」をどうしようもなく渇望している。しかしもう一方で、彼は現実に起きる反体制運動や、実際に目の前に生じてくる「別の選択肢」については、それは同じ「現実」を補強する共犯関係でしかない、と批評する。安易でリベラルな「答え」に対する奇妙な禁欲がここにはある。

 「批評家」の立場は、元来このダブル・バインドの中に、(福田恆存柄谷行人が言うところの)「臨界点」に立つ感覚の中にあるのではないだろうか*1。「批評家」は生ぬるく、ありえそうな(「実現可能な」)、リベラルな選択肢にすぐに飛びついてはならない。彼らはなぜかいつでも、夢見ると同時に厳しい現状認識を持たなければならない。安易な答えから常に身をかわし、自らにとっての臨界点に、なぜか彼らは行かなければならない……。

(「なぜか」そうなのだ。例えば外山恒一は、東浩紀の「活動家」としての素質をほとんど手放しで評価しているが、なぜ東がそこまで「批評」というジャンルにこだわるのかが理解できない*2。そして東浩紀はむしろ、そうした「活動家」たちを理解できないだろう)

 ところで、私たちにとっては、「批評家」たちのそうした悪戦苦闘はとても「面白い」ものだ(例えば柄谷行人の本は笑いなしには読めない)。彼らは幽霊を幻視する霊能者、あるいはオカルトマニアのようである。彼らは、一般にほとんど共有できないような問題意識を持って、「運動」であり「闘争」を続けている。

 それは「タコツボの中」においては悲劇的で英雄的だが、そこを少し離れて見たとき、おそらくはほとんど「喜劇」としてしか見えないはずである。この喜劇に、「批評」のひとつの類型を見ることさえできるかもしれない。むろん、これは別に皮肉で言っているのではなく、私たちはこの面白さこそ最もポジティヴな意義である、と言っているのだ。

 

自殺という実践

 さて、『資本主義リアリズム』のもう一つのラディカルな点は、マーク・フィッシャーが自殺している点である。フィッシャーは二〇一七年一月に四十八歳で死んだ。うつ病の末の自殺である。この死こそ、批評的「実践」ではないだろうか。

 人の死をひとつの理由に還元することはできないが、彼の著作はそう思わせるだけの内容を持っていた。フィッシャーは2008年の著作集である『資本主義リアリズム』の最後では、思想という営為の未来に希望を見出している。ところがその九年後——その間に何があったかは知らないが——結果として、彼は自らの批評活動の可能性を、死というひとつの結末に収斂させてしまった。このことによって、『資本主義リアリズム』を読むという体験は大きく変えられてしまった。

歴史の終わりというこの長くて暗い闇の時代を、絶好のチャンスとして捉えなければならない。資本主義リアリズムの蔓延、まさしくこの圧迫的な状況が意味するのは、それとは異なる政治・経済的な可能性へのかすかな希望さえも、不相応に大きな影響力を持ちうるということだ。ほんのわずかな出来事でも、資本主義リアリズム下で可能性の地平を形成してきた反動主義の灰色のカーテンに裂け目を入れることができる。(『資本主義リアリズム』邦訳198、199頁) 

 最後に述べられるこのかすかな「希望」を、彼の自殺という本来余計でしかない情報を目に入れずに読むことができるのだろうか。この「希望」の記述は、まさに彼自身の死によって、「かすかな希望をもとめて、まるで実ることのない努力をし続けるうつ病患者の姿」に、つまり「絶望」に変えられてしまったのだ。

 彼は「資本主義リアリズム」に抵抗した。が、その死によって、むしろその抵抗の不可能性を描いてしまったのである。これは悲劇的でも喜劇的でもある。彼は自殺という実践によって我々の読解そのものを変えてしまった。これを批評的と言わずしてなんと言うべきだろう?

 「批評家はかくあるべし」と語っている間は楽観的でいい。だが結局、「資本主義リアリズム」はそうした人間を簡単に殺す。フィッシャーは単なるサブカル評論家で、うつ病患者で、現実とは何も関係がない、とそれでもあなたは言うだろうか。

 フィッシャー自身が、たとえばカート・コバーンの死にポストモダン文化の膠着状態を見出していたように、私たちはマーク・フィッシャーの死にこそ、「批評」/思想という営為そのものの不可能性を見る。彼が少なくとも一時期にはもっていた希望に反して。

 自殺というひとつの失敗の実演、デモンストレーションこそ、彼にとって最も冷静な「現状認識」ではなかったか。それとも、「横断」だの「オルタナティヴ」だのをお題目に掲げ、さも「成功」しているような顔でサブカルチャーを論じることが、いまや賢い「批評」の在り方なのだろうか。

 

大失敗

 「横断」(あるいは「誤配」)は常に事後的にのみ見出される。しかし、「資本主義リアリズム」はその事後的な可能性を、「いまだない」という外部をどこまでも消去していくことになるだろう。この不可能性を私たちは「大失敗」と呼ぼう。

 私たちの積極的なテーゼは、以下である。①批評とはオルタナティヴを目指すものであり、誤配を誘発するものであり、ひとつの「現実」に対する抵抗でなければならない。②しかしそのとき、同時にその「大失敗」が発覚しなければならない

 こう言うこともできる。①批評は読者に何らかの、ある「運動」の夢を見させる。しかし同時に、②その「運動」の行き詰まりを見せ、絶望させ、憤激させ、不安を抱かせるものでもなければならない。そこで初めて批評はくだらない「自己啓発」であることをやめ、現実に対する異化効果を得る。

 

 さて、これまで私は「私たち」という一人称を用いてきた。しかしそれは不適切だ。実は、ここに書かれたことはあくまで「私」の考えにすぎないのである。私たちは自分たちになんの共同性があるかも知らないままに集まった。

 私たちは五人で批評誌『大失敗』を書いたのであり、「私たち一人一人が複数人なのだから、もうそれだけで多数」だった。私たちは、それぞれが全く異なる切り口を持っている。そういうわけで、メンバーを紹介しよう。

 

左藤青(@satodex):私である。名前は「さとう あおい」と読む。京都の大学院生。専攻は哲学、とくにジャック・デリダ。得意分野はポピュラー音楽。企画と編集を担当するほか、今回は八〇年代ニューウェイヴ・パンクと昭和の終わりについて書く。以前、「航路通」の名前で『ララランド』とか平沢進について文章を書いたこともある。

 

しげのかいり(@hahaha8201):もともと「放蕩息子」という名前のアルファだったが、大衆に嫌気がさして辞める。新潟在住である。批評誌『アレ』で「映画放談」を連載していた。問題意識は資本主義、市民社会、都市など。今回は文芸批評を書く。

 

ディスコゾンビ#104(@discozombie104):漫画家、イラストレーター。東方Projectの二次創作や、漫画評論系の同人誌を出しているほか、「保田塾」保田やすひろ氏とのコラボも行なっている。「名無し会」のデザイン関係も請け負っており、今回の冊子のデザイン、ロゴ制作などもお任せしている。彼自身のエッセイも掲載されるが、そこでは八〇年代・九〇年代カルチャーについての密な記述が期待できるだろう。

ホームページ: *Hologram Rose*

 

⼩野まき⼦:新潟在住。大学ではメディア論、身体論などを学ぶ。舞台芸術への関心が強く、俳優、作品プロデューサーの経験もある。『大失敗』ではベルトルト・ブレヒト「セチュアンの善人」について論じる予定。

 

赤井浩太(@rouge_22):神戸在住。25歳、無職。大学時代は休学して世界30か国を旅したりしていた。卒業後、東京の出版社に就職するも、一年半で退職して現在にいたる。「石ころたちの私語り」で『文芸思潮』第12回エッセイ賞佳作受賞。現在は平岡正明谷川雁を主に研究している。左翼思想史、政治と文学、都市社会論などが主な関心の範囲。

 

 おそらくメンバーそれぞれにとって「批評」は、全く違うものだと思う。だが、「ネトウヨ」だろうが極左だろうが、評論家だろうが実作者だろうが、共通しているのは「現実」に対する抵抗、「現実」の「異化」を目指すこと、である。この意味で私たちは、「批評」という恥晒しな名のもとに文章を書くのだ。

 

 さしあたってこれを私たちの批評宣言とすることができるだろう。

 

 上記のメンバーたちによる『大失敗』Vol.1は2019年1月20日、京都文フリで発売される(郵送による販売も行う予定)。発売までは、このブログやTwitterで文章を発表していく。

 ぜひ買って読んでみて欲しい。それに値するだけの内容は十分用意できるし、今の「批評」に飽きた人も、「批評とは何か」を知らない人も惹きつけるつもりで作っている。

 ちなみに私は自殺する気など毛頭ない。

  

 

(文責:左藤青)