批評集団「大失敗」

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浅田彰と資本主義 赤い文化英雄(後編)

※ 前編 

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ボヘミアンとしての批評家

 「ボヘミアン」とは、世俗の秩序や階級から背を向けて生活する自由人のことだが、近代日本の批評を確立者と(一応)見なされている小林秀雄は、まさしくこのボヘミアンの典型に他ならない。今日においても小林が一部で人気を維持し続けている秘密はここにあるはずだ。なぜ人が小林に魅せられるかと言えば、それは小林がボヘミアンであり、世間の事情から離れたところに位置する「仙人」であるからだろう。もっと正確に言えば、楽して生きているように見えるからではなかろうか。

 このような「ボヘミアン」の下地になったのは、大正以降の出版ブームである。大正期には円本全集が大量に発行され、俗にいう大正教養主義の元手となった。小林がよく引用するロシア文学(そのもっとも象徴的な存在がドストエフスキーである)はその時期に多く出版された。

 小林の処女作である『様々なる意匠』は大正期に勃興したイデオロギー的、文芸の潮流をすべて「意匠」であると切り捨てた仕事であって、この点で小林は大正教養主義の教養人ブームに背反しているかのよう見える。しかしこれは実際には「背反」などではなく、小林秀雄ボヘミアン的態度そのものが、大正教養主義の風潮に下支えされたものである、というべきであろう。教養主義の神話があったからこそ、小林秀雄ボヘミアンに「見えた」のである。

 教養主義を切り捨てることによって、唯一のボヘミアンでありえたのが小林秀雄である。小林秀雄の「真贋」から見れば、マルクス主義や芸術至上主義も「意匠」に過ぎず、それは本質的なモノをとらえた批評ではないということになる。そして今日においても続いていると(一応は)いわれている「批評」もまた、このボヘミアン神話によって規定されているのだ。例えば、批評が「横断的」でなければならない、とか、アカデミズムに規定された「難解な言辞」ではなく、多くの大衆に届く言葉を批評は使わなければならない、とかといった「固定観念」も、この神話があるからこそ機能するものである。

 学者はディシプリンによって規定された存在であり、ボヘミアン的ではない。だから横断的な言葉を吐くことができないし、批評家と違い神話的ではなく、極めて官僚的な格好悪い存在に見えてしまう。専門性もなければ何をしているのかわからない小林秀雄が「批評家」として尊敬されるのは、世俗を超越した卓越者、ボヘミアンすなわち「職につかない自由人」になりたい願望が批評の読者にはあるからではないか。

ボヘミアンからルサンチマン代理人

 このように小林秀雄の批評家としての人気は世俗から卓越した「自由人」ボヘミアンであることに裏打ちされたものである。小林秀雄のこのボヘミアン神話を継承したのが、世にも珍しく、詩人でありながら著名人である吉本隆明であろう。吉本隆明もまた、大学というディシプリンから距離を置き、専門分野をもたないが、にも関わらず深淵的な知識人であるかのように思われてきた存在だ。

 吉本は「吉本隆明だから偉い」という評価のされ方をしており、具体的に何をいったのか定かではないところがある。例えば「マス・イメージ」や「対幻想」といった概念というか、標語をよく耳にするだけであって、それが何を批判し、なにを称揚しているのかわからない。もちろん私だけがわからないのかもしれないが、少なくとも吉本隆明を評価する人々がこれらの概念の批評性を分析したモノを私は読んだことがない。

 しかしそのような吉本思想の中で、二つだけ理解可能な箇所がある。一つは『言語にとって美とは何か』で主張される「海をみた感動がうになった」というような極めて特異な言語論で、これに関しては言いたいことはよくわかる。しかし何故吉本がここに至ったのかは今のところ私には解読不可能である。よって、この言語論の思想的評価については別稿に譲りたい。

 同じくボヘミアン的な自由人批評家である小林秀雄吉本隆明の差異があるとすれば、「大衆の原像」という標語であろう。小林の批評性が、あくまで達人の「真贋」による品定めにあったのに対して、吉本という批評家を批評家たらしめているのは、彼が自らを「大衆の原像」を体現していると思い込むところにあるのだ。大衆の原像とは、知的たろうとたえず欲望する「知識人」に対置される、「知を求めない大衆」のことである。知識人とは違って、大衆は言葉を持たず、沈黙を守り続ける存在だ。しかし実際にはこのように沈黙し続ける非知的な「大衆」こそが世界を動かしている存在なのであり、知識人は大衆を持たなければならない。吉本が「大衆の原像」において言わんとしたことは以上である。

 これだけでは単なる「民主」主義なのだが、吉本の特異な点は、この「大衆の原像」思想が、大衆のルサンチマンと結びついている点であろう。つまり、知識人は、沈黙する大衆の側のルサンチマン(怨恨)を代理し、富裕層を批判する存在でなければならない。吉本隆明はこの「知識人」の定義において小林秀雄と異なる。

浅田彰とフリーター

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 浅田彰小林秀雄のごとき真贋も、吉本隆明のごときルサンチマンも批判しながら、しかし小林/吉本と同じ、ボヘミアン的・横断的知識人の立場を確立した批評家ではないだろうか。というのは、前編で解説したように、浅田は「バッタモン」を売る存在として、極めて露骨な形で貴族性を出していたからである。小林秀雄のばあい、その自由人的な立場がどのように確立されているかは真贋という神秘的な表現でカモフラージュされている。吉本隆明のばあいは、「大衆の原像」を代理する必要性を強弁するのみにとどまっている。そのどちらも、そのボヘミアン性は、いくら分析したところで、極めて曖昧な文学的な形でしか表現できないものであった。

 しかし明らかに、浅田彰の態度は端的かつ具体的に浅田が「金持ち」であることに由来している。その露骨な貴族主義によって、浅田彰ボヘミアンたりえている。だからこそ、浅田の共産主義は前編で詳しく分析したように極めて審美的なものである。浅田彰は、既存コミュニストの美意識を否定するからこそ、凡庸な革命思想を嘲笑い、射精を迎えないホモソーシャルセクシャリティを擁護することができるのだ。 

 

 ところで、フリーター的な生き方は80年代以降勃興したものである。正社員にはならず絶え間なく会社を変えて行き、制度から逸脱していくフリーターは、極めてボヘミアン的な存在ではなかろうか。そして浅田の『逃走論』はフリーター的な生き方と非常にシンクロしているテキストであろう。浅田彰になると、ボヘミアン的態度は資本主義のなかに組み込まれ、小林秀雄にあったような特権性を失って、単なるフリーターと同一にならざるをえない。

 「横断」的に浮遊する非専門家であることを自負する「批評家」の形は、今や翻って、単なる契約社員的なものになってしまった。しかも、正社員からフリーターへというパースペクティブを下支えする、公務員の解体=ネオリベ政策は、吉本的な大衆のルサンチマン(いわゆる「税金ドロボー」叩き)によって力を持っているのである。
 この点に関して浅田彰に責任があるとは思わないが、『逃走論』は実は極めてネオリベ的なものである。考えなければならない点は、今日におけるボヘミアン的知識人は、「契約社員」以上の意味を持ってないこと、これである。

『広告』から『アジビラ』へ

 前編でも触れたように浅田彰糸井重里はバブル期の資本主義を体現する存在である。しかし、それはそこに完全に同調した存在としてではなく、あくまでそれ以前の人々に対する「翻訳者」として彼らはあったと考えるべきである。その点で浅田彰共産主義を捨てていなかったことはある意味でプラスに働いている。共産主義的な文脈を踏まえた年長者を対象として、通俗化(「ジャンク」化)したボヘミアン神話を説明する広告を打ち出す際、すでに廃れつつある共産主義の文脈は、単純に、説明の通りをよくする機能を果たしたであろう。ハードコアな左翼の文脈を抑えている浅田彰が「広告屋」になれたのはそのためではないだろうか。

 浅田彰ボヘミアン神話を再構成する広告を生産し続ける。小林秀雄吉本隆明のように、その源泉を霧の中に隠した形ではなく、堂々と貴族であることを自負し、未だに神話を享受しなければならない人々を嘲笑いながら。しかしその嘲笑にこそ読者は惹かれ、彼と同じくボヘミアン的な卓越者たろうと、フリーター=戦士となりサヴァイブする。しかし彼らが卓越者になることは絶対にない。なぜなら浅田彰は「貴族」だからであり、フリーターは単なる下働きだからだ。

 いまや、むしろ、このような浅田彰の貴族的「広告」戦略に対置されるものが必要なのであって、それこそが「ボヘミアン」神話それ自体を真に批判しうるものになるはずだ。それは具体的には、既存の自由主義を“愚直”*1に批判する、政治性を持った「アジビラ」ということになるのではないだろうか。


 かかる批評的な戦略をもったアジテーターの登場は、外山恒一花咲政之輔を待たねばならない。

 

   

 

(文責 - しげのかいり

*1:ここでいわれている“愚直”は、浅田彰的な「美」に対抗しうる、「ユーモア」をもった書き手という意味である。それは単純なコミュニストではなく、その愚直さがかえって美ではなくユーモア・哄笑を誘う存在でなければならない。蓮實重彦の言う「愚鈍」のことである。