批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」な批評集団。https://twitter.com/daisippai19

哄笑批評宣言

 マーク・フィッシャーが死んだ

 資本主義が唯一の存続可能な政治・経済的制度であるのみならず、今やそれに対する論理一貫した代替物を想像することすら不可能だ、という意識が蔓延した状態(マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』邦訳10頁)

 それが「資本主義リアリズム」である。社会の可能性の単数化、必然化に対するこの諦観。「この道しかない」。可能世界の消去、想像力の欠如。

 たとえば「現実は小さな改善を積み重ねることしかできない。大きな話や理念や革命の話を安易に持ち出してはならない/そういうことは専門家に任せるべきだ」という極めてもっともな考え方も、このリアリズムに属している。

 

 マーク・フィッシャーが見た世界は、冷戦が終結し、もはや資本主義とは別の可能性を、冗談以外では想像することのできなくなった世界である。「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」。そこにおいては、一見資本主義に反旗を翻すような「反・資本主義運動」や「カウンターカルチャー」すら、実は資本主義を強化し、リアリズムを補強するものとして機能してしまう可能性がある。

反・資本主義運動は、資本主義に代わる首尾一貫した政治経済モデルを提案することができなかったため、その真の狙いが資本主義を脱することではなく、ただたんに、そのもっとも酷い悪態を緩和することにあるのではないかと疑われた。〔…〕反・資本主義運動とは、そもそも叶うはずがないと自ら諦めつつも、一連のヒステリカルな要求を繰り返すものなのだ、との印象を残すことになった(『資本主義リアリズム』邦訳41頁)

 もちろん、フィッシャーは反資本主義運動一般を批判しているわけではない。けれども、フィッシャーにしたがえば、少なくとも「リベラル派」のデモなどは批判対象になる。それは、たんに資本主義の内側に留まっており、決して自身の普遍性を示すことができない。したがってオルタナティヴを決して示さないのである。これはすでに、ジジェクをはじめ様々な思想家によって指摘されていることでもある。

 もちろん、私たちは現代日本のリベラル・デモにもほぼ同類の問題を見出すことができる。震災後、「知識人」と一部のメディアは、まるで最後の希望を見出したかのように、SEALDsのデモに飛びついた。あるいは作り出した。しかし、それが何か現実の別の姿、ありうるかもしれない「別の選択肢」を見せてくれただろうか。

 おそらく、多くのデモは、「政治的に正しい」主張なのだろう。それはある人間の「実存」にとって必要な運動であり、真剣な要求なのだ。しかし、明らかにそれは「別の選択肢」としては機能していなかったし、これからもそうなることはないだろう、ということを、私たちは確信している。そもそも、デモの参加者たちもおそらく「別の現実」などを望んでいないし、そんなことは目的ではないと言うだろう。ただ、彼/彼女らは自らの目の前の「現実」を快適に生きたいのだ。

 

 このように、フィッシャーは「資本主義リアリズム」の打破、すなわち選択肢の複数化を非常に困難な問題として捉えた。けれども彼はそれこそが、ある種の思想の役目だと考えていた。

ブレヒトをはじめ、フーコーバディウに至るラディカルな思想家の数々が主張してきたように、社会の解放を目指す政治はつねに「自然秩序(あたりまえ)」という体裁を破壊すべきで、必然で不可避と見せられていたことをただの偶然として明かしていくと同様に、不可能と思われたことを達成可能であると見せなければならない。現時点で現実的と呼ばれるものも、かつては「不可能」と呼ばれていたことをここで思い出してみよう。〔…〕(『資本主義リアリズム』邦訳50頁) 

 この認識自体は、これはおそらくある種の思想家、あるいは「批評家」に一貫していると思われる。思想/「批評」とはオルタナティヴを思考する営みなのだ。私はこの定義に同意する。私たちの団体「大失敗」も、基本的にはここから出発している。しかし一方で、こうした記述は単にコンセプトを示しているだけにすぎないわけで、いたって当たり前、とも言える。 

 それとは別で、私たちがフィッシャーを読んでラディカルだと思った点が二つある。

 

臨界点

 一点は、彼が「オルタナティヴ」のハードルをどこまでもあげていく部分である。一方で彼は現行体制を差異化する「別の選択肢」をどうしようもなく渇望している。しかしもう一方で、彼は現実に起きる反体制運動や、実際に目の前に生じてくる「別の選択肢」については、それは同じ「現実」を補強する共犯関係でしかない、と批評する。安易でリベラルな「答え」に対する奇妙な禁欲がここにはある。

 「批評家」の立場は、元来このダブル・バインドの中に、(福田恆存柄谷行人が言うところの)「臨界点」に立つ感覚の中にあるのではないだろうか*1。「批評家」は生ぬるく、ありえそうな(「実現可能な」)、リベラルな選択肢にすぐに飛びついてはならない。彼らはなぜかいつでも、夢見ると同時に厳しい現状認識を持たなければならない。安易な答えから常に身をかわし、自らにとっての臨界点に、なぜか彼らは行かなければならない……。

(「なぜか」そうなのだ。例えば外山恒一は、東浩紀の「活動家」としての素質をほとんど手放しで評価しているが、なぜ東がそこまで「批評」というジャンルにこだわるのかが理解できない*2。そして東浩紀はむしろ、そうした「活動家」たちを理解できないだろう)

 ところで、私たちにとっては、「批評家」たちのそうした悪戦苦闘はとても「面白い」ものだ(例えば柄谷行人の本は笑いなしには読めない)。彼らは幽霊を幻視する霊能者、あるいはオカルトマニアのようである。彼らは、一般にほとんど共有できないような問題意識を持って、「運動」であり「闘争」を続けている。

 それは「タコツボの中」においては悲劇的で英雄的だが、そこを少し離れて見たとき、おそらくはほとんど「喜劇」としてしか見えないはずである。この喜劇に、「批評」のひとつの類型を見ることさえできるかもしれない。むろん、これは別に皮肉で言っているのではなく、私たちはこの面白さこそ最もポジティヴな意義である、と言っているのだ。

 

自殺という実践

 さて、『資本主義リアリズム』のもう一つのラディカルな点は、マーク・フィッシャーが自殺している点である。フィッシャーは二〇一七年一月に四十八歳で死んだ。うつ病の末の自殺である。この死こそ、批評的「実践」ではないだろうか。

 人の死をひとつの理由に還元することはできないが、彼の著作はそう思わせるだけの内容を持っていた。フィッシャーは2008年の著作集である『資本主義リアリズム』の最後では、思想という営為の未来に希望を見出している。ところがその九年後——その間に何があったかは知らないが——結果として、彼は自らの批評活動の可能性を、死というひとつの結末に収斂させてしまった。このことによって、『資本主義リアリズム』を読むという体験は大きく変えられてしまった。

歴史の終わりというこの長くて暗い闇の時代を、絶好のチャンスとして捉えなければならない。資本主義リアリズムの蔓延、まさしくこの圧迫的な状況が意味するのは、それとは異なる政治・経済的な可能性へのかすかな希望さえも、不相応に大きな影響力を持ちうるということだ。ほんのわずかな出来事でも、資本主義リアリズム下で可能性の地平を形成してきた反動主義の灰色のカーテンに裂け目を入れることができる。(『資本主義リアリズム』邦訳198、199頁) 

 最後に述べられるこのかすかな「希望」を、彼の自殺という本来余計でしかない情報を目に入れずに読むことができるのだろうか。この「希望」の記述は、まさに彼自身の死によって、「かすかな希望をもとめて、まるで実ることのない努力をし続けるうつ病患者の姿」に、つまり「絶望」に変えられてしまったのだ。

 彼は「資本主義リアリズム」に抵抗した。が、その死によって、むしろその抵抗の不可能性を描いてしまったのである。これは悲劇的でも喜劇的でもある。彼は自殺という実践によって我々の読解そのものを変えてしまった。これを批評的と言わずしてなんと言うべきだろう?

 「批評家はかくあるべし」と語っている間は楽観的でいい。だが結局、「資本主義リアリズム」はそうした人間を簡単に殺す。フィッシャーは単なるサブカル評論家で、うつ病患者で、現実とは何も関係がない、とそれでもあなたは言うだろうか。

 フィッシャー自身が、たとえばカート・コバーンの死にポストモダン文化の膠着状態を見出していたように、私たちはマーク・フィッシャーの死にこそ、「批評」/思想という営為そのものの不可能性を見る。彼が少なくとも一時期にはもっていた希望に反して。

 自殺というひとつの失敗の実演、デモンストレーションこそ、彼にとって最も冷静な「現状認識」ではなかったか。それとも、「横断」だの「オルタナティヴ」だのをお題目に掲げ、さも「成功」しているような顔でサブカルチャーを論じることが、いまや賢い「批評」の在り方なのだろうか。

 

大失敗

 「横断」(あるいは「誤配」)は常に事後的にのみ見出される。しかし、「資本主義リアリズム」はその事後的な可能性を、「いまだない」という外部をどこまでも消去していくことになるだろう。この不可能性を私たちは「大失敗」と呼ぼう。

 私たちの積極的なテーゼは、以下である。①批評とはオルタナティヴを目指すものであり、誤配を誘発するものであり、ひとつの「現実」に対する抵抗でなければならない。②しかしそのとき、同時にその「大失敗」が発覚しなければならない

 こう言うこともできる。①批評は読者に何らかの、ある「運動」の夢を見させる。しかし同時に、②その「運動」の行き詰まりを見せ、絶望させ、憤激させ、不安を抱かせるものでもなければならない。そこで初めて批評はくだらない「自己啓発」であることをやめ、現実に対する異化効果を得る。

 

 さて、これまで私は「私たち」という一人称を用いてきた。しかしそれは不適切だ。実は、ここに書かれたことはあくまで「私」の考えにすぎないのである。私たちは自分たちになんの共同性があるかも知らないままに集まった。

 私たちは五人で批評誌『大失敗』を書いたのであり、「私たち一人一人が複数人なのだから、もうそれだけで多数」だった。私たちは、それぞれが全く異なる切り口を持っている。そういうわけで、メンバーを紹介しよう。

 

左藤青(@satodex):私である。名前は「さとう あおい」と読む。京都の大学院生。専攻は哲学、とくにジャック・デリダ。得意分野はポピュラー音楽。企画と編集を担当するほか、今回は八〇年代ニューウェイヴ・パンクと昭和の終わりについて書く。以前、「航路通」の名前で『ララランド』とか平沢進について文章を書いたこともある。

 

しげのかいり(@hahaha8201):もともと「放蕩息子」という名前のアルファだったが、大衆に嫌気がさして辞める。新潟在住である。批評誌『アレ』で「映画放談」を連載していた。問題意識は資本主義、市民社会、都市など。今回は文芸批評を書く。

 

ディスコゾンビ#104(@discozombie104):漫画家、イラストレーター。東方Projectの二次創作や、漫画評論系の同人誌を出しているほか、「保田塾」保田やすひろ氏とのコラボも行なっている。「名無し会」のデザイン関係も請け負っており、今回の冊子のデザイン、ロゴ制作などもお任せしている。彼自身のエッセイも掲載されるが、そこでは八〇年代・九〇年代カルチャーについての密な記述が期待できるだろう。

ホームページ: *Hologram Rose*

 

⼩野まき⼦:新潟在住。大学ではメディア論、身体論などを学ぶ。舞台芸術への関心が強く、俳優、作品プロデューサーの経験もある。『大失敗』ではベルトルト・ブレヒト「セチュアンの善人」について論じる予定。

 

赤井浩太(@rouge_22):神戸在住。25歳、無職。大学時代は休学して世界30か国を旅したりしていた。卒業後、東京の出版社に就職するも、一年半で退職して現在にいたる。「石ころたちの私語り」で『文芸思潮』第12回エッセイ賞佳作受賞。現在は平岡正明谷川雁を主に研究している。左翼思想史、政治と文学、都市社会論などが主な関心の範囲。

 

 おそらくメンバーそれぞれにとって「批評」は、全く違うものだと思う。だが、「ネトウヨ」だろうが極左だろうが、評論家だろうが実作者だろうが、共通しているのは「現実」に対する抵抗、「現実」の「異化」を目指すこと、である。この意味で私たちは、「批評」という恥晒しな名のもとに文章を書くのだ。

 

 さしあたってこれを私たちの批評宣言とすることができるだろう。

 

 上記のメンバーたちによる『大失敗』Vol.1は2019年1月20日、京都文フリで発売される(郵送による販売も行う予定)。発売までは、このブログやTwitterで文章を発表していく。

 ぜひ買って読んでみて欲しい。それに値するだけの内容は十分用意できるし、今の「批評」に飽きた人も、「批評とは何か」を知らない人も惹きつけるつもりで作っている。

 ちなみに私は自殺する気など毛頭ない。

  

 

(文責:左藤青)