批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」な批評集団。https://twitter.com/daisippai19

大失敗のRadio-Activity 第十回「『生活の批評誌』と『大失敗』」(ゲスト=樫田那美紀)

第十回

 

大失敗のRadio-Activity

大失敗のRadio-Activity

  • 前衛批評集団「大失敗」
  • ニュース
  • ¥0

 

Podcastが開けない場合はこちらから

 

2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太と左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。

今回は、前回に引き続き、我々より少し先輩の批評同人誌『生活の批評誌』の樫田那美紀さんにお越しいただきました! 『生活の批評誌』は、「生活」と「批評」というややもすると相容れないと思われがちな二者の交差する場所を探しつつ、精力的に活動している批評同人誌です。「大失敗」とはかねて若干の交流があった他、意識的に「政治」を問題にしておられる点で、「大失敗」との共通点もあります。


今回は「大失敗」と『生活の批評誌』でお互いの印象、交差するところ、批判点など、率直に語り合いました。「生活」を批評することとはどのようなことなのか? 何を語るべきなのか? など、論点はたくさんあると思います。ぜひお聞きください!


Twitter:『生活の批評誌』

 

f:id:daisippai:20191123184509p:plain

大失敗のRadio-Activity第九回「生活の批評」(ゲスト:樫田那美紀)

第九回

 

大失敗のRadio-Activity

大失敗のRadio-Activity

  • 前衛批評集団「大失敗」
  • ニュース
  • ¥0

 

Podcastが開けない場合はこちらから

 

2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太と左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。

今回は、我々より少し先輩の批評同人誌『生活の批評誌』の樫田那美紀さんにお越しいただきました! 『生活の批評誌』は、「生活」と「批評」というややもすると相容れないと思われがちな二者の交差する場所を探しつつ、精力的に活動している批評同人誌です。「大失敗」とはかねて若干の交流があった他、意識的に「政治」を問題にしておられる点で、「大失敗」との共通点もあります。

現在第四号を準備中とのことですが、今回は『生活の批評誌』を始めたきっかけ、雑誌作りについて、『生活の批評誌』のコンセプト(生活と批評の交差点、フェミズムとの距離感)など濃密なお話ができました。次回も引き続き樫田さんにお話を伺うので、そちらもお楽しみに。

Twitter:『生活の批評誌』

 

f:id:daisippai:20191123184509p:plain

 

大失敗のRadio-Activity第八回「われらの人間性、ならびに恋愛相談の回」

第八回

 

大失敗のRadio-Activity

大失敗のRadio-Activity

  • 前衛批評集団「大失敗」
  • ニュース
  • ¥0

 

Podcastが開けない場合はこちらから

 

2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。


「もう何かを考えて喋るのはいやだ」という左藤の一言から始まる今回は、左藤・赤井のお互いの経歴や性格についてゆるく話し合っています。左藤が思想書を読み始めたきっかけ、赤井の高校・大学時代の話など。

後半では、最近設置したお題箱に(なぜか)来た恋愛相談(「二人の女性を好きになった時どうすればいいか」)に答えています。

 

お題箱はこちら。どしどしお題をお寄せください!

odaibako.net

 

 

なお、『大失敗』創刊号はこちらからご購入いただけます👉https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSfn0SY9uIfZyPRkeabze01Q3Z7DJtM7quPPajDEcYwlBEwu9g/viewform

 

パーソナリティ:赤井浩太左藤青

編集・BGM:左藤青

 

f:id:daisippai:20191220213107p:plain

 

大失敗のRadio-Activity第七回「インポッシブル・アーキテクチャー」

第七回

 

大失敗のRadio-Activity

大失敗のRadio-Activity

  • 前衛批評集団「大失敗」
  • ニュース
  • ¥0

 

Podcastが開けない場合はこちらから

 

2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。

今回は、赤井・左藤・松田さんの三人組で「大失敗散歩」、大阪・中之島にある国立国際美術館に行ってきました。

f:id:daisippai:20200215104450j:plain
現在開催中の「インポッシブルアーキテクチャー展 建築家たちの夢」(監修:五十嵐太郎)は、様々な「アンビルト」に終わった建築について紹介するという、なかなか先鋭的な展覧会でした。ラジオでは、岡本太郎メタボリズム、建築と「六八年」、アンビルトに終わったザハ・ハディドの新国立競技場案などの話題に触れています。

以下、公式サイトからの引用です。

20世紀以降の国外、国内のアンビルトの建築に焦点をあて、それらを仮に「インポッシブル・アーキテクチャー」と称しています。ここでの「インポッシブル」という言葉は、単に建築構想がラディカルで無理難題であるがゆえの「不可能」を意味しません。言うまでもなく、不可能に眼を向ければ、同時に可能性の境界を問うことにも繋がります。建築の不可能性に焦点をあてることによって、逆説的にも建築における極限の可能性や豊饒な潜在力が浮かび上がってくる――それこそが、この展覧会のねらいです。

 

f:id:daisippai:20200215104505j:plain

あと、冒頭ではなぜかバレンタインデーの話もしています。


なお、『大失敗』創刊号はこちらからご購入いただけます👉https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSfn0SY9uIfZyPRkeabze01Q3Z7DJtM7quPPajDEcYwlBEwu9g/viewform

 

パーソナリティ:赤井浩太左藤青、ゲスト=松田樹(神戸大学

編集・写真・BGM:左藤青

 

f:id:daisippai:20200215104952j:plain

 



f:id:daisippai:20191220213107p:plain
 

 

 

〈法〉への憎しみーー外山恒一のファシズムにおける生成と構造

※今年一月に左藤青の質問箱に来た質問に対する回答を大幅に加筆修正したものです。

f:id:daisippai:20200219095911j:image 

外山恒一は普遍的たりうるか

 先に言っておきますと、以前にも僕は外山恒一さんについて論じたことがあり、また、それも一つのきっかけとして、二〇一九年に我々「大失敗」はそんじょそこらの賞では及びもつかない栄誉ある賞すなわち「外山恒一賞」を受賞しています〔追記:受賞じゃなくてよく見たらノミネートでした〕

 さて、外山恒一さんは今年に入ってサイトを更新されました*1。「九州ファシスト党〈我々団〉」は「ファシスト党〈我々団〉」と改められ、活動エリアを全国とするよう方針が変更された。とりわけ「基本政策」は大幅に加筆改訂され、少なからぬ反響を生んでいるようです。この「基本政策」は、近視眼的で「常識的な」議論に拘泥するリベラルには(保守にも)もはや望むことのできない知性とセンスによって書かれたユニークな「正論」に見えます。

 しかし、さらに考えるべきなのは、なぜ我々にとってこれが「正論」に見えるかです。彼の表面的な言葉遣いに酔っているだけでは、外山さんの「フォロワー」にたくさんいる有象無象(面白半分の過激派)と変わらなくなってしまうでしょう。外山さん自身、そういう「サブカル」——野間易通にかつて外山恒一はそう罵られた——と自分は明確に違うと言い続けているわけです。だから問題提起しておかなくてはなりません。なぜ外山恒一は「正論」たりうるのか。

 それは間違いなく、外山さんが現在の価値規範を軸にし、時にそれを換骨奪胎し、時にそれを否定する仕方で政策を実体化させているからです。外山さんの行動は基本的には現在の価値基準に対する異化として、その限りで正論に見えるのです。無論「〈異化〉としての批評」を掲げた「大失敗」にとってそれはある程度好ましいものですが、しかしそれが凡庸な批評ではなく運動であるという限りにおいて、それがたんなるアイロニーを超えて、持続して価値を持つものなのかどうか、問う必要があるのではないでしょうか。つまり、その思想は一定以上「普遍的」なものなのか。もちろん、この検討のためには、外山さんの論法、つまりいつもの言いっ放し的逆転——普遍性を目指すのではなく、「普遍性とは我々である」とか——を一旦無視しておく必要があります。仮に外山恒一が「普遍性」など必要としていないにしても、です。

「支配からの卒業」

 個々の論点は差し置き、外山さんの議論の中心は、ナショナリズム男根主義といった土着的な価値がないと満足できないバカと、人文学の価値がわかる実存主義エリートを徹底して分別するところにあります。つまり、バカにはナショナリズムでも適当に与えておいて、政治は人文学を理解できるエリート(「自ら価値を生み出すことのできるニーチェ的超人の結社」としての「我々団」)が担えば良い。この『国家』にも似た着想においては、権力はもはや批判の対象ではなく、奪取すべき対象として捉えられます。それにより、これまで反体制派にとって批判対象であった「資本制」や「管理社会」(あるいは「天皇制」)はむしろうまく使うための道具に反転します——このマジック的反転、先ほど「言いっ放し的逆転」と呼んだこれこそ、外山恒一のロジックの中心であって、これが彼なりのファシストへの転向なのです。

 バカを誰よりも嫌悪する僕としては、諸手を挙げて賛成したくなる素晴らしいモデルです。ところがその魅力に誘惑されることを禁欲して、問題を指摘しなければなりません。

 問題なのは、その権力の均衡を守るのはあくまでエリートの良心と美学=感性であること、そしてその良心と美学は、外山恒一という「我々」が存続する限りにおいて可能なだけにすぎないという点です。その問題が端的に表れているサンプルとして、教育に対する外山氏の絶対的な不信を見ておきましょう。「まず勉強しなきゃ何も始まらん」と言いつつも、外山さんは「学校」に並々ならぬ憎悪を抱いています。だから学校教育をまずは撤廃しようというわけです。

学校教育は全廃される。〔…〕ただ同じ地域に同じ時期に生まれたというだけの集団を狭い空間に囲い込み、ただ特定の教科の学力がいくぶん高いというだけの者(教員)には不可能であるに決まっている(したがってトンチンカンな)人格的指導のもとに置くという、不条理で抑圧的な学校制度では、いじめなどの深刻な問題が起きて当たり前であり、しかも学力さえ身につかない。学校制度は歪つな人間を大量生産する諸悪の根源である。(「ファシスト党〈我々団〉の基本政策」より)

 むろんこれも「正論」であって、特に学校に違和感を持っていたような輩は、この正論にすぐさま飛びつくでしょう*2。そしてすぐさま外山さんは次のような「建設的」な提案を持ち出します。

大学制度は、諸々の抜本的改革(レッドパージなど)の上で存続することも検討されるが、少なくとも私学助成は全廃される。基本的には、文系の学問には大規模な図書館さえあればよく、研究活動は個人レベルあるいは私塾で充分だし、さらに云えば我が党の指導者養成機関が文系の最高学府の役割を現在すでに果たしている。(同上)

 もちろん、図書館さえあれば、そして本を読む人間さえいればその後も相変わらず誰かしらは「人文系教養人」の良心と美学に目覚めるだろうというのは、楽観的で美的な「物語」にすぎません。外山さんもおそらくそう考えるはずで、だからこそ、学校ならぬ「我が党の指導者養成機関」(それが「勉強会」を超えるものなのか私にはわかりません)を、いくら学校嫌いでも、外山さんは必要とせざるをえません*3

 ここにアンビヴァレンスがあります。これに限らず、外山さんの文体を通じて表れているのは、徹底した(〈我々〉が行使する以外の)外在的な「制度」——あるいは〈法〉と呼びましょう——への憎しみであり、それにともなう両義的態度です。

〈法〉への憎しみ

ファシストは原理的に、実存主義的な人文系教養人である。そのような存在であるファシストが、「それはたしかにヒドい話だ」と思えば介入する。民主主義ではないのだから、何が差別で何が差別でないのかを多数決で決めたりはしないし、法治主義ではないのだから、何が差別で何が差別でないのかの基準を前もって一律に定めておこうとはしないということである。(同上)

  外山さんは表明的な言葉遣いに反して「独立した個人」や「平等」云々と言った西洋近代的モラルを前提し、それをエリート的価値観のうちに温存しようとしています。しかし、そのモラルに反すること(例えば差別)についてそれが「度が過ぎている」のか「大衆のコントロールのために必要」なのかを判断するのは、実定法でもなければ〈法〉でもなく〈我々〉、すなわち「ファシスト実存主義的エリート」が自然のうちに抱いている倫理なのです。

もともと監視社会化に反感を持っている我々のやることであるから、自制はする。つまり基本的には“監視するだけ”で、現在の中国のように不満分子を根こそぎ拘束したりはしない。いよいよ我々の身が危うい時に強権発動すればよく、やり過ぎは却って人民の不満を増大させるし、我々がうまくやって見せた上で中国にもそのように御注進する。(同上)

 管理社会についても同様です。実のところ、ここで〈我々〉と〈法〉は二項対立ではありません。なぜなら外山さんは、父を憎みながら父になってしまうオイディプスさながら、徹底して〈法〉を回避しながら、〈我々〉自身が、法なき〈法〉であろうとするからです。しかし、そこにおいては外部に規範が存在しないのだから、「自制」など存在しないでしょう。そこにおいては、法則そのものが、つまり、過剰と不足の配分自体がつねに、そのつど書き換えられることになるのです。

 しかし、〈法〉の不在において、その外在的かつ人為的な規則のさらに外部で、〈我々〉を〈我々〉として存続させ、その倫理を保証するものとは、はたして何なのでしょうか。あるいは、外在的あるいは物理的あるいは身体的支えを失った倫理は、いかにしてその同一性を担保するのでしょうか。あるいは、「エリート」はいかにして生まれ、そしていかにして育つのでしょうか。つまりファシズムの(そして権力一般の)生成と構造について、そしてその「延命」について考える必要があります。

 しかし外山さんはこうした問いを避け続けます(精神分析の用語で言えば「否認」です)。「ファシスト党〈我々団〉の基本政策」の最終部分を読んでみましょう。

あらゆる権力は腐敗すると云われる。/しかしファシズム政権は決して腐敗しない。なぜなら我々はファシストであり、つまり実存主義者だからである。腐敗には我々ファシスト自身が耐えられない。/「あらゆる権力は腐敗する」などという外在的な批判に我々は耳を貸さない。ファシズム政権、そしてそこに至るファシズム運動を腐敗させないよう、党員1人1人がファシストとしての強い自覚と使命感を持たなければならない、という以上の話ではない。(同上)

 たぶん、この箇所にもファシストの存続が関わっています。「あらゆる権力は腐敗する」という言葉を、単なる箴言としてではなく捉えておく必要があります。腐敗することそのものを思考しなければなりません。この引用部分での絶対的でトートロジックな否認(「ファシストは腐敗しない、なぜならファシストだからだ」)は、「不死」への不可能な欲望に似ています。しかしいくら「耳を貸さ」なくても死ぬものは死ぬでしょう。

 問題は、権力の腐敗を防ぐと言われる「ファシストとしての強い自覚と使命感」そのものもまた、時間とともに腐敗するだろうことです。私の考えでは、その死を延期するサプリメント、あるいはそこに塗りたくらねばならない防腐剤こそが〈法〉なのですが、〈我々〉はそれを避け続けることによって、トートロジックな強弁以外に何も道が残されない地点にまで達します。

××主義者は、民主主義に対する自由主義の勝利、数の力に対する団結の力の勝利、欲望に対する意志の勝利、物質に対する精神の勝利、経済に対する政治の勝利、ヒト科の動物に対する人間の勝利、群れに対する共同体の勝利、必然性に対する可能性の勝利を確信する。(「綱領」)

 〈法〉なき倫理、動物性なき人間性、欲望なき意志、エコノミーなき政治、異物なき共同体、腐敗なき永遠、死なき生ーーを確信したいという、あくなき欲望がここにあります。外山恒一のパフォーマンスあるいは政治の美学化は、余裕からくる冷笑ではなく、軽薄な「サブカル」でもありません。それはたんに、〈法〉を憎み続けた結果、その「超人」らしからぬルサンチマンによって要請され、考え抜かれた、最後の手段だと言うべきでしょうーーファシストには、もはやそれ以外道が残されていないのでしょうか?

終わりに:〈我々〉とは誰か

 要するに、外山さんのトートロジーファシズムは〈我々〉が支配者であるかぎり均衡が保証されると言っているにすぎません。確かに外山さんは研究会や「教養合宿」など、後進の育成に熱心です*4。僕にとってはそれは、機会があれば参加してみたいくらい「正しい」。しかし、その研究会が、外山恒一個人のキャラクターや「カリスマ性」を超えた普遍性を持っているのかどうかと言われれば、あくまで「外在的」に見ている限りでは、今のところ認められません*5

 ところで、一九六八年のある講演でジャック・デリダは、ヘーゲルが『精神現象学』で為した自己意識に関する規定(「我々である我であり、我である我々」)に対抗して、「それにしても誰なのか、我々とは?」と、この一人称複数形の共同性を問題視しました。私も実はかつて、デリダを真似て、外山さんの政見放送で繰り返される〈我々〉について、大失敗ブログで問いに付したことがあります。

ここで外山は「我々」と呼びかけることによって「我々」を創設しているのであり、この「我々」には何か初めからポジティヴな定義が存在していたわけではない。〈我々少数派〉は、セクトを団結させ、その同一性を獲得するための「約束」なのだ(ちなみに、外山恒一の率いる政治結社の名前は「我々団」である)。

 ここで起きていることはタコツボを破壊することではなく、むしろ「まったく新しい」タコツボを作り、増殖させていくことにほかならない。無数の少数者の、団結なき団結、共同性なき共同体としての〈我々〉なのである。そこでの結束は、「反−管理社会」以外にその定義や共通項を持たないし、事実上、そうした定義はほとんど具体的な提案、いや「建設的な提案」を持つものとはならないだろう。〈我々少数派〉の団結は原理上、どこまでもネガティヴな(積極的な定義を欠いた)集まりである。(「資本主義的、革命的(後編)—外山恒一の運動する運動」

 しかし、この「基本政策」においてはもはや、〈我々〉にこうした空虚な団結はなく、単に、外山恒一氏本人が〈我々〉である限りで可能になることだけが書かれてあるように見えます。一言でいえば、〈我々〉とは〈我〉でしかありませんでした。そのファシズムは、外山恒一氏の知性とセンスと美学のみによって支えられており、それなしではもはや普遍性を持たず、生き延びることもないでしょう。

 ファシズム、それはすなわち美的な刹那主義です。それにノるかシラけるか? それについては、「我々」に委ねられています(しかし「それにしても誰なのか、この我々とは?」)。

 

 

   

 

(文責 - 左藤青)

 

docs.google.com

 

twitter.com

*1:この見にくい上にリンクを貼っても個別記事に飛べないサイトをまずどうにかしたほうがいいと思います。

*2:誤解されないように弁明しておけば、もちろん僕も学校が好きというわけではなく、特に就職予備校でしかない大学などさっさと撤廃して欲しいと思いますが、一方で、そうした過度な「学校嫌い」が、ことさらに「在野」を強調すればアカデミズムから己を差異化できるという素朴さ(あるいは商売根性)に直結しがちであることも否めません。「在野」を無視することによって成り立つアカデミズムも、そのアカデミズムの閉塞性を批判して自己を定立する「在野」も、単に共犯関係に過ぎず、両方つまらないだけです。

*3:ところで私が『大失敗』創刊号で批評したニューウェーヴパンクバンド有頂天は、逆説的かつアイロニックに、「学校に行こう」という楽曲を発表しています。そこでケラは歌います。「不自由できる自由…」尾崎豊なら話は別ですが、実際、いかなる自由も不自由のなかにしかないし、学校の先生を批判すればよいだろうというのは、一番安直な「六八年」理解です。

*4:【春休みで差をつけろ! 第12回・学生向け「教養強化合宿」】参加者募集など参照。「新左翼某派に学ぶ」という記事では外山は「“21世紀の黒田寛一”になってやる」と言いつつ、「学習会を基礎に組織拡大していくという初期革マル派の方式」になぞらえている。

*5:その「教育」が普遍性を持つために範とすべきものは、キルケゴールでもニーチェでもハイデガーでもサルトルでもなく、いうまでもなくプラトンであり、プラトンアカデメイアでしょう

大失敗のRadio-Activity 第六回「赤井浩太の必勝すばるクリティーク講座」(応用編)

第六回

 

大失敗のRadio-Activity

大失敗のRadio-Activity

  • 前衛批評集団「大失敗」
  • ニュース
  • ¥0

 

Podcastが開けない場合はこちらから

 

2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。

前回に引き続き、日本の第二回すばるクリティーク賞受賞者である赤井浩太「先生」が、「通信教育」でレクチャーしていきます(ゲストは中上健次研究者の松田樹さん)。

なぜか若干影が薄い「先生」をよそ目に今回は、「応用編」ということで日本における批評の新人賞の歴史をできる範囲で振り返り、「批評家の就職難」問題に切り込んでいきます。後半では現在の「ポスト東的」知的状況についても批評を加えています。


なお、『大失敗』創刊号はこちらからご購入いただけます👉https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSfn0SY9uIfZyPRkeabze01Q3Z7DJtM7quPPajDEcYwlBEwu9g/viewform

 

パーソナリティ:赤井浩太左藤青、ゲスト=松田樹(神戸大学

編集・写真・BGM:左藤青

 

 

f:id:daisippai:20191220213107p:plain

 

 

 

大失敗のRadio-Activity 第五回「赤井浩太の必勝すばるクリティーク講座」

第五回

 

大失敗のRadio-Activity

大失敗のRadio-Activity

  • 前衛批評集団「大失敗」
  • ニュース
  • ¥0

 

Podcastが開けない場合はこちらから

 

2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。

日本の文芸誌の評論部門の賞で特に大きなものといえば、「群像新人賞」と「すばるクリティーク賞」ですが、2020年はどちらの賞も受賞者なしということで、「不作」の年でした。

そこで今回は、批評家志望の皆さんに向けて、第二回すばるクリティーク賞受賞者である赤井浩太「先生」が、どうすれば賞を取れるような評論が書けるのか、そしてそのためにはどのようにして本を読んでいくべきか、「通信教育」でレクチャーしていきます(ゲストは中上健次研究者の松田樹さん)。

f:id:daisippai:20200125191746j:plain

 

そのためには、とりわけ、『群像』と『すばるクリティーク』の審査委員たち(『群像』が東浩紀大澤真幸山城むつみ、『すばる』が大澤信亮杉田俊介浜崎洋介中島岳志)が応募作を批評する際の基本的な傾向を把握しておくことが大事です(傾向と対策)。

 

それぞれバラバラの思想的な背景を持つ彼らですが、その読解にはある一定の「手癖」(クリシェ)があります。これは、現在の「批評」界隈の性質を知り批判的に見つめつつ、そこに介入することに他なりません。

「批評はみんなでやるもの」すなわち「受験は団体戦」ですので、今後も頑張っていきましょう。

f:id:daisippai:20200125191741j:plain

 


なお、『大失敗』創刊号はこちらからご購入いただけます👉https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSfn0SY9uIfZyPRkeabze01Q3Z7DJtM7quPPajDEcYwlBEwu9g/viewform

 

 

パーソナリティ:赤井浩太左藤青、ゲスト=松田樹(神戸大学

編集・写真・BGM:左藤青

f:id:daisippai:20191214193454p:plain