批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」な批評集団。https://twitter.com/daisippai19

大失敗のRadio-Activity第七回「インポッシブル・アーキテクチャー」

第七回

 

大失敗のRadio-Activity

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2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。

今回は、赤井・左藤・松田さんの三人組で「大失敗散歩」、大阪・中之島にある国立国際美術館に行ってきました。

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現在開催中の「インポッシブルアーキテクチャー展 建築家たちの夢」(監修:五十嵐太郎)は、様々な「アンビルト」に終わった建築について紹介するという、なかなか先鋭的な展覧会でした。ラジオでは、岡本太郎メタボリズム、建築と「六八年」、アンビルトに終わったザハ・ハディドの新国立競技場案などの話題に触れています。

以下、公式サイトからの引用です。

20世紀以降の国外、国内のアンビルトの建築に焦点をあて、それらを仮に「インポッシブル・アーキテクチャー」と称しています。ここでの「インポッシブル」という言葉は、単に建築構想がラディカルで無理難題であるがゆえの「不可能」を意味しません。言うまでもなく、不可能に眼を向ければ、同時に可能性の境界を問うことにも繋がります。建築の不可能性に焦点をあてることによって、逆説的にも建築における極限の可能性や豊饒な潜在力が浮かび上がってくる――それこそが、この展覧会のねらいです。

 

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あと、冒頭ではなぜかバレンタインデーの話もしています。


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パーソナリティ:赤井浩太左藤青、ゲスト=松田樹(神戸大学

編集・写真・BGM:左藤青

 

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〈法〉への憎しみーー外山恒一のファシズムにおける生成と構造

※今年一月に左藤青の質問箱に来た質問に対する回答を大幅に加筆修正したものです。

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外山恒一は普遍的たりうるか

 先に言っておきますと、以前にも僕は外山恒一さんについて論じたことがあり、また、それも一つのきっかけとして、二〇一九年に我々「大失敗」はそんじょそこらの賞では及びもつかない栄誉ある賞すなわち「外山恒一賞」を受賞しています〔追記:受賞じゃなくてよく見たらノミネートでした〕

 さて、外山恒一さんは今年に入ってサイトを更新されました*1。「九州ファシスト党〈我々団〉」は「ファシスト党〈我々団〉」と改められ、活動エリアを全国とするよう方針が変更された。とりわけ「基本政策」は大幅に加筆改訂され、少なからぬ反響を生んでいるようです。この「基本政策」は、近視眼的で「常識的な」議論に拘泥するリベラルには(保守にも)もはや望むことのできない知性とセンスによって書かれたユニークな「正論」に見えます。

 しかし、さらに考えるべきなのは、なぜ我々にとってこれが「正論」に見えるかです。彼の表面的な言葉遣いに酔っているだけでは、外山さんの「フォロワー」にたくさんいる有象無象(面白半分の過激派)と変わらなくなってしまうでしょう。外山さん自身、そういう「サブカル」——野間易通にかつて外山恒一はそう罵られた——と自分は明確に違うと言い続けているわけです。だから問題提起しておかなくてはなりません。なぜ外山恒一は「正論」たりうるのか。

 それは間違いなく、外山さんが現在の価値規範を軸にし、時にそれを換骨奪胎し、時にそれを否定する仕方で政策を実体化させているからです。外山さんの行動は基本的には現在の価値基準に対する異化として、その限りで正論に見えるのです。無論「〈異化〉としての批評」を掲げた「大失敗」にとってそれはある程度好ましいものですが、しかしそれが凡庸な批評ではなく運動であるという限りにおいて、それがたんなるアイロニーを超えて、持続して価値を持つものなのかどうか、問う必要があるのではないでしょうか。つまり、その思想は一定以上「普遍的」なものなのか。もちろん、この検討のためには、外山さんの論法、つまりいつもの言いっ放し的逆転——普遍性を目指すのではなく、「普遍性とは我々である」とか——を一旦無視しておく必要があります。仮に外山恒一が「普遍性」など必要としていないにしても、です。

「支配からの卒業」

 個々の論点は差し置き、外山さんの議論の中心は、ナショナリズム男根主義といった土着的な価値がないと満足できないバカと、人文学の価値がわかる実存主義エリートを徹底して分別するところにあります。つまり、バカにはナショナリズムでも適当に与えておいて、政治は人文学を理解できるエリート(「自ら価値を生み出すことのできるニーチェ的超人の結社」としての「我々団」)が担えば良い。この『国家』にも似た着想においては、権力はもはや批判の対象ではなく、奪取すべき対象として捉えられます。それにより、これまで反体制派にとって批判対象であった「資本制」や「管理社会」(あるいは「天皇制」)はむしろうまく使うための道具に反転します——このマジック的反転、先ほど「言いっ放し的逆転」と呼んだこれこそ、外山恒一のロジックの中心であって、これが彼なりのファシストへの転向なのです。

 バカを誰よりも嫌悪する僕としては、諸手を挙げて賛成したくなる素晴らしいモデルです。ところがその魅力に誘惑されることを禁欲して、問題を指摘しなければなりません。

 問題なのは、その権力の均衡を守るのはあくまでエリートの良心と美学=感性であること、そしてその良心と美学は、外山恒一という「我々」が存続する限りにおいて可能なだけにすぎないという点です。その問題が端的に表れているサンプルとして、教育に対する外山氏の絶対的な不信を見ておきましょう。「まず勉強しなきゃ何も始まらん」と言いつつも、外山さんは「学校」に並々ならぬ憎悪を抱いています。だから学校教育をまずは撤廃しようというわけです。

学校教育は全廃される。〔…〕ただ同じ地域に同じ時期に生まれたというだけの集団を狭い空間に囲い込み、ただ特定の教科の学力がいくぶん高いというだけの者(教員)には不可能であるに決まっている(したがってトンチンカンな)人格的指導のもとに置くという、不条理で抑圧的な学校制度では、いじめなどの深刻な問題が起きて当たり前であり、しかも学力さえ身につかない。学校制度は歪つな人間を大量生産する諸悪の根源である。(「ファシスト党〈我々団〉の基本政策」より)

 むろんこれも「正論」であって、特に学校に違和感を持っていたような輩は、この正論にすぐさま飛びつくでしょう*2。そしてすぐさま外山さんは次のような「建設的」な提案を持ち出します。

大学制度は、諸々の抜本的改革(レッドパージなど)の上で存続することも検討されるが、少なくとも私学助成は全廃される。基本的には、文系の学問には大規模な図書館さえあればよく、研究活動は個人レベルあるいは私塾で充分だし、さらに云えば我が党の指導者養成機関が文系の最高学府の役割を現在すでに果たしている。(同上)

 もちろん、図書館さえあれば、そして本を読む人間さえいればその後も相変わらず誰かしらは「人文系教養人」の良心と美学に目覚めるだろうというのは、楽観的で美的な「物語」にすぎません。外山さんもおそらくそう考えるはずで、だからこそ、学校ならぬ「我が党の指導者養成機関」(それが「勉強会」を超えるものなのか私にはわかりません)を、いくら学校嫌いでも、外山さんは必要とせざるをえません*3

 ここにアンビヴァレンスがあります。これに限らず、外山さんの文体を通じて表れているのは、徹底した(〈我々〉が行使する以外の)外在的な「制度」——あるいは〈法〉と呼びましょう——への憎しみであり、それにともなう両義的態度です。

〈法〉への憎しみ

ファシストは原理的に、実存主義的な人文系教養人である。そのような存在であるファシストが、「それはたしかにヒドい話だ」と思えば介入する。民主主義ではないのだから、何が差別で何が差別でないのかを多数決で決めたりはしないし、法治主義ではないのだから、何が差別で何が差別でないのかの基準を前もって一律に定めておこうとはしないということである。(同上)

  外山さんは表明的な言葉遣いに反して「独立した個人」や「平等」云々と言った西洋近代的モラルを前提し、それをエリート的価値観のうちに温存しようとしています。しかし、そのモラルに反すること(例えば差別)についてそれが「度が過ぎている」のか「大衆のコントロールのために必要」なのかを判断するのは、実定法でもなければ〈法〉でもなく〈我々〉、すなわち「ファシスト実存主義的エリート」が自然のうちに抱いている倫理なのです。

もともと監視社会化に反感を持っている我々のやることであるから、自制はする。つまり基本的には“監視するだけ”で、現在の中国のように不満分子を根こそぎ拘束したりはしない。いよいよ我々の身が危うい時に強権発動すればよく、やり過ぎは却って人民の不満を増大させるし、我々がうまくやって見せた上で中国にもそのように御注進する。(同上)

 管理社会についても同様です。実のところ、ここで〈我々〉と〈法〉は二項対立ではありません。なぜなら外山さんは、父を憎みながら父になってしまうオイディプスさながら、徹底して〈法〉を回避しながら、〈我々〉自身が、法なき〈法〉であろうとするからです。しかし、そこにおいては外部に規範が存在しないのだから、「自制」など存在しないでしょう。そこにおいては、法則そのものが、つまり、過剰と不足の配分自体がつねに、そのつど書き換えられることになるのです。

 しかし、〈法〉の不在において、その外在的かつ人為的な規則のさらに外部で、〈我々〉を〈我々〉として存続させ、その倫理を保証するものとは、はたして何なのでしょうか。あるいは、外在的あるいは物理的あるいは身体的支えを失った倫理は、いかにしてその同一性を担保するのでしょうか。あるいは、「エリート」はいかにして生まれ、そしていかにして育つのでしょうか。つまりファシズムの(そして権力一般の)生成と構造について、そしてその「延命」について考える必要があります。

 しかし外山さんはこうした問いを避け続けます(精神分析の用語で言えば「否認」です)。「ファシスト党〈我々団〉の基本政策」の最終部分を読んでみましょう。

あらゆる権力は腐敗すると云われる。/しかしファシズム政権は決して腐敗しない。なぜなら我々はファシストであり、つまり実存主義者だからである。腐敗には我々ファシスト自身が耐えられない。/「あらゆる権力は腐敗する」などという外在的な批判に我々は耳を貸さない。ファシズム政権、そしてそこに至るファシズム運動を腐敗させないよう、党員1人1人がファシストとしての強い自覚と使命感を持たなければならない、という以上の話ではない。(同上)

 たぶん、この箇所にもファシストの存続が関わっています。「あらゆる権力は腐敗する」という言葉を、単なる箴言としてではなく捉えておく必要があります。腐敗することそのものを思考しなければなりません。この引用部分での絶対的でトートロジックな否認(「ファシストは腐敗しない、なぜならファシストだからだ」)は、「不死」への不可能な欲望に似ています。しかしいくら「耳を貸さ」なくても死ぬものは死ぬでしょう。

 問題は、権力の腐敗を防ぐと言われる「ファシストとしての強い自覚と使命感」そのものもまた、時間とともに腐敗するだろうことです。私の考えでは、その死を延期するサプリメント、あるいはそこに塗りたくらねばならない防腐剤こそが〈法〉なのですが、〈我々〉はそれを避け続けることによって、トートロジックな強弁以外に何も道が残されない地点にまで達します。

××主義者は、民主主義に対する自由主義の勝利、数の力に対する団結の力の勝利、欲望に対する意志の勝利、物質に対する精神の勝利、経済に対する政治の勝利、ヒト科の動物に対する人間の勝利、群れに対する共同体の勝利、必然性に対する可能性の勝利を確信する。(「綱領」)

 〈法〉なき倫理、動物性なき人間性、欲望なき意志、エコノミーなき政治、異物なき共同体、腐敗なき永遠、死なき生ーーを確信したいという、あくなき欲望がここにあります。外山恒一のパフォーマンスあるいは政治の美学化は、余裕からくる冷笑ではなく、軽薄な「サブカル」でもありません。それはたんに、〈法〉を憎み続けた結果、その「超人」らしからぬルサンチマンによって要請され、考え抜かれた、最後の手段だと言うべきでしょうーーファシストには、もはやそれ以外道が残されていないのでしょうか?

終わりに:〈我々〉とは誰か

 要するに、外山さんのトートロジーファシズムは〈我々〉が支配者であるかぎり均衡が保証されると言っているにすぎません。確かに外山さんは研究会や「教養合宿」など、後進の育成に熱心です*4。僕にとってはそれは、機会があれば参加してみたいくらい「正しい」。しかし、その研究会が、外山恒一個人のキャラクターや「カリスマ性」を超えた普遍性を持っているのかどうかと言われれば、あくまで「外在的」に見ている限りでは、今のところ認められません*5

 ところで、一九六八年のある講演でジャック・デリダは、ヘーゲルが『精神現象学』で為した自己意識に関する規定(「我々である我であり、我である我々」)に対抗して、「それにしても誰なのか、我々とは?」と、この一人称複数形の共同性を問題視しました。私も実はかつて、デリダを真似て、外山さんの政見放送で繰り返される〈我々〉について、大失敗ブログで問いに付したことがあります。

ここで外山は「我々」と呼びかけることによって「我々」を創設しているのであり、この「我々」には何か初めからポジティヴな定義が存在していたわけではない。〈我々少数派〉は、セクトを団結させ、その同一性を獲得するための「約束」なのだ(ちなみに、外山恒一の率いる政治結社の名前は「我々団」である)。

 ここで起きていることはタコツボを破壊することではなく、むしろ「まったく新しい」タコツボを作り、増殖させていくことにほかならない。無数の少数者の、団結なき団結、共同性なき共同体としての〈我々〉なのである。そこでの結束は、「反−管理社会」以外にその定義や共通項を持たないし、事実上、そうした定義はほとんど具体的な提案、いや「建設的な提案」を持つものとはならないだろう。〈我々少数派〉の団結は原理上、どこまでもネガティヴな(積極的な定義を欠いた)集まりである。(「資本主義的、革命的(後編)—外山恒一の運動する運動」

 しかし、この「基本政策」においてはもはや、〈我々〉にこうした空虚な団結はなく、単に、外山恒一氏本人が〈我々〉である限りで可能になることだけが書かれてあるように見えます。一言でいえば、〈我々〉とは〈我〉でしかありませんでした。そのファシズムは、外山恒一氏の知性とセンスと美学のみによって支えられており、それなしではもはや普遍性を持たず、生き延びることもないでしょう。

 ファシズム、それはすなわち美的な刹那主義です。それにノるかシラけるか? それについては、「我々」に委ねられています(しかし「それにしても誰なのか、この我々とは?」)。

 

 

   

 

(文責 - 左藤青)

 

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*1:この見にくい上にリンクを貼っても個別記事に飛べないサイトをまずどうにかしたほうがいいと思います。

*2:誤解されないように弁明しておけば、もちろん僕も学校が好きというわけではなく、特に就職予備校でしかない大学などさっさと撤廃して欲しいと思いますが、一方で、そうした過度な「学校嫌い」が、ことさらに「在野」を強調すればアカデミズムから己を差異化できるという素朴さ(あるいは商売根性)に直結しがちであることも否めません。「在野」を無視することによって成り立つアカデミズムも、そのアカデミズムの閉塞性を批判して自己を定立する「在野」も、単に共犯関係に過ぎず、両方つまらないだけです。

*3:ところで私が『大失敗』創刊号で批評したニューウェーヴパンクバンド有頂天は、逆説的かつアイロニックに、「学校に行こう」という楽曲を発表しています。そこでケラは歌います。「不自由できる自由…」尾崎豊なら話は別ですが、実際、いかなる自由も不自由のなかにしかないし、学校の先生を批判すればよいだろうというのは、一番安直な「六八年」理解です。

*4:【春休みで差をつけろ! 第12回・学生向け「教養強化合宿」】参加者募集など参照。「新左翼某派に学ぶ」という記事では外山は「“21世紀の黒田寛一”になってやる」と言いつつ、「学習会を基礎に組織拡大していくという初期革マル派の方式」になぞらえている。

*5:その「教育」が普遍性を持つために範とすべきものは、キルケゴールでもニーチェでもハイデガーでもサルトルでもなく、いうまでもなくプラトンであり、プラトンアカデメイアでしょう

大失敗のRadio-Activity 第六回「赤井浩太の必勝すばるクリティーク講座」(応用編)

第六回

 

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2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。

前回に引き続き、日本の第二回すばるクリティーク賞受賞者である赤井浩太「先生」が、「通信教育」でレクチャーしていきます(ゲストは中上健次研究者の松田樹さん)。

なぜか若干影が薄い「先生」をよそ目に今回は、「応用編」ということで日本における批評の新人賞の歴史をできる範囲で振り返り、「批評家の就職難」問題に切り込んでいきます。後半では現在の「ポスト東的」知的状況についても批評を加えています。


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大失敗のRadio-Activity 第五回「赤井浩太の必勝すばるクリティーク講座」

第五回

 

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2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。

日本の文芸誌の評論部門の賞で特に大きなものといえば、「群像新人賞」と「すばるクリティーク賞」ですが、2020年はどちらの賞も受賞者なしということで、「不作」の年でした。

そこで今回は、批評家志望の皆さんに向けて、第二回すばるクリティーク賞受賞者である赤井浩太「先生」が、どうすれば賞を取れるような評論が書けるのか、そしてそのためにはどのようにして本を読んでいくべきか、「通信教育」でレクチャーしていきます(ゲストは中上健次研究者の松田樹さん)。

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そのためには、とりわけ、『群像』と『すばるクリティーク』の審査委員たち(『群像』が東浩紀大澤真幸山城むつみ、『すばる』が大澤信亮杉田俊介浜崎洋介中島岳志)が応募作を批評する際の基本的な傾向を把握しておくことが大事です(傾向と対策)。

 

それぞれバラバラの思想的な背景を持つ彼らですが、その読解にはある一定の「手癖」(クリシェ)があります。これは、現在の「批評」界隈の性質を知り批判的に見つめつつ、そこに介入することに他なりません。

「批評はみんなでやるもの」すなわち「受験は団体戦」ですので、今後も頑張っていきましょう。

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ベンヤミンのチェスはだれが勝つ――いざ大失敗の方へ!

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よく知られている話しだが、チェスの名手であるロボットが制作されたことがあるという。そのロボットは、相手がどんな手を打ってきても、確実に勝てる手をもって応ずるのだった。[……]この装置に対応するものを、哲学において、ひとは想像してみることができる。「歴史的唯物論」と呼ばれている人形は、いつでも勝つことになっているのだ。それは、誰とでもたちどころに張り合うことができる――もし、こんにちでは周知のとおり小さくてみにくい、そのうえ人目をはばからねばならない神学を、それが使いこなしているときには。――ヴァルター・ベンヤミン*1

その試合は、わたしたちのスタジアムでおこなわれるあらゆる試合のうちで、あらゆるテレビ放送のうちで、日常のあらゆるありきたりのもののうちでくり返されている。わたしたちがその試合を理解し、それを止めさせることができないかぎり、希望は絶対にないであろう。――ジョルジョ・アガンベン*2

チェ・ゲバラの肖像からワウリンカの左腕へ

テニス選手のスタン・ワウリンカの左腕には、サミュエル・ベケットの小説からとられた有名な一節が刻まれている。《Ever tried. Ever failed. No matter. Try again. Fail again. Fail better》。これまでやったことは全部失敗だったし、また挑戦しても失敗するにちがいないが、つぎは上手に失敗できるようになるだろう。ワウリンカはジョコビッチにたいして14連敗、ナダルにたいしては12連敗中だった。けれど、ワウリンカは入墨をいれた翌年の全米オープンで、ジョコビッチナダルを下して、見事優勝をはたしている。記者の一人は、彼の「成功」を讃えて「失敗者になることに失敗」と表現した。*3ワウリンカの言葉を信じるなら、彼はこれまでグランドスラムの優勝を目標にかかげたことは一度もなかったそうである。入墨をいれた年のインタビューで、ベケットの一節の意味を聞かれたとき、彼はこう答えている。《テニスの世界では、ご存じの通り、ロジャー、ラファ、ジョコビッチ、アンディ以外の選手は滅多に優勝なんてできないんです。必ず負けるようになっているんです。でもね、僕たち選手は、負けを前向きに捉えなきゃならない。そして、また仕事に戻らなきゃならないんです》。*4

ベケットの一節は、英語圏では人口に膾炙したもので、だれでも知っているものだが、最近ではシリコンバレーの起業家たちにとりわけ好まれているらしい。たとえばティモシー・フェリスの『「週4時間」だけ働く。』のなかで引用されており、その箇所は、Amazon電子書籍でもっともハイライトされたパッセージのひとつに数えられている。ベストセラーとなった同書の副題は、「世界中の好きな場所に住み、ニューリッチになろう」というもの。ベケットの亡霊はさらに、Tシャツ、ポスター、マグカップ、マウスパッドに印刷されて流通している。*5日本語版を「ライフハッカー」覗くと、「上手な失敗は成長のもと。失敗を怖がらないで、未来への道筋を切り開こう」と題して、ベケットの一節が紹介されている。*6これが、『いざ最悪の方へ(Worstward Ho)』と題された散文作品の一節がたどった運命なのだ!

ベケットの一節が実現しないことは、いかにもベケットらしい展開といえる。ここで焦点をあわせるべきは、「失敗が失敗する」ことの行為遂行的パフォーマティヴな次元である。失敗の精神は、ただひたすら成功を支えるものとして(のみ)理解されるようになっている。ベケットの一節の解釈には、その内容にかんして事前的なものと事後的なもの、そして行為遂行的パフォーマティヴなものを別けて考えことができる。ワウリンカがインタビューのなかで表明しているのは、まさに事前的な態度――失敗と折りあいをつけなければならない――である。たいして事後的な態度は、「成功」のあとに、「上手な失敗こそ成功の第一歩」と位置づけるものだ。では、ベケットの一節の行為遂行的パフォーマティヴな(側面を強調した)解釈とはどのようなものか?*7 重要な事実は、ワウリンカが「大成功」しない(グランドスラムを制覇しない)ままキャリアを終えることも十分ありえた、というか、かなりありそうだったということである。その場合にも、左腕に刻まれた入墨は、わたしたちにむけてそれなりの教訓をあたえてくれたかもしれない。しかしそれは、「あまりにもリベラルな」教訓となっていたことであろう。

おもしろい符合がひとつあって、作家のJ. M. クッツェーが、ポール・オースターに宛てた手紙のなかで、スポーツが教えてくれるのは「敗北の精神」なのだと述べている。シリコンバレーの「成功の哲学」が、事後的に眺められたワウリンカの入墨の意味と一致する(「上手な失敗は成長のもと。失敗を怖がらないで」)としたら、クッツェーの考察は、事前的に眺められたワウリンカの入墨の意味を(あたかも)解説しているかのようだ。

プロのテニスについて考えよう。トーナメントには三十二人の選手が参加する。彼らの半数が第一ラウンドで負け、甘美な勝利を一度も味わうことなく家に替える。残った十六人のうち八人はたった一度の勝利と追放を味わって家に帰る。人間的な見地から言うなら、トーナメントでひときわ目立つ経験は敗北という経験だろう。
[……]
 スポーツには勝者がいて敗者がいる。あえて言うこともないのは(あまりに明らかだから?)勝者の数をはるかに上まわる敗者がいるということだ。[……]
 スポーツが教えてくれるのは勝つことについてよりも負けることについてで、理由は簡単、われわれのじつに多くが勝たないからだ。なによりそれが教えてくれるのは、負けたっていいんだ、ということだ。負けることはこの世で最悪のことではない、なぜならスポーツは、戦争と違って、敗者が勝者によって喉を掻き切られることはないのだから。*8

この手紙が書かれたのは2010年のことだから、文字通り事前的なのだが、クッツェーがのちにワウリンカの入墨を知ったら(ベケット研究者としても)歓んだことは想像にかたくない。ただわたしの見解では、クッツェーは「スポーツ」から「十分にベケット的な」結論を引き出していない。クッツェーは大衆スポーツの起源が、19世紀(比較的最近)にあるということを示唆している。そこから一歩進めて、近代スポーツと資本主義の平行性にまで話をもっていかないことが、彼の議論に弱みと残酷さを授けている。《負けることはこの世で最悪のことではない》という比較的穏当な意見は、この類推の根底にあるものを見逃してしまうことによって、度を越して残酷な側面をもっていることを曝け出してしまう。クッツェーはいっているのだが、《もしパレスチナ人が敗北を甘受することを学ぶならそれは悪いことではないかもしれない》。*9なんということだ!

それがスポーツから学ぶ大いなる経験知だ。人はほとんど常に負けるが、勝負の場にとどまり続けるかぎり明日があり、名誉挽回するチャンスはあるんだ。
[……]
 僕はイスラエル人とパレスチナ人が月に一度、どちらも肩入れしないレフェリーをつけて、サッカーをやるところを見たいと思う。そうすればパレスチナ人はなにもかも失うことなく負けることも可能だ(いつだって翌月の試合があるのだから)と学ぶことができ、一方のイスラエル人はパレスチナ人に対して負けることだってある、だからなんだ? と学ぶことができる。*10

政治を「ゲーム」の隠喩で捉えることの限界が、これほどあらわになっている場所はほかにない。期待されているのは「ゲーム」の効果であるというより、もっと「儀式」めいた過程であるようにおもわれる。レヴィ=ストロースによると、人類学者がニューギニアのガフク・ガマ族にサッカーを教えたところ、彼らは両チームの勝敗が完全にひとしくなるまで、何日でも試合を続けようとしたそうである。*11あきらかに想像しがたいのは、イスラエル人が(現実の不平等な条件を遺憾におもって)進んで負けようとするところだ。真の「敗北」は、もちろんゲームの内容ではなく行為遂行的パフォーマティヴな次元に属している。この場合、ゲームに参加する姿勢が、すでにパレスチナ人の敗北を証言しているとみなされてもおかしくはない。

レヴィ=ストロースによると、ガフク・ガマ族はサッカーを「ゲーム」としてではなく、「儀式」として捉えていた。平等をめざす傾向は「儀式」に特徴的なことだが、たいして「ゲーム」は、不平等な結果を産出することをめざしている。ゲームにおいて平等なのは規則であって、出発点においても結果においても、「平等であること」は求められていない。むしろ出発点における差異を際立たせることが、ゲームの目的なのである。ゲームが産出する不平等な結果は、平等な規則をくぐり抜けることによって、不平等な条件を耐えやすくするという効果をもっている。ゲームとは(デヴィッド・グレーバーの言葉を借りるなら)「規則のユートピア」なのだ。*12政治をゲームの隠喩で捉えることの限界は、資本主義をとうてい公平なゲームとみなすことができない理由と一致する。すぐにみるように、資本主義は絶えずその明示されざる規則を変更していくので、おそらくその猥雑さが、わたしたちに、「規則のユートピア」(典型的には近代スポーツ)を愛すべく促すのだろう。ゲームの公平さはその点、政治のモデルとしてはまやかしをふくんでいる。結局のところわたしたちは、平等な規則から平等な条件が導き出されるような機構を、ただのひとつも知らないからである。

規則は一般に不平等な条件を固定する。そこで問題は、規則を受け容れたときには絶対に勝つことができない視点(たとえばパレスチナ人)が存在するということではないか? けれどこの視点は、そもそも自分自身の「失敗」すら証言することのできない袋小路である。かつて「チェ・ゲバラの肖像」は、反資本のメッセージが、消費資本主義の論理に(不可避的に)回収されることの「寓話」として語られたことがあった。だがそれは、はたして資本主義の「成功の寓話」だったのか、それとも反資本闘争の「失敗の寓話」だったのか? ここでは意外なことに、勝負の行方は勝者をして語らしめるべきである。仮に「勝者」が資本主義であったとしても、それは、自分自身の「失敗」を認識できないだろう。よりよい仕方で失敗することにいつも失敗する勝者、ワウリンカの逸話の特権的なポイントは、この行為遂行的パフォーマティヴな転換を示していることだ。ワウリンカをして21世紀のチェ・ゲバラたらしめよ。それは、資本主義がまともな仕方で失敗できないことの寓話、あるいはたんに失敗が失敗することの寓話である。

いまでは、ワウリンカの入墨は彼の成功を支えた不屈の精神を表現したものとみなされている。よき失敗をこころざすことから最高の成功への転身には、ほんの一歩の距離しかない。けれどその一歩が飛び越えた深淵は、そもそものはじめから、メッセージの内容に刻み込まれていたのだとしたら? 資本主義をして語らしめる必要があるのは、「上手な失敗」をめざす方向が、いつしか「最悪の方へ」とむかってしまう、この行為遂行的パフォーマティヴな転換を掴みとるためである。その位置はわたしたちにむかって、現在の規則からは絶対に負けることしかできない視点が存在することを教えてくれている。

経済学エコノミクスの失敗と失敗の経済エコノミー

有名な話だが、2008年の金融危機の直後、英国のエリザベス女王ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの経済学者たちにむかって、「なぜだれも危機を予測できなかったのですか」と素朴な疑問をぶつけた。経済学者たちは満足な回答をもちあわせていなかった。何ヶ月もあとになって、恥じ入った経済学者たちは討論会を開き、長々とした議論のすえ、ようやく折衝的な回答を女王のもとに送り届けることができた。公開書簡のなかで、彼らは危機を警告するひとたちがたくさんいたことを認めている(ただ、その「時期」を正確に予測できたひとはだれもいなかった、と彼らは弁明している)。「失敗」はおもに「賢いひとたちの集団的な想像力」が、「全体としてシステム・リスクを理解できなかったこと」にあると彼らは述べている。そこには「否認の心理」がはたらいていて、パーティの途中で「パンチボウル」を下げることはだれにもできなかったのだそうだ。*13

2006年にはすでに、アメリカのクリープランドやデトロイトのような都市の低所得者地域では、住宅の差し押さえが急増していた。けれど、影響を受けたのはおもにアフリカ系アメリカ人、ヒスパニック系移民、シングルマザーだったので、メディアはろくな関心を払わなかった。ようやく2007年のなかばごろになって、差し押さえの波が活況を呈していた地域(フロリダ、カリフォルニア、アリゾナネバダ)の白人中間層にまでおよび、主流メディアや役所が関心をもちはじめた。年末の時点では、200万人近くが住宅を失い、400万人以上が差し押さえの危険に曝されていた。アメリカ全土で住宅価格が下落し、借り入れができずローンが返済できなくなる世帯がどんどん増えていった。

クリープランドはまるで「金融カトリーナ」に街を襲われたようだった。持主に放棄され窓に板張りがされた家々が、貧しい居住区、主として黒人の住む地域の景観を襲った。カリフォルニアでは、たとえばストックトンでのように、町のどこの大通りでも、その通りに沿って空き家と放棄された家々がずらっと軒を並べていた。フロリダとラスベガスでは、いくつものマンションが住む者のいないまま林立していた。差し押さえにあった人々はどこかに雨露をしのぐ場所を見つけなくてはならなかった。カリフォリニアとフロリダではテント村ができはじめた。他の都市では、複数の家族が友人や親戚と相部屋したり、マーテルの窮屈な部屋を仮住まいにしたりした。*14

こうした事実にもかかわらず、FRB議長のベン・バーナンキは、2007年6月5日の時点ではまだつぎのように認識していた。《現時点では、サブプライム市場での問題がより大きな経済や金融システムに波及しそうな見通しはありません》。*158月9日には、フランス最大手の銀行BNPパリバが、傘下ファンドから引き出しを停止すると発表した。パーティの終わりを告げる鐘の音が、それを聞きたくないひと(もしくは聞かないことによって利益をえているひと)の耳に届きはじめ、金融トレーダーたちのあいだを、にわかにパニックが広がっていった。だがその時点でもなお、為政者たちは、政府の大規模な介入なしに危機が底打ちすることもありうると考えていたのである。

この住宅ローン破局の金融メカニズムを背後で支えていた人々は、最初のうちは不思議と影響を受けていたにように見えた。二〇〇八年一月には、ウォールストリートのボーナスは合計で三二〇億ドルに達し、二〇〇七年の総額よりほんのわずか少ないだけだった。これは世界の金融システムを崩壊させたことに対する驚くべき報酬であった。社会のピラミッドの底辺にいる人々がこうむった損失は、その頂点にいる金融家たちの法外な利得とおおむね釣り合っていた。*16

リーマン・ブラザーズが負債総額6130億ドルで、連邦破産法11条の適用を申請したのは、2008年9月15日のことであった。この時点では、もはや破局に歯どめが効かなくなっていることは、だれの目にもあきらかな事態となっていた。

危機が顕在化したとき、アメリカの財務長官を務めていたヘンリー・ポールソン(前ゴールドマン・サックスCEO)は、前FRB議長のアラン・グリーンスパンに電話をかけて、対応策を協議しようとしている。グリーンスパンは、《今回の危機は一〇〇年に一度のものであり、政府はことによると市場安定化のために尋常ならざる方法をとらなければならない》といった。*17これは、ロング・ターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)が、二人のノーベル経済学賞受賞者を運用チームにかかえながら、破綻を余儀なくされなくされたとき、経済学(およびLTCM)を救うために囁かれたこととよく似ていた。「長い目」でみれば、市場は均衡価格を見出すだろう。けれどプレイヤーの資産は有限だから、最大規模にして最高の知性を誇るヘッジファンドといえども、市場が均衡価格をみいだすまえに元手が底をついてしまうことも十分ありうる、と。そのときの教訓は、だからレバレッジ自己資本比率)が重要という愚かしいものだった。もちろん、プレイヤーは資産が有限であればこそ極端なリスクをとる誘因に曝されるのだし、また「長い目」でみれば、経済学の前提はいつだって正しいにちがいない。

ヒューム以来、経済者たちは経済変動の短期的な効果と長期的な効果を(政策介入による効果もふくめて)区別してきた。この区別は[……]均衡理論を保護するためにつかえてきた。経済学において、短期とは典型的には、振り子が一時的に停止位置から外れるように、「ショック」の影響下で、長期の均衡位置から一時的に逸脱した市場の期間のことである。この考え方は、政府に市場をなるべくそっとしておくことを推奨する。市場は自分で自然な均衡位置をみいだすことができるし、政府の介入による「修正」は、そもそもの錯覚に余分な層を重ねることになるだけであろう、と。*18

この反証不可能な前提は、危機下では当然のことのように停止されるだろう。というのも危機は「短期」であり、要は「例外状態」のようなものだからである。市場をそっとしておく代わりに、アダム・スミスの見えないはずの右手がせわしなく動き出す。かつては私的利益の追求が、引いては全体の利益に通じるとされていた。いまでは経済システムを保護するために、まず銀行強盗に金を渡さなくてはならない! 公平な市場主義者として、グリーンスパンも状況を苦々しくおもっていたらしい。彼はいわば「よい銀行強盗」の仕方をポールソンに提案している。前FRB議長はこういった。市場には流動性が不足しており、《住宅の供給が多すぎるのだから、問題を真に解決する唯一の方法は、政府が空き家を買い上げて焼いてしまうことだ》!*19

政府が金融機関を救済しようとしたとき、もっともかたくなに反対したのは、右派の(グリーンスパンとおなじく)市場原理主義的な考え方をする議員の方であった。共和党員のジム・バニング上院議員は、政府の救済案を非難して、ポールソンを「社会主義者」呼ばわりした。この論法は、政権が代わったあともオバマにたいして何度も繰り返され、奇妙なことに、金融危機のあとには、共和党の市場主義イデオロギーはいっそう強化されたようにみえた。すなわち、超保守的なポピュリストたち(ティーパーティー運動)が党内で力を増していったのである。たいしてリベラルは、「富裕層にたいする社会主義」という嫌な役割を割りあてられることになった。

パーティーが続行する仕方にはひとを身震いさせるものがある。経済学者たちはたしかに表面的には「失敗」をみとめた。危機を警告していたひとたちが、相対的に周縁的な立場から、中心的な位置を占めるようになり、マクロ経済学においてケインズがふたたびヘゲモニーを獲得していった。新しい実験の時代がはじまった。日本のナショナリストに、リベラルな見解で知られるアメリカの経済学者たち(ポール・クルーグマン、ジョセフ・スティグリッツ)が声援を送っている光景は、すでに破産していた日本のリベラル・イデオロギーにたいして、とどめの一撃となった。もっとも、「リフレ派」はまともな仕方で失敗できないことを、例によってすぐに露呈させることになったけれども。「処方箋」とその「実行」のあいだには、つねにギャップが存在するのであり、そのギャップには「政治」という名前があてられている。主流派経済学は、政治の領域からみずからを除外することによって自己を形成してきたのだから、ギャップを認識できないのはある意味で当然のことといえる。マネタリーベースを増やしても、実質インフレ率は上昇しない。失業率が下がっても、賃金は上昇しない。なぜか? 不用意に消費税を上げたせいだと(もっともらしく)説明される。理論上の限界(反証可能性)は、実現されるまえに、つねに不可解な「政治的なもの」の侵入によってさまたげられることになっているのだ。

上手に失敗できない理論には、どこかおかしなところがあるにちがいない。けれど、経済学が自分自身の失敗を認識できないことには、それなりの理由がある。それは単純に、《科学としての経済学の台頭が、資本主義の台頭と一致しており、そして経済学の論理は知られているように容易には資本主義をサポートする議論から区別できない》からである。*20「否認の心理」は、ここで「政治」そのものが理論にたいするギャップとして出現することを見逃せば、何度でも延命するだろうし、「処方箋」に政治の否認がそもそも織り込まれている場合には、まともな仕方で失敗することなど望むべくもないだろう。

歴史、規則を欠いたゲー厶

プリーモ・レーヴィが報告しているのだが、ある日アウシュヴィッツで、SSの兵士たちとゾンダーコマンド(焼却炉、ガス室、死体の処理を任されたユダヤ人作業班)が一緒にサッカーをしたことがあったそうである。その試合には、SSの他の兵士たちやゾンダーコマンドの残りのものが立ち会っていた。《彼らはどちらかに味方し、賭けをし、拍手喝采し、選手たちを応援した。まるで試合が地獄の入り口ではなく、村の野原で行われているかのようだった》。*21レーヴィはこの光景の根底にひそむおぞましさを推し量っている。それは、アウシュヴィッツユダヤ人(なかでもとりわけゾンダーコマンド)が、すでに「何もかも失っている」――にもかかわらず何かが残っている――ことを、度を越した残酷さで突きつけるまたとない機会であった。彼らはともに人間であった。勝ったところで、なんだというのだ?

この停戦の背後に、ある悪魔的笑いを読み取ることができる。事は成った、我々は成功した、おまえたちはもはや別の人種ではない[……]。我々はおまえたちを抱擁し、腐敗させ、我々とともに底まで引きずっていった。おまえたちは我々と同じだ、誇り高きおまえたちよ。我々と同じように、おまえたち自身の血で汚れている。おまえたちもまた、我々と同じように、カインと同じように、兄弟を殺した。さあ、来るがいい、一緒に試合をしよう。*22

ここから引き出すべき結論は道徳的なものではなく、歴史的な――ひょっとすると神学的な――ものではないだろうか? ジョルジョ・アガンベンはこの箇所について、《試合はけっして終わってはいない。どうやら、途切れることなく、いまだに続行されているようなのだ》といっている。*23

(結論に代えて)神学は誘惑でないと注記しておこう。むしろ誘惑は、敵のあまねく勝利をみとめることである。勝者に同一化しつつ、それ以外のすべての人間が敗者だという見せかけの同情に居座ること、これこそがリベラルな態度というものである。一見深淵そうにみえる「敗者の哲学」は、いともたやすく「成功の哲学」に転んでしまう構造をそなえていた。それはまともな仕方で失敗することができないだろう。この構造から一歩退いて、「必負」の視点にそのまま同一化することも、なおさら退けなくてはならない誘惑である。必敗の視点に立つことは、いつでも「一発逆転の一手」を模索すること――たとえば地政学的緊張をアルキメデスの点とする誘惑――に繋がっている。それは神学的すぎるのではなく、まだ十分に神学的でない。

ファシストは、自分自身の勝利と真理を最終的には信じることができないだろう。では、それを信じることができるのは、だれか? 人目をはばかる神学は、経験的には失敗そのものが失敗するという無情な事実をひたすら指示するだけである。この事実によって危うくなるのは、実は(敗者ではなく)勝者の方だといわなければならない。なぜなら、失敗そのものをみとめることができないのは彼らの方だからである。ゲームの隠喩はここで少しだけ頭をもたげ、きたるべき「勝利」といっさいかかわりのない位置に、自分自身のひいきのプレイヤーを放棄して去っていく。史的唯物論、それは真理についていっさいの留保を控えた、ただひとつの無神論的神学である。

 

(文責 - 市川真木

*1:ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」『ボードレール  他五篇』野村修訳、岩波文庫、327頁。

*2:ジョルジョ・アガンベンアウシュヴィッツの残りのもの』上村忠男/廣石正和訳、月曜社、29頁。

*3:https://www.smh.com.au/sport/tennis/how-stanislas-wawrinka-failed-at-becoming-a-failure-20140122-3195v.html

*4:http://mstraweb.blogspot.com/2014/02/failing-better.html

*5:https://thenewinquiry.com/fail-worse/

*6:https://www.lifehacker.jp/2010/11/post_1632.html

*7:三つの可能な解釈が、三つの政治的立場と対応しているとしたら? すなわち、リベラル(事前的)と新自由主義(事後的)、そして前衛左派(行為遂行的パフォーマティヴ)。ポイントは、リベラルと新自由主義が(よくいわれるように)いかにイデオロギー的に結託しているかということを、ワウリンカのエピソードから理解することだ。そして、今日の左派の「まともな仕方で失敗すること」のできない窮状を、その袋小路に正当な仕方で位置づけることである。

*8:ポール・オースター/J. M. クッツェー『ヒア・アンド・ナウ 往復書簡 2008-2011』くぼたのぞみ/山崎暁子訳、岩波書店、191頁。

*9:同前、190頁。

*10:同前、192頁。

*11:レヴィ=ストロース『野生の思考』大橋保夫訳、みすず書房、38頁。

*12:デヴィッド・グレーバー『官僚制のユートピア酒井隆史訳、以文社、273頁。

*13:https://himaginary.hatenablog.com/entry/20090813/letter_to_queen

*14:デヴィッド・ハーヴェイ『資本の〈謎〉』森田成也ほか訳、作品社、17頁。

*15:リーマン・ショック・コンフィデンシャル(上)』122頁。

*16:同上。

*17:リーマン・ショック・コンフィデンシャル(上)』250頁。

*18:Robert Skidelsky, ''Money and Government,'' Yale University Press, pp. 37-38.

*19:リーマン・ショック・コンフィデンシャル(上)』250頁。

*20:''Money and Government,'' p. 10.

*21:プリーモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』竹山博英訳、朝日選書、53頁。

*22:同前、53-54頁。

*23:アウシュヴィッツの残りのもの』29頁。

大失敗のRadio-Activity 第四回「二〇二〇年の〈進歩と調和〉?:万博記念公園」

第四回

 

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2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。

 

あけましておめでとうございます!2020年最初の更新となる今回は、「大失敗散歩」です。


大阪府吹田市万博記念公園に行ってきました。もちろん2020年といえば万博から50周年ですが、万博記念公園には最近エキスポ・シティなるショッピングモールもでき、家族やカップルが休日を過ごすにはいい場所になっています。
今回我々は太陽の塔の中にも入りました。ラジオ内では、そうした場所の印象に合わせ、今ではすっかり「国民のいい思い出」になっている1970年の大阪万博(正確には「日本万国博覧会」)について語っています。

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「人類の進歩と調和」を掲げる万博は、確かに1970年において、戦後日本の復興を海外にアピールするものとしてある種の「象徴」となっていきました。またそこには「未来」(進歩と調和)への期待がかけられここには名だたる進歩的文化人たち、当時の「前衛」的アーティストたちが「動員」されていきます(例えば思いつくままに列挙しても、桑原武夫小松左京丹下健三岡本太郎磯崎新黒川紀章武満徹手塚治虫…)。

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しかしその「未来」を十分日本国民は受け取り、その結果を総括し得たのでしょうか。そして「お祭り」としての万博とはどのようなものなのでしょうか。あるいは万博とは果たして、本当に歓迎すべきイベントなのでしょうか。そもそも万博とは? 岡本太郎の「太陽の塔」がもつ「縄文的」イデオロギーとは? ラジオではこのような話題にまで広がっています。

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2025年に予定されている大阪・関西万博(テーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」)を考えるためにも、万博の過去と未来を振り返るのもいいのではないでしょうか。

 

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↓ラジオ中に触れている本はこちら

 

 

 

※なお、「太陽の塔」の背後に広がる「お祭り広場」に我々が足を踏み入れた時、そこにあったのは「ラーメンEXPO」であった。

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なお、『大失敗』創刊号はこちらからご購入いただけます👉https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSfn0SY9uIfZyPRkeabze01Q3Z7DJtM7quPPajDEcYwlBEwu9g/viewform

 

 

パーソナリティ:赤井浩太左藤青

編集・写真・BGM:左藤青

 

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大失敗のRadio-Activity 第三回(後半)「批評の歴史と『大失敗』」(ゲスト:松田樹)

第三回(後半)

 

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2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。

第三回は長さの関係で二分割!(後半)。

前半に引き続き、ゲストに中上健次研究者の松田樹さんをお迎えしつつ、今回は松田さんが批評の歴史を主に三点に分けて解説!

「政治運動の代補」としての批評とはいかなるものなのか? 文学研究者から見た「批評の歴史」と私たち「大失敗」の批評的実践の意義とは?

 

 

年末年始でお時間のある方は色々と遡って読んでみるのもよいのではないでしょうか…
ちなみに今回も松田さんが注釈をつけてくれました。

 

「大失敗」ラジオ注釈(松田樹)

◎「上下分ち書き」形式への補足

 このラジオでは文献が手元になかったため記憶違いをしているが、浅田彰による「上下分ち書き」形式の文章は、『インパクション』(91・8、特集ゲイ・リベレーション)掲載の「ゲイ・ムーヴメントのために」ではなく、『G S 2号』(84・11、特集POLYSEXUAL――複数の性)掲載の「性を横断する声」に、その一例が見られる(ただし、後述の通り、前者でも浅田の戦略は一貫していると思われる)。

 ここで浅田は、ドゥルーズガタリ「生成する音楽――『ミル・プラトー』からの二つの断片」を上段に、ドミニク・フェルナンデス「料理万歳!『チューダーの薔薇』第一章」「『ポルポリーノ』からの断片」を下段に配置している。下段にて「フランスの同性愛作家」フェルナンデス*1のテクストに託して異性愛規範から逸脱した芸術家(カストラート)や同性愛者の苦悩を内在的に捉えつつ、それを上段のドゥルーズガタリの分析によって跡付け、かつ性の体験をポリセクシュアルな方向へと開いてゆこうとするのである。このような構成・配置こそ、対象への内在とそれに対するメタ言及という浅田の所謂「ノリ」/「シラケ」の二重戦略を示すものであり*2、それが(往時の?)あるべき批評のスタイルであることを、「上下分ち書き」という形式によって強調することを収録中の発言は意図していた。

 「ゲイ・ムーヴメントのために」においても浅田は、恐らく同様の立場を踏襲している。「ゲイ」を自認する人々が主宰した集会での講演をもとにしたこの論考で浅田は、同性愛者のカムアウトを通じた「アイデンティティ」の闘争を評価しつつ、異性愛と同性愛という「二項対立」を超えた「差異」の戦略(すなわちポリセクシュアリティ)を提起している。それに相即して、「ゲイ・ムーヴメントのために」の末尾では――あたかも同特集にも散見される同性愛者のカムアウトのフォーマットを模倣するかのように――思春期以来の性の遍歴が吐露される一方、その体験が「「彼」と呼んでおきたいある人物の性の歴史」と客観的に位置付けられている。つまり、ここでも「ノリ」/「シラケ」の二重戦略が取られていると言えよう。

 収録中にも発言した通り、上記のような浅田の戦略を継承していると思われるのが、東浩紀の「オタクから遠く離れて」(『Quick Japan』97・10)である。「オタクから遠く離れて」では、上段に《遠く離れて》、下段に《オタクから》という章がそれぞれ配置される。上段がサブカルチャーの歴史を辿る客観的な記述であるのとは対照的に、下段はそのなかで「僕」が辿ってきた私的な変遷が述べられる。そして最終章では《オタクから遠く離れて》と両系列が「僕」という話者に統合された上で、結末の部分では「フェティッシュ&ロジカル」とその分裂がポップに肯定されている(「おお、まとまったじゃないですか。こんなふうな感じなんですよ。ねえ。」とこの文章は締め括られる)。*3

 以上を踏まえて再説すれば、批評とは「僕」=「ゲイ」(浅田)=「オタク」(東)という論じられる対象に論者自身がフェティシズム的に固執しながらも、同時にロジカルな視線によってそこから「遠く離れ」たメタ視点が確保されねば成立しない(しなかった)営為であると言えよう。「上下分ち書き」という形式は、その下段において「ゲイ・リベレーション」特集や『Quick Japan』を購読する読者共同体を鼓舞しつつ、上段の理論的記述によって彼らに分析の眼差しを差し向ける批評という書き物の二重性を体現しているのだ*4。(以上)

 

  

なお、『大失敗』創刊号はこちらからご購入いただけます👉https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSfn0SY9uIfZyPRkeabze01Q3Z7DJtM7quPPajDEcYwlBEwu9g/viewform

 

パーソナリティ:赤井浩太左藤青、ゲスト=松田樹(神戸大学

編集・BGM:左藤青

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*1:別のところで浅田は、フェルナンデスを「フランスの同性愛作家」と紹介している(「同性愛はいまだにタブーか」(『VOICE』98・6、『批評空間』アーカイヴで閲覧可能。19年12月現在。http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/voice9806.html

*2:「対象と深くかかわり全面的に没入すると同時に、対象を容赦なく突き放し切って捨てること。同化と異化のこの鋭い緊張こそ、真に知と呼ぶに値するすぐれてクリティカルな体験の境位(エレメント)であることは、いまさら言うまでもない。簡単に言ってしまえば、シラケつつノリ、ノリつつシラケること、これである」(浅田彰『構造と力』「序に代えて」)。

*3:ちなみに、収録時、東による「分ち書き」形式の試みは、デリダの『割礼告白』や『弔鐘』からヒントを得ている可能性を左藤青から示唆された。ただし、ここではその形式によってもたらされる対象への固執と批判的吟味を同時に含む「遠く離れて」という身振りが、批評の文脈で有している(きた)意義について簡単に述べた。

*4:ただし、『現代思想 特集レズビアン/ゲイ・スタディーズ』や『実践するセクシュアリティ』に収録された座談会等でも浅田が一貫してその二重性を「運動」と「理論」と区分しているのに対して、東においてはそれが批評の読者との関係性として脱政治化――東はそれを旧来とは異なる意味での「政治」と捉えるのかもしれないが――されている。
 ここで『ゲンロン0 観光客の哲学』にて東が、「必要と欲望」に追従する「下半身」と「理性をもって熟議する」「上半身」という、「分ち書き」形式にも通じる「二層構造」のモデルによって現代社会を把握していたことを想起したい(「第3章 二層構造」)。「資本主義的、革命的(前編)—東浩紀の広告戦略について」で指摘される通り、東の批評は、提起される内容(欲望の下半身/理性の上半身という「二層構造」のモデルや、「誤配」という哲学的テーゼ)と彼のスタイル自体(下段に置かれたオタク的記述/上段に置かれた理論的記述という「上下分ち書き」の形式や、「広告」を志向するそのキャッチーな文体)が密接に対応しているのである。
 『ゲンロン』の巻頭言などを通じて「批評とはなにか」(「批評とは病である」「批評とは幽霊を見ることである」「批評とは距離の回復である」etc…)が近年の東によって反復的に問い続けられるのも、それが批評を定義付ける内容上の問いであるとともに、(むしろそれを超えて)批評の新しいスタイルを模索する試みであるために他ならない