批評集団「大失敗」

「俺たちあくまでニューウェーブ」な批評集団。https://twitter.com/daisippai19

大失敗、東京遠征編

 

  どうも、赤井浩太です。こういった報告記事の類いはたいてい左藤がやってくれるのですが、いま彼は国にお金をねだるための書類作りで忙しいので、今回はぼくが担当します。

 さて、GWでした。われわれ「大失敗」は初の東京遠征だったのです。トークイベント「令和残侠伝」と、同人誌イベント「文フリ東京」の二本立てで、とても充実したGWとなりました。というわけで、その報告をぼくの感想を含めてお伝えしようと思います。

トークイベント「令和残侠伝」

 「せっかく東京に行くんだから、何かやらないともったいない」というビンボー根性(営業努力?)でトークイベントをやろうと言い出したのは左藤でした。そこでぼくが日ごろお世話になっている「機関精神史」主宰の後藤護さんにお願いして一緒に対談イベントを開催する運びになりました。「令和残侠伝 —止められるか、俺たちを―」というタイトルは後藤さんが考えてくれた名前です。トークイベントに登壇することなんて初めてのぼくは、「イケイケドンドン感がすごいな」と思い、正直なところ若干尻込みをしていたのですが、何度かの打ち合わせの末、イベントのプログラムが「機関精神史」×「大失敗」による〝対バン〟のような様相を呈してきて、これはもう大変なことになるぞと思いました。

 というのも、大失敗ファンの皆さまはご存知の通り、気の弱いぼくとは違って、左藤としげのは息をするように人様の悪口を言うので、当日何を言い出すか分かったものではなかったからです。それに、たかが同人誌のイベントにお客さんは来てくれるのか、用意したプログラムは上手くいくのか、そもそもぼくはちゃんと人前で喋ることができるのか……。そういう考えたらキリがないほどの心配をバックパックに詰めて東京へ向かいました。

 そして当日、フタを開けてみれば超満員。立ち見客にとどまらず、外でキャス放送を聞く人たちまで出てしまうことになりました。これは予想していた来場者数よりも遥かに上回った結果ですが、ぼくたちはこんなに多くの人たちが見に来てくれるとは思いもしなかったのです(次こそはもっとキャパの大きい会場でやりたいです)。そして肝心の対談はというと、個人的な反省は山ほどあるのですが、それはともかくとして、後藤さんとぼくの「マチャアキ観」の違い、そして「機関精神史」と「大失敗」の目的や方法の違いなどが鮮明になり、スリリングかつシビアな議論が展開できたと思います。ちなみに左藤としげのは基本的に通常運転ではあったものの、ぼくが心配したほどのことはありませんでした。むしろぼくが穏当すぎたかと反省した次第です。ともあれ、トークイベント「令和残侠伝」は盛会のうちに幕を閉じました。

 19時から21時過ぎまでの長丁場にもかかわらず、ぼくらの話を聞いて頂いた皆さま、本当にありがとうございました。それから、このイベントを手伝ってくれた方々にも感謝を申し上げます。そして後藤護さん、「機関精神史」の皆さま、お付き合いいただき本当にありがとうございました。

文学フリマ東京

 ぼくたちが初めて出店したのは今年一月の文学フリマ京都でした。どうやら京都は評論ブースが東京に比べて少なく、そちらを目当てのお客さんも比較的少なかったようなのですが、それでも滑り出しとしては好調でした。そのあと通信販売を始めて、地方に住む読者の方にも郵送で販売をしました(現在は受付を一時停止しています)。

 前から予定していたことではありますが、文学フリマ東京ではどれぐらい売れるのかということがぼくの関心事でした。とはいえ、ブログがどれだけ読まれていても、それがそのまま同人誌を買ってくれる人の数になるとはかぎりません。その意味ではどうなるのか、これもまたトークイベント同様に予想がつきませんでした。

 ほかの同人ブースに比べると、店の外装も貧相な「大失敗」ブースではあったのですが、しかし開場直後からありがたいことに客足は途切れず、本誌『大失敗』創刊号も『小失敗』も順調なペースで売れていきました。そうそう、今回はただ創刊号を持っていくだけではつまらないと、これもまた左藤が言い出したので(彼は本当に仕事熱心です)、おまけとしてエッセイとブック&CDレビューを載せた冊子「小失敗」を作ったのです。入稿〆切まで時間がなかったので、大急ぎでエッセイを1本、レビュー6~7本を三人それぞれ書きました。ブログで「大失敗」を始めてからというもの、左藤が言うように「地獄の千本ノック」をやっているような気持ちになります。(ブログの書き手を募集しています)

 まぁそれはいいとして、「大失敗」ブースには創刊号に寄稿して頂いた絓秀実さんをはじめ、商業誌でお名前を目にする著名な方々にも『大失敗』や『小失敗』を買っていただきました。ぼく個人としては、「わー、ツイッターでフォローしてる人だー!」と感動しつつ、恐縮しきりでした。途中、杉田俊介さんと話すためにぼくが席を外したため、左藤のワンオペ状態となってしまい、どうやら大変だったようです。しかしぼくが戻ってきたときには売り子の方も到着し、それからもどんどんと売れていって、ついには閉会までかなり時間を残して『大失敗』も『小失敗』も在庫がなくなってしまいました。

 そのようなわけで「大失敗」初の東京進出はありがたいことに大盛況、これにて創刊号初版は完売となりました。もちろん増刷は予定しています。おそらくそのうち通信販売も再開しますので、今回買いそびれた方は受付再開の告知をお待ちください。

赤井の極私的総括

 楽しすぎて疲れた。それがGWの、というか「大失敗」を始めてから創刊号を売りきったGWまでのぼくの感想です。よく知らないままとんでもないジェットコースターに乗ってしまったあとのような、興奮と緊張が一気に弛緩していく感覚がまだ残っています。思い出してみれば、初っ端からバズったり、炎上しかけたり、ケンカを売ったり売られたりと、「大失敗」への道はスタートからスリル満点でした。何かあるたびにゲラゲラ笑って、そのたびに速度がグングンと上がっていき、気がつけば暴走列車のようになっていました。そう、だから、笑う暴走列車、ドーン。つまり、大失敗。

 とはいえ、ぼくたちにとって重要なことは「持続」であって、「加速」ではないのですが、ただ「出発」するためにはやはりある程度「加速」しなければならないこともまた事実でしょう。その意味で「大失敗」はなかなかの初速を出せたのではないでしょうか。

 さて、ここからは「持続」することが課題になってきます。これに関しては不足している要素が多々あることは否めません。ブログの書き手、校正・編集員、その他の雑務など、「大失敗」はつねに人員不足です。お手伝いをして頂ける方、募集中です。大失敗の「愉快な仲間たち」が歓待いたします。それから『大失敗』二号ですが、現在準備中です。メンバーを増やして、さらに「ポップ」で「前衛」的な批評誌を作る予定です。読者の皆さま、どうぞご期待ください。

 以上、ぼくの報告はこれで終わりです。

 ここまで読んで頂き、ありがとうございました。

 

(文責 - 赤井浩太

 

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▲都内某所の「大失敗」。左から、しげのかいり、赤井浩太、左藤青。ちなみに、「大失敗」が一堂に会したのは実はこの度が初めて。

 

「令和残俠伝」プログラム

「大失敗」運営の赤井浩太です。

5/3のトークイベント・プログラムを発表いたします。

当日は御来場の皆様にお会いできることを楽しみにしています。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

令和残侠伝―止められるか、俺たちを

 

概要

後藤護(機関精神史)と赤井浩太(大失敗)のトークイベント。

イベント開始は19時、会場は神保町のギャラリーSPINOR、エントランス1500円、ドリンクなし(必要な方は持参してください)。

 

タイムテーブル

19:00~19:05 挨拶およびイベントの主旨説明(左藤青)

19;05~19:50問題提起① 平岡正明リバイバルをめぐって(後藤護)

「方法としての平岡正明

1.「平岡文体」の必要性(主語、比喩、造語、ルビ)

2.「梁山泊」という組織論(平岡正明の徒党性)

3.「精神史家」としての平岡正明(平岡的な史論とは何か)

 

【休憩15分】

 

20:05~20:45 問題提起② 思想史/精神史の復権のために(赤井浩太)

「批評における歴史の消失」

両同人誌の紹介(後藤/左藤)

1.東浩紀蓮實重彦劣化コピー(左藤青)

2.批評同人誌の現在(後藤護、赤井浩太、左藤青)

3.商業誌/同人誌のこれから

 

20:45~21:15 問題提起③ しげのかいり/山田宗史登壇

1.しげのかいり/山田宗史による補足/批判

2.花田清輝という論点

 

21:00~?? 質問&フリータイム

 

 

以上

 

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(文責 - 赤井浩太)

赤井浩太 文フリ東京【エ-18】 (@rouge_22) | Twitter

「令和残俠伝」開催ならびに『小失敗』販売のお知らせ

みなさま、ご無沙汰しております。左藤青です。本日は二つほど告知させていただきます。ゴールデンウィーク中の『大失敗』についてです。

令和残俠伝(5月3日)

来るべき5月3日、元号が変わって間も無く、『機関精神史』後藤護氏と『大失敗』赤井浩太でイベントがあります。

 

『機関精神史』は『大失敗』よりほんの少し先輩で、ほぼ同時期に活動を開始した批評誌。「学魔」高山宏をフューチャーし、アングラパンクな批評を展開しています。

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ニューウェイヴ前衛批評集団である『大失敗』とは何かと共通項があり、とりわけ後藤氏と赤井はともに平岡正明を論じていますので、当日は平岡批評の臨界点について語られることになるでしょう。そのほか、現在の批評の問題、思想史の問題、批評誌のあり方、"令和以後"の批評など、さまざまな議論、プロレス、場外乱闘が予定されています。われわれの「不揃いなシンクロ感」あるいは「調和感のある調子外れ」にご期待ください。

ちなみに私、左藤は司会で参加します(そして後半からは、さらに登壇者が増える…かもしれません)。

※ 予約ありません。当日、スピノールに直接お越しください。

前衛批評おまけ雑誌『小失敗』 (5月6日)

『大失敗』は東京文フリ(5月6日)に参加します。絓秀実氏の論考も掲載している創刊号は、おかげさまで無駄に刷り過ぎた在庫を順調に減らしており、増刷も確定しております。

しかし、来るべき東京文フリに、一月発売の創刊号だけを持っていくのはつまらない。というわけで、前衛批評おまけ雑誌『小失敗』を発刊いたします。

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ディスコゾンビ#104氏によるすばらしい表紙

『小失敗』は、赤井・左藤・しげのによるエッセイ&補論集、「大失敗読書会」参加者が書いたレポート、「前衛」のための義務教育と題したレビュー集(20冊)を収録(とはいえ60頁以上あります)。創刊号と併せて読むと「大失敗」の全貌がちょっとだけ明らかになります。部数はそれほど刷らないので、お買い求めの際はお早めにお越しください。

500円を予定していますが、『大失敗』と合わせてご購入いただくか、すでに『大失敗』をお持ちの方はご提示いただければ300円になります。

 

それでは、皆様とお会いできるのを楽しみにしております。

大失敗なゴールデンウィークをお過ごしください。

 

(文責 - 左藤青

 

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資本主義の光 ——マイケル・マンの光

 あらゆる可能性は明示的に表象されるものではなく、潜在的なものとして現れるものだ。例えば「社会的意識が人間の意識を規定する」というマルクスの言葉にも当てはまる。この言葉はアリストテレスがいう「人間は社会的動物である」とは訳が違う。アリストテレスは人間の行動が不可避的に政治や社会に結びついてしまうことを指摘している。マルクスが見出したのは、そもそも主体的に社会を作ろうとしている人間の意識が、実は政治と社会に憑依され作らされているという事態に他ならない。

 わたしが「疎外」を解消可能な概念として批判したり肯定したりすることを不毛としか思えないのはこのためだ。「疎外」を人間が主体的に克服可能として把握するのは「社会」に対する甘えでしかない。そのような社会による人間主体の「疎外」からの克服すらも現代社会はあらかじめ予期し、プログラムしているのである。我々が為すべきは「社会の外側へ出ようとする」などという、人間が疎外される社会があらかじめ予期しているメロドラマではない。そのようなあらかじめ仮構されたメロドラマを内破させる部分を見出すことこそが必要なのだ。

 

 マーク・フィッシャーはマイケル・マンの『ヒート』を次のように分析する。

『ヒート』で犯行を行うのは、祖国へのつながり持つ家族ではない。むしろ根無し草の組員が、磨き上げられたクロムめっきと均質的なデザイナーズキッチン、そしてのっぺりとした高速道路と深夜食堂が立ち並ぶロサアンゼルスにおいて、ヤマを踏むのだ。(一九七九年十月六日——「何事にも執着するな」*1

 マーク・フィッシャーは『ヒート』を通して89年以降の自由主義社会主義に勝利し、全てが市場原理主義に基づいて再編された世界を正確に描写している。『ヒート』の主人公である犯罪組織のボス、ニール・マッコーリーは『ゴットファーザー』や『グッドフェローズ』のような前時代の映画が拠り所にしていた地域的な色彩、料理の香り、俗語など必要としていない。マッコーリー達は「根無し草」の職能集団であり、言わば「非正規雇用」的な存在なのだ。

 このマーク・フィッシャーのニール・マッコーリー論=ネオリベ論の中でも、特に注目すべき点はフィッシャーが「家族」をとりあげている点である。マッコーリーのような資本主義社会の掟に基づいて生きる「根無し草」にとって、日々の労働を癒す家族はセーフティ・ネットとして必要なものだ。しかし資本主義の論理は前時代的な地域の色彩や関係を再編し、家族を弱体化させる。従って「社会経済におけるアナーキー的状況がもたらす精神的傷を慰めるための救心剤」として必要な家族はマッコーリーの生きている世界には存在しない。

 かかる「家族」の問題はマイケル・マンのフィルモグラフィ的にもきわめて重要な問題である。例えば最初期の作品にあたる『ザ・クラッカー 真夜中のアウトロー』では、円満な家族を持つために嫌々ながらマフィアに手をかす金庫破りが主人公になっている。彼は裏社会から足を洗い家族を持つ夢を叶えるために犯罪に手を染めるのだが、逆にマフィアのボスから恋人を人質にとられて、裏社会から足を洗うことができない状態に陥れられてしまう。この点で、『ザ・クラッカー 真夜中のアウトロー』は家族のために労働に従事していたはずの存在が、いつのまにか労働することを目的化してしまい、家族と疎遠になってしまう転倒を描いた作品である。

 あるいは『コラテラル』を挙げてみても良い。『コラテラル』では、しがない非正規雇用のタクシー運転手が「プロの殺し屋」を客として載せるところから物語が始まる。この作品でも家族が主題となっており、タクシー運転手は母に対して自分の不遇な状態をひた隠しにし、嘘をつくことで家族間の安定を図っている。このタクシー運転手と母の関係が物語の中できわめて重要な位置を占めている。非正社員であるタクシー運転手は母の「自慢の息子」であることをまもるために嘘ついているように見えながら、内実「自尊心」をまもるため母に嘘をついているのだ。彼に嘘をつかせるのは家族に対する愛情であると同時に、嘘をつくことしかできない状況を生む、希望のない資本主義社会の非正規雇用の状態なのだ。

 このように、マーク・フィッシャーが『ヒート』の中で見出した「家族」の問題は、マイケル・マンのフィルモグラフィにおいて大きなテーマになっていることがよくわかるだろう。

  

 しかし「家族」の問題をあぶり出すだけでは、マイケル・マンの資本主義の問題を取り扱うには不十分である。マイケル・マンを取り扱う際にマーク・フィッシャーが見落としているのは「夜景」を彩るビルディングの明かり。つまり「光」の問題が抜けているのだ。

 マイケル・マンが見出す根無し草達が「労働」に従事する際、いつも風景には夜の光がある。この、夜の光りがグローバルに活躍する(マッコーリーのような)根無し草たちの姿を着飾るのだ。いうまでもなく夜の明かりとは、ビルディングの明かりである。この夜景を彩るビルの光は労働者の「残業」によって捻出された絵の具であり、夜景は資本主義によって作り出された「ジャンク」な美に他ならない。つまり、一つ一つの光にマッコーリーのように安定した生活を賄う事が出来ない労働と生活がある。

 かかる風景画は夜だからこそ顕在化するのであって、昼の世界においては潜在的なものである。いうまでもなく、昼にだって労働はある。しかしながら夜になっても労働をし続ける他ない人間達の蠢きはビルディングの「光」という表象をもってしか観ることができない。

 労働者が夜になって光るからこそ、我々は意識的にそれを「夜景」と名指すことができるし、さらには労働がそこにあることを了解することもできるのである。昼の世界では、労働が顕在的なものでありながら(であるがゆえに)、労働者を意識することはしないし、無意識のうちに自明なものとして通り過ぎてしまう。白昼の労働者は風景画足り得ず、日常の自明な風景と化しているのだ。マーク・フィッシャーが問題とする資本主義と家族の問題は、マイケル・マンの作品中では光として表象されている。マイケル・マンは夜を切り取り、「残業」というあまりに非人間的な状況を「夜景」の残酷な美として表象する光=労働の作家なのだ。

 かかるマイケル・マンの「光」の主題は最新作『ブラック・ハット』において、さらなる発展を迎える。 


 『ブラック・ハット』は主人公のハッカーが不可視の世界と戦う映画である。ストーリーは香港の原発アメリカの金融市場がハッキング攻撃を受けたところから始まる。この事件を受けて、政府はニコラス・ハサウェイへの協力を余儀なくされる。ハサウェイ自身もまた、カード詐欺の罪で投獄されていたハッカーである。かかる流れの中で獄中から釈放されたハサウェイが見通す地平線は、彼が世界に開かれたことを明示している。そしてハサウェイが戦うハッカーたちは不可視の存在である。彼らは現実には見えないサイバースペースの中の存在であり、現実的にはのっぺりとした機械の電気信号という形でのみ表象される「光」なのだ。

 彼らは「孤独」な存在ではない。むしろ、サイバースペースの中で「強固」に繋がりあう存在である。しかし我々はハッカーたちの繋がりを実際に見る事はできない。現実的には、そこには「光」の明滅という痕跡があるだけだからである。

 このことでもわかる通り、マーク・フィッシャーの現在の資本主義の見方はある側面で正しいが、ある側面で間違っている。たしかにマーク・フィッシャーが言うように前時代的な「繋がり」は資本主義の原理によって粉砕された。しかし我々は技術の進歩によって生成されたグローバルなネットワーク空間によって、現実的な世界では繋がっていなくとも半ば強制的に潜在的な形で強固に繋がっている。

 サイバースペース『ブラック・ハット』の中でハッカー集団は原発を爆破するという形で、世界を混沌に落とし込もうとする。サイバースペースを介入することで、一般的に入ることができない原発内部に不可視に潜り込み、世界を混沌に落とし込むテロルが可能となる(話は若干ズレるが、そもそもマーク・フィッシャーの考えの中には「原発」という問題はないのではないか。「原発」こそ資本主義リアリズムを覆い隠す、すべての仮構された「光」のエネルギー、ビルディングの明かりの源たる太陽であり、かかる現実のエネルギー源たる原発の事故とは資本主義リアリズムの裂け目に他なるまい)。

 注目すべきはラストでハサウェイは世界の混沌を調停することなく姿をくらます点である。ラストで敵のハッカーを倒したところで、ハサウェイはアメリカに帰ることなく、電気信号の網の目のなか、夢の中(「光」が表象される現実ではなく、「光」が暗示する潜在性)へと消えていくのだ。ハサウェイがとった結論とは国家によって、社会によって規定された現実世界の承認はさして自由たり得ないということである。この点はマーク・フィッシャーの指摘を参照すれば明白な話だろう。

 「夢を叶える労働」においては、夢と労働の関係はいつしか転倒し、労働が主目的化していく。であるならば、サイバースペースによって生じた裂け目(混沌)を利用し逃走する賭けにハサウェイは出たのだ。混沌の中に紛れ込んだハサウェイはある意味できわめて抽象的な存在になってしまったとも言える。ハサウェイは、もはや電気信号の中で明滅する「光」によってしか映し出されることなく、顕在的な世界の中では不可視の領域の住人となった*2。『コラテラル』や『ヒート』と『ブラック・ハット』の決定的な違いはこの点である。

 『コラテラル』や『ヒート』で映し出されたのっぺりとした郊外の世界のー夜の風景は、根無し草たる男たちを過剰な労働によって抑圧するものである。そうした風景が抑圧的であるからこそ、これを超克しようとするサクセスストーリーを導き出した。このばあい「光」とは非正規雇用から這い上がり家族をもつ夢のことである。この点でサイバースペースを意味する『ブラック・ハット』の「光」とは決定的に違う。『ブラック・ハット』のハサウェイが出した結論は「光」を超克するのではなく、あえてサイバースペースの明滅の、「光」の中へ紛れ込んで見せるということであった。

 ハサウェイは事件を解決させた後に政府へ帰還することなく女と二人で電気信号の網の目の中へと消え、顕在的な世界からの逃走を成功させたのだ。つまりそれは潜在的なものを潜在的なものとして、疎外を疎外として、受け入れた上で現実世界からドロップアウトし、自らの自由を獲得する逆説的な発想によって規定された戦術である。

 我々が為すべきは現実世界に対する皮肉としての自殺ではなく、現実世界の要請(すなわち労働のことだ)をドロップアウトすることであって、その時必要なのは「死ぬ」勇気ではなくサボタージュする勇気である。マーク・フィッシャーの出した「世界の終わりを考えるよりも資本主義を終わらせることは難しい」という結論は正しい。しかし終わらせようとするからこそ資本主義に取り込まれる余地が生まれるのだ。

 資本主義に寄生し続けることで、その自壊に賭けることこそ今日の我々に必要な戦術なのではあるまいか。というのも、資本主義は資本家とも言えども利潤の追求を止めることができない点が最大の強みであり弱点だからである。誰も恐慌を予想することはできない。この予測不可能性の了解こそが「資本主義を終わらせる」ための主体を獲得する上でまず必要な点であろう。

 誰も資本の流れを予想することはできない。無論この「誰も」にはマルクスも入っている。

 

 

 

(文責 - しげのかいり

 

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▲『ブラック・ハット』(二〇一五年)

*1:マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』河南瑠璃/セバスチャン・ブロイ訳、堀之内出版、二〇一八年、八四頁。

*2:『ブラック・ハット』と相似的な映画として、押井守の『イノセンス』が挙げられる。あの作品で草薙素子が出した結論もハサウェイと同じものだ。草薙素子もハサウェイも有限な自己をインターネットのサイバースペースに還元することで社会から遊離し、逆説的に主体を獲得している

松坂牛の天皇——天皇制と脱構築(後編)

※前編

昼となく 夜となく

憑きまくれ 物の怪 (P-MODEL - "Holland Element") 

3-1.松坂牛が日本である

 中上健次ジャック・デリダは、一九八六年一二月一三日、パリのポンピドゥセンターで実際に対談している(「穢れということ」、『中上健次発言集成3』所収)。一二日〜一三日に行われたシンポジウムには、柄谷行人蓮實重彦浅田彰などのいわゆる『批評空間』派閥が出席した。ここでのデリダと中上のやりとりは、まさに天皇をめぐって展開されており、両者の立場の違いを明確にするのに役に立つものである。つまり、〈われわれ〉は守中のいう「デリダ=中上的思考」に対し、「デリダ≠中上的思考」を考えることができるだろう——後編では、この問題を扱いたい。 

 ここで中上は、「松坂牛が日本である」という、奇妙なメタファーから議論をはじめる。まず前提事項を確認しよう。中上によれば、

僕は、イキとヤボが、安土桃山のあたりではグシャグシャになってたんじゃないかと思うんですね。イキとヤボを分けて、腑分けして、これがイキでこれがヤボでと、ジャパノロジストのように言うのではなく、イキとヤボがグシャグシャになっているということを言い続けるのが、熊野の人間の役割である、と(笑)。*1

 「松坂牛」は中上によれば「文化的で、味としては本当に最高のものなんだけれども、〔…〕あの牛は完全に病気」である。中上における日本は、つねにそのヒエラルキーの頂点と底辺が、未分の状態で「グシャグシャ」になっているものである。だから日本には「文化的に病んだところ」がある。デリダの質問に対してより正確に答えている中上の言辞を引用すれば、

 天皇、それと同時に下にあるアブジェクション〔おぞましさ〕として、ほとんど天皇と同じような資質を持ちながら下に行ってしまうという、そういうアブジェクション、アウト・カーストの人びと——天皇もアウト・カーストですよね、カースト外ですから。そういう、両方を補完し合っている。しかし何度も言いますが、このカースト外というのも、ツリー状ではありません。霜降り肉状です。*2 

 中上は、天皇と「被差別部落民」がたえず「同じような資質を持ち」、相補関係にあることをまず指摘する。そしてデリダとのやりとりの中で、中上はこの図式が「ツリー状」ではないということを何度も繰り返している。

 ここでの「霜降り状」を中上は、日本の都市の成り立ちから説明している。中上によれば、「被差別部落民」は近代(明治期)において建設された駅(たいていの場合郊外に作られる)のそばに住んでいた。その結果、「部落」は「霜降り肉の脂肪のように、〔都市の〕中に入り込んで」*3しまったのである。

 すなわち、中上のいう「松坂牛が日本である」というメタファーにおいては、その「霜降り状」の脂肪が、「被差別部落民」が都市において占める実際の位置をそのまま図像的に説明するのである。これは非常に重要だろう。天皇=部落」は、政治=経済の次元に、否応なくつねにすでに、しかも「霜降り状」に潜む文化的異物、こう言ってよければ遍在する異物なのだ。

 このような前提から、中上は「要するに、部落も天皇も文化でできている」という。しかしここからデリダと中上のすれ違いが生まれてくるだろう。デリダは、こうした状況に対しいかなる介入がありうるのかを中上に尋ねるのだが、中上は一方ではデリダ脱構築の意義を認めつつも、「幾重にも折り重なった高度に文化的な社会で、政治的な道なんてありゃしない*4と断言するのだ。

 いかに「天皇=部落」の文化が霜降り状に遍在し、社会との複雑な絡み合いを呈していようとも、中上のなかでは、端的に政治の次元と文化の次元が分かれていると言ってよい。天皇も「部落」も、中上にとっては、自明のことのように人々の感覚(身体感覚・皮膚感覚)に浸透している「文化」であり、「松坂牛」なのである。だから、それがいくら政治=社会の中に「霜降り状」に合一しているとしても、結局のところ中上にとって文化と政治の二項は別次元のものである。いや、正確に言えば、おそらく文化は政治に影響を与えるが、政治が文化を変革することはできない、のである。

 言うまでもないが、ここでは、「松坂牛が日本である」というメタファーはある別の表現を折りたたんで収納している、と言わねばならない。その襞は天皇(=部落)が日本である」と展開することができるのである。だがこのひとつの換喩はおそらく、もうこれ以上展開することができないし、換言することもできない。それは最後の審級であり、暴力の行使である*5。しかも、「天皇(=部落)が日本である」という表現は、実際に「天皇=部落」というひとつの特権的なシニフィアンひとつの部分に「日本」という全体を代表させ、表象させ、象徴させている以上、修辞ではなく、日本国憲法に記載された条項のたんなる確認でさえある。

 もう一度繰り返せば、「霜降り状」の脂肪をもつ「松坂牛」は、つまり「天皇=部落=日本」は、「文化的で、味としては本当に最高のものなんだけれども、〔…〕完全に病気」である。しかし、この「病」は中上にとって治癒しえないものだろう。こうした中上の態度を、会場にいた浅田彰は「いわば正の天皇主義者である三島に対して、負の天皇主義者として自己規定されたように思うのですけれども」*6と適切に要約している。

3-2.松坂牛の弁証法/松坂牛の脱構築

 「松坂牛が日本である」というメタファーは、見た目の間抜けさに反してきわめて鋭利な批評ではある。しかし私見では、この中上の態度には、現代における大多数にとっての天皇制への政治的無関心と多かれ少なかれ通底するものも孕んでいるだろう。

 中上に対するデリダの態度を確認しよう。デリダは、「階層秩序の頂点にある天皇または天皇制の構造と、もう一方のアブジェクシオンとの間に、連帯性や補完性があるのか。もしそういった補完性が存在するとしたら、〔…〕排除されたものの力をテコにして、構造を変換することができるのか」と端的に投げかける*7デリダは、ここでいう政治と文化の相補関係(「代補」)こそを問題とした思想家だからだ。この問いは、本項前編で扱った守中の戦略に対しても差し向けられている。

 この政治−文化構造に対する脱構築に対して中上は、「デリダさんの考え方〔脱構築〕なんかが有効かもしれません」と言いつつも、「一緒にそれ〔天皇=部落の背中合わせの構造〕と同じようなサイクルで回りながら、どんどん輪を回しながら次々と脱ぎ捨てていくみたいな、そう言う形を考えるんですけどね。しかしそれは、政治的というよりは文化的、つまり松坂牛をすき焼きで食うか、シャブシャブで食うかという違い〔…〕」*8として、やはりそれを文化のレヴェルへと引き戻している。ここでデリダと中上の明確な差異が現れてくるだろう。

 ここで、中上自身は徹底した「ノンポリ」であり、「天皇=部落」は、文化であることによってある種の「聖域」(聖俗の合一した「聖域」)である。 しかもそれはツリーではなく霜降り、「松坂牛」なのだ。

 デリダは松坂牛に対してどのように反応しているか。ここで、まずデリダは「〈ディコンストラクション〉〔脱構築〕とは、周縁の必要性を一方で認めながら、まさに周縁性が必要だからこそ、中心と周縁あるいは中央とまわりという二極への階層化とか固定化に、疑問を付すものです」*9と自分の立場を要約的に表明しつつ、中上の態度に「ある図式が隠されているのではないか」*10と疑う。

 デリダは、「部落」という、周縁性を自覚した熊野の人間たち(ここでは中上)が、その周縁性を担う伝統の純粋性を前提とし、「周縁性をいわばイデオロギーとして回収しようと」*11しているのではないか、としつつ、「中上はアブジェクシオン(おぞましさ)を変換した上で、階層秩序の頂点に据えようとする」*12と指摘し、そこに、中上健次弁証法を見て取っている。松坂牛の弁証法である。

 デリダの批判をさらに端的にいえば、こうなる。中上は政治と文化の不可分な関係を指摘しつつも、文化の次元を不可侵の「聖域」として設定してしまうことで、実は政治に対する文化(ここでは被差別部落民の伝統)のヒエラルキー的上位性を主張しているのではないか? それは、実は、霜降り状でも松坂牛でもなんでもない端的なツリー、もうひとつのツリーの創設なのではないだろうか?

 これに対し中上は、「私は聖なるもの、賎なるものを、まさに松坂牛の霜降り肉状にとらえているのですが、デリダさんの問いは、どうやらツリー状に考えておられるから出てくるのではないか」*13と批判的に返すのだが、この中上による批評は、脱構築的思考について、あるいはデリダ中上健次の差異についての輪郭をとらえる上ではかなりクリティカルな発言だろう。実際、脱構築は、あらゆる構造がツリー的になってしまうというところから出発しているように思われる。それはあるツリーに対する端的な外部・「聖域」が、少なくとも素朴な仕方では不可能である、という態度からし当然の帰結なのである。 

 

4-1.終わりなき汚染

 この対談では、ほかにも「排除されるもの」と文学の関係や、浅田によって提起されるジュネの問題など、重要な論点が揃っているが、あまり展開されておらず、デリダ側が質問を(なかば強引に)打ち切り、対談が終了しているように見える。

 

 さて、もう一度守中のテキストに戻ろう。守中の提起した図は、中上の小説をデリダ的に(というよりもラカン的に)要約し図式化することで得られた。

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 だが、少なくとも中上自身の発言に基づくのなら、この守中の図式は「ツリー状の思考」から出てきたものでしかないだろう。おそらく、ここでは「賎なるもの」=「物」を天皇に対する抵抗の契機として捉えることはそもそもできない。なぜなら中上にとってその両者は、端的に「同じもの」=「同じ『物』」であり、しかもそれらは政治から遠く離れた「文化」でしかないからだ。それは作為的な介入で変革することがほとんどできない。

 「味としては本当に最高のものなんだけれども、〔…〕完全に病気」な「天皇=部落」という文化概念は、都市や社会に対し「霜降り肉状」に合一している。この聖俗の入り混じった状況こそ、中上にとっての「日本」である(だから、中上は天皇に批判的な目線を持っていたとしても、天皇と背中合わせの「部落」に目線を向け続ける以上「負の天皇主義者」になるのだ)。ここから、守中の図に中上的な、正であれ負であれ——天皇主義的な反論が可能となる。

 一方で、デリダの言述から守中の図を批判することもできる。大まかに分けて二つの論点があるだろう。

 第一に、図における−φとφの項は、守中自身がいうように相補関係・共犯関係にある。とすれば、−φを用いてφを打倒しようとするとき、そこにはφを単に強めるだけになる可能性は常にある(これは、単に構造的な話ではなく、近年の日本における左翼の「天皇主義化」*14で実証されているとも言ってよいのかもしれない。中上の場合と同様、マイノリティ志向と天皇主義は簡単に共犯関係になる)。これはデリダの文学に対する態度にも一貫している。

二つの文学があることになります。つまり、左翼文学とかイデオロギー状の役割をとったとしても、結局は、既存のフィールドにすんなり回収されてしまうような文学がひとつ。それから、フィールドに回収されえない別種の文学、あるいは文学の中にある何者か、これがもう一つ。〔…〕後者については、文学としての部落民サイドのようなものを想定しているのですが。 *15

 おそらくここでは、単なる反天皇主義が天皇主義に実は通じている危険性(「知らず知らずのうちに既成の政治秩序を利する」危険性)を計算するべきだろう。あるいは、その反天皇主義そのものが——その「意志」で結ばれた〈われわれ〉が——もう一つの抑圧である危険について。

 ただ、たしかにデリダもまた、既存の枠組みの中にありながら、つまりまさに霜降り状に、内部に位置しながらも異物であるもの(「文学としての部落民サイド」)に着目している。ここで、「在日」や「部落」をテコに全体性の脱構築を迫るという点では、守中とデリダの態度は重なる。

 ただしここにも問題がある。そうした異物は、それ自体目に見える異物として実存するわけではなく、「『在日』と呼ばれる人々を範例と」*16することなどできない(そもそも範例とは具体的にどうするつもりなのか?)ことである。これについては後述する。

 第二に、守中の「脱構築」には終わりがある。「天皇という象徴による汚染を拭い去り、真の共和制へと歩みを進めたいと願うわれわれが真っ先になすべきなのは、このような『秘密』を白日のもとに晒し、『亡霊』の機能を停止させること」*17なのだから、天皇制が廃止され(そして悪しき自民党政権が打倒され)、「真の共和制」が体現されれば、「脱構築」の役目は終わることになるだろう。

 むろん、天皇の戦争責任を問う作業はつねに重要である。しかし脱構築は目的論ではない。だから脱構築には「終わり」(fin 目的=終わり)がない。言い換えれば、脱構築は「真の共和制」という「三」に向かうのではない。重要なのは、その「真の共和制」が仮に実現されたとしても、そこにもさらに「秘密」と「亡霊」がとり憑き、その「真の」を脱構築しにやってくることである。脱構築は、そのある一面においては、真の-純粋な-自然な-直接的な-即自的な-無媒介な-共和制の不可能を告知する、「無限な有限性」の主張である*18

 「現前の形而上学」に支えられた意識がつねに抹消する、記号(媒介)による現前への起源的「汚染」は、しかし「亡霊」(「再来霊」)として回帰する。それをなかったことにしようとする意識の形而上学的作用こそを、デリダは「良心=潔癖意識」と呼んだのではなかっただろうか(『アポリア』ほか)。

 なんども指摘してきたように、媒介を欠いた「即自的存在」は単に空疎な理念に留まるだろう。だから、「亡霊」による汚染を祓い、「秘密」を干上がらせ、真の共和制へ向けて「良心=潔癖意識」を滾らせつつ「加速」するような議論では、それがいくら合法的=正当 justeであれ、「脱構築」という語が登場する余地はまったくない。ここに、たんに言葉遊びにしか見えないかもしれない大きな隔たりがあるのだ。

4-2.非実存の残余=抵抗

 では天皇制と脱構築は関係を結びえない、どころか、その解体不可能性を告知するのだろうか。

 いったん迂回しよう。アラン・バディウはあるテクストのなかで、デリダ脱構築の戦術について次のように要約している。まずバディウは、「現出する多様体のなかには、その実存が強度ゼロの要素がつねにある〔…〕また世界内にあるためには非実存の点がつねになければなら」*19ないとした上で、そうした「非実存者」は「ある限定的な世界やある場所に特有の仕方で、非実存する」*20と定義づける。そしてバディウは、このような「非実存者」をめぐってこう結論する。「デリダエクリチュール〔…〕の要点は、非実存者の組み入れの不可能性を、組み入れの形式として組み入れることである」*21

 ここでバディウが「非実存者」ということで、同時に資本主義におけるプロレタリアートを想起していることは非常に重要である。なぜなら、バディウのこの連想は守中における在日朝鮮人被差別部落民とまったくパラレルだからだ(「非実存点」=−φ)。非実存者は、社会においてつねに見えないもの触れえないものになる。非実存者は存在しながらにして存在しないことになっている。この「特有の仕方」での非実存を、おそらく中上健次は極めて鋭敏な仕方で描写した。

 しかし一点、バディウデリダ読解が守中の「脱構築」と異なる点がある。バディウデリダ脱構築を、「組み入れ不可能性の組み入れ」と要約している点である。ある構造が必然的に抑圧し、忘却し、抹消し、修正する痕跡は、それ自体は端的に抹消されており、「範例」として組み入れることなどできないのだ。

 すなわち、痕跡--つまりここでは「賎民」あるいはプロレタリアートのことだが--を、ある一つの独立した「存在者」あるいは「実在」として(「四」として)図式の中に組み入れることは不可能である。−φは抹消されているがゆえに、項として設定できない。まさにその不可能性こそが、全体性が抑圧的であることを示すのだ。

 デリダの戦略は、まさにその組み入れが不可能であることを図式のなかに組み入れる(だからそれは非実存者=「幽霊」として非実存する)。この抹消された痕跡の不可能な抵抗こそが、たえずトラウマとしてひとつの構造にとり憑き、その構造を変革し、異化するよう働きかける。この抵抗を、デリダは様々な場所で「残余=抵抗 restance」とまとめている*22

 

5.幽霊的知性

 この奇天烈な論理をたどったすえ、ある種の結論としてこう言わなければならないのだが、脱構築は革命も、純粋な理念も、少なくとも正面から「まっすぐに droit」肯定することができない。さらには、特定の少数者を「範例として」ある体制に反対することももちろんできないだろう。結局、さまざまな思想家たちに誤解を含めてそう言われてきたように、脱構築見かけ上現状追認的である。ここに脱構築の危険と困難がある。デリダは『ポジシオン』(一九七二年)でこう言う。

この仕事〔脱構築的実践〕は、見たところ、『イデオロギー』の諸分野〔…〕と規定されるような、限定された諸分野に出発点を取っているように思われます。だから、並外れて大きな歴史的有効性、直接的に全般に及ぶような有効性をそれに期待する余地はないように思われます。とはいえ、有効性なるものは、それが確実であるためには、やはり限定されているものであって、複雑な網状組織にしたがって中継され、分節され、差延されるのです。*23

 ここでデリダは「見たところ」や「思われます」や「直接的に全般に」という語を嫌味なほど強調している。デリダ自身が言うように、脱構築は、つねにある部分的な操作でしかなく、だからこそ見かけや、思惟や意識に直接的に現前するような「ラディカル」な効果を持ちえないだろう。またもう一方で、脱構築は、語の根本的な意味において「リベラル」ではあるが、改良主義ではない。それはなにかを「より良く」することなどない。むしろ、いまここで「より良い」とされているものを白けさせ、異化し、別の土台に乗せ、その限界を指摘するだろう(脱構築が唯一改良するとしたら、改良主義を改良するのである)。

 これは非常に残念なことなのだが、もちろん「脱構築」が安倍政権を打倒することはないだろうし、天皇制を解体することもないだろう。というより、そうした仕方で現前することがないだろう。それは喫緊に、差し迫った問題を、すぐさま、有効に、プラグマティックに、目に見えて、解決しはしない。

 だが、脱構築の効力を即時的な有効性や直接的な妥当性の次元で思考する、まさにその思考そのものへと脱構築は向けられている(「有効性なるものは、それが確実であるためには、やはり限定されているものであって、複雑な網状組織にしたがって中継され、分節され、差延される」)。「実効性」と「文学的幻想」を、つまりここでは政治と文学、現実と虚構をはっきり腑分けする、成熟やリアリズムを装うその潔癖症、秘密裡に流行している境界的思考*24にこそ、脱構築が--そしておそらく「批評」が、異議を申し立て、ずらし、不快にさせにやってくるのである。

 

 さて、こうして天皇制をめぐる文化と政治の奇妙な結託を目の当たりにした〈われわれ〉にとっては、天皇制の脱構築がはたして文化的次元に属するのか、政治的次元に属するのかは、つまり表象的か現実的か、「すき焼きで食うか、シャブシャブで食うか」はもはや問題になりえない。まさにこの視座に立ってはじめて、天皇制の脱構築を考えはじめるべきなのだ。抑圧的媒介として、文化的であることによってこそ政治的な力を持つ天皇制の特権を脱構築しなければならない。

 しかし、それは無駄に反天皇反日を掲げ、「非国民」を自称するラディカリズム(あるいはその逆の愛国主義)や、不可能な近代主義を掲げるアイロニーや、友敵を〈われわれ〉という語により峻別する決断や、〈弱者〉探しゲームや、一見賢しらな専門家への委託によってはなされないだろう。天皇制と脱構築が仮に関係を結びうるとしたら、様々な領域(象徴と現実、文化と政治、文学と社会、実存と構造、暴力と平和、法と権力)の、見かけ目立たない奇妙な絡み合いとそこに働く暴力を発見し、その位相をずらそうとつねに策謀を巡らせることによってのみである。

 ところで、こうした作業は日本において、「批評」と呼ばれる伝統のなかで、自覚の有無を問わず、担われてきたように思われる(少なくともある時期までは)。しかし今となっては、系譜に対するこうした位置ずらしを敢行し続けることは、冗談か、時代遅れの懐古趣味か、「ものの言い方の些末な違いに拘泥」する子供の戯れにしか見えないかもしれない(拙稿「哄笑批評宣言」で書いたように)。それは特定の専門領域や方法論をもたない「憑在論 hauntology」であるがゆえに、目的も理念も持たないし、具体案もオルタナティブも、新奇な選択肢も直接的には示さないからだ。

 しかし〈われわれ〉の唯一の積極的なテーゼは、この戯れ、この「喜劇」をこそ維持しなければならないということであった*25。そしてそのためには、きわめて奇妙なひとつの知性が必要になるだろう。すなわち、いまだに不可視なままの「幽霊」たちと戯れる、別の「知」が必要となるだろう。この非-知にも近いもうひとつの知性を、さしあたってきわめて乱暴に、「幽霊的知性」と呼んでおきたい。この知性のためにこそ、はじめてあなたと私は加速しなければならない。

 

 

 

  

 

(文責 - 左藤青) 

 

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脱構築のイメージ

*1:中上健次ジャック・デリダ「穢れということ」(柄谷行人・絓秀実編『中上健次発言集成3 対談Ⅲ』所収、第三文明社、一九九六年)一四頁。

*2:同上、二六頁。強調引用者。

*3:同上、二六頁。

*4:同上、二七頁。強調引用者

*5:デリダは、このようにあるひとつの名前が全体を特権的に代表=表象する暴力性、換喩の暴力にきわめて鋭敏な思想家であった。「ある名で他の名をあらわし、部分で全体をあらわす。人はつねに、アパルトヘイトの歴史的暴力を一つの換喩(メトニミー)として扱うことができるだろう」(デリダマルクスの亡霊たち』増田一夫訳、藤原書店、二〇〇七年、六頁。)

*6:同上、三二頁。

*7:同上、二四頁。強調引用者

*8:同上、二七頁。強調引用者。むろん、松坂牛をすき焼きで食おうがしゃぶしゃぶで食おうが、結局はブルジョワジーの嗜好品であろう。

*9:同上、一八頁、一九頁。

*10:同上、一七頁。

*11:同上。

*12:同上、二一頁。

*13:同上、二四頁。

*14:この点については、周知の通り絓秀実が鋭く指摘している。『増補 革命的な、あまりに革命的な』(ちくま学芸文庫、二〇一八年)の付論ほか参照。ここで絓の議論は、三島由紀夫における「文化概念としての天皇」への批判を含む。

*15:同上、二五頁。ところで、これはデリダの「パロディ」に対する考え方とまったくパラレルである。「二つのパロディのあいだに区別をもうける必要はありませんか。ひとつは、〔…〕知らず知らずのうちに既成の政治秩序を利することになるもの。そして他方に、既成の政治秩序を実際に脱構築することが可能なパロディがあります」(『ニーチェは、今日?』、ディスカッション部分でのクロソウスキーとのやりとり。邦訳、林好雄の解説中に引用されている。デリダドゥルーズ・リオタール・クロソウスキーニーチェは、今日?』林好雄ほか訳、ちくま学芸文庫、二〇〇二年、一一五頁)。

*16:守中高明「ネイションと内的『差異』」、『終わりなきパッション デリダブランショドゥルーズ』所収、未来社、二〇一二年、二七二頁。

*17:守中「ファロス・亡霊・天皇制」三四二、三四三頁。

*18:たとえば、マーティン・へグルンド『ラディカル無神論 デリダと生の時間』参照。

*19:アラン・バディウジャック・デリダへのオマージュ」松葉祥一訳(『ジャック・デリダ(別冊『環』13号)』所収、藤原良雄編、藤原書店)、二〇〇七年、九五頁。強調バディウ

*20:同上、一〇一頁。

*21:同上、九六頁。強調バディウ

*22:エクリチュールはおのれの消去過程、廃棄過程をおのれ自身のなかに構造論的に含み、他方しかしそのような消去の残余を標記する〔…〕」(デリダ『ポジシオン』高橋允昭訳、青土社、二〇〇〇年、一〇一頁。強調デリダ

*23:同上、一三四頁。強調デリダ

*24:結局、全体からの「逃走」に対しても、デリダに倣って二つの方向性を認める必要があるのだろう。たとえば、いくら領域から領域へと〈Exit〉しつづけ、ノマドを気取ったところで、依然としてこうした境界や全体性は大手を振って機能することになる(というよりまさにこうした亜流ノマディズムこそが「全体主義」と親和的である)。なんでも代入可能な真理xは、存在しなかったとしても存在するかのように機能するのだから、たんに「意味のない無意味」などと言いつのったり、あるいは(同じことだが)無意味を享楽するだけでは「ポスト・トゥルース」状況はいつまでも訪れない。ある全体性にけっして安住せず、しかし全体性などないと言い切ってすませてしまう安易さにも阿らないで「他者」を志向するという点に脱構築の揺るぎなさがある。まさにこのような状況においてこそ、「読むことのアレルギー」(福尾匠)に屈することのない、脱構築の介入が必要なのではないか。そうした介入はひょっとしたらある時にはカント的な批判哲学の相貌に近似するかもしれないし、ある時には「テロリズム的な蒙昧主義」(フーコーによるデリダ批判)と呼ばれるような、戯れの作業になるかもしれないのだが。

*25:拙稿「哄笑批評宣言」、また『大失敗』創刊号巻頭言(しげのかいりとの共作)を参照されたい。巻頭言でも、『共産党宣言』をなぞる形で「幽霊」が問題になっている。ところで、『ゴースツ・オブ・マイライフ』(邦題:「わが人生の幽霊たち」)の著者マーク・フィッシャーはここに限りなく漸近したが、その喜劇を悲劇と取り違えたために、その作業を維持することができなかったのではないだろうか。この悲劇においてこそ、拙稿「昭和の終わりの『大失敗』」(『大失敗』創刊号所収)で「ニューウェイヴ」と名付けたひとつの態度が登場しなければならない。

松坂牛の天皇——天皇制と脱構築(前編)

「昭和」から「平成」へ、かつてあったはずのあの切断についても、これから生じることになるあの切断についても、それ自体ひとつの「配列」以外のなにものでもないことが意識されなければならない。(拙稿「昭和の終わりの『大失敗』」、『大失敗』創刊号、二〇一九年)

 二〇一九年は元号の変わり目となるわけで、そのことで種々の議論や、政府の手続き上の不手際に対する批判の声があるようだ。

 一月に京都文フリで発売された『大失敗』創刊号は、元号を問題にし、また絓秀実氏の文章を掲載した時点で当然ではあるが、天皇制への疑義を孕んでいるものである。「昭和の終わり/平成の終わり」という創刊号のテーマの一つは、現状起きつつある元号にまつわる破廉恥きわまる乱痴気騒ぎ、そして「平成」とは何だったのかなどという、馬鹿げたノスタルジーに対して、あらかじめ牽制しておくという心持ちで設定されたのだった。僕はそこで「音楽批評」を一本書いている。

 とはいえ「昭和の終わり/平成の終わり」というテーマの天皇制への疑義は、元号という、「たんなる表象」しか問題にしていないのだから、見かけ上はじつにひかえめなものである。

 ほかの人間は知らないが、僕自身には、『大失敗』の議論が天皇制への単なる「攻撃」として受け取られることに抵抗があったし、『大失敗』がたんに政治的にラディカルなだけの左翼的言説に回収されることにも明確な抵抗があった。しかしこの「抵抗」は「否認」ではあれ「否定」ではないわけで、この余計な「抵抗」の感覚が問題となるのだろう。まさに、拙稿で問題にした「ちょっと待って」(有頂天 - "大失敗'85")である。

 

 むろん、そのようなひかえめな態度にとどまらず、あえてそこから一歩進んで、たとえば天皇制を解体、あるいは、脱構築することは可能なのだろうか、などとと問うこともできたのかもしれない(しかしもちろん、「脱構築」がジャック・デリダの用語であることは言うまでもなく、デリダ自身がほとんど思考するはずのなかった天皇制について「脱構築」するなどとのたまうのは、おそらくまったく不適切だ。それは、キャッチーなタイトルにばかり興味を示す、動物的な読者たちを呼び寄せる結果にしかならないかもしれない)。

 だが、この問いは、あまりにも性急すぎるように思える。そこで、さしあたり次のように(デリダ的に)問うておこう。その問いの手前にある、「天皇制『と』脱構築」というこの並列が何らかの意味を結びうるとしたら、どのような仕方なのだろうか、と。この「と」について考えるために、ここでは実際に天皇制の「脱構築」を目指す思想家からヒントを得たいと思う。守中高明氏である。

.媒介を破壊する意志で結ばれた〈われわれ〉

 「ネイションと内的『差異』——天皇イデオロギーのもとでの在日朝鮮人」(『終わりなきパッション デリダブランショドゥルーズ』所収、二〇一二年)で、守中高明は、帝国主義時代の日本の朝鮮支配のスローガンたる「一視同仁」という「まなざし」をラカン的に分析するところから出発している。

 守中は仏文系の研究者であり、現在は早稲田大学の法学学術院教授である。デリダの翻訳なども多数ある。一方で詩人であり、また宗教者でもあるという、さまざまなプロフィールをもつ守中は、日本の「デリダ派」のなかでもとりわけ政治的にはっきりとした態度を取っている思想家だと言えるだろう。彼の作業は日本における「天皇制−人種主義−近代資本主義」という「三位一体」の「脱構築」とまとめてよい(彼のTwitterを見れば、彼の方向性はおおむねわかるだろう)。

 守中は、上記の「一視同仁」の批判から出発して「大日本帝国による植民地支配の思想とシステムは、こうしてある特有の人種主義をその根本原理として存立し、作動してきた」とまとめ、「大日本帝国における植民地主義は、近代資本主義と人種主義を、天皇イデオロギーという前近代的紐帯によって結びつけることを本質的特徴として展開され」てきたと指摘する。天皇制のイデオロギーは、上述の「天皇制−人種主義−近代資本主義」という「三位一体」において、他の二項を「媒介」する紐帯として解されるのである。

 天皇制は、その媒介的性質において、近代日本の抱える問題の「勘所」であり、他の二項(人種主義・資本主義)に比べて特権的な地位を持っている。その構図は「今日に至るまで、基本的に変化することなく持続している」*1のである。

 この分析は妥当である。その後守中は、昭和天皇の「人間宣言」が、その内実「みずからが『国民』と対等な『人間』だとは一言も口にしていない」ことを指摘しつつ、日本国憲法第一条に記載されている「国民の総意」というフィクション*2を批判し、「象徴」としての天皇を持つ現在の日本にまでその批判の射程を広める。守中によれば、

その〔象徴としての天皇の〕機能は、国民たちを即自的自然状態から、天皇によって象徴されるものへと変容させることにある。つまり、日本国民は、天皇という象徴による媒介を受け容れなければ国民たり得ないのである。〔…〕/近代日本は、明治以来今日に至るまで、その政治体制の変化にもかかわらず、天皇に媒介されない民衆を持ったことがなく、したがって自然的直接態における誰かであることは、この国に国籍を持つかぎり、確認の自己意識の如何にかかわらず、不可能なのだ。*3

 デリダであれば「即自的自然状態」を無条件に認めるはずなどないということは一旦措くとして——いわゆる近代的な「主権」概念を素朴に受け容れるかぎりでは、ここでの守中の分析はやはりそれなりに妥当ではある。象徴機能・記号・媒介によって常に「汚染」されている「国民」は、即自的なものではありえず、直接自らの生を生きはしない。日本国民は天皇という「超越的媒介項」なしには「国民」たり得ない。近代的な自立的/自律的主体は、日本においてはまさに天皇イデオロギーによってこそ不可能にされているというべきだろう。日本が土人国家であるという浅田彰の指摘は端的に正しい。ただそれを乗り越えらえるかは別の問題だが。

 こうしたイデオロギー脱構築として、守中は「在日朝鮮人」の問題を提起する。「一視同仁」イデオロギーによって、その「文化的差異」を抹消され・「人種的差異」を強調された「在日朝鮮人」の生の在り方にこそ、守中は「この国のナショナリティをその過去と現在を包括的に視野に収めつつ脱構築しながら、普遍的世界市民として生きるための」*4希望を見出す。

ここには一つのチャンスがある——日本人が、「在日」と呼ばれる人々を範例として、あり有べき「人間」の名を「象徴」から奪い返し、来たるべき共和制へと歩みを進めるためのチャンスが。天皇制という究極的人種主義のシステムを超えてわれわれが(そう、あらゆる人種主義を終わらせる意志で結ばれたわれわれが)自らに固有の名を与えうる日の到来を、われわれは加速しなければならない。*5

 さきほど示唆した通り、基本的に守中の天皇制批判は、「どんな神話的起源にも象徴にも汚染されない自立した存在」への志向としてまとめることができる。そうした存在へと、つまり来たるべき即自的自然体・「普遍的世界市民」への「意志」で結ばれた「われわれ」——デリダ脱構築が常に疑義を呈してきた〈われわれ〉——へ「加速」するために、守中は「在日朝鮮人」の生の在り方を称揚する。

 守中の記述には様々な問題がある。それは本稿後編で主に論じるが、一点だけ先に指摘しておこう。ここで守中は「在日朝鮮人」を「それでもなおこの国に住み続ける彼ら*6と呼んで、そのあとにその「彼ら」を「われわれ」と言い換える

 このひとつの換言=「還元」は、どこまで平和的なものでありうるのだろうか?(この問いもまたおそらく脱構築の圏域に属している)。この点については、たしかに守中自身も「在日朝鮮人の人々の生の条件の具体性を考慮しない思弁の謗りを招くかも知れない」*7と留保している。とはいえ、それが象徴=「超越的媒介項」に汚染されていようがいまいが、どちらにせよ、この〈われわれ〉が抑圧的に機能しない証左はどこにもないのであり、「人種主義を終わらせる意志で結ばれたわれわれ」というパッセージが、すでに自己矛盾を抱えているとすら言えるのではないだろうか。なぜなら〈われわれ〉という共同性を創出する一人称複数形こそが、極度に抽象的な意味では「人種主義」的に、あるいは「人間主義」的になりうるからである。

 

ジャック・デリダ中上健次天皇制の脱構築

 「ファロス・亡霊・天皇制」(『現代思想』所収、二〇一四年二月号・デリダ特集)でも、守中による天皇制の分析は「ネイションと内的『差異』」と変わるところがなく、また問題含みな部分もほとんど同じである。重要なのは、こうした問題が中上健次デリダを同時に照会する仕方で開陳されていくこと、天皇制への抵抗の仕方として、「デリダ=中上的思考」*8を取り上げることである。

天皇という象徴による汚染を拭い去り、真の共和制へと歩みを進めたいと願うわれわれが真っ先になすべきなのは、このような『秘密』〔昭和天皇の戦争責任〕を白日のもとに晒し、『亡霊』の機能を停止させること、そして、そのような精神分析的作業の徹底化を通じて《父》=ファロス=天皇の権能を脱構築することである。/そのとき、来るべきわれわれの引き受ける名が、最もポジティヴな意味での「非国民」であることは言うまでもない。いかなる空虚な中心にも回収されることのない、散種としての市民たちの終わりなく脱中心的で不連続な結び合い——それをこそデリダ=中上的思考は呼び招いているだろう。*9

 文学者・中上健次の主題はいうまでもなく「被差別部落」であった。守中は中上作品の読解から (主に『枯木灘』、『紀州』)、中上における《父》−子関係の、「アンチ・オイディプス」的側面とその奇妙な構造(「父から息子への転移」など)を抽出する。これは中上健次に対する文芸批評(守中が参照しているのは渡部直己、絓秀実らのもの)の歴史を踏まえて理解を進める必要があるものだが、この点については稿を改めるとして、問題となっている天皇制に関して重要な点にだけ言及しておく。

 

 中上は、一九一〇年に起きた「大逆事件」(幸徳事件)につねに意識を向けていた。守中はこの意識を、中上が天皇被差別部落民の相補関係をつねに見てとっていたことに引きつける。守中によれば、中上の文章において直観的・論理的に示されるその前提とは、「〔天皇被差別部落民が〕互いに互いを規定し合う拮抗する力学で結ばれた関係にあるからであり、そしてまさにそれゆえに、被差別部落民こそは『大逆』=天皇の殺害という行為の可能的主体である*10。ここで「被差別部落民」こそを天皇イデオロギーに対抗しうる存在として見出す論理展開が、「ネイションと内的『差異』」における「在日朝鮮人」の場合と同じであることは、きわめて重要である。

 「被差別部落民」は、「天皇(制)」という象徴秩序から常に漏れ落ち、「名付けられぬ者(物)」と化す。しかし、この表象制度から漏れ落ちる「〈物〉」(守中はこれをラカン的な意味で用いる)は、「私の中心」にある「異質なもの」である。「ネイションと内的『差異』」では、守中はこれを(やはり精神分析的な意味での)「不気味なもの」と定式化していたと言える。守中は中上の作品における天皇と「被差別部落」の対極関係を下のように図式化する。

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 守中は、山口昌男天皇論とラカンの理論を合体させつつ、次のように総括する。

天皇=『ファロスのシニフィアン(φ)』は、『みずからの消失』によって唯一の起源の欲望の対象となり、諸シニフィアンの連鎖の全体を可能にしつつ、象徴界を超越項として支える役割を演じ、他方、被差別部落民は異質な『物』として排除されることで、『原抑圧』を準備しファロスのシニフィアンを成立させる『想像的ファロスの欠如(−φ)』として、象徴界の構造を堅固にする負の頂点に位置を占めている。*11

 天皇制(守中はラカンに倣ってこれを「Aufhebungそのもののシニフィアン」と呼ぶ)は、それ自体で定立しているように見せかけつつも、実際には常にそこから漏れ出す「物」としての被差別者を構造的に必要としている。天皇イデオロギーはこの二項の共犯関係によってこそ存立しているのだ(ここで守中がさりげなく「そうであってみれば、両者が互いの位置を交換することは構造的にあり得る」*12と指摘している点は重要である)。
 周縁に対する抑圧がなければ中心はあり得ず、中心は周縁を、構造的に必要とする。確かにこの図式は、『声と現象』ほかデリダが様々な場所で説明する「代補」の論理ではある。

 また、守中はこれを数字のメタファーによっても説明している。弁証法(二項の止揚としての第三項=「三」、図における上向きの頂点)に対する「四」としての、しかし「三」につけ加わる「一」ではなく、その「三」が必要としながら常に忘却・抑圧し、抹消しようとする忌むべき「四」としての「被差別部落民」(図における下向きの頂点。無論、この「四」「四つ」というような言い回しは、「四つ足」=動物、「死」などを連想させる「差別語」であり、それが踏まえられた言葉遊びである)。「第三項」を形成することなく弁証法を中断させようとする企図が「脱構築」なのであるとすれば、この「つねにすでに作動している」ところの「四」は、守中によれば「『脱構築』の効果を有する」*13

 ここから守中はさらに中上作品の読解を続け、「被差別部落民こそが天皇を無化する」というテーゼが、「その歴史的制度を被差別者の側からたんに糾弾することを意味しないし、他方、実効性のない文学的幻想にとどまる企てでもない」*14ことを主張する。それは具体的には、中上『地の果て 至上の時』(『枯木灘』から続くサーガの完結編)への着目によってなされる。とりわけ、《父》(浜村龍造)の自死に子=秋幸が立ち会う場面において叫ばれる「違う」という語に、守中は注目する。

「違う」——それはしたがって、被差別部落民たる「秋幸」がその「差別の力、『四』の力」によって可能性を開いた「父殺し」ならざる《父》の脱構築天皇脱構築への地平が閉ざされることへの、「秋幸」の文字通り全存在を賭けたひと言なのである。*15 

 『地の果て 至上の時』における浜村龍造の自死は、《父》が自らの死を「子」=秋幸に見せつけ、「切断面」を秋幸に接ぎ木することで永遠に生き長らえようとする「種の保存」の論理から説明されている。要は、中上のサーガは、《父》≒天皇の「脱構築」に限りなく漸近しながら、それが結局凄惨な「大失敗」として、オイディプス・コンプレックスへの回帰として、描かれる——いわば、天皇制の解体の可能性が閉ざされることによって、『地の果て 至上の時』は幕を閉じるのである。

間奏:「穢れ」

 しかし守中はこうした「幕」に対して解釈を加えず、再度昭和天皇の戦争責任を糾弾する方向へと議論を展開する。ここで、『地の果て 至上の時』秋幸の「違う」という叫びと、「非国民」として、天皇の責任を暴き続けなければならない、と結論する守中の所作を、パラレルに捉えることができるだろう。つまり、守中における天皇制の「脱構築」は、おそらく「違う」と言い続けることなのだ(事実、守中自身、「憲法九条改正」にも「安倍政権」にも、あらゆる「体制」に「違う」と言い続ける「運動家」である)。

 「違う」という「声」を上げ続けること——これは実際、「脱構築という理論を実践しようとするなら、ある一面を突いてはいる。しかし、まさにそうした声の「失敗」こそが、守中のいうとおり「脱構築という非−現前性の場面における出来事の必然的帰結」だとしたらどうか。あるいは、「脱構築」が「出来事の痕跡を随所に刻みつけつつ」も「前未来時勢における事態の確認」*16に帰着するのだとしたら? その場合「脱構築」はむしろ、はじめから天皇イデオロギーの解体の不可能性の側に加担するのではないだろうか。

 守中が解釈を加えないこの「幕」をどのように捉えるべきなのだろうか——そしてそれでもなお、「その歴史的制度を被差別者の側からたんに糾弾することを意味しないし、他方、実効性のない文学的幻想にとどまる企てでもない」ということができるのだろうか。おそらく、真に問わなければならないのは、ここで「実効性」と「文学的幻想」の二項対立が果たして有効なものでありうるのかどうかである。この問いを念頭に置いておいていただきたい。

 

 ところで、守中は言及していないが、中上健次ジャック・デリダという組み合わせは、それほど突飛なものではない。中上とデリダは一九八六年一二月一三日、パリのポンピドゥ・センターで実際に対談している(「穢れということ」、『中上健次発言集成3』所収)。一二日〜一三日に行われたシンポジウムには、柄谷行人蓮實重彦浅田彰などのいわゆる『批評空間』派閥が出席した。ここでのデリダと中上のやりとりは、まさに天皇制をめぐって展開されており、両者の立場の違いを明確にするのに役に立つものである。ここで中上は、「松坂牛が日本である」という奇妙なメトニミーから出発して議論を展開する。

 〈われわれ〉は、守中のいう「デリダ=中上的思考」に対して、むしろ「デリダ≠中上的思考」を考えることができるだろう——後編では、この問題を扱いたい。 

(後編へ続く)

松坂牛の天皇——天皇制と脱構築(後編) - 批評集団「大失敗」

 

  

(文責 - 左藤青

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 ▲Pink Floyd『原子心母』(1970)の牛。確実に松坂牛ではない。

 

※『大失敗』創刊号、通販始めました 

daisippai.hatenablog.com

 

*1:守中高明「ネイションと内的『差異』」、『終わりなきパッション デリダブランショドゥルーズ』所収、未来社、二〇一二年、二六四頁

*2:これを守中はデリダに倣って「遂行的暴力」と呼んでいる(二六九頁)。「国民の総意」というエクリチュールは、事実確認的なものではなく、それが憲法の条項に書かれるという行為によって形成される行為遂行的なものである。

*3:同上、二六九、二七〇頁。強調守中。

*4:同上、二七二頁。

*5:同上、二七二頁。強調守中。

*6:同上、強調引用者。

*7:同上。

*8:守中「ファロス・亡霊・天皇制」(『現代思想』所収、二〇一四年二月号・デリダ特集)、三四二頁。

*9:同上、三四二、三四三頁。強調守中。

*10:同上、三三一頁。

*11:同上、三三四頁。

*12:同上、三三五頁。

*13:同上、三三七頁。

*14:同上、三三五頁。

*15:同上、三四〇頁。

*16:同上。

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 それでは、また近々なんらかのご報告ができるかと思います。よろしくお願いいたします。

 

(文責 - 左藤青

 

 

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